磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第204号(福田祭礼史研究 一)
東屋台と西屋台 ── 六社神社秋祭りを支えた福田の二つの屋台
「対」をなす二つの組の構造と、私家版史料に残る引きまわしの記憶
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
現在の遠州福田まつりは、多くの連と番町がそれぞれの屋台を出す多台数の祭りとして知られる。しかしその前段には、町を大きく東と西の二つに分け、東屋台と西屋台という二つの中核が祭りを支えた時代があった。本稿は、寺田勝彦が編み自ら発行した私家版の小冊子『東屋台と西屋台』を主資料に、この二つの屋台を「対」という構造から読む。東屋台と西屋台は、単なる二台の屋台ではなく、町を東西に二分して競い、かつ協働するという関係の結晶であり、その根には西組・東組という村落社会組織があった。本稿は、六社神社の秋祭りという舞台、掛塚屋台へのまなざし、西屋台の買入と福助の記憶、戦前戦後の引きまわしを、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして整理する。あわせて、回想と聞き取りを多く含む私家版という資料の性格に即した史料批判を試み、「未確認」と「記載なし」を区別しつつ、二つの屋台が福田の共同体をどう組織してきたかを記述する。
キーワード:東屋台/西屋台/六社神社の秋祭り/掛塚屋台/西組・東組/私家版史料/屋台引きまわし
1. 問題設定 ── 二つの屋台という「対」をどう読むか
現在の福田まつりは、福助や本町をはじめ多くの連・番町がそれぞれの屋台を出し、囃子を競い合う多台数の祭りとして知られている。だが、その華やかな現在の姿の前段には、町を大きく東と西の二つに分けて営まれた時代があった。その二つのまとまりの中核をなしたのが、東屋台と西屋台である。本稿は、寺田勝彦が編集・発行した小冊子『東屋台と西屋台』を主たる手がかりに、この二つの屋台が六社神社の秋祭りのなかで果たした役割を読み解く1。一般読者向けには既に「東屋台と西屋台 ── 六社神社の秋祭りを支えた福田の二つの屋台」で要点を整理したが、本稿はそれを郷土史研究者向けに、確度の層と史料批判の観点から組み直したものである。
本稿が叙述の軸に据えるのは「対」という構造である。東屋台と西屋台は、単に二台の屋台が並存したというにとどまらない。町を東西に二分し、互いに競いながら同じ一つの祭りを支え合うという関係──対抗と協働の二重性──が、二つの屋台の存在の根にあった。屋台は町のなかを動く造形物であると同時に、それを引き、飾り、費用を賄う人々の組織を可視化する装置でもある。したがって、東屋台と西屋台を論じることは、福田という町が自らをどのように二つに分け、その二つをどう一つの祭りへ束ねてきたかを論じることに等しい。二台の屋台の背後にある、この社会組織の対構造こそが本稿の主題である。
あらかじめ叙述の枠組みを定めておく。史料によって確認できる事柄は史実として、学界や地域で広く受け入れられている事柄は通説として、根拠はあるが未確定の事柄は推定として、地域が語り継いできた事柄は伝承として、語の水準で書き分ける。福田の屋台をめぐる記録は、その多くが後年の回想や聞き取りに由来するため、年代や由来を史実として断ずるのは難しい場面が多い。だからこそ、どの記述がどの層に属するのかを一つずつ点検する手続きが要る。あわせて、「未確認」──すなわち管見の限り一次史料に突き当たっていない状態と、「記載なし」──すなわち史料そのものに記述が無い状態とを、本稿は一貫して区別する。両者を混同すれば、まだ調べ尽くしていないだけの事柄を「もともと無かった」と誤って結論づけかねないからである。
以下ではまず、主資料である私家版冊子の性格を史料批判の観点から吟味し、次いで祭りの舞台となる六社神社の秋祭り、参照点としての掛塚屋台を押さえる。そのうえで西組・東組という対の構造を検討し、東屋台と西屋台を比較し、引きまわしの記憶と戦後の多台数化に及んで、結論に至る。二つの屋台を「昔は二台だった」という懐旧の話に閉じ込めるのではなく、福田の共同体を組織してきた仕組みとして読むことが、本稿の一貫した姿勢である。
2. 主資料『東屋台と西屋台』の性格と史料批判
