磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第228号(天竜川渡船研究 四)
渡船を支えた助郷
定助郷・大助郷と助船・助人足の制度をめぐる賦役の構造
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
天竜川池田の渡船は、渡船を専業とする池田村・船越一色村だけで支えられていたのではない。両村が渡船以外の諸役を免除される代わりに、周辺の村々が人足と船を供出する助郷(すけごう)の賦役が制度として編まれていた。本稿は、この助郷を、日常の渡船を担う定助郷と大通行時の増員を担う大助郷という近世の役制から読み解く。宝永4年(1707年)・正徳元年(1711年)の高札、寛政4年(1792年)の書上帳、嘉永期の差村表に記された助郷村・人足数・勤高割合を史料に確認できる史実として押さえ、その一方で負担の実態、村の疲弊、免除の嘆願といった記述は、資料自身が「不明」と断る箇所を含むため、推定の層に腑分けして扱う。渡船という交通の便益が、指定された村々の賦役という見えにくい負担のうえに成り立っていた構造を、史料批判の観点から描き出すことを課題とする。あわせて「未確認」と「記載なし」を区別する。
キーワード:助郷/定助郷・大助郷/助船・助人足/天竜川渡船/賦役/勤高/史料批判
1. 問題設定 ── 特権の裏にある賦役
天竜川の池田渡船は、遠州の東海道交通を語るうえで欠かせない結節点であった。氾濫を繰り返す暴れ川に橋を架けず、舟で人馬を渡すこの渡船場は、家康の証文に始まる特権のもとで長く営まれた。天正元年(1573年)、徳川家康は池田村・船越一色村に対し、今切渡船(浜名湖)と同様に、渡船以外の諸役を免除する旨の朱印状を与えたと伝えられる1。渡船に専念するかぎり、他の夫役を負わなくてよい──この免除こそが、両村の渡船特権の根幹をなしていた。
だが、ここに一つの構造的な問題が潜んでいる。渡船以外の役を免除された両村は、逆に言えば渡船だけに人手を割く村であり、その村の力だけで街道の交通需要のすべてをまかなえたわけではない。参勤交代の大名行列、将軍上洛、公家や幕府高官の通行が重なれば、日常の船と人手では到底足りない。増水や大風で川越えが不自由になれば、なおさら臨時の手が要る。この不足を埋めたのが、渡船場周辺の村々に人足や船の供出を割り当てる助郷の仕組みであった。本稿が主題とするのは、この助郷という賦役である。
渡船という交通は、しばしば池田村・船越一色村という担い手の側からのみ語られてきた。既刊の論考でも、渡船の起源と運営組織は池田渡船の総論で、洪水による中断と仮渡船の運用は洪水篇で扱った。本稿はそれらと視点を替え、渡船場に直接は暮らさない周辺の村々が、いかにしてこの交通を陰で支えたのかを問う。渡船の便益を享受したのは街道を行く旅人と幕府の統治機構であり、その便益を負担として担ったのは、名を連ねさせられた助郷村の農民であった。便益と負担のこの非対称こそ、助郷制度を読むときの出発点になる。
本稿の課題を、あらかじめ二つに分けて示しておきたい。第一に、助郷制度がどのような役の体系として編まれていたかを、史料に記された範囲で正確に描くことである。定助郷と大助郷の区分、助船と助人足の別、村ごとに割り当てられた勤高といった枠組みは、近世の文書に具体的に記録されている。第二に、その制度が村と農民にもたらした負担の実態を、どこまで史料から言えるのかを腑分けすることである。負担の重さや村の疲弊、免除の嘆願といった事柄は、しばしば後世の記述や推論を含む。制度の骨格(史料に記載のある事柄)と、その運用の実態(推定を含む事柄)とを混同しないことが、本稿の一貫した方針である。
