磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第253号(福田祭礼史研究 三)
福田の屋台を支えた若者と町内運営
東西屋台から本町連へ ── 担い手の組織史としての福田まつり
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
福田まつりを論じる従来の関心は、屋台という「物」の由緒や構造に向けられてきた。本稿はこれを転じ、屋台を残すか壊すかを判断し、夜の町内を曳き回し、屋台に名をつけ替えてきた「担い手」の側から運営史を読み直す。素材とするのは寺田勝彦編『東屋台と西屋台』(昭和60年発行)に見える東組・西組の二分制、青年たちによる曳き回しの記述、西屋台から福助・東屋台から本町連へという名の変化、そして冊子末尾の昭和期屋台一覧である。これらの記録は史料に見える事実として扱い、若者組の呼称や再編の動機など背景にあたる部分は推定として腑分けする。冊子が「青年たち」と記す層に、青年団という組織名を直ちに当てることはできず、この点は未確認の状態にとどまる。本稿は、祭りを誰が担い、どう運営してきたかという問いを、二つの町内組織と若者組の変遷として記述し、少子高齢化のもとで担い手をどう次代へ継ぐかという現代の課題までを見通す。
キーワード:福田まつり/六社神社/東組・西組/若者組/本町連/屋台運営/担い手不足
1. 問題設定 ── 「物」の由緒から「担い手」の運営史へ
福田まつりについて書かれたものを読むと、その多くは屋台という「物」に関心を寄せている。いつ造られたか、どのような彫刻や飾りをもつか、どの系譜に連なるか。屋台そのものの美術史・工芸史としての価値は疑いないが、それだけを追っていくと、祭りのもう一つの主役が視野から抜け落ちる。屋台を毎年組み立て、綱をつけ、夜の町内を曳き、傷めば直し、古びれば残すか壊すかを決めてきた人々である。本稿が主題とするのは、この担い手の側から見た運営の歴史である。
福田の秋祭りは、六社神社を中心に営まれてきた1。その来歴や現在の屋台の姿については、既刊の東屋台と西屋台 ── 六社神社秋祭りを支えた福田の二つの屋台、および屋台以前の祭りの古層を扱った屋台以前の福田の秋祭りで論じた。本稿はそれらと主題を分ける。すなわち、屋台の由緒でも古態でもなく、屋台を動かした人の組織──若者組と町内のまとまり──がどう編まれ、どう変わってきたかを軸に据える。祭りを「見る」対象としてではなく、「担う」営みとして捉え直す試みである。
この視点は、素材とする史料の性格からも要請される。本稿がおもに依拠する寺田勝彦編『東屋台と西屋台』(郷土史探訪別冊第三集、昭和60年発行)は、屋台の存続をめぐる議論や、青年たちが夜の祭りを動かした様子、そして屋台名の変化を書きとめている2。これらはいずれも、物としての屋台ではなく、屋台をめぐる人の判断と組織の記録である。冊子は結果として、担い手の運営史を読むための手がかりを残した。その手がかりを、確度の層を区別しながら丁寧に読み解くことが本稿の課題となる。
あらかじめ、本稿が保持する二つの区別を明示しておく。第一に、冊子に記録された事柄──東組・西組という呼び分け、青年たちの曳き回し、屋台名の変化、末尾の屋台一覧──は、史料に見える事実として扱う。第二に、その記録の背景にあたる部分──若者組がいつどう編成されたか、名を変えた動機は何か、二分制がどこまで遡るか──は、根拠はあっても未確定の推定として扱い、断定を避ける。さらに、冊子に「記載がない」ことと、筆者が一次史料に「突き当たっていない(未確認)」こととを、以下では一貫して書き分ける。
この腑分けを最初に据えるのは、祭りの担い手を論じるとき、記録された組織名と、その背後にあったはずの実態とを取り違えやすいからである。史料に「連」や「組」という語が見えることと、それが近代的な意味での団体として制度化されていたことは、別の事柄である。名がある組織を実在の団体と即断せず、また名が残らない実働を存在しなかったものと退けず、記録の粒度に忠実に読むこと。この禁欲が、担い手の運営史を後世の調べものに耐える形で書き残す前提になる。
2. 史料の性格 ── 『東屋台と西屋台』は何を記録したか
担い手の運営史を読むにあたり、まず素材とする史料の性格を確定しておく必要がある。本稿がおもに依拠するのは、寺田勝彦氏が編集・発行した小冊子『東屋台と西屋台』である。奥付には郷土史探訪別冊第三集、昭和60年11月20日発行とある。地元の記録者が、福田の秋祭りとその屋台について見聞と資料を集め、一冊にまとめたものであり、公的な編纂物ではない。この性格を押さえておくことは、記述の確度を測るうえで欠かせない。