本稿の記述は、その多くを寺田勝彦編『東屋台と西屋台』に負う。この冊子は、郷土史探訪別冊第三集として、寺田勝彦が編集し自ら発行した私家版であり、奥付には昭和60年(1985年)11月20日発行とある。まず確認しておくべきは、これが公的機関の刊行物でも学術論文でもなく、地域の一個人が自らの見聞と聞き取りをまとめた冊子だという点である。この性格は、資料としての価値を損なうものではないが、その記述をどう扱うかを規定する。私家版の回想的記録は、当事者に近い視点から祭りの手ざわりを伝える一次性を帯びる一方、年代や由来については記憶と伝聞に依存しやすく、裏づけの取れない事柄を確定した事実として書き留めてしまう傾向をもつ。
資料の表記についても一点ことわっておく。本稿が参照した提供資料のファイル名は「六所神社の祭り」と記されているが、冊子の本文および表紙では「六社神社」と表記されている2。神社名の「所」と「社」の異同は、地域の呼称や表記の揺れとして珍しいものではないが、資料を引くにあたっては原本の表記に従うのが穏当である。本稿では冊子本文にならい「六社神社」と表記する。こうした細部の確認を怠らないことが、私家版史料を扱う際の基本作法である。
史料批判の観点から、この冊子の記述を三つの層に腑分けしておきたい。第一に、編者自身が見聞した戦前戦後の祭りの様子──支度、引きまわし、若者衆の動きなど──は、当事者の証言として比較的信頼度が高い層である。第二に、屋台の買入先や箱書き、製造年といった来歴に関わる記述は、聞き取りや伝聞を多く含み、確定史実としてではなく伝承・推定として扱うべき層である。第三に、六社神社の由緒や掛塚屋台の一般的な背景に関わる記述は、冊子独自の発見というより、地域で共有されてきた通説的知識を要約した層である。本稿はこの三層を混ぜないよう努める。
ここで方法上の限界を明示しておく。東屋台・西屋台が具体的に何年に成立し、どの部材がいつ由来するのかを直接記した一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そうした史料が存在しないと断定できる」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、成立年代を裏づける一次史料に突き当たっていない」という未確認の状態である。冊子が伝える年代や来歴は、その多くが編者の時代の回想と古老の聞き取りに立脚しており、それ自体が貴重な証言でありながら、外部史料による照合を経ていない。したがって本稿は、冊子の記述を尊重しつつも、年代の断定を避け、「冊子はこう伝える」「可能性として示される」という水準にとどめる。
もっとも、こうした留保は冊子の価値を減じるものではない。むしろ私家版の回想記録は、公的な祭礼記録がしばしば取りこぼす、担い手の身体感覚や町内の力関係、祭りをめぐる喜怒哀楽といった無形の記憶を書き留めている点にこそ意義がある。屋台がいつ作られたかを確定することよりも、人々が二つの屋台をどう引き、どう競い、どう支えたかを伝えること──そこに、この冊子が果たした記録化の役割がある。本稿が冊子を「主資料」と呼ぶのは、この無形の記憶の一次性を重んじるからにほかならない。
3. 六社神社の秋祭りという舞台 ── 海と田の信仰
東屋台と西屋台が動いた舞台は、六社神社の秋の例祭である。冊子は、福田の祭りをこの例祭として位置づけるところから筆を起こす。古い祭日は10月中旬に固定されていたと伝えられる。ここで注意したいのは、この祭りが二つの祈りを重ねて営まれてきた点である。一つは農村としての豊作への感謝であり、もう一つは漁村・港町としての海上安全の祈願である。福田が田畑だけの村ではなく、海と川と砂地に生活を置いた土地であったことが、祭りの性格に刻まれている。
六社神社の祭神は、綿津見三神と住吉三神であるとされる3。いずれも海の神・航海の神であり、この神々を総鎮守としてまつること自体が、福田という土地の生業の二重性を物語る。祭神や合祀の詳細、鰹釣り船の絵馬に見える海の信仰については、既に「六社神社の由緒と海の神々」で扱っているため、本稿では繰り返さない。本稿の関心は、この海と田の信仰を、町の身体でどう動かしたかにある。東屋台と西屋台は、その信仰を目に見える形で町中に運び、町の人々に共有させる装置だったと位置づけられる。