用いる主たる史料は、豊田町郷土を研究する会が昭和51年(1976年)に編んだ『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』である。これは近世の村方文書・触書・書上帳を郷土研究の立場から翻刻・整理した資料集であり、本稿はこれを一次史料そのものではなく、一次史料を編纂した二次的な資料として扱う。したがって、そこに引かれた高札の文言や村名・数値は史料に基づく記載として重んじる一方、資料が付す解釈や推量については、その旨を明示しながら用いる。史料の性格に応じて言葉の重みを変えることが、地域史を後世の検証に耐える形で残すための最低限の作法だと考える。
2. 助郷制度の成立と史料の性格
助郷という賦役が天竜川渡船場でいつ整えられたのかを、一点の年紀で確定することはむずかしい。ただし、その早い時期の姿を示す史料はいくつか残る。宝永4年(1707年)5月の天竜川高札には、「往還通行人多キ時ハ寄せ船を出し、人馬荷物等滞りなく相わたすべし」という一条があり、通行が集中する場面には通常の船とは別に寄せ船を出すよう定めていた2。この寄せ船こそ、後の助船(役船)につながる仕組みの早い証明であるとされる。渡船場の常備船だけでは需要を満たしきれない場合に、外から船を寄せ集めるという発想が、すでに18世紀初頭の高札に明文化されていたことになる。
この寄せ船の制度は、天竜川に固有のものではない。近世東海道の交通史を論じた諸研究によれば、今切渡船(浜名湖)でも同様の仕組みが行われ、後には「あきらせ船」と称する助船制度が整えられていったという。天竜川の助船は、この今切の渡船制度と軌を一にする形で編まれたと考えるのが穏当である。つまり助郷は、天竜川だけの特殊な工夫ではなく、幕府の街道交通行政に共通する役制の、天竜川における現れであった。個別の渡船場を街道全体の制度史のなかに位置づけることで、助郷の意味はより鮮明になる。
助郷から出る船に何が求められていたかは、正徳元年(1711年)5月の天竜川高札にやや具体的に読み取れる。そこには「役船は御定めのごとく懈怠なく、昼夜相勤むべき事」とあり、続けて往来の旅人に対し粗略な扱いをせず、無礼や悪口があってはならない旨が、たとえ身分の軽い旅人であっても同様だとして記されている。役船には、単に人馬を運ぶ労力だけでなく、昼夜を分かたぬ勤務と、旅人への礼を尽くした応対までが課されていた。賦役が量的な負担であると同時に、勤務の作法という質的な規律をも伴っていたことが、この高札からうかがえる。
ここで史料の性格に一言しておきたい。高札は幕府ないし代官所が掲げた公的な触書であり、渡船場で守るべき規範を示す一次的な性格の史料である。したがってそこに記された文言は、制度が「こうあるべし」と定めた枠組みを示す点で信頼性が高い。ただし注意を要するのは、高札が定めた規範と、現場で実際にどう運用されたかとは別の事柄だという点である。高札は理念を語るが、その理念がどこまで実現され、村にどれほどの負担として跳ね返ったかは、高札そのものからは読み取れない。制度の規範(史料に明記される)と運用の実態(別に検証を要する)とを分けて考える姿勢は、以下の各節でも保持する。
もう一点、方法上の区別を明示しておく。助郷制度が天竜川渡船場で正式に発足した最初の年月を直接記した一次史料を、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しない(=記載がない)」と断ずることを意味しない。あくまで「管見の限り、発足年を裏づける史料に突き当たっていない(=未確認)」という状態である。宝永・正徳の高札は制度が18世紀初頭にはすでに機能していたことを示すが、それが助郷の始点そのものであると断定する根拠にはならない。この「未確認」と「記載なし」の区別は、負担の実態を論じる後半でも一貫して用いる。
3. 定助郷 ── 日常の渡船を担う賦役
