磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第219号(福田祭礼研究 二)
屋台以前の福田の秋祭り
田遊び・舞台・農村の収穫祭という古層をめぐる復元的考察
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
福田の秋祭りといえば、現在では六社神社の東屋台・西屋台に代表される屋台の曳き回しが真っ先に想起される。しかし屋台は祭礼史の表層に位置する比較的新しい装置であり、その下には収穫への感謝を核とする農耕儀礼の古層が横たわっている。本稿は、寺田勝彦編『東屋台と西屋台』が屋台以前の秋祭りについて残した記述を素材とし、農村の収穫祭・田遊び・境内の舞台という三つの要素から、屋台が登場する以前の祭りの姿を復元的に論じる。史料で確認できる冊子の記載を史実とし、田遊びの予祝的意味づけや農耕儀礼から屋台祭礼への変化の過程は推定・伝承として腑分けする。とりわけ祭りが「収穫を祝う農耕儀礼」から「見せる都市的な屋台祭礼」へと重心を移す前の段階を、確度の層を区別しながら記述することを課題とした。本稿の立場は、屋台以前を問うことによって福田の祭礼の重層性を史料批判的に示す点にある。
キーワード:福田の秋祭り/六社神社/田遊び/予祝芸能/収穫祭/屋台以前/祭礼の重層性
1. 問題設定 ── 「屋台以前」を問うということ
福田の秋祭りを思い浮かべるとき、多くの人がまず目にするのは屋台である。六社神社の氏子が曳く東屋台・西屋台の華やかな姿は、遠州の秋を彩る光景として広く知られ、その来歴については本論考シリーズでも既に東屋台と西屋台の考察で扱った。しかし祭礼を屋台の歴史としてのみ読むと、その屋台が乗っている土台そのものが視野から抜け落ちる。本稿が問いたいのは、屋台が登場する以前、福田の秋祭りはどのような姿であったのか、という点である。
この問いには、あらかじめ断っておくべき方法上の困難がある。屋台以前の祭りは、屋台のように具体的な造形物として残らない。田遊びの所作も、境内の芝居も、収穫を祝う村の宴も、その場かぎりの営みとして演じられ、消えていった。したがって「屋台以前」を復元しようとするとき、われわれは物そのものではなく、後世の記録に残された断片的な記述と、民俗一般の知見とを手がかりに、失われた古層を推し量るほかない。この作業は、確度の高い史実と、蓋然性にとどまる推定とを、注意深く腑分けしながら進める必要がある。
本稿がこの主題を選ぶ理由は、屋台以前の層を押さえておかなければ、屋台祭礼の意味そのものが正しく測れないからである。屋台は無から生まれたのではなく、既にあった秋祭りの上に、後から加えられた装置であった。とすれば、屋台が何を担い、何を変えたのかを論じるには、屋台が乗る前の祭りが何であったかを先に確定しておかねばならない。祭礼史を上から下へ、新しい層から古い層へと掘り下げる作業が要る。
あわせて、本稿は既刊の総論的な扱いと重複しないよう、軸を明確に定める。屋台そのものの構造・来歴・運営については既に稿を重ねてきたため、本稿ではそこへは深入りしない。焦点を当てるのは、あくまで屋台が登場する以前の段階、すなわち収穫祭・田遊び・境内の舞台という農耕儀礼の古層である。屋台祭礼を「見せる祭り」と呼ぶなら、本稿が扱うのはその手前にあった「祈る祭り・祝う祭り」の相にほかならない。
ここで用いる確度の区分を、あらかじめ定義しておく。第一に史実、すなわち冊子など史料によって記述が確認できる事柄。第二に通説、民俗学で広く共有されているが福田について一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが確証を欠く事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。とりわけ、一次史料に突き当たっていない「未確認」と、史料にそもそも記載がない「記載なし」とを、混同しないよう努める。
2. 素材と方法 ── 冊子の記録から古層を読む