祭礼の場が神社の例祭であるという事実は、屋台の意味を考えるうえで見落とせない。屋台は単独で存在する見世物ではなく、氏神への奉納と、氏子である町内の結束を確認する営みのなかに置かれていた。屋台を出すこと、囃子を奏でること、町内を引きまわすことは、いずれも六社神社の祭礼という枠のなかで意味をもつ行為であった。したがって、東屋台と西屋台を語るとき、その背後には常に神社の祭礼という宗教的・共同体的な文脈があることを忘れてはならない。屋台の華やかさや競い合いは、その文脈のうえに立って初めて成立する。
もっとも、古い祭日が10月中旬に固定されていたという記述も、その具体的な期日や、いつからそう固定されたのかを直接に裏づける一次史料までは、本稿では確認できていない。近世・近代の福田における例祭日の推移は、村方文書や神社の記録を博捜することで補いうる余地があるが、それは本稿の範囲を超える。ここでは、冊子が伝える「秋の例祭を舞台とする」という枠組みを、祭りの背景として押さえるにとどめる。海の神をまつる総鎮守の秋祭りという舞台設定そのものは、福田の地理と生業に照らして無理のない通説として受け入れてよいだろう。
4. 掛塚屋台へのまなざし ── 参照と組み替え
福田が本格的な屋台を導入していく過程を考えるうえで、冊子が大きな背景として置くのが掛塚屋台である。天竜川河口の掛塚は、廻船・材木・商家の蓄積を背景に、彫刻や飾りを凝らした豪華な屋台文化を育てた町として知られる。掛塚の屋台囃子は、無形民俗文化財としての価値も論じられてきた湊まちの音であり、この点は本論考シリーズの「掛塚祭屋台囃子を読む」で別途扱った。福田の若者たちは、その動く美術品のような屋台を目の当たりにしながら、自分たちの祭りにも本格的な屋台を持ちたいと考えるようになったと、冊子は伝える。
ここで強調しておきたいのは、これが単純な模倣ではなかったという点である。掛塚の屋台文化は、福田にとって一つの目標であり刺激であったことは確かだろう。しかし福田には福田の路地があり、川筋があり、町内の組織があり、若者衆の気風があった。掛塚を仰ぎ見ながらも、福田の屋台は、六社神社の祭礼と町内組織のなかで、別の姿へと組み替えられていった。文化の受容とは、優れた先例をそのまま写し取ることではなく、受け手の側の条件に合わせて作り変える営みである。福田の屋台導入は、その典型的な事例として読むことができる。
掛塚を参照点とするこの筋立ては、冊子独自の観察というより、遠州の屋台文化史のなかで広く共有されてきた見方に連なる。天竜川舟運の富が掛塚に集積し、そこで磨かれた屋台の様式が周辺の村々へ影響を及ぼしたという構図は、通説として受け入れてよい。ただし、福田の東屋台・西屋台が具体的にどの掛塚屋台を範としたのか、あるいはどの職人の手を経たのかといった個別の来歴になると、確実な裏づけは乏しくなる。冊子が示すのは、あくまで「掛塚を仰ぎ見て本格屋台を求めた」という福田側の動機であり、その動機は伝承として尊重しつつ、具体的な影響関係の細部は推定の域を出ないものとして扱うべきである。
掛塚へのまなざしは、福田の側の自己意識を映し出す鏡でもある。豪華な屋台を持つ隣町を意識することは、裏を返せば、福田が自らの祭りをどのようなものにしたいかという願望を明確にする作業でもあった。二つの屋台を東西に立てて競わせるという福田の選択は、掛塚のような一町を挙げての壮麗さとは異なる、町を二分して張り合う独自の様式を生んだ。掛塚を参照しながらも同じにはならなかったこの差異にこそ、福田の祭りの個性が現れている。
5. 西組と東組 ── 対をなす二つの組
冊子が描く古い福田では、現在の細かな連や番町に分かれる以前に、大きく西組と東組という二つのまとまりが意識されていた。この二組が、東屋台・西屋台の担い手であり、本稿がいう「対」の構造の実体である。町が東西に長く伸びる地形、中心となる通り、川や橋、そして若者衆の集まり方といった要素が、この二分を自然なものにしていたと考えられる。祭りの単位は、抽象的に線を引いて決められたのではなく、日々の生活圏と人の交わりのなかから立ち上がってきたものであった。