助郷は、その出勤の性格によって、日常の渡船業務を分担する定助郷(じょうすけごう)と、大通行時に増員を出す大助郷(おおすけごう)とに大きく分かれていた。まず定助郷から見る。定助郷は、渡船の日々の運行に恒常的に組み込まれた助郷であり、さらに船を出す定助船郷と、人足を出す定助人足郷とに分かれていた。負担の対象が「船」か「人」かで役の系統が異なっていた点は、助郷制度の構造を理解するうえで押さえておくべき区分である。
寛政4年(1792年)の『天竜川渡船勤方並役助郷定助大助船手伝人足書上帳』は、この定助郷の内実を村名の水準で伝える貴重な書上帳である3。これによれば、定助船郷として高瀬船・小船を出したのは、中野町村・国吉村・常光村・禅地村・神増村・平松村・掛下村・寺谷村などの村々であった。一方、定助人足郷として人足を出したのは、立野村(長森を含む)・森本村・前野村であった。船を出す村と人を出す村とが、あらかじめ別々に指定されていたことがわかる。これらの村名は、渡船場を取り巻く豊田・池田周辺の村落であり、地理的な近接が役の割り当ての前提になっていたことをうかがわせる。
定助人足郷が実際に出勤したのは、どのような場面であったか。書上帳の記載によれば、日光宮様、御公家様、御名代、御老中様、御所司代様、御城代様といった、格式の高い通行がある時であった。これらはいずれも幕府の統治機構に属する高位の通行であり、通常の旅人の往来とは別格の対応を要した。加えて、急な増水や大風によって川越えが不自由になった時にも、臨時の船役として出勤したという。つまり定助郷は、格の高い通行という「予定された非日常」と、増水という「予期せぬ非日常」の双方に備える、常時待機の性格を帯びた賦役であった。
ここで、渡船場に常備されていた船との関係を整理しておきたい。資料によれば、天竜川の渡船場には、大番船・早船といった御用船6艘のほか、渡船方が自ら造立した小番船22艘・高瀬船11艘が配備され、日常の通切渡船をまかなっていた。数字のうえでは相当数の船が備えられていたことになる。それでもなお助郷が必要とされたのは、これらの常備船が渡船方の管理する船であり、格の高い通行や増水時の需要の急増には、それだけでは応じきれなかったからである。定助郷の船と人足は、この常備船の手薄を補う予備的な戦力として、制度のなかに組み込まれていた。
定助郷を「日常を担う賦役」と要約するとき、注意しておきたいのは、その「日常」が村にとっては決して軽いものではなかったであろう、という点である。高位の通行や増水はいつ起こるか予測しがたく、定助郷の村々は、いつ呼び出されても応じられるよう、船と人手を用意しておく必要があった。農繁期であっても呼び出しがあれば出役せざるをえず、家業との両立は容易でなかったと考えられる。もっとも、この負担の重さそれ自体を数量的に裏づける史料は限られており、後述するように、実態の一部は推定にとどまる。ここではまず、定助郷が制度上どのように位置づけられていたかという骨格を確認するにとどめる。
4. 大助郷 ── 大通行を支える増員の賦役
定助郷が日常の備えであったのに対し、大助郷は、渡船の需要が一時的に極端にふくれ上がる場面に、さらに多くの船と人足を投入するための増員の賦役であった。将軍上洛や大規模な行列の通行など、定助郷だけでは到底さばききれない大通行に際して、大助船郷・大助人足郷として、さらに多くの村が動員された。書上帳には、これらの大助郷に名を連ねる村々が定助郷よりも広い範囲にわたって記されており、大通行が渡船場周辺の村落社会全体を巻き込む一大事であったことを物語る。
大助郷が動員される大通行の典型が、将軍の上洛であった。将軍上洛は、江戸幕府の歴史のなかでも草創期と幕末とに集中しており、恒常的に起こる出来事ではない。しかし、ひとたび上洛が行われれば、その行列の規模は桁違いであり、渡船場は膨大な人馬を短期間で渡さねばならなかった。幕末においては、文久4年(1864年)正月からの将軍上洛のように、大通行が重なる年があった。こうした年には、大助郷として動員される助人足の負担は、平常の比ではなく重くなったと考えられる。大助郷は、めったに来ないが来れば甚大という、間欠的で峰の高い負担を村に課す仕組みであった。
