磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第232号(福田文化史研究 三)
福田の音楽活動を読む
楽団・唱歌・祭囃子が編む音の文化史
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
本稿は、旧福田町域に伝わる「福田の音楽活動」を、楽団・学校唱歌・祭囃子という三つの音の文化として読み解く試みである。地域資料には福田の音楽活動を主題とする項目の存在が確認できるが、その具体的な成立年代・演奏規模・担い手の実態を直接記す一次史料は、管見の限り確認できていない。本稿はこの状況を出発点とし、音という消えやすい無形の文化を、いかなる史料によって、どの確度で記述しうるかを中心論点に据える。近代日本の音楽受容──学制以後の唱歌教育、青年団や在郷の結社による洋楽器の受容、祭礼に伴う囃子の伝承──という一般的枠組みを補助線としながら、福田で確認できることと、推定にとどまること、そして史料に記載がないことと未確認であることの区別を一貫して保つ。個別の音を史実として断定するのではなく、音の文化がどのような担い手と場によって支えられ、どう記録されうるかを腑分けする立場をとる。
キーワード:福田/音の文化/唱歌教育/楽団/祭囃子/無形民俗文化/史料批判
1. 問題設定 ── 消えやすい「音」をどう記録するか
地域の歴史を書こうとするとき、私たちの手もとにまず残るのは、文字と、かたちのある物である。石碑や棟札、古文書、写真、建物や道具は、時を隔ててもそこに在り続け、後の世の者が目で確かめ、手で触れることができる。ところが、音はそうはいかない。歌声も、太鼓や笛の響きも、楽器の合奏も、鳴った瞬間に消えていく。録音の技術が地域に行き渡るのは、日本の場合おおむね二十世紀の後半以降のことであり、それ以前の音は、演じた人の記憶と、断片的な文字の記録のなかにしか痕跡をとどめない。
本稿が対象とする福田の音楽活動も、この「消えやすさ」という条件のもとにある。旧福田町は、遠州灘に面し、太田川の河口と今ノ浦に近い漁業と織物の町として知られてきた。その土地に音楽活動があったという記録は残る。しかし、どのような音が、いつから、誰によって鳴らされていたのかを、当事者の一次記録によって具体的に跡づけることは、現在の資料状況では容易でない。ここに、無形の文化を扱う地域史に固有の難しさがある。
そこで本稿は、個々の演奏や楽団の来歴を確定することを目的とはしない。むしろ、音という無形の文化を、どのような史料によって、どの程度の確からしさで記述しうるのかという方法上の問いを中心に据える。音楽活動を、楽団・学校唱歌・祭囃子という三つの類型に腑分けし、それぞれがどのような担い手と場によって支えられ、どのような史料に痕跡を残しうるのかを検討する。福田という一つの町を素材としながら、そこで問われているのは、無形文化の史料批判という、より広い問題である。
あらかじめ、本稿で用いる区別を明示しておきたい。第一に、地域資料によって存在が確認できる事柄を史実として扱う。ただしここでいう史実とは、多くの場合「そのような記録が存在する」という水準の事実であって、記録の内容そのものの真偽とは区別される。第二に、近代日本の音楽受容一般から蓋然性をもって導ける事柄を推定とし、断定を避ける。第三に、地域で語り継がれてきた事柄を伝承とする。そして最も重要なのは、「史料に記載がない」ことと「管見の限り未確認である」こととを、決して混同しないことである。前者は史料の不在を、後者は筆者の探索がそこに達していないことを意味し、両者を取り違えると、無いはずのものを在ると誤り、あるいは在るものを無いと切り捨てる過ちを犯す。
2. 史料状況 ── 「福田の音楽活動」として確認できること
検討に入る前に、福田の音楽活動について現在なにが確認できるのかを、正確に確定しておく必要がある。本稿が依拠しうる直接の手がかりは、地域の記憶を集めた民間データベースに、福田の音楽活動を主題とする項目が立てられているという事実である1。この項目の存在それ自体は、後年その痕跡を写し取った保存記録によって確認できる。したがって「福田に音楽活動を主題とする記録が存在する」ことは、記録の存在という水準における史実として扱ってよい。
問題は、その先にある。項目の存在は確認できても、そこに含まれる情報は概略にとどまり、どの楽団が、いつ結成され、何人でどのような場面で演奏したのか、あるいはどの学校で、どの祭礼で、どの音が鳴らされたのかといった具体は、この手がかりだけからは確定できない。すなわち、記録の存在は史実であっても、記録の内容の細部までが史実として保証されるわけではない。地域資料を扱ううえで、この二つの水準を混同しないことが決定的に重要である。
