磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第190号(天竜川交通史研究 一)
天竜川池田の渡船 ── 家康の証文から始まった渡し場300年
朱印状の記載・嘆願書の性格・渡船経済のしくみをめぐる史料批判
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
天竜川の池田は、東海道随一の難所を渡す渡船場として、近世を通じて特異な地位を占めた。その渡船権は、天正元年〔1573年〕に徳川家康が池田船方十人衆へ与えた朱印状に始まると伝えられる。本稿は、この「家康の証文から始まった」という起源譚を、文書史料の性格に立ち返って腑分けする。朱印状に渡船の特権が記されること自体は文書の水準で確認できる事柄であるが、家康個人の意志を渡し場の起点とみる由来は、後世の語りが重ねた伝承・推定の層を含む。あわせて、定助郷・大助郷による運営組織、船賃と船勧進物からなる渡船経済、大名との特約、洪水時の仮渡船、そして明治の舟橋架設による終焉までを、嘆願書・目録帳・書上帳といった各文書の作成主体と目的に注意しながら読み解く。渡船をめぐる文書の多くは請願や記録の必要から作られており、その性格を踏まえずに内容を史実として受け取ることはできない。「未確認」と「記載なし」を区別しつつ、渡し場300年を史料批判の対象として描くことを本稿の課題とする。
キーワード:天竜川/池田の渡船/助郷/渡船経済/朱印状/史料批判/舟橋
1. 問題設定 ── 「家康が与えた渡し」という語りをどう読むか
磐田市街の西、天竜川の左岸に池田という土地がある。橋のない時代、東海道を上下する旅人も大名の行列も、みなこの池田の渡しで川を越えるほかなかった。渡船場としての池田は、江戸から明治へと300年近く続き、暴れ天竜と呼ばれた大河の水面を、村々の労役と船で日々つなぎ続けた。その長い歴史をひとことで語るとき、地域でしばしば口にされてきたのが「池田の渡しは家康の証文から始まった」という言い方である。本稿の出発点は、この一句をそのまま史実として受け取ってよいのか、という問いにある。
この問いを立てる理由は、渡し場そのものを疑うためではない。池田に渡船があったこと、それが東海道の交通を支えたこと、明治の架橋まで続いたことは、いずれも資料によって確かめられる。問い直したいのは、その渡船を「家康が与えた」と語るときの、語りの構造の方である。渡船の存在という事実と、その由来を特定の人物の意志に帰する説明とは、資料の上では別の層に属する。前者は文書によって裏づけられるが、後者は文書に何がどう書かれているかを吟味してはじめて、その確からしさが測れる。
本稿が依拠する基本資料は、昭和51年〔1976年〕3月に豊田町郷土を研究する会が編み、豊田町教育委員会が発行した『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』である1。この資料は、渡船の起源から運営組織、大名との特約、大通行と洪水への対応、明治の舟橋への移行までを、地元に伝わる古文書を数多く引きながらたどった、池田渡船研究の基礎文献にあたる。本稿はこの資料が提示する事実関係を土台としつつ、そこに引かれた各文書が、誰によって、何のために作られたのかという史料の性格に一歩踏み込んで、渡し場300年を読み直すことを企図する。渡船の一般的な歩みそのものは、素材となった資料紹介記事「天竜川池田の渡船」で通観したとおりであり、本稿はその上に史料批判の層を重ねる。
あらかじめ、本稿が用いる語の水準を定めておきたい。第一に史実、すなわち文書や編纂物によって確認できる事柄。第二に通説、広く受け入れられているが一点では確定しがたい事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四つを語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避ける。あわせて、資料に突き当たっていないだけの「未確認」と、資料に記載がないと言い切れる「記載なし」とを区別する。渡船史のように古文書が断片的に残る主題では、この二つの取り違えが、しばしば過剰な断定を生んできた。以下ではまず渡船場の立地と古い来歴を押さえ、家康証文の腑分けに進み、運営組織・経済・危機・終焉を順にたどって結論に至る。
2. 渡船場の立地と史料 ── 池田荘から近世の渡し場へ
家康証文の検討に入る前に、それ以前の池田について、資料で確認できる範囲を押さえておく。渡船の起源は古く、資料によれば延長5年〔927年〕頃にはすでに天竜川で渡船が行われていたとみられ、平安末期には池田の地が京の松尾大社領の荘園「池田荘」の一部であったと記される。荘園としての池田荘の存在は、地の来歴の古さを示す手がかりであるが、ここで注意しておきたいのは、荘園の記録と渡船の運営とが同じ史料で結ばれているわけではない点である。池田荘の存在と、そこで渡船が営まれていたという伝えとは、資料の上では別の系統に属し、両者を直接につなぐ一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しない」と断ずることではなく、あくまで「突き当たっていない」という未確認の状態を意味する。