定助郷と大助郷を対比すると、両者は単に規模が違うだけでなく、負担の時間的な性格が異なっていたことが見えてくる。定助郷は、頻度は相対的に高いが一回あたりの規模は限られる、いわば恒常的で低い負担であった。これに対し大助郷は、頻度は低いが一回あたりの規模が極めて大きい、間欠的で高い負担であった。村の側から見れば、定助郷は「いつ呼ばれるかわからない緊張」を、大助郷は「呼ばれれば長期にわたる重役」を、それぞれ意味した。この二種の負担が組み合わさることで、助郷村は年間を通じて渡船場に縛られる立場に置かれていた。
以下に、定助郷と大助郷の性格を、出勤の契機・担い手・役の内容・負担の時間的性格という観点から対比する比較表を掲げる。両者を対等の粒度で並べることで、助郷という一語のなかに、性質を異にする二つの賦役が含まれていたことを可視化したい。なお、この表に記した村名や役種は書上帳の記載に基づく史実の層に属し、負担の時間的性格に関する記述は、制度の建て付けから導かれる本稿の解釈を含む点をあらかじめ断っておく。
| 観点 | 定助郷 | 大助郷 |
|---|---|---|
| 出勤の契機 | 日光宮・公家・老中・所司代・城代など格の高い通行、および増水・大風による川支え時。 | 将軍上洛など、需要が一時的に極端にふくれ上がる大通行時。 |
| 担い手(史料の記載) | 定助船郷=中野町・国吉・常光・禅地・神増・平松・掛下・寺谷ほか/定助人足郷=立野(長森含む)・森本・前野。 | 大助船郷・大助人足郷として、定助郷より広範な村々が名を連ねる。 |
| 役の内容 | 高瀬船・小船の供出、および人足の供出。常備船の手薄を補う。 | 大通行に応じた船・人足の大量増員。 |
| 頻度と規模 | 頻度は高いが一回あたりの規模は限られる。 | 頻度は低いが一回あたりの規模が甚大。 |
| 負担の時間的性格(解釈) | 恒常的・低振幅。常時待機の緊張を伴う。 | 間欠的・高振幅。動員時は長期の重役となりうる。 |
この対比から見えてくるのは、助郷制度が、渡船需要の二つの異なる変動に対応するために設計されていたという事実である。日々の細かな増減には定助郷が、まれに訪れる巨大な波には大助郷が、それぞれ充てられた。渡船という交通が、天候にも政治日程にも左右される不安定な需要のうえに成り立っていたからこそ、それを支える賦役の側も、二段構えの弾力的な仕組みを必要としたのだと理解できる。制度の複雑さは、渡船需要の不確実さの裏返しであった。
5. 助郷の仕事 ── 5種の役の内実
助郷が具体的にどのような労働を担ったのかを、資料は5種の役として記録している4。渡船を「支える」といっても、その内実は舟を漕ぐことに尽きるものではなかった。乗降の便宜、夜間の照明、荷の養生に至るまで、渡船場の運営を成り立たせる細かな役務が、助郷の肩にかかっていた。以下、資料の記載に沿って五つの役を順に見ていく。
第一は「手伝人足」である。渡船場に着岸する船が安全に通行できるよう補助し、格式の高い通行に際しては出勤して、荷物の積み下ろしなどを手伝う役である。旅人や荷を舟に乗せ、また降ろすという、渡船の最も基本的な局面を人力で支える仕事であった。第二は「河原之内野道人足役」で、同じく重要な通行に出勤するとともに、急な増水や大風によって徒歩渡り(越立)が不自由になった時には、臨時の船役として出動した。川の状態が悪化したときに真っ先に呼び出される役であり、危険と隣り合わせの労働であったと考えられる。