公的な自治体史や神社の正式な由緒書と異なり、地元の記録者による小冊子は、聞き取りや個人の記憶、手元の資料を織り交ぜて成り立つ。その分、公式の記録には残らない現場の細部──屋台をどう扱うかをめぐる町内の議論、青年たちの動き、名の変化といった、担い手に関わる生きた情報を書きとめている点に、この冊子の第一の価値がある。運営史を読むには、まさにこうした現場の記録が要る。
他方で、地元の記録者による冊子であるがゆえの限界も明確にしておかねばならない。第一に、記された年代や来歴の一部は伝承や聞き取りに基づき、一次史料による裏づけを経ていない可能性がある。第二に、記録の力点は編者の関心に左右され、屋台の来歴には詳しくても、担い手の組織そのものの制度的な沿革は必ずしも体系的に記されない。運営組織を主題として読もうとする本稿にとって、この点はとりわけ重要な留保となる。
ここで、冊子が「記録したこと」と「記録しなかったこと」を区別しておきたい。冊子は、東組・西組という町内の呼び分け、青年たちが夜の祭りを動かしたこと、屋台名の変化、そして末尾の屋台一覧を記録した。これらは史料に見える事実として本稿の土台となる。一方、若者組の正式な名称・規約・加入の作法、町内組織の役員構成や意思決定の手続きといった、運営を制度として支えた枠組みの詳細は、冊子の記述からは十分にはたどれない。これは「福田にそうした枠組みがなかった」ことを意味しない。あくまで「この冊子には記載が薄い」という史料上の状態である。
したがって本稿は、冊子が記録した担い手の断片を確かな足場としつつ、記録の薄い部分については、遠州各地の祭礼組織に一般に見られる若者組・町内自治の作法を参照しながら、慎重に推定を補う。参照は背景理解のための補助線であって、福田固有の事実を他地域から借りて埋めることはしない。冊子に無い固有の年代や人名を作り出さないという原則を、以下の各節でも保持する。素材とした一般向けの記述は福田の屋台を支えた若者と町内運営(記事版)にまとめてあり、本稿はそれを史料批判の観点から組み替えたものである。
3. 東組と西組 ── 二つの屋台を支えた町内の二分制
福田の屋台運営を考えるうえで、最も基礎的な枠組みは、東と西という二分制である。冊子の書名がそのまま『東屋台と西屋台』であることに示されるとおり、福田の秋祭りは長らく、東屋台とそれを支える東組、西屋台とそれを支える西組という、二つの町内組織を軸に営まれてきた。屋台が二台あることは、単に物が二つあるということではなく、それを担う共同体が二つあったことを意味する。
この二分制は、担い手の側から見ると、運営の単位が二つに分かれていたということである。屋台の維持、祭りの費用、曳き回しの人手、祭礼当日の段取りは、それぞれの組が自らの屋台について責任を負う。二つの組が並び立つことで、祭りには一種の張り合いが生まれ、その張り合いが屋台の充実や曳き回しの熱気を支えた面もあったと考えられる。もっとも、二分制がいつ、どのような経緯で成立したかを直接記す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。掛塚の屋台文化との関わりや、村落の東西の地縁的まとまりを母体とする可能性は指摘できるが、成立の経緯そのものは推定の域を出ない。
ここで、組という語の含意にも注意を払っておきたい。近世から近代にかけての村や町において、「組」はしばしば地縁的な相互扶助の単位であり、祭礼だけでなく、普請や消防、冠婚葬祭など生活の多くの局面で機能した。福田の東組・西組も、祭礼のためだけに存在した組織というより、日常の町内自治の単位が、秋祭りの場面で屋台の担い手として立ち現れたものと見るのが穏当であろう。祭りの組織は、祭りのためだけに宙に浮いて存在するのではなく、ふだんの暮らしのまとまりの上に成り立っている。
この理解に立てば、東組・西組の二分制は、福田という土地の社会構造そのものの反映として読める。二つの屋台が対をなして曳かれる光景は、二つの町内共同体が並び立つ姿を、祭礼という舞台の上で可視化したものである。屋台の対抗は、共同体の対抗の祝祭的な表現であり、同時に、対抗を通じて二つの共同体が一つの祭りへと束ねられる仕掛けでもあった。競い合いながら共に一つの祭りを成り立たせるという構造は、地縁社会の均衡を保つ知恵でもあったと考えられる。