さらに慎重を期すべき点がある。この種の地域データベースには、採録の過程で年代や数量の表記が機械的に混入することがあり、そこに現れる個々の数字を、そのまま福田の音楽活動の史実として引き写すことはできない。本稿があえて特定の年代・人数・回数を掲げないのは、資料を軽んじるからではなく、確度の裏づけを欠く数値を史実として流通させないためである。ここでは、成立年代・演奏規模・担い手の氏名といった具体的事項を、いずれも未確認の領域に置く。繰り返せば、未確認とは、そうした事実が存在しないという意味ではなく、それを裏づける一次史料に本稿がまだ突き当たっていないという状態を指す。
この一般向けの下敷きとなった福田地区の音楽活動に関する記事もまた、確認できる要素と今後の確認点とを分ける姿勢をとっていた。本稿はその姿勢を引き継ぎつつ、確認点の側を、近代日本の音楽受容という広い文脈のなかに置き直すことで、何が推定として言え、何が依然として未確認にとどまるのかを、より精密に腑分けしていく。素材が薄いことは、憶測で細部を補ってよい理由にはならない。むしろ薄いからこそ、各事項がどの確度層に属するのかを明示する作業が要る。
3. 学校唱歌 ── 近代教育がもたらした共通の歌
福田の音楽活動を三類型に分けたとき、最も広く、かつ均質に町へ入り込んだと推定できるのが、学校を通じて教えられた唱歌である。明治5年(1872年)の学制は、小学校の教科として唱歌を掲げた。当初は「当分之ヲ欠ク」とされ、実際に唱歌が全国の教室で教えられるようになるまでには時間を要したが、文部省音楽取調掛の編んだ『小学唱歌集』が明治14年(1881年)から刊行され、やがて唱歌は近代日本の子どもたちが共通して身につける音の基礎となっていった2。
この過程は全国的なものであり、福田もその外にあったとは考えにくい。学校という制度は、地域差を越えて同じ教科書と同じ旋律を各地の教室へ届ける仕組みであった。したがって、福田の小学校でも、明治後期から大正・昭和にかけて、当時の唱歌教材に沿った歌が教えられていたと推定することには相当の蓋然性がある。ただし、ここで慎重でなければならない。全国的傾向から福田を推定することと、福田の学校でどの歌がいつ歌われたかを史料で確認することとは、水準の異なる作業である。前者は推定として述べうるが、後者を裏づける学校側の一次記録は、本稿の範囲では未確認である。
唱歌教育がもたらしたものは、単に歌を覚えさせたことにとどまらない。それは、譜面によって旋律を共有し、多人数が声をそろえて歌うという、それまでの村の音とは異質な音の作法を持ち込んだ。祭囃子が口伝えと身体の模倣によって受け継がれたのに対し、唱歌は文字と記号によって媒介される音であった。この違いは、記録の残り方にも関わる。教材や指導要目は文字として残りやすく、後世の研究がたどりうる痕跡を比較的多く残す。無形の文化のなかでも、学校唱歌は制度に支えられていたぶん、他の音よりも史料に定着しやすい性格をもっていたといえる。
もっとも、教材が残ることと、その歌が実際に子どもたちにどう響き、家庭や地域へどう広がったかを知ることとは、また別である。学校で覚えた歌が、下校後の路地や、農作業の合間や、家の団欒のなかでどう口ずさまれたのかは、制度の記録には残りにくい。唱歌がもし福田の生活のなかへ溶け込んでいたとすれば、それはもはや学校の記録を離れ、人々の記憶のなかにしか痕跡をとどめない音となっていたはずである。ここでも、制度としての唱歌教育(推定しうる)と、生活のなかの歌声(未確認にとどまる)とを、腑分けしておく必要がある。
唱歌教育のもう一つの意義は、音を数える単位そのものを変えたことにある。祭囃子や労働歌が、その土地の身体と結びついた固有の音であったのに対し、唱歌は全国どこでも同じ旋律を、同じ拍で歌うことを前提とした。子どもたちは、生まれた土地の外へ出ても通用する共通の音を、学校で身につけたことになる。福田の児童もまた、この共通の音の網の目のなかに置かれていたと推定できる。地域に固有の音と、全国に共通する音とが、一人の人間のなかに併存するようになる──近代の唱歌教育は、そうした音の二重性を各地の子どもへもたらした。この二重性を福田という一点で確かめる史料は未確認であるが、制度の性格からして、福田がその例外であったとは考えにくい。
4. 楽団と青年団 ── 洋楽器を受け入れた在郷の音