第三は「渡船場築出役」である。旅人が渡船場から安全に乗船でき、また舟から桟橋(さん橋)へ降りられるよう、桟橋そのものを築く役であった。渡船は水位に応じて舟を寄せる位置が変わるため、乗降のための足場を状況に合わせて造り、また補修する必要があった。渡船という交通が、舟だけでなく、こうした岸辺の構築物によっても支えられていたことを、この役はよく示している。第四は「簑火(みのび)人足」で、資料によれば池田村地方から19人が動員された。夜になっても渡船に支障が出ないよう、渡船場に篝火(かがりび)を焚いて照明を確保し、渡し舟を船着場に容易に寄せられるよう手伝う役目である。昼夜を分かたず勤めるという高札の規範が、この夜間の照明役によって現場で支えられていたことがわかる。
第五は「薦鋪(こもしき)人足」である。これは、将軍への献上物である茶壺道中の際に、渡船場に薦(こも)を敷いて、荷物が汚れないようにする役であった。宇治から江戸へ将軍の茶を運ぶ茶壺道中は、その権威ゆえに沿道が最大限の配慮を求められた通行として知られる。渡船場もその例外ではなく、茶を載せた荷が地面や水で汚れることのないよう、薦を敷いて養生する専用の役までが助郷に割り当てられていた。将軍の権威が、渡船場のこうした細部にまで及んでいたことを、この役は物語る。
これら5種の役を並べてみると、助郷の労働が渡船場の運営のあらゆる局面に張り巡らされていたことが見えてくる。人と荷を運ぶ手伝人足、危険時に出る野道人足役、足場を築く築出役、夜を照らす簑火人足、権威ある荷を養生する薦鋪人足──労働の対象は人・荷・構築物・光・格式の五つに及ぶ。渡船という一見単純な交通が、実はこれほど多岐にわたる役務の集積によって成り立っていたこと、そしてその役務の多くが渡船専業の2村ではなく助郷村に振り分けられていたことは、あらためて確認しておくべき点である。渡船の便益は、この労働の総体のうえに浮かんでいた。
6. 負担の分布と勤高の格差
助郷の負担は、村々に均等に割り振られていたわけではなかった。負担の重みは、その村の勤高(つとめだか)──すなわち助郷役として課された高──によって表され、これを村高と比べることで、負担の相対的な重さを測ることができる。この負担の分布を具体的な数値で伝えるのが、嘉永4年(1851年)頃とみられる「渡船場築出橋(桟橋)掛役定助船役大助船役差村表」であり、服部晴代・柿澤佐江子の論文に引かれている5。この差村表を読むと、村ごとの負担割合に、規模からは予想しがたい大きな開きがあったことがわかる。
具体的な数値を挙げよう。茅場村は、村高176石に対して勤高は5石にとどまり、その割合は0.2にすぎなかった。ところが駒場村は、村高604石に対して勤高338石、割合5.5に達する。さらに向新田は、村高わずか98石でありながら勤高は91石にのぼり、割合は9.2という突出した値を示している。村の規模を表す村高と、実際の負担を表す勤高とが、必ずしも比例していなかったことが、これらの数値から明瞭に読み取れる。小さな村が重い役を負い、大きな村が軽い役で済む、という逆転すら生じていた。
全体の集計に目を移すと、この差村表に載る全22村の合計は、村高4,192石に対し勤高2,394石であった。単純に割れば、勤高は村高のおよそ5割7分に相当する。すなわち、助郷村は平均して村高の半ばを超える高を、助郷役という賦役として課されていたことになる。これは、村の生産力のかなりの部分が、渡船場を支えるための役に振り向けられていたことを意味する。渡船場周辺の村落社会にとって、助郷は数ある夫役の一つというより、村の経営を大きく規定する構造的な負担であったと考えられる。
なぜこれほどの格差が生じたのか。資料は、負担の重い村について、渡船場と近接するがゆえに勤役においてとりわけ重要な位置を占めていた、と説明する。渡船場に近い村ほど、緊急の呼び出しに即応でき、それゆえ重い役を割り当てられた、という理解である。地理的な近接が、そのまま負担の重さに転化していたことになる。向新田や駒場村のように渡船場に近接する村が突出した勤高を負い、やや離れた茅場村が軽い割合で済んだという分布は、この地理的要因の説明とおおむね整合する。負担の格差は、恣意的な差別ではなく、渡船場からの距離という機能的な理由に根ざしていた可能性が高い。