4. 青年たちの曳き回し ── 夜の祭りの実働主体
組が運営の単位であるとすれば、その運営を現場で担った実働の主体は誰か。冊子の記述が繰り返し示すのは、青年たち──町内の若い層が、夜の祭りを実際に動かしていた姿である。屋台を実際に曳くのは若者であり、太鼓を打ち、笛を吹き、提灯を掲げ、声を張り上げて町内を巡る。祭りの勢いは、この青年層の身体によって生み出されていた。
この点は、担い手の組織を階層として捉えるうえで決定的である。町内の年長者が費用や段取りといった運営の枠を整えるとすれば、その枠のなかで屋台に取りつき、汗を流して曳き回したのは青年たちであった。運営には、意思決定と実働という二つの層があり、若者組はまさにこの実働の層を担った。祭りの熱気は、この実働の層が旺盛であってはじめて維持される。青年層の厚みが、そのまま祭りの活力に直結していた。
ただし、この「青年たち」を近代的な意味での「青年団」という制度化された組織と即断することはできない。冊子が記すのは、あくまで祭りを動かした若い層の姿であって、その若者たちが規約と役員をもつ団体として編成されていたかどうか、その正式名称が何であったかを、本稿は冊子の記述からは確定できない。すなわち、青年層が実働を担ったことは史料に見える事実であるが、その組織の制度的な形は未確認である4。遠州各地には祭礼を担う若者組・青年団が広く存在したから、福田にも類する組織があったと推定することは自然だが、推定は推定として、事実と分けて記す。組織の名を史料に求めるとき、名が残らないことは組織が無かったことを意味しない。名を記録に残す作法をもたない実働の集団は、各地の祭礼にごくふつうに存在したのであり、福田の青年層もまた、そうした記録に残りにくい実働の担い手であった可能性を排除できない。
若者の力は、祭りに勢いを与えると同時に、時に対立や逸脱をも生む。夜を徹して屋台を曳き、町内の境で他組と競り合えば、熱気は高ぶり、争いに近づくこともある。しかし、そうした激しさを含めて祭りは動いていた。年長者はその熱を、あるときは抑え、あるときは支えながら、祭りを毎年続けてきた。若さのもつ過剰さと、それを御する年長者の分別との緊張のなかに、祭りの運営は成り立っていたと考えられる。この緊張関係こそ、世代をまたいで祭りが受け継がれる現場の実相であった。
青年層が実働を担うという構造は、担い手の再生産という観点からも見逃せない。若者はやがて年長者となり、かつて自らが曳いた屋台を、こんどは段取りの側から支える立場に回る。そして新たな若い世代が実働の層へ入ってくる。この世代交代の循環が滞りなく回っているかぎり、祭りは自らを更新しながら続く。逆に言えば、若い層が細れば、この循環そのものが危うくなる。後述する現代の担い手不足は、まさにこの実働の層の縮小として現れる問題である。
5. 名の変化 ── 西屋台から福助へ、東屋台から本町連へ
担い手の運営史を最もよく映すのが、屋台名の変化である。冊子は、西屋台が福助屋台へ、東屋台が本町連屋台へとつながるような、名の移り変わりを記録している。名が変わるということは、屋台という物が別のものに置き換わっただけでなく、それを担うまとまりの側に何らかの再編が起きたことを示唆する。
屋台の名は、担い手のまとまりを背負う。「東屋台」「西屋台」という方位を冠した呼称が、「福助」「本町連」という固有の名へと変わっていくとき、そこには単なる呼び名の更新以上のものが読み取れる。とりわけ「本町連」の「連」は、担い手の連合・連中を示す語であり、屋台がもはや漠然とした東方の共同体ではなく、本町という特定の町を核とする担い手のまとまりと結びついたことを示している。方位による呼称から、町名と担い手を明示する呼称への移行は、運営主体がより明確な輪郭をもつようになった過程を映していると考えられる。
もっとも、この名の変化がいつ、どのような経緯で生じたかを直接記す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。冊子は変化の結果を書きとめてはいるが、変化の動機や過程を体系的に説明してはいない。西屋台がなぜ福助の名を得たのか、東屋台から本町連への移行に町内のどのような再編が伴ったのかは、推定として述べるほかない。町の区画の変化、自治会の再編、青年組織の改組といった要因が背景にあったと想定できるが、確たる裏づけを欠く点は明記しておく5。