三類型の二つめは、楽団である。ここでいう楽団とは、管楽器や打楽器を用いる吹奏の集団、いわゆるブラスバンドの類を念頭に置く。近代日本において、洋楽器を用いる合奏は、まず軍楽隊や学校の音楽隊を通じて広まり、やがて都市の民間へ、さらに地方の町や村へと受容の裾野を広げていった。地方における担い手として大きな役割を果たしたのが、青年団や青年会といった在郷の結社であった3。
青年団は、明治後期から大正・昭和にかけて全国の町村に組織され、地域の若者が農閑期や祭礼、行事の際に集まる母体となった。そこでは、体育や講習とならんで、しばしば音楽が活動の一部を占めた。楽器の購入には資金が要り、演奏には指導者と反復の稽古が要る。それを支えうる継続的な組織として、青年団や消防組、あるいは学校の同窓的な集まりは、地方において洋楽器の受容を担う現実的な母体となった。福田に楽団の活動があったとすれば、その担い手もまた、こうした在郷の結社であった可能性が高いと推定できる。
ただし、この推定を福田の具体へと引き寄せる際には、やはり抑制が要る。青年団音楽が全国的な現象であったことと、福田のどの結社が、いつ、どのような楽器編成で活動したのかを史料で確認できることとは、別の水準にある。楽団は、学校唱歌と違って国の制度に直接支えられていたわけではないぶん、その記録は各結社の内部資料や、行事の記念写真、地域の新聞記事といった散在的な媒体に頼らざるをえない。こうした資料は残ればきわめて雄弁だが、失われれば痕跡を追うのが難しい。福田の楽団についても、活動の具体を裏づける一次史料は、本稿の範囲では未確認である。
楽団を成り立たせる条件を考えることは、その活動が地域に根づく難しさを理解することでもある。管楽器は高価であり、修理や消耗品の調達にも継続的な費用を要した。加えて、譜面を読み、合奏の呼吸を合わせるには、指導しうる者と、稽古を重ねる時間の確保が欠かせない。こうした人・物・時間の条件をそろえられる母体は、地方では限られていた。だからこそ、青年団や消防組のように、若い成員が定期的に集まり、共同の目的のために資金と労力を出し合える組織が、洋楽器の受容を実質的に支えたのである。福田に楽団があったとすれば、それを支えたのも同種の社会的な仕組みであったと推定するのが穏当だが、その具体的な運営の実態を示す資料は、なお未確認である。
楽団の音には、祭囃子とも唱歌とも異なる社会的な意味があった。それは、村の外から来た新しい音を、地域の若者が自らの手で奏でることであり、近代という時代を音において身につける営みでもあった。行進や式典、運動会や祭礼の場で吹奏が鳴ることは、その町が近代の様式を受け入れ、演じてみせる場面でもあった。もし福田にそうした楽団があったとすれば、それは漁業と織物の町が、海の彼方や町の外からもたらされる新しい様式へ、音を通じて開かれていたことの一つの表れであったと読むことができる。ただしこれは、確認された事実の記述ではなく、一般的背景に立った読みであることを重ねて断っておく。
5. 祭囃子 ── 屋台と結ぶ音の古層
三類型の三つめは、祭囃子である。これは、楽団や唱歌が近代の産物であるのに対し、祭礼という古くからの場に伴って伝えられてきた、より古い層の音である。福田の秋祭りについては、本論考シリーズですでに二度、屋台という視点から検討してきた。東屋台と西屋台をめぐる論考では、六社神社の秋祭りを支えてきた二つの屋台の存在を扱い、屋台以前の秋祭りをめぐる論考では、屋台が用いられる以前の田遊びや舞台という古層に光を当てた。音という観点は、これらの屋台論と切り離せない4。
屋台の祭りにおいて、音は中心的な役割を果たす。屋台の運行には囃子が伴い、太鼓と笛、鉦といった楽器が、練り歩きの拍子を取り、祭りの高揚をつくる。囃子は、単なる伴奏ではなく、屋台という動く舞台の運動そのものを律する音であった。屋台がいつ据えられ、いつ動き、いつ止まるか──その全体を、囃子の拍子が指揮する。したがって、屋台の歴史を論じることは、必然的にその屋台とともに鳴った音の歴史を論じることでもある。福田の音楽活動を音の文化史として読むとき、祭囃子はこの町の音のなかで最も古い層に位置づけられる。
祭囃子の伝承の仕方は、唱歌や楽団とは根本的に異なる。それは、譜面ではなく、口伝えと身体の模倣によって受け継がれる。年長者が打ち、若い者がそれを見て覚え、やがて自らが打ち手となる。この伝承のかたちは、記録という点では最も脆い。譜面が残らず、指導要目もなく、稽古の記録も乏しいため、囃子の旋律や打ち方がいつからどう伝わってきたのかを、文字史料によって跡づけることは著しく難しい。祭囃子は、まさに本稿が冒頭に述べた「消えやすい音」の典型であり、その古さゆえに、かえって成立時期を語る一次史料を欠く。