もっとも、負担の軽い村がどのように扱われたかについては、史料の残り方に限界がある。資料は、負担の少ない村はその代償として一定の賃銭を支給されていたとみられる、としつつ、詳しい史料が残っていないため不明な点も多い、と率直に断っている。つまり、賃銭による調整が行われた可能性は指摘できるものの、その具体的な仕組みや金額は、現状では確認できていない。ここは「賃銭支給の制度が存在しなかった(=記載がない)」のではなく、「支給の実態を裏づける史料に突き当たっていない(=未確認)」と述べるべき箇所である。負担の格差を賃銭がどこまで均していたのかは、なお開かれた問いとして残る。
7. 疲弊と抵抗 ── 実態をどこまで言えるか
ここまでは、助郷制度の骨格と負担の分布を、史料に記された範囲で押さえてきた。本節では、その負担が村と農民にもたらした実態、すなわち疲弊と抵抗の局面に踏み込む。ただしこの領域は、制度の枠組みに比べて史料の裏づけが弱く、資料の記述にも推量や伝聞が混じる。したがって、どこまでが史料に基づく事実で、どこからが推定なのかを、慎重に腑分けしながら述べていく。
まず、負担が重かったこと自体は、前節の勤高の数値から史料的に裏づけられる。村高の半ばを超える高が課されていた以上、助郷が村の経営を圧迫したであろうことは、合理的に推論できる。資料は、農民が家業に差し支えがあっても、極めて低廉な賃銭で強制的に夫役を課された、と述べている。将軍上洛のように大通行が重なる年には、この負担がいっそう重くのしかかったと考えられる。低廉な賃銭での強制的な出役という記述は、助郷が村にとって割の合わない賦役であったことを示唆するが、賃銭の具体的な水準を数値で確認できる史料は、本稿の範囲では乏しい。
より具体的な疲弊の描写として、資料はいくつかの伝聞的な記述を伝えている。あまりに重い課役を課された村々の農民が、中泉代官所へ訴え出たことがあったという。また、15歳から60歳までの男が、昼夜の別なく、約一ヶ月もの間、同一賃銭で助人足に勤めさせられたことがあったという。さらには、あまりの課役の厳しさに、宿駅から逃げ出す人さえあったといわれる、とも記す。これらは、助郷の負担が村人にとって耐えがたい水準に達することがあったことを生々しく伝える。ただし、いずれも「あったという」「といわれる」という伝聞の形で語られており、その一件一件を特定の年月・村・人名まで裏づける一次史料を、本稿では確認できていない。したがってこれらは、負担の実態を示す有力な傍証としつつも、確定した史実としてではなく、資料が伝える伝承的記述の層に置いて扱うべきものである。
とりわけ注目すべきは、中泉代官所への訴えという抵抗の局面である。助郷が一方的に課される賦役であったとしても、村の側はそれを無抵抗に受け入れていたわけではなく、負担が限度を超えたときには代官所へ訴え出るという行動に出た。近世の助郷制度は各地で村々の負担軽減の嘆願や訴訟を生んだことが知られており、天竜川渡船場の助郷村がとった訴えも、その一般的な動向のなかに位置づけて理解できる。制度が課す負担と、村がそれに抗する営みとは、助郷という賦役の表と裏をなしていた。負担の記述だけを追うと村を受動的な存在として描きがちだが、訴えの記録は、村が自らの負担を主張し交渉する主体でもあったことを教える。
こうした負担と抵抗が展開した地理的な舞台にも触れておきたい。天竜川渡船場を取り巻く助郷村は、いずれも豊田・池田周辺の平野に位置し、川と街道に挟まれた立地にあった。渡船場に近いことは、街道の便益に与れる利点であると同時に、緊急の出役に即応せねばならない負担でもあった。近接という地理的条件が、便益と負担の双方を村にもたらしていたのである。渡船経済の全体像や、洪水による渡船の中断とその復旧の負担については、既刊の助郷を扱った一般向け記事や洪水と仮渡船の論考で別途論じたとおりであり、本稿の助郷論はそれらと相互に補い合う関係にある。渡船場周辺の村落は、交通の恩恵と賦役の重圧という二つの力が交差する場に置かれていた。