ここで、確度の層を改めて区別しておきたい。西屋台・東屋台という呼称が用いられたこと、そして福助・本町連という名が屋台に結びついたことは、冊子に記録された事実として扱える。しかし、両者を結ぶ「なぜ・いつ」の部分は、冊子の記載が薄く、一次史料も未確認であるため、推定にとどめざるをえない。名の変化という現象は史料に見えるが、その因果は史料の外にある。この区別を崩すと、記録された結果から推測された物語を、あたかも記録された事実であるかのように語る誤りに陥る。
それでも、名の変化を担い手の側から読むことには意味がある。屋台名が町名と担い手を明示する方向へ動いたことは、福田の祭礼運営が、村落的な東西の対から、より細分化された町内の連へと組み替えられていく大きな流れの一端をなす。次節で見る昭和期の屋台一覧に多くの町内名が並ぶことは、この細分化の到達点として理解できる。名の変化は、担い手の組織が二分制から多元化へと向かった運営史の、目に見える指標なのである。
6. 昭和期の屋台一覧が語る運営の広がり
冊子の末尾には、「福田町の屋台」として多くの屋台名が並ぶ一覧が収められている。福助、本町、おかめ、天狗、奴、宮組、む組、新町、港連、だるま、ひ組、十三番町、十四番町、南島、十五番町、石田、雁代、お組、小島方、本田、新田、蛭池、塩新田といった名が連なる3。東西二台を軸に語られてきた福田の屋台が、実際には多くの町内の屋台へと広がっていた事実を、この一覧は端的に示している。
担い手の運営史として読むと、この一覧はきわめて示唆に富む。二つの組から出発した屋台文化が、これだけ多くの名を数えるに至ったということは、屋台を担う単位が細分化し、多元化したことを意味する。「宮組」「お組」「ひ組」「む組」といった組を冠する名、「港連」のように連を冠する名、「十三番町」「十五番町」のように町の区画を冠する名、「石田」「雁代」「小島方」「蛭池」「塩新田」のように地名を冠する名が混在している。これらの名の付け方の違いそのものが、担い手のまとまりが多様な単位で編まれていたことを物語る。
冊子には各屋台の製造年も併記される。天保期と伝えられる古いもの、明治期のもの、昭和初期のもの、そして戦後の昭和20年代から50年代にかけてのものが混在している。ただし、これらの年代の一部は伝承や聞き取りに基づく可能性があり、正確な年号の検証には別の資料を要する。本稿はこれらを確定年としてではなく、冊子上に記録された年代として扱う。以下の比較表も、冊子の記述を運営史の観点から整理したものであって、製造年を史実として確定するものではない。
| 屋台名(例) | 冊子に見える製造年 | 名の型 | 担い手の単位としての読み取り |
|---|---|---|---|
| 福助 | 天保2年(1831年)頃 | 固有名 | 西屋台から続く古い系譜。二分制の一方を担う。 |
| 本町 | 明治28年(1895年)頃 | 町名 | 東屋台から本町連へつながる流れ。町を核とする連。 |
| おかめ・天狗 | 昭和8年(1933年) | 固有名 | 昭和初期の新造・再編。担い手単位の増加を示す。 |
| 奴・宮組・む組・新町・港連 | 昭和26年(1951年) | 組・連・町名 | 戦後復興期の一斉整備。組・連の名が多く現れる。 |
| 十五番町・石田・雁代 | 昭和52年(1977年) | 区画・地名 | 戦後後半の多台化。町の区画・地名を単位とする。 |
この表から読み取れるのは、担い手の単位が時代とともに増え、その編み方も多様化したという運営史の流れである。天保・明治の古い屋台が固有名や町名を冠するのに対し、戦後に整備された屋台には組・連・区画・地名を冠する名が目立つ。とりわけ昭和26年に多くの屋台名が現れることは、戦後の復興と地域社会の再建のなかで、祭りの担い手が一斉に組み直された可能性を推測させる。戦争によって中断や縮小を余儀なくされた祭りが、戦後に再び立ち上がる過程で、担い手の単位が細かく編成し直されたという筋立ては、想定として無理がない。
ただし、ここでも史料批判の留保を重ねておく。一覧に名が並ぶことは、それらの屋台と担い手が存在したことを示すが、各屋台がどの組の下にあり、東西二分制とどう関係したのか、相互の統轄関係がどうであったのかまでは、冊子の一覧からは十分には読み取れない。多台化の全体像を担い手の組織図として復元するには、各町内に残る記録や関係者への聞き取りといった別の史料を要する。本稿が示しうるのは、二分制から多元化へという大きな方向であって、その内部の精密な組織構造ではない。
7. 担い手不足という現代的課題