屋台以前の福田の秋祭りを論じる素材は、寺田勝彦が編集・発行した『東屋台と西屋台』(郷土史探訪別冊第三集、1985年〔昭和60年〕11月20日発行)の記述に負う1。この冊子は、書名のとおり福田の二つの屋台を主題とするが、その叙述のなかで、屋台が登場する以前の秋祭りにも筆を及ぼしている。本稿は、その屋台以前に関わる記述を抜き出し、農耕儀礼の古層という観点から読み直すものである。冊子全体の性格や、六社神社の由緒、現行屋台の構造といった論点は、屋台史の考察に譲る。
素材の性格を、まず史料批判の観点から確認しておきたい。この冊子は、専門の歴史家による学術書ではなく、地域の記憶を書き留めるために編まれた郷土史の記録である。屋台以前の秋祭りについての記述も、古文書の博捜に基づく実証というより、地域に伝わる祭りの姿を回顧的にまとめたものと見るのが穏当である。したがって、そこに記された「初期の秋祭りは農村の収穫祭であった」という説明は、冊子にそう記されているという意味では史実として扱えるが、記述の内容そのものが古い祭礼の実態を正確に写しているかどうかは、なお別に検証を要する。冊子の記述を出発点としつつ、それを民俗一般の知見と照らし合わせて確度を測る、という二段構えの手続きが必要になる。
ここで一つ、表記についての注記を挟んでおく。素材とした冊子およびその原資料では、神社名が「六社神社」と「六所神社」の二通りで記されている。本稿では、冊子本文の表記に従い「六社神社」を用いる2。神社名の異表記そのものが、地域の記録がたどってきた伝写の過程を映しており、屋台以前の古層を扱う本稿にとっても示唆に富むが、この点の詮索は本題を超えるため立ち入らない。
方法としては、冊子が挙げる屋台以前の三要素、すなわち農村の収穫祭・田遊び・境内の舞台を、それぞれ一節を割いて検討する。各要素について、冊子に記された内容を確認したうえで、民俗学が積み上げてきた一般的な知見を参照し、福田に固有の事情がどこまで読み取れるかを吟味する。その際、福田について一次史料で確認できない部分については、それを「未確認」として明示し、あたかも確かめられた史実であるかのように語ることを避ける。冊子に書かれていない事柄について論及する場合も、それが「記載なし」であることを断ったうえで、蓋然性の水準で慎重に述べる。
この手続きをとる理由は、屋台以前という主題が、性質上、断定を誘いやすいからである。物証の乏しい古層を語るとき、筆は往々にして「かつてはこうであった」という滑らかな叙述へ流れがちである。しかし、そうして描かれた古層は、しばしば書き手が抱く祭りの原像を投影したものにすぎない。本稿は、その投影を戒めるために、冊子の記述という確実な足場と、民俗一般という比較の枠組みとを、常に区別して用いる。以下ではまず、冊子が古層の中心に置いた「収穫祭」から検討に入る。
3. 収穫祭としての秋祭り ── 稲作暦と祭りの時期
冊子は、屋台以前の秋祭りを、農村地帯の神社祭礼として説明している。稲作を中心とする暮らしのなかで、一年の農作業を終え、豊作を祝うことが祭りの大きな意味であった、というのがその趣旨である。この理解は、日本の村落祭祀に関する民俗学の通説とよく整合する。秋の祭りが収穫感謝の性格を帯びることは、全国の農村に広く見られる現象であり、福田の秋祭りをその一例として位置づけることに無理はない。
ここで注意を向けたいのは、祭りの「時期」がもつ意味である。なぜ秋なのか。それは、秋こそが一年の農作業を終え、収穫を無事に手にした季節だからである。春に苗代をつくり、田植えを行い、夏の炎天下で草を取り、水を見回り、そして秋、ようやく実りを刈り取る。その一連の労働の帰結として稲が倉に納まったとき、村人は田の神へ感謝を捧げ、翌年の豊作を願った。祭りの日取りそのものに、稲作とともに生きた人々の暮らしのリズムが刻まれている。祭りの時期は恣意的に選ばれたのではなく、農事暦の結節点に置かれていたと考えられる。
この段階の祭りは、現在のような屋台中心の見せ場ではなかった。村人が神前に集まり、酒や餅を供え、田畑の実りを確認する行事として理解する必要がある。冊子が描く初期の秋祭りの像は、華やかな曳き回しとは対照的な、静かな感謝の営みである。もっとも、この「静かさ」は現在から振り返った相対的な印象であって、当時の村人にとっては、収穫を終えた解放感のなかで催される、年に一度の大きな節目であったに違いない。日常の労働から離れ、神と人、人と人とが交わるハレの時空が、そこには開かれていた。