ここで重要なのは、東屋台と西屋台が「単なる二台の屋台」ではないという点である。それは、町を二つに分けて競い、同時に協力し、祭りを支える仕組みそのものであった。屋台を引く若者衆、費用を支える家々、区長や有力者、寄付地や共有財産の管理──これらが幾重にも重なって、祭りは地域自治の一部として動いていた。屋台を出すという行為の背後には、誰が引くか、誰が費用を負担するか、どの家が世話役を務めるかといった、町内の社会関係のすべてが動員されていた。二つの組の対抗は、こうした具体的な組織と財の裏づけをもっていたのである。
「対」という構造を、もう少し立ち入って考えてみたい。二項の対立は、しばしば分裂や争いの温床と見なされる。しかし祭りにおける東西の対は、むしろ共同体を結束させる装置として働いた。西組は東組に負けまいと屋台を飾り、囃子を磨き、引きまわしに力を尽くす。東組もまた同じように張り合う。この競い合いこそが、それぞれの組の内部の結束を高め、同時に、二組が一つの祭りを構成する部分であるという意識を強めた。対抗と協働は矛盾せず、むしろ対抗があるからこそ協働が意味をもつ。二つの屋台が向かい合うことによって、福田は一つの祭礼共同体としての自己を確認していた。
この対の構造は、屋台に固有の現象ではなく、村落の社会組織が祭りの場に投影されたものと理解するのが妥当である。日本の村落祭祀には、氏子を東西・上下・上組下組などの二群に分けて競わせる形が各地に見られ、そうした二分は生活圏や本末の関係、水利や道の区分と結びついていることが多い。福田の西組・東組も、この一般的な二分組織の一事例として位置づけられる。ただし、福田の二組がいつ、どのような経緯で成立したのかを直接記す史料は、本稿では確認できていない。二分の起源を近世に遡らせる推定は成り立ちうるが、それを裏づける一次史料には未だ突き当たっていない。ここでは、対の構造が「ある時点で存在した」ことを冊子の証言から確認するにとどめ、その起源の確定は今後の課題として残す。
なお、二分組織を語る際に注意すべきは、東西の境界が固定した行政区画のように厳密であったと即断しないことである。生活圏に根ざした祭りの単位は、時代や人の動きに応じて緩やかに伸縮しうる。冊子が伝えるのは、あくまで「大きく東西に分かれていた」という感覚であって、地図上に一本の線を引けるような明確な境界の記述ではない。この点も、私家版の回想が伝える記憶の性質として、慎重に受け止めておく必要がある。
6. 東屋台と西屋台の対比 ── 西屋台・福助の記憶
冊子のなかで、最も具体的な記録が多く残るのは西屋台である。掛塚方面から屋台を買い入れた可能性、箱書きや天幕に残る文字、そして現在の「福助」へと続く記憶などが紹介されている4。東屋台についても言及はあるが、記録の密度という点では西屋台に及ばない。この記録量の非対称そのものが、資料の性格を映している。冊子の編者が西組側の見聞に厚く、あるいは西屋台の関係者からの聞き取りに恵まれていたことが、記述の偏りとして現れている可能性がある。史料を読む際には、何が詳しく書かれているかだけでなく、なぜそこが詳しいのかを問う必要がある。
屋台の来歴を一つの年代に確定することの難しさも、あらためて確認しておきたい。古い屋台は、改造・修理・買入を繰り返しながら姿を変えていくため、どの部材がいつから残るのかを単一の製造年に還元することはできない。箱書きに記された文字が、屋台本体の製作年を示すのか、後の修理や寄進の年を示すのかも、慎重な検討を要する。冊子自身が、こうした来歴を確定史実として断定するのではなく、「そう伝えられる」「可能性として示される」という水準で記していることは、資料の扱いとして誠実である。本稿もこの姿勢を踏襲し、西屋台の来歴を伝承・推定の層に位置づける。
ここで重要なのは、細かな由緒を確定することよりも、福田の若者たちが「自分たちの屋台」を求め、掛塚の屋台文化を受け止めながら、福田の祭りに合わせて使い続けたという事実である。屋台の履歴は、物の移動の記録であると同時に、町の誇りの移動でもある。西屋台が現在の福助へと記憶の糸をつないでいることは、二つの屋台の時代が過去に閉じたのではなく、現在の祭りのなかに生き続けていることを示す。名を変え、姿を変えながらも、屋台に託された町内の誇りは受け継がれてきた。以下の対比表は、東屋台と西屋台を、担い手・記録の密度・来歴・確度の層という観点で並べ、両者の位置を可視化するものである。
| 観点 | 西屋台 | 東屋台 | 史料批判上の留意点 |