ここまで、冊子が記録した昭和期までの運営史を、東西二分制、青年層の実働、名の変化、多元化という筋でたどってきた。最後に、この運営史を現代へつなぎ、いま福田まつりが直面している課題を、担い手の側から見通しておきたい。結論を先に言えば、それは端的に担い手不足である。
前節までに見たとおり、福田の祭りは、青年層の実働と、それを支える町内の組・連という組織によって成り立ってきた。この構造は、若い世代が絶えず祭りへ入り、やがて年長者となって運営を支える世代交代の循環を前提とする。ところが、少子高齢化と人口の流出は、この循環の入口を細らせる。屋台を曳く若者が減れば、多台化した屋台のすべてを従来どおりに運行することは難しくなる。担い手の単位が多いことは、かつては運営の厚みであったが、担い手が減る局面では、維持すべき対象の多さとして重くのしかかる。
これは福田に限った問題ではない。遠州各地の屋台祭り、ひいては全国の地域祭礼が、同じ担い手不足に直面している。曳き手の確保、囃子の継承、屋台の維持費、役員の担い手──いずれも、人口が減り、地域とのつながりが薄れるなかで、従来の枠組みだけでは支えきれなくなりつつある。祭りをどう残すかという問いは、いまや屋台という物をどう保存するかという問いではなく、担い手という人をどう確保し、育てるかという問いへと重心を移している。
この課題に対して、本稿の運営史的な視点は一つの示唆を与える。福田の祭りは、二分制から多元化へと、担い手の編成をその時々の社会構造に合わせて組み替えてきた歴史をもつ。戦後の復興期に担い手の単位が一斉に編み直されたと推測されるように、祭りの組織は決して固定的なものではなく、時代に応じて再編されうるものであった。とすれば、担い手不足という現代の局面もまた、担い手の編成を新たに組み替える契機として捉えることができる。複数の組が共同で屋台を運行する、地域の外の縁ある人々を担い手に加える、囃子や曳き回しの継承を町内の枠を超えて支える──こうした再編は、過去の運営史の延長線上にある。
もっとも、これは容易な処方ではない。組・連という担い手の単位は、単なる運営の便宜ではなく、それぞれの町内の誇りと記憶を背負っている。安易に統合すれば、担い手のまとまりが背負ってきた固有の歴史が失われかねない。運営史をたどることの意義の一つは、それぞれの組・連がどのような経緯で編まれ、何を担ってきたかを記録し、再編にあたってその記憶を尊重する足場を用意することにある。祭りを残すとは、屋台を残すことであると同時に、担い手のまとまりが背負ってきた記憶を、次の形へと丁寧に引き継ぐことである。福田という土地に暮らし、家や土地の世代交代に実務として関わる立場から見ても、祭りの担い手をどう継ぐかという問いは、地域そのものをどう次代へ手渡すかという問いと分かちがたい。
8. 結論 ── 運営史として祭りを残す
本稿は、福田まつりを屋台という「物」の側からではなく、それを担った人と組織の側から読み直した。寺田勝彦編『東屋台と西屋台』が書きとめた東組・西組の二分制、青年たちの夜の曳き回し、西屋台から福助・東屋台から本町連への名の変化、そして昭和期の屋台一覧を、担い手の運営史という一つの筋のもとに整理した。得られた見取り図は、二分制から多元化へ、そして担い手不足という現代の局面へと連なる、担い手の編成の変遷である。
この作業を通じて一貫して保ったのは、確度の層の区別である。東組・西組の呼び分け、青年層の実働、屋台名の変化、屋台一覧の名は、冊子に記録された事実として扱った。他方、二分制の成立経緯、若者組の制度的な形、名の変化の動機と時期、多台化の内部構造は、いずれも冊子の記載が薄く一次史料も未確認であるため、推定として、あるいは未確認として明記した。とりわけ、冊子が記す「青年たち」を近代的な「青年団」と即断せず、実働を担った事実と、その組織の制度的な形が未確認であることとを、慎重に分けた。この禁欲は、担い手の運営史を、後世の調べものに耐える形で書き残すための基本姿勢である。
したがって本稿の立場は次の一文に集約される。福田まつりの運営史は、記録された担い手の断片を確かな足場としつつ、その背後の因果を推定として腑分けし、記録の薄い部分を「無かった」とも「あった」とも即断せずに書き留めることによってはじめて、後世に手渡しうる形をとる。屋台の由緒を確定することよりも、誰がどう担い、どう運営を組み替えてきたかを、確度の層を保ったまま記録することのほうが、祭りを未来へ残すうえでは切実である。