日本の祭りの多くが稲作と深く結びついて生まれてきたことは、民俗学の早くからの指摘するところである。春には豊作を祈り、秋には実りに感謝する。一年の農作業のリズムに寄り添って、祭りは営まれた。福田の秋祭りもまた、その根に、無事に収穫を終えたことへの感謝と神への祈りを抱えていたと推定される。米の実りは、そのまま一年の暮らしの土台であった。だからこそ、収穫を終えた秋に村をあげて神へ感謝を捧げ、翌年の豊かな実りを願うことは、共同体にとって欠かせない行事であった。華やかな屋台が加わるのは、後の時代のことである。その前に、まず収穫を祝い神に感謝するという素朴で切実な祭りの核があったことを、本稿は古層の出発点として確認しておく。
ただし、ここで史料批判上の留保を付しておかねばならない。福田の秋祭りが具体的に何月何日に行われ、どのような供物が神前に据えられ、どのような次第で進行したかを詳細に記す一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。これは「そのような記録が存在しない(=記載なし)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、具体を裏づける一次史料を未確認である」という状態である。したがって、収穫祭としての性格づけは、冊子の記述と民俗一般の通説とに支えられた蓋然性の高い理解であるが、福田固有の祭祀次第の細部までを史実として確定できるわけではない。この限界を保ったまま、次章以下の検討を進める。
4. 田遊び ── 予祝としての農作業の所作
冊子は、屋台以前の祭りの楽しみとして、田遊びや境内の舞台に関わる記述を残している。まず田遊びから検討する。田遊びとは、田起こしから田植え、草取り、稲刈りに至る一年の農作業の所作を、あらかじめ神前で演じてみせる予祝の芸能である。まだ田植えもしていない時期に、豊かな実りを先取りして演じることで、その通りの豊作を招き寄せようとする。めでたい所作をあらかじめ演じることが現実の豊作を引き寄せる、という予祝の観念が、この芸能の根にある3。
田遊びを、単なる余興として片づけることはできない。それは豊作を願う真剣な祈りの一つのかたちであり、農耕儀礼の中核に位置する所作であった。演者は鍬を振るう身ぶり、苗を植える身ぶり、稲を刈る身ぶりを順に演じ、見る者はその所作のうちに、来たるべき一年の豊穣をあらかじめ確認した。演じることと祈ることとが、ここでは分かちがたく一つになっている。芸能の起源を農耕儀礼に求める見方は、日本の民俗芸能研究において広く支持されており、田遊びはその典型例として語られてきた。
ここで、確度の腑分けを丁寧に行っておく必要がある。田遊びという予祝芸能が全国各地に分布し、農耕儀礼として演じられてきたことは、民俗学の通説である。しかし、福田の秋祭りで実際にどのような田遊びが、いつ、どこで、誰によって演じられたのか、その具体的な所作次第を記す一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。冊子は田遊びに触れてはいるが、その詳細な演目や所作までを記録しているわけではない。したがって、福田の田遊びの具体像は未確認であり、本稿が述べる田遊びの内容は、あくまで民俗一般の知見に基づく推定である。この区別を曖昧にすれば、他地域の田遊びの姿を福田に投影して語る誤りに陥りかねない。
もっとも、確度に留保を付したうえでなお、田遊びを古層に位置づけることには意義がある。それは、屋台以前の祭りが「見る祭り」である前に「演じる祭り・祈る祭り」であったことを示すからである。屋台の曳き回しが観客に見せる祭礼であるのに対し、田遊びは共同体の成員が自ら演者となり、豊作を神へ願う参加型の儀礼であった。祭りの主体が「見せる担い手と見る観客」に分かれる屋台祭礼と、演者と祈り手とが未分化な田遊びとでは、祭りにおける人と神との関係の結び方が根本的に異なる。屋台以前を問うことの眼目は、まさにこの関係のかたちの違いを浮かび上がらせる点にある。