口承による伝承は、脆さと同時に、独特の強さももつ。譜面に頼らないがゆえに、囃子は打ち手の身体に深く刻まれ、道具と場さえ整えば、記録が失われても人から人へと再び立ち上がりうる。祭りが続く限り、囃子は毎年くり返し鳴らされ、そのつど次の世代の身体へ写し取られていく。この反復こそが、文字を持たない音を長く保ってきた仕組みである。だが裏を返せば、担い手の途絶は、そのまま音の途絶を意味する。祭りが休止し、打ち手が代を継がなければ、囃子は一世代のうちに失われうる。福田の囃子がどのような継承の履歴をたどってきたのかは、まさにこの脆さと強さのあいだで問われるべき主題であり、その具体は現状では未確認にとどまる。
ここでも、確度の腑分けが要る。福田の秋祭りに囃子が伴ってきたこと自体は、屋台の運行という祭礼の実態から蓋然性が高く、推定として述べうる。しかし、その囃子がいつ成立し、どのような系統に連なり、近隣のどの地域の囃子と関わるのかといった問いは、口承の文化に固有の困難のなかにあり、多くが未確認にとどまる。祭囃子について語るとき、私たちはしばしば「古くから伝わる」という言い方をする。だが「古くから」がいつを指すのかは、たいてい確かめられていない。この曖昧さを曖昧なまま引き受け、断定を避けつつ、囃子が祭礼の運動を律する不可欠の音であったという事実の核だけを、確度を保って記述することが求められる。
6. 三つの音の比較と無形文化の史料批判
ここまで、楽団・学校唱歌・祭囃子という三つの音を、それぞれ別個に検討してきた。三者は、しばしば「福田の音楽活動」という一つの名のもとにまとめて語られるが、その性格は根本的に異なる。担い手、伝わり方、そして史料への残りやすさが、それぞれに違う。この違いを一つの表に並べ、確度の水準を可視化することは、無形文化の史料批判にとって有効な手続きである。以下の比較表は、三類型を対等の粒度で並べ、それぞれがどの資料に痕跡を残しうるのかを整理したものである。
| 類型 | 主な担い手 | 伝承の仕方 | 残りやすい史料 | 確度の現状 |
|---|---|---|---|---|
| 学校唱歌 | 小学校・教員・児童 | 譜面と教材による共有 | 教材・指導要目・学校記録 | 全国的傾向は推定可、福田の具体は未確認 |
| 楽団(吹奏) | 青年団など在郷の結社 | 指導者のもとでの稽古 | 結社の内部資料・記念写真・新聞記事 | 担い手の型は推定可、活動の具体は未確認 |
| 祭囃子 | 祭礼組織・屋台の打ち手 | 口伝えと身体の模倣 | 祭礼記録・屋台資料・古写真 | 存在は推定可、成立時期は多く未確認 |
この比較から見えてくるのは、三つの音が「福田の音楽活動」という同じ名を分かち持ちながら、記録の残り方において大きく隔たっているという事実である。学校唱歌は制度に支えられて史料に定着しやすく、祭囃子は口承ゆえに最も痕跡をとどめにくい。楽団はその中間にあって、資料が残れば雄弁だが、失われれば追いにくい。すなわち、無形文化の記録可能性は、その文化を支える担い手の性格によって大きく左右される。制度に支えられた音は残り、共同体の身体に宿る音は消えやすい。この非対称は、地域の音楽史を書くうえで常に意識すべき偏りである。
ここに、無形文化の史料批判の核心がある。文字史料に残りやすい音ほど後世の研究がたどりやすく、その結果、記録の残りやすさが、あたかも文化としての重要さであるかのように錯覚されることがある。しかし、史料に残りにくいことは、その音が地域にとって重要でなかったことを意味しない。むしろ祭囃子のように、日々の稽古と身体の記憶に深く根ざした音ほど、記録には残りにくい。記録の量と文化の重みとを取り違えないこと──これは、無形文化を扱うすべての地域史に共通する戒めである。
もう一点、方法上の留意を重ねておく。三類型のいずれについても、本稿は「福田で確認された具体的事実」としてではなく、「福田においてこうであった蓋然性が高い」という推定として論じてきた部分が多い。この区別は、決して自らの記述を弱く見せるための逃げではない。地域の音楽史は、後年、古写真や証言、埋もれた記録が持ち寄られることで、推定が史実へと押し上げられていく余地をもつ。最初から断定してしまえば、その追記の余地を塞ぐことになる。確度の層を明示して書き留めておくことこそ、次に調べる者へ、正しく引き継ぐための作法である。