最後に、本稿が扱いきれなかった課題を記しておく。第一に、東西二分制の成立経緯は、近世の村落史料や神社の記録を博捜することで、未確認の状態を前進させうる。第二に、若者組・青年団の制度的な沿革は、各町内に残る規約や名簿、関係者への聞き取りによって、はじめて具体像を結ぶ。第三に、昭和期の多台化の内部構造──各屋台と組・連の統轄関係──は、屋台一覧の名を手がかりに、町内ごとの記録を突き合わせることで復元の糸口が得られる。これらはいずれも、担い手不足のもとで祭りの記憶が散逸する前に着手すべき、緊急性を帯びた課題である。二分制の起源、若者組の制度史、多台化の全体構造については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。祭りを残すとは、屋台を残すことにとどまらず、それを担ってきた人々の組織の記憶を、次の世代へ確かに引き継ぐことにほかならない。
注
- 福田の秋祭りの中心をなす社について、寺田勝彦編『東屋台と西屋台』本文および表紙は「六社神社」と表記する。関連資料に「六所神社」の表記も見えるが、本稿は素材冊子の表記に従い「六社神社」を用いる。↩
- 寺田勝彦編『東屋台と西屋台』(郷土史探訪別冊第三集、昭和60年〔1985年〕11月20日発行)。地元の記録者による小冊子であり、公的な編纂物ではない。記述の一部は聞き取り・伝承に基づく可能性がある。↩
- 冊子末尾「福田町の屋台」の一覧による。屋台名・製造年は冊子上の記録であり、確定年ではない。判読しにくい箇所や伝承を含む可能性がある。↩
- 冊子が記す「青年たち」を、近代的に制度化された「青年団」と同一視することはできない。実働を担った事実は史料に見えるが、その組織の正式名称・規約・編成は本稿の範囲では未確認である。↩
- 西屋台から福助へ、東屋台から本町連へという名の変化について、冊子は結果を記録するが、変化の時期・動機を体系的には説明しない。本稿はこれを推定として扱い、断定を避けた。↩
付記:本稿は一般向け記事 f028 の内容を、郷土史研究者向けに担い手の運営史として再構成した論考版である。確度の層(史料に見える事実・推定・未確認)を語の水準で区別し、冊子に記録された組織名・屋台名を事実、その背景にあたる因果を推定として扱った。既刊の第204号・第219号とは主題を分け、本稿は担い手の組織史に軸を置いた。
参考文献・参考資料
- 寺田勝彦編『東屋台と西屋台』郷土史探訪別冊第三集、1985年(昭和60年)11月20日発行。
- 寺田勝彦編『東屋台と西屋台』末尾「福田町の屋台」一覧(屋台名・製造年の記録)。
- 大石浩之「東屋台と西屋台 ── 六社神社秋祭りを支えた福田の二つの屋台」大石浩之の磐田論考 第204号、磐田物語 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/204/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「屋台以前の福田の秋祭り ── 田遊び・舞台・農村の収穫祭という古層」大石浩之の磐田論考 第219号、磐田物語 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/219/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「福田の屋台を支えた若者と町内運営 ── 東西屋台から本町連へ(記事版)」f028 https://iwata-monogatari.net/f028.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「福田地区」入口ページ https://iwata-monogatari.net/01008-fukude.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 六社神社(福田)由緒・祭礼関係資料。
- 磐田市『磐田市史』通史編・民俗編(磐田市、該当章)。
- 静岡県神社庁『静岡県神社誌』該当項。
- 磐田市教育委員会『磐田市の民俗』祭礼・年中行事の項。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」民俗文化財の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 佐口行正氏所蔵史料(福田・祭礼関係)。
- 福田地区各町内会・自治会所蔵の祭礼記録(聞き取りを含む)。