田遊びの所作連関を、農作業の順序に沿って図に整理しておく(図3)。田起こし、代掻き、苗代、田植え、草取り、稲刈りという一連の労働が、そのまま予祝の所作として神前で演じられる。この所作の連なりは、稲作の一年をあらかじめ祭りの場で走り抜けることにほかならない。演者が農作業の全工程をなぞることで、まだ来ていない一年の豊穣が、祭りの場に先取りして現前する。ここには、時間を折りたたんで未来を手繰り寄せようとする、予祝という営みの独特の時間感覚が働いている。福田の田遊びの具体は未確認であるとしても、田遊びという芸能が担ったこの構造は、屋台以前の祭りの祈りの質を理解するうえで、なお有効な手がかりとなる。
5. 境内の舞台 ── 神楽・芝居・旅芸人の興行
屋台以前の祭りの楽しみを形づくったもう一つの要素が、境内に設けられた舞台での出し物である。冊子は、村の人々が楽しみにした芸能や見世物、旅芸人の興行、境内での催しが、秋祭りのにぎわいを担っていたことを伝えている。屋台は後から加わった要素であって、屋台が来る前にも、福田の境内には人が集まり、見る・演じる・祈る・飲食するという祭りの基本形が既に成立していた。
境内の舞台では、前章で述べた田遊びのほか、神楽や芝居、旅の芸人による興行なども催されたと考えられる。娯楽の乏しかった時代にあって、祭りの日の芸能は、村人にとってまたとない楽しみであった。神への祈りと人々の娯楽、その両方が一つの場に重なるところに、屋台以前の祭りの豊かさがあった。ふだんは田畑の仕事に明け暮れる人々にとって、祭りの日は日常を離れてハレの気分に浸れる特別な一日であり、神へ祈りを捧げると同時に、芸能に笑い、酒食をともにし、人と交わる機会でもあった。祭りは、共同体の絆を確かめ、暮らしにうるおいをもたらす結節点として機能した。
ここでも確度の区別を明示しておく。祭礼の場に舞台が設けられ、神楽・芝居・旅芸人の興行が催されることは、近世以来の村落祭祀に広く見られる通説的な光景である。冊子が福田について境内の舞台に言及していることは史実として扱えるが、そこで具体的にどの演目が、どの一座によって、どの舞台で演じられたのかという細部は、冊子も詳らかにしておらず、本稿の調査範囲でも未確認である。したがって、神楽・芝居・旅芸人という内訳は、境内の舞台という記述を民俗一般の知見で補って描いた蓋然的な像であって、福田で確認された演目の目録ではない。
境内の舞台という要素は、祭りの空間構造という観点からも興味深い。屋台祭礼が町を練り歩く動的な祭りであるのに対し、境内の舞台を中心とする祭りは、神社という一つの場に人が集まる求心的な構造をもつ。本殿・拝殿を軸に、舞台が据えられ、その周囲に見物の人々が集い、参道には露店や見世物が並ぶ。祭りの舞台が「神社の境内」から「町の通り」へと移ることは、後述するように、屋台祭礼への転換がもたらした空間構造の変化の一面でもある。屋台以前の祭りが境内に求心する構造であったことは、田遊びが参加型の儀礼であったこととあわせて、屋台以後の「見せる祭り」との対照を鮮明にする。
あわせて、福田の年中行事という広い文脈に、この秋祭りを置き直しておきたい。屋台以前の秋祭りは、それ単独で孤立していたのではなく、村の一年をめぐる祭祀と行事の連なりのなかの、収穫期にあたる一つの結節点であった。正月から春、夏、そして秋へと続く福田の年中行事の暦のなかで、秋祭りは農事の締めくくりに置かれた最も大きな祝祭であった。境内の舞台の芸能も、この年中行事の循環のなかで、収穫の解放感とともに営まれたものとして理解する必要がある。祭りの一日だけを切り取るのではなく、村の暮らしの一年という時間の幅のなかに、それを差し戻して読むことが求められる。
6. 海と農のあいだ ── 福田の生業と信仰の重層
屋台以前の秋祭りを収穫祭・田遊びとして読むとき、一つの留保が必要になる。福田は、しばしば海の町として語られてきた土地だからである。遠州灘に面し、太田川の河口に港を開いたこの地は、漁業とも深く結びついてきた。にもかかわらず、冊子が描く初期の秋祭りには農村の姿が強く出る。この海と農の重なりこそ、福田の祭礼を理解するうえで避けて通れない論点である。