|---|---|---|---|
| 担い手(組) | 西組(町の西側の若者衆・家々) | 東組(町の東側の若者衆・家々) | 東西の境界は生活圏に根ざし、厳密な行政区画ではない。 |
| 冊子での記録量 | 多い(買入・箱書き・天幕の文字など具体的) | 相対的に少ない | 記録の偏りは編者の見聞・聞き取りの範囲を反映する可能性。 |
| 来歴の記述 | 掛塚方面からの買入の可能性が示される | 詳細は乏しい | 改造・修理・買入で姿を変えるため単一年代に断定できない。 |
| 現在への接続 | 「福助」に続く記憶として語られる | 明確な後継は本稿では未確認 | 名の継承と物の継承は別の問題として区別を要する。 |
| 確度の層 | 伝承・推定(一部に見聞の証言) | 伝承(記述が薄い) | いずれも成立年代を直接記す一次史料は未確認。 |
この対比から見えてくるのは、東屋台と西屋台が資料のうえで対等に扱えるわけではない、という現実である。西屋台に記録が厚く、東屋台に薄いという非対称は、二つの屋台の実際の重要度の差をそのまま反映しているとは限らない。むしろ、たまたま西屋台の側に語り伝える人と機会があり、東屋台の側にそれが乏しかったという、記録化の偶然に左右されている可能性が高い。史料の残り方の偏りを、事柄そのものの偏りと取り違えないこと──これは、地域史を読むうえで常に意識すべき陥穽である。東屋台の記録が薄いことは、東組の祭りへの関与が薄かったことを意味しない。対をなす二組は、原理的には対等に祭りを担っていたと考えるのが自然である。
「福助」という現在の屋台への接続についても、一点腑分けしておきたい。西屋台が福助に続くと語られるとき、そこには名の継承と、物(部材・屋台本体)の継承という二つの水準が含まれうる。ある屋台の系譜が別の名の屋台へと引き継がれるとき、名だけが受け継がれる場合、部材が転用される場合、あるいはその両方が起こる場合がある。冊子の記述だけからこの三者を判別することは難しい。したがって本稿は、西屋台と福助の連続を「記憶のうえでの接続」として確認しつつ、物としての継承の実態は未確認として留保する。この留保は、連続の物語を否定するものではなく、その物語がどの水準で成り立っているかを明確にするための手続きである。
7. 引きまわしの共同体と、対の解体
冊子がとりわけ生き生きと伝えるのは、祭り前の支度、夜の引きまわし、子どもたちが小さな屋台を作って遊んだこと、若者衆が夜を徹して町を動かしたことである。そこにあるのは、屋台を保存の対象として静かに守る文化財意識ではなく、屋台を実際に引き動かすことで町を確認する、身体的な記憶である。屋台を引くという行為を通じて、町内の道が確かめられ、家々のつながりが再認され、若者から子どもへと祭りの担い方が伝えられていく。引きまわしは、町という共同体をその都度あらためて編み直す営みであった。
この身体的記憶の水準こそ、私家版の回想が最もよく伝えうる領域である。何年に何が作られたかという年代の記録は外部史料による照合を要するが、夜通し屋台を引いた高揚や、子どもが真似て小さな屋台を作った情景は、当事者の記憶にしか残らない。冊子がこうした場面を書き留めたことの意義は、まさにここにある。祭りの無形の核──人々が身体で覚えている祭りの手ざわりを、文字として定着させた点に、この記録化の価値がある。屋台という物の来歴以上に、屋台を動かした人々の記憶が、本稿の読み取るべき対象である。
しかし、対をなす二つの屋台の時代は、やがて閉じていく。戦争と戦後の混乱期には、屋台を引き出せない年もあったと冊子は伝える。人手も物資も祭りどころではない時期を経て、昭和20年代に入ると、東屋台と西屋台を中核とした古い時代は次第に幕を下ろしていった。祭りが戦争によって中断・縮小を余儀なくされたことは、福田に限らず全国の祭礼に共通する経験であり、この点は一般向けの整理でも触れたとおりである。二組の対という古い枠組みは、この断絶を境に、別の形へと組み替えられていくことになる。