実態をどこまで言えるかという本節の問いに、あらためて答えておく。負担が重かったこと、賃銭が低廉であったこと、代官所への訴えや長期の出役、逃亡といった事態が語り継がれていること──これらは資料に記述がある。しかし、その一つひとつを年月・村・人名の水準で裏づける一次史料は、本稿では未確認である。この状態を正直に示すことは、負担の実態を過小に見積もることでも、逆に誇張することでもない。史料が伝える記述を、その確度に応じて位置づけたうえで、なお残る空白を空白として明示する。それが、見えにくい賦役の歴史を後世に手渡すための、誠実な手続きだと考える。
8. 結論 ── 見えない負担を史料批判で立てる
本稿は、天竜川池田の渡船を陰で支えた助郷制度を、定助郷・大助郷という役の区分と、助船・助人足という負担の別、そして5種の具体的な役の内実から読み解いてきた。得られた見取り図は次のとおりである。渡船を専業とし諸役を免除された池田村・船越一色村の特権は、それ単独では成り立たず、周辺の村々が船と人足を供出する助郷の賦役によって補完されて初めて機能した。渡船という交通の便益は街道と幕府に帰し、その負担は指定された助郷村に課された。この便益と負担の非対称こそが、助郷制度の本質であった。
制度の骨格については、史料が比較的よく残っている。宝永・正徳の高札は寄せ船・役船の規範を、寛政4年の書上帳は定助郷・大助郷の村名と役の別を、嘉永期の差村表は村ごとの勤高割合を、それぞれ具体的に伝える。全22村の勤高が村高の平均5割7分に達したという数値は、助郷が村の経営を大きく規定する構造的負担であったことを、明瞭に裏づける。これらは史料に記載のある事実として、確度の高い層に置くことができる。
これに対し、負担の実態をめぐる領域は、史料の裏づけが弱い。低廉な賃銭での強制的な出役、中泉代官所への訴え、15歳から60歳の男の長期出役、宿駅からの逃亡といった記述は、いずれも資料が伝聞の形で伝えるものであり、一件ごとに年月・村・人名まで裏づける一次史料を本稿では確認できていない。これらを確定した史実として断じることも、根拠薄弱として切り捨てることも、ともに適切でない。負担が重く、村がそれに抗したという大筋は史料的に支持されるが、その細部は未確認の空白を含む──この状態を正確に示すことが、本稿のとった立場である。
したがって本稿の立場を一文で示すなら、助郷制度は「制度の骨格は史料で立て、運用の実態は推定と未確認を腑分けして描く」対象である、ということになる。負担の重さを情緒的に強調するのでも、逆に数値の残る部分だけを冷たく並べるのでもなく、確度の層を保ったまま、見えにくい賦役の全体像を組み立てる。渡船という華やかな交通史の陰に、名を連ねさせられた村々の労苦があったこと、その労苦の骨格は史料に刻まれ、その実態の一部はなお空白のうちにあること──この二重の事実を、混同せずに書き留めることが肝要である。
最後に、本稿が残した課題を挙げておく。第一に、助郷制度が天竜川渡船場で正式に発足した年月は未確認であり、近世前期の村方文書を博捜することで、この空白を一歩埋められる余地がある。第二に、負担の軽い村への賃銭支給の実態は不明であり、村方の勘定帳類の検討によって、負担の格差が賃銭でどこまで均されていたかを明らかにしうる。第三に、中泉代官所への訴えの具体的な経緯は、代官所側・村方双方の史料を突き合わせることで、抵抗の実像をより精確に描ける可能性がある。これらはいずれも、本稿が設定した「骨格は史料で、実態は腑分けで」という枠組みのなかで、未確認を史実へと押し上げていく作業に属する。