福田という土地の特色は、まさにこの「海と農のあいだ」にある。遠州灘に面した砂地には、飛砂と闘いながら田畑が開かれ、太田川の河口には港が開けて漁も営まれた。一つの家が田を耕しながら漁にも出る、あるいは季節によって生業を使い分ける、という暮らしが、この地では珍しくなかったと考えられる。だからこそ、福田の祭りには、田畑の豊作を祝う農村の感覚と、海上の安全を願う漁村の信仰とが、自然に重なり合っている。田の神への感謝と、海の神への祈り。その両方を一つの祭りが抱え込んでいるところに、福田の秋祭りの奥行きがある。単純に「海の町の祭り」とも「農村の祭り」とも言い切れない、この重層性が福田らしさを形づくっている。
この生業の重層は、屋台以前の古層を論じる本稿にとって、方法上も重要である。もし福田の秋祭りを収穫祭一色に塗り込めれば、海の信仰という一面が視野から抜け落ちる。逆に海の祭りとしてのみ語れば、冊子が強調する農村の姿が見えなくなる。屋台以前の祭りを復元するとは、この二つの信仰が一つの祭りに共存していた状態を、どちらか一方へ還元せずに描くことにほかならない。祭りの古層は、海と農という二つの生業の交わりの上に成り立っていた。
もっとも、海の信仰と農の信仰が、屋台以前の秋祭りのなかで具体的にどのように配分され、どの神事がどちらに対応していたのかを詳細に記す史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。海上安全の祈願と収穫感謝とが、一つの祭礼の次第のなかでどう組み合わされていたのかは未確認であり、両者の重なりは、福田の地理と生業から導かれる推定として提示するにとどめる。地理的条件が信仰の重層を用意したことは蓋然性が高いが、その具体的な祭祀の形までを史実として確定することは、現時点ではできない。
それでもなお、海と農の重層という視点は、屋台以前の祭りの意味を深める。収穫祭としての性格、田遊びの予祝、境内の舞台の芸能は、いずれも農の側面に属するが、それらが海の信仰と一つの祭礼のなかで共存していたと見るとき、福田の秋祭りは単一の生業に還元されない厚みを帯びる。一つの土地がいくつもの生業と信仰を抱え込み、それを一つの祭りへと束ねてきた。祭りは、多様な暮らしを営む人々を結び合わせる場でもあった。屋台という華やかな装置が後に加わったのも、こうした重層的な母体があったからにほかならない。
7. 屋台以前と屋台以後 ── 農耕儀礼から見せる祭礼へ
ここまで検討してきた屋台以前の古層を、屋台祭礼という新層と対比することで、祭りが何を境に、どう性格を変えたのかを整理しておきたい。両者の対比を示したのが表1である。屋台以前と屋台以後を対等の粒度で並べ、祭りの中心・所作・空間・担い手・意味という五つの観点から、その違いを可視化することを目的とする。ただし、この対比は理念型としての整理であって、現実の移行が一夜にして起きたことを意味しない点は、あらかじめ断っておく。
| 観点 | 屋台以前(農耕儀礼の古層) | 屋台以後(屋台祭礼の新層) |
|---|---|---|
| 祭りの中心 | 収穫への感謝と豊作の祈願。田の神への奉仕。 | 屋台の曳き回しと、その造形・囃子の披露。 |
| 中心的な所作 | 田遊びの予祝、神前への供物、境内の芸能。 | 屋台を組み、飾り、町を練り歩く曳行。 |
| 祭りの空間 | 神社の境内に人が集まる求心的な構造。 | 町の通りを屋台が移動する動的な構造。 |
| 人と祭りの関係 | 成員が演者となり祈る参加型。演者と祈り手が未分化。 | 見せる担い手と見る観客とに分化。 |
| 祭りの意味 | 農耕儀礼としての感謝と予祝。共同体の節目。 | 見せる祭礼としての祝祭。町の誇りの表現。 |
この対比から浮かび上がるのは、屋台の登場が単に「新しい出し物が一つ増えた」という量的な変化ではなく、祭りの重心そのものを移す質的な転換であった、という見立てである。屋台以前の祭りが、田の神への感謝と豊作の祈願という農耕儀礼を核としていたのに対し、屋台祭礼は、屋台という造形物を作り、飾り、見せることを核とする。前者において祭りの主役は神と、神へ祈る共同体の成員であったが、後者では、屋台とそれを曳く担い手、そしてそれを見る観客という関係が前面に出る。祭りの視線の向きが、神へ向かう垂直の祈りから、人へ向かう水平の披露へと、その比重を移していったと読むことができる。