戦後、福田の祭りは大きく姿を変えた。各自治会・各連がそれぞれの屋台を求めるようになり、二台の屋台から、多くの屋台が町中に並ぶ多台数の華やかな祭りへと移行していった。冊子末尾の一覧には、福助、本町、おかめ、天狗、奴、宮組、新町、港連、だるま、十三番町、十四番町、十五番町、石田、南島、新田、蛭池、昭和組、塩新田など、戦後に広がった多くの屋台の名が並ぶ5。この一覧は、東西二組の対という単純な二分が、より多くの単位へと解体・分化していった過程を、屋台の名において記録している。人口の増加、自治会の再編、若者組織の変質、道路環境の変化といった戦後の社会変動が、この多台数化の背景にあると推定される。
ここで見落としてはならないのは、この多台数化を、単なる規模の拡大や賑わいの増大として片づけないことである。二組の対が解体して多くの連へ分化したことは、祭りを担う社会組織の編成原理そのものが変わったことを意味する。かつては東西という二項の緊張が祭りを組織していたのに対し、戦後は複数の自治会・連が並立し、それぞれが屋台を持つという多元的な編成へと移った。東屋台と西屋台は、この移行の前段に位置する、福田まつりの基層をなす二つの記憶の柱である。現在の華やかな多台数の祭りは、この二つの柱のうえに築かれている。
8. 結論 ── 「対」という記憶をどう残すか
本稿は、寺田勝彦の私家版冊子『東屋台と西屋台』を主資料に、福田・六社神社の秋祭りを支えた東屋台と西屋台を、「対」という構造から読んできた。得られた見取り図は次のとおりである。二つの屋台は単なる二台の造形物ではなく、西組・東組という村落社会組織が祭りの場に投影された対の結晶であり、対抗と協働の二重性を通じて福田を一つの祭礼共同体として組織していた。六社神社の秋祭りという舞台、掛塚屋台への参照と組み替え、西屋台と福助をめぐる記憶、引きまわしの身体的記憶、そして戦後の多台数化への分化──これらはいずれも、この対の構造を軸に据えることで、一貫した筋のなかに位置づけられる。
史料批判の面では、主資料が私家版・回想である以上、その記述の層を分けて扱うことが不可欠であった。編者自身の見聞に基づく引きまわしの記憶は比較的信頼度が高く、屋台の買入先や箱書き・製造年といった来歴は伝承・推定の層にとどまる。そして、東西二組や屋台の成立年代を直接記す一次史料は、本稿の調査範囲では未確認である。この「未確認」を「記載なし」と取り違えないこと、記録の偏り(西屋台に厚く東屋台に薄い)を事柄そのものの偏りと混同しないこと──この二つの禁欲を、本稿は一貫して保った。冊子の証言を尊重しつつ、その証言がどの水準で成り立っているかを腑分けする作業が、私家版史料を後世の調べものに耐える形で読む唯一の道である。
したがって本稿の立場は明確である。東屋台と西屋台は、「昔は二台だった」という懐旧の話に閉じ込めるべきものではなく、福田という町が自らを組織してきた原理を映す鏡として読むべきものである。二項の対が共同体を結束させ、その対がやがて多元的な編成へと解体していく過程は、福田まつりという一つの祭りの歴史であると同時に、近代から現代にかけて地域社会の編成原理がどう変わってきたかを示す、より大きな主題への入口でもある。二つの屋台の記憶は、その意味で、福田の基層を読むための鍵となる。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、東西二組の成立時期と境界の実態については、近世・近代の村方文書や神社記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、西屋台と福助の連続が、名の継承なのか物の継承なのか、あるいはその両方なのかは、屋台本体の実地調査と部材の検討によって判別を進めうる。第三に、戦後の多台数化の過程は、冊子末尾の屋台名一覧を出発点に、各連の成立事情を個別に追うことで、より精確に描きうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の腑分けの枠組みのなかで、未確認を推定へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。東屋台と西屋台という対の記憶を、その手続きの先に、少しずつ確かな像として結んでいくこと──それが本稿に続く福田祭礼史研究の課題である。西屋台・福助の来歴と、戦後の各連の成立過程については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 寺田勝彦編『東屋台と西屋台』(郷土史探訪別冊第三集、寺田勝彦編集・発行、昭和60年〈1985年〉11月20日発行)。公的機関の刊行物ではなく、地域の一個人が見聞と聞き取りをまとめた私家版である点に、本稿は史料批判の出発点を置く。↩