7. 背景としての地理 ── 海・湊・町と音の伝播
三つの音を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、福田という土地の地理的性格である。福田は遠州灘に面し、古くから漁業を生業とし、近代には織物の町としても知られた。海に開かれた土地であることは、音の文化を考えるうえで見過ごせない。港と市の立つ町は、外からの人と物と情報が行き交う結節点であり、そこにはしばしば、内陸の農村とは異なる速度で新しい様式が流れ込む。
この地理的条件は、福田の音楽活動の性格に、一定の背景を与えたと推定できる。海に開かれた町では、外来の様式を受け入れる素地が相対的に厚かったと考えられ、楽団のような近代の音が根づく母体もまた、こうした開かれた町の社会性のなかに求められよう。ただしこれも、地理から導かれる一般的な推論であって、福田の楽団が海運や商いを通じて特定の音を受け入れたことを示す史料が確認されているわけではない。地理は音の伝播の条件を用意するが、実際に何が伝わったかを保証はしない。
一方で、祭囃子のような古層の音は、海に開かれていることとは別の論理で伝わる。それは、共同体の内側で、世代から世代へと身体を通じて受け継がれる音であり、外来の様式の流入とは異なる、内向きの継承の力によって保たれる。同じ町のなかに、外へ開かれた音と、内へ閉じて受け継がれる音とが共存していた──福田の音楽活動を三類型として読むことは、この共存の構造を浮かび上がらせる。開かれた楽団の音と、閉じた囃子の音、そしてその中間で制度に媒介された唱歌の音。三つは、同じ町の異なる社会的回路を通って鳴っていた。一つの町の音楽文化を読むとは、この複数の回路を一枚の地図のうえに重ねて見ることにほかならず、どれか一つの音だけで町の音を代表させないという抑制を、たえず自らに課すことでもある。
この地理と社会の背景は、これまで本シリーズが福田について積み重ねてきた記述とも接続する。六社神社の秋祭りと二つの屋台をめぐる考察、屋台以前の秋祭りの古層をめぐる考察は、いずれも福田という町が、祭礼という場に多くの記憶を堆積させてきたことを示していた。音の文化史は、そうした祭礼史・地域史のうえに重ねられるべきもう一つの層である。福田地区の記録全体のなかに音を置き直すことで、屋台も、秋祭りも、そして日々の唱歌や楽団の響きも、一つの町の生活のなかで互いに関わり合っていたことが見えてくる。
8. 結論 ── 音の履歴を確度とともに書き留める
本稿は、福田の音楽活動を、楽団・学校唱歌・祭囃子という三つの音の文化として読み解き、それぞれの担い手・伝承の仕方・史料への残りやすさを腑分けしてきた。得られた見取り図は次のとおりである。福田に音楽活動を主題とする記録が存在することは、記録の存在という水準における史実であるが、その具体的な成立年代・演奏規模・担い手の実態を直接記す一次史料は、本稿の範囲では未確認にとどまる。三類型は、いずれも近代日本の音楽受容という一般的枠組みから蓋然的に推定しうるが、福田の個別の事実へと引き寄せる段では、なお確認を要する事項が多く残る。
この結論を、力の乏しいものと受け取るべきではない。本稿があえて特定の年代や人数を掲げず、確度の層を明示して記述したのは、無形文化を扱う地域史において、それが最も誠実な作法だからである。音は消える。歌声も、吹奏も、囃子も、鳴った瞬間に空へ散る。その消えやすい文化を、後世の調べものに耐えるかたちで残すには、憶測で細部を埋めるのではなく、何が確認でき、何が推定にとどまり、何がなお未確認であるかを、正確に腑分けして書き留めるほかない。「未確認」を「記載なし」と偽らず、「推定」を「史実」と偽らないこと──この禁欲こそが、無形文化を次の世代へ手渡す方途である。
本稿の立場は明確である。福田の音楽活動は、一つの楽団や一つの旋律の来歴に還元されるものではなく、学校・青年団・祭礼組織という異なる担い手が、それぞれの回路を通じて鳴らしてきた複数の音の総体である。その総体を、記録の残りやすさという偏りに惑わされずに読むこと、そして残りにくい音ほど注意深く記憶にとどめることが、地域の音楽史に求められる姿勢である。