渡船を支えた助郷の労苦を、確度の層を保ったまま資料に基づいて積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、渡船場周辺の村落が担った見えない負担の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 天正元年(1573年)、徳川家康が池田村・船越一色村に渡船以外の諸役を免除したとされる朱印状による。豊田町郷土を研究する会編『天竜川池田の渡船』所引。年紀を含む勧請・寄進の類は社伝・伝承として伝わる性格をもち、国家的編纂物に基づく史実とは資料の性格を異にする。↩
- 宝永4年(1707年)5月の天竜川高札「往還通行人多キ時ハ寄せ船を出し、人馬荷物等滞りなく相わたすべし」による。今切渡船の「あきらせ船」と称する助船制度との共通性については、近世交通史の諸研究を参照。↩
- 寛政4年(1792年)『天竜川渡船勤方並役助郷定助大助船手伝人足書上帳』による。定助船郷・定助人足郷の村名、および出勤の契機(日光宮・公家・老中・所司代・城代等の通行、増水・大風時)はこの書上帳の記載に拠る。↩
- 助郷の5種の役(手伝人足・河原之内野道人足役・渡船場築出役・簑火人足・薦鋪人足)および簑火人足が池田村地方から19人動員された旨は、前掲『天竜川池田の渡船』の記載による。↩
- 嘉永4年(1851年)頃とみられる「渡船場築出橋(桟橋)掛役定助船役大助船役差村表」による。茅場村・駒場村・向新田の村高・勤高・割合、および全22村合計(村高4,192石・勤高2,394石・平均5割7分)は、服部晴代・柿澤佐江子の論文に引かれた同表に拠る。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 t047「渡船を支えた助郷たち」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。高札の文言・書上帳の村名・差村表の数値を史料に記載のある事実として扱い、負担の実態・疲弊・抵抗に関する伝聞的記述は推定・伝承の層に腑分けした。「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に無い)を区別して用いている。
参考文献・参考資料
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』豊田町教育委員会、1976年(昭和51年)3月。
- 服部晴代・柿澤佐江子「天竜川渡船場の助郷負担に関する研究」(「渡船場築出橋掛役定助船役大助船役差村表」の出典として前掲書所引)。
- 宝永4年(1707年)5月 天竜川高札(前掲『天竜川池田の渡船』所引)。
- 正徳元年(1711年)5月 天竜川高札(前掲『天竜川池田の渡船』所引)。
- 寛政4年(1792年)『天竜川渡船勤方並役助郷定助大助船手伝人足書上帳』(前掲『天竜川池田の渡船』所引)。
- 児玉幸多『近世宿駅制度の研究』吉川弘文館。
- 児玉幸多『宿駅』(日本歴史新書)至文堂。
- 丸山雍成『日本近世交通史の研究』吉川弘文館。
- 大石慎三郎ほか編 近世交通史関係論集(助郷制度の項)。
- 静岡県編『静岡県史』通史編(近世)静岡県。
- 磐田市『磐田市史』通史編(近世の交通・村方の章)磐田市。
- 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』豊田町。
- 国立公文書館デジタルアーカイブ(近世東海道・宿駅関係史料の項) https://www.digital.archives.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 t047「渡船を支えた助郷たち ── 定助郷・大助郷と助船・助人足制度」 https://iwata-monogatari.net/t047.html (最終閲覧:2026年7月26日)。