- 本稿が参照した提供資料のファイル名は「六所神社の祭り」だが、冊子本文・表紙の表記は「六社神社」である。神社名の異同は地域の表記の揺れとみられ、本稿は原本にならい「六社神社」と表記する。↩
- 六社神社の祭神を綿津見三神・住吉三神とすることについては、磐田物語「六社神社の由緒と海の神々」に整理がある。祭神・合祀の詳細は本稿では繰り返さない。↩
- 西屋台の買入先・箱書き・天幕の文字・「福助」への接続に関する記述は、冊子が伝承・聞き取りとして記すものであり、確定史実ではない。古い屋台は改造・修理・買入で姿を変えるため、部材の年代を単一の製造年に断定できない。↩
- 戦後に広がった屋台名の一覧(福助・本町・おかめ・天狗・奴・宮組・新町・港連・だるま・十三番町・十四番町・十五番町・石田・南島・新田・蛭池・昭和組・塩新田ほか)は、冊子末尾の記載による。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 f023「東屋台と西屋台」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、屋台の来歴・成立年代は伝承・推定として、「未確認」(一次史料に未突当)と「記載なし」(史料に無い)を区別して扱った。
参考文献・参考資料
- 寺田勝彦編『東屋台と西屋台』郷土史探訪別冊第三集、寺田勝彦編集・発行、昭和60年(1985年)11月20日発行。
- 提供資料「六所神社の祭り」(PDF)。冊子本文の表記は「六社神社」。
- 磐田物語「東屋台と西屋台 ── 六社神社の秋祭りを支えた福田の二つの屋台」 https://iwata-monogatari.net/f023.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「六社神社の由緒と海の神々」 https://iwata-monogatari.net/matsuri-fukude-rokusha.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「屋台の工学と意匠 ── 福田まつりの屋台構造」 https://iwata-monogatari.net/matsuri-fukude-yatai.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「掛塚の屋台」 https://iwata-monogatari.net/matsuri-kaketsuka-yatai.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第167号「掛塚祭屋台囃子を読む ── 無形民俗文化財としての湊まちの音」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/167/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「福田の祭りと戦時記憶 ── 伊東金平氏の体験記から読む」 https://iwata-monogatari.net/f025.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「掛塚屋台と福田の東西組 ── 二つの屋台が生まれた背景」 https://iwata-monogatari.net/f027.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「福田地区」(地区入口) https://iwata-monogatari.net/01008-fukude.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 福田町教育委員会編『年中行事と昔ばなし』(福田の民俗に関する参考資料)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(福田・祭礼に関わる該当章)、磐田市。
- 佐口行正氏所蔵史料。