もっとも、ここで史料批判上の慎重さが要る。屋台以前から屋台以後への移行が、いつ、どのような経緯で、どの程度の速さで進んだのかを具体的に記す一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。屋台の成立時期そのものについては、既刊の屋台史考察が扱う主題であって本稿の範囲を超えるが、いずれにせよ農耕儀礼から屋台祭礼への転換の過程は、細部において未確認である4。したがって表1の対比は、二つの段階を理念型として抽象したものであり、現実には両者が長く併存し、古層の要素が新層のなかに残存した時期があったと考えるのが自然である。収穫感謝の性格は屋台祭礼のなかにも受け継がれ、屋台以前と以後とは断絶ではなく連続として捉えるべきである。
この連続性を見落とすと、屋台祭礼を古層から切り離された純粋な見世物として誤読することになる。実際には、屋台が町を練り歩く現在の福田まつりのなかにも、収穫を祝い神へ感謝するという古層の祈りは、形を変えて息づいている。屋台という華やかな表層は、収穫祭・田遊び・境内の舞台という古層の上に乗り、その古層の祈りを担いながら発展してきた。屋台以前を問うことは、屋台祭礼を否定することではなく、その屋台が何の上に乗り、何を受け継いでいるのかを明らかにすることにほかならない。屋台以前の福田の秋祭りを扱った一般向けの読みものが「基層」という語で言い当てようとしたのも、この連続性の構造であった5。
祭礼史を、こうして古層と新層の重なりとして読む方法は、福田に限らず、屋台や山車を伴う各地の秋祭りにも広く適用できると考えられる。豪華な屋台の来歴を追う祭礼史は多いが、その屋台が乗る前の祭りが何であったかを問う視点は、しばしば後景に退きがちである。屋台以前を掘り起こすことは、祭礼を華やかな装置の歴史としてだけでなく、共同体が神と結んできた関係の歴史として読み直すことを可能にする。福田の事例は、その読み直しの一つの手がかりを提供している。
8. 結論 ── 屋台以前を問うことの意味
本稿は、寺田勝彦編『東屋台と西屋台』の記述を素材に、屋台が登場する以前の福田の秋祭りを、収穫祭・田遊び・境内の舞台という三つの要素から復元的に検討した。得られた見取り図は次のとおりである。屋台以前の秋祭りは、収穫への感謝と豊作の祈願を核とする農耕儀礼であり、田遊びという予祝の所作と、境内の舞台の芸能とを伴い、海と農の重層する福田の生業のうえに営まれていた。これが、屋台という華やかな装置が乗る前の、古層の姿である。
その際、本稿が一貫して保ってきたのは、確度の層を区別する姿勢である。冊子が屋台以前の秋祭りを農村の収穫祭として記していることは史実として扱えるが、田遊びの具体的な所作、境内の舞台の演目、海の信仰と農の信仰の配分、そして農耕儀礼から屋台祭礼への移行の過程は、いずれも福田について一次史料で確認できておらず、未確認として明示した。民俗一般の通説を参照して古層の像を描きつつ、その像を福田固有の史実と偽らないこと、「未確認」と「記載なし」とを取り違えないこと。この禁欲的な手続きこそ、物証の乏しい古層を扱う本稿が最も重んじた点である。
したがって本稿の立場は明確である。屋台以前を問うことの意味は、失われた古い祭りの姿を懐古的に再現することにあるのではなく、福田の秋祭りが古層と新層の重なりから成る重層的な営みであることを、史料批判的に示すことにある。屋台祭礼は無から生まれたのではなく、収穫を祝い神へ感謝するという古層の祈りの上に、後から堆積した装置であった。屋台以前と屋台以後とは断絶ではなく連続しており、古層の祈りは現在の屋台まつりのなかにも形を変えて息づいている。この連続性を押さえることによって、はじめて屋台祭礼の意味もまた、正しく測ることができる。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、福田で実際に演じられた田遊びの所作次第については、近世・近代の地方文書や祭礼記録、古老の聞き書きを博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、海の信仰と農の信仰が一つの祭礼のなかでどう組み合わされていたかは、福田の年中行事全体のなかに秋祭りを差し戻して精査すべき主題である。