最後に、本稿が果たしえなかった課題を明記しておく。第一に、福田の学校で実際に歌われた唱歌については、学校沿革誌や卒業生の証言をたどることで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、楽団の活動については、青年団や消防組の記念写真、地域の新聞記事を博捜することで、担い手と編成の具体に近づきうる。第三に、祭囃子の系統と成立過程は、近隣諸地域の囃子との比較を通じて、口承文化に固有の困難のなかでなお検討を深めうる主題である5。これらはいずれも、本稿が設定した確度の層のなかで、未確認を推定へ、推定を史実へと押し上げていく作業に属する。断定を急がず、確度を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、福田という町が奏でてきた音の履歴が、少しずつ像を結んでいくはずである。屋台囃子の系統と、学校唱歌の地域的受容については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 福田の音楽活動を主題とする項目は、地域の記憶を集めた民間データベース「磐田お宝見聞帳」に記事として立てられており、その痕跡はインターネット・アーカイブの保存記録によって確認できる。ただし本稿は、そこに機械的に混入しうる個別の年代・数量表記を、そのまま福田の史実としては採らない。↩
- 明治5年(1872年)の学制は唱歌を教科に掲げ、文部省音楽取調掛編『小学唱歌集』が明治14年(1881年)以降刊行された。唱歌教育の成立過程については山住正己の研究に詳しい。↩
- 地方における洋楽器受容の担い手として青年団・青年会が果たした役割については、近代日本の音楽史・青年団史の一般的知見による。福田の特定の結社の活動を確認したものではない。↩
- 福田の秋祭りと屋台については、本論考シリーズ第204号「東屋台と西屋台」および第219号「屋台以前の福田の秋祭り」で扱った。祭囃子はこれらの屋台論と不可分の主題である。↩
- 祭囃子の系統論は、譜面を欠き口承によって伝えられる音の性格上、近隣諸地域の囃子との比較という間接的方法に頼らざるをえない。この方法論的困難は、本稿にいう「未確認」と「記載なし」の区別と直接に関わる。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 f042 の主題を、郷土史研究者向けに無形文化の史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、記録の存在を史実、近代日本の音楽受容一般から導かれる事柄を推定、個別の年代・規模・担い手を未確認として扱った。
参考文献・参考資料
- NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」記事「福田地区の音楽活動」。インターネット・アーカイブ採取データ(最終閲覧:2026年7月26日)。
- インターネット・アーカイブ 保存ページ http://web.archive.org/web/20170912200348/http://otakara-iwata.net/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 f042「福田地区の音楽活動に残る信仰と文化の記憶」 https://iwata-monogatari.net/f042.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第204号「東屋台と西屋台 ── 六社神社秋祭りを支えた福田の二つの屋台」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/204/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第219号「屋台以前の福田の秋祭り ── 田遊び・舞台・農村の収穫祭という古層」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/219/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 文部省音楽取調掛編『小学唱歌集』初編〜第三編、1881〜1884年。
- 文部省編『尋常小学唱歌』、1911〜1914年。
- 山住正己『唱歌教育成立過程の研究』東京大学出版会、1967年。
- 堀内敬三『音楽五十年史』鱒書房、1942年。
- 磐田市『磐田市史』通史編(福田町域を含む章)、磐田市。
- 『静岡県史』民俗編、静岡県。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」無形民俗文化財の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。