第三に、農耕儀礼から屋台祭礼への移行の具体的な経緯は、屋台の成立を扱う既刊の考察と接合させて検討されるべきである。これらはいずれも、本稿が設定した確度の四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。古層を懐かしむのでも、屋台を切り離すのでもなく、両者の重なりを確度の層を保ったまま書き留めていくこと。その地道な手続きの先にこそ、福田の秋祭りが抱えてきた記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。田遊びの所作の復元、海と農の信仰の配分については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 寺田勝彦編・発行『東屋台と西屋台』(郷土史探訪別冊第三集、1985年〔昭和60年〕11月20日発行)。福田の二つの屋台を主題とする郷土史の記録冊子であり、その叙述のなかで屋台以前の秋祭りにも触れている。学術的実証を旨とする書ではなく、地域の記憶を書き留める性格の記録である点に留意を要する。↩
- 神社名は、素材冊子およびその原資料において「六社神社」「六所神社」の二通りの表記が見られる。本稿では冊子本文の表記に従い「六社神社」を用いる。異表記は地域の記録の伝写過程を映すものであり、いずれが本来かの判定は本稿の主題を超える。↩
- 田遊びを農耕予祝の芸能とみる理解は、日本の民俗芸能研究における通説的枠組みである。ただし本稿がここで述べる予祝の構造は田遊び一般に関するものであり、福田で演じられた田遊びの具体的所作を記述したものではない(福田の具体は未確認)。↩
- 屋台の成立時期および農耕儀礼から屋台祭礼への移行の具体的経緯は、屋台史を扱う本論考シリーズ別稿(第204号ほか)の主題であり、本稿ではその過程を未確認として留保するにとどめた。↩
- 本稿は一般向け読みもの f026「屋台以前の福田の秋祭り」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。素材の記述を史実として扱いつつ、田遊びの具体・信仰の配分・移行過程を推定および未確認として腑分けした。↩
参考文献・参考資料
- 寺田勝彦編・発行『東屋台と西屋台』郷土史探訪別冊第三集、1985年(昭和60年)11月20日。
- 福田町教育委員会『福田の年中行事と昔ばなし』福田町、刊行年当該。
- 磐田市『磐田市史』通史編、磐田市、該当章。
- 静岡県『静岡県史』民俗編、静岡県、該当章。
- 柳田国男『日本の祭』(『定本柳田国男集』所収)、筑摩書房。
- 折口信夫「田遊び及び猿楽」ほか(『折口信夫全集』所収)、中央公論社。
- 本田安次『日本の民俗芸能』(田楽・田遊びの項)、木耳社。
- 三隅治雄『日本民俗芸能概論』第一書房。
- 六社神社(福田)由緒書・祭礼関係資料。
- 佐口行正氏所蔵資料。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」民俗芸能・田遊びの項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 f026「屋台以前の福田の秋祭り - 田遊び・舞台・農村の収穫祭」 https://iwata-monogatari.net/f026.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第204号「東屋台と西屋台」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/204/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第164号「福田の年中行事」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/164/ (最終閲覧:2026年7月26日)。