渡船場の空間的な構えは、比較的はっきりしている。池田村の渡船場は、南から下横町・中横町・上横町の3か所が並び、天竜川の水量や川筋の変化に応じて使い分けられたと伝わる。天竜川は流路が定まらず、洪水のたびに川筋を変える大河であったから、渡し場を1か所に固定することができず、複数の渡し口を用意して水の動きに合わせる必要があったのだろう。渡し場を核に、池田は旅人相手の茶屋や宿が並ぶ「間の宿」としての性格も帯び、延享元年〔1744年〕には家数216軒を数えるまでになったという。宿場と宿場のあいだにありながら人と物が集まるこの町の姿は、渡船という機能がもたらした都市的な集積であった。
ここで、渡船をめぐる文書がどのような性格をもつかを、あらかじめ見取っておきたい。池田渡船に関する古文書は、大きく三つの系統に分けられる。第一に、渡船の権利や特権を保証する朱印状・証文の類。第二に、村々が幕府や代官所へ提出した嘆願書・歎願書・願書の類。第三に、渡船の実務を記録した目録帳・書上帳・勘定帳の類である。これらはそれぞれ作成の目的が異なり、目的の違いは記述の性格を左右する。権利文書は権利の根拠を示すために、請願文書は救済を引き出すために、記録文書は事務の必要から書かれる。同じ渡船という事象を扱っていても、文書の目的を無視して内容を額面どおり受け取れば、事実の像を歪めることになりかねない。以下の各章では、この文書の性格の違いを繰り返し参照しながら、記述を進める。
資料の来歴そのものにも一言しておきたい。基本資料『天竜川池田の渡船』は、地元豊田町の郷土研究者たちが、地域に残る古文書を博捜して編んだ二次的な資料集である。会長の斎藤勝郎氏が「発刊にあたって」を、教育長の河合俊一氏が「刊行をたたえる」を寄せており、その編集の姿勢は、失われつつある古文書を書き写して後世に残すことに置かれていた。したがって本稿が直接に読んでいるのは、多くの場合、原文書そのものではなく、この資料に引かれ翻刻された文である。原本の所在や翻刻の精度を一点ずつ確かめる作業は本稿の範囲を超えるが、私たちが扱う文が翻刻という一段の媒介を経ていることは、史料批判の前提として明記しておく必要がある。
3. 家康証文の腑分け ── 朱印状の記載と起源伝承
天正元年の朱印状は何を保証し、何を語らないか
記載の骨子。戦国の争乱期を経て、天正元年〔1573年〕、徳川家康は池田船方十人衆に朱印状を与え、天竜川下流域における渡船の権利を認めたと資料は記す。この家康の証文が、以後300年近く続く池田村の渡船権の起点とされる。渡船をめぐる特権が文書に記されていること、その文書が家康の名において発せられたと伝わることは、権利文書という系統のなかで扱うべき事柄である。
記載の水準と由来の水準。ここで慎重に腑分けしておきたいのは、二つの異なる主張である。一つは「朱印状に渡船の特権が記されている」という主張、もう一つは「その特権を家康が池田に与えたことによって渡しが始まった」という主張である。前者は文書の記載内容にかかわり、文書がそう記す水準では史実として扱える。後者は渡し場の由来にかかわり、渡船そのものの起源を家康個人の意志に帰する説明である。前章で見たとおり、天竜川の渡船は延長5年頃にはすでに行われていたと伝わるのだから、家康の朱印状は無から渡しを創設した文書ではなく、すでに営まれていた渡船の権利を、新たな支配者が改めて安堵した文書と読むのが筋である。
「始まり」の語の含意。とすれば、「家康の証文から始まった」という言い方は、渡船の物理的な開始ではなく、近世的な渡船権の制度としての起点を指すものと解するのが穏当である。中世以来営まれてきた渡しが、家康の朱印状によって近世の権利体系のなかに位置づけ直された。その画期を「始まり」と語ってきたのが、この起源譚の内実であろう。渡船権を家康に由来づけることは、池田村にとって、渡船の特権を主張する最も強い根拠を用意することでもあった。権利文書を起点とする語りが後世まで大切に伝えられたのは、それが単なる過去の説明にとどまらず、現在の権利を支える論拠として機能し続けたからである。
史料批判上の限界。朱印状の原本を本稿が直接に検している訳ではなく、また十人衆の具体的な構成や、朱印状の文言の全体を裏づける一次史料の博捜は、なお課題として残る。したがって「家康が渡船権を与えた」という記載の由来については、それを裏づける文書がある水準までは史実として扱いつつ、家康個人の意図や人心懐柔の動機といった、後世の解釈が加えた部分は推定・伝承の層として切り分けておく。資料の「むすび」は、家康が人心懐柔の巧みな交通政策の一環として渡船権を池田村に与えたと総括するが、この動機づけは、渡船権の存在という事実から遡って構成された解釈であって、家康の内心を記した史料に基づくものではない。
4. 渡船を担った組織 ── 定助郷・大助郷と渡船役の家
渡船権を保証されたのは池田村であったが、実際に渡しを日々動かしたのは池田村の渡船方だけではなかった。橋のない大河を年間を通じて渡し続けるには、多くの人足と船が要り、その労力は周辺の村々に割り当てられた。これが助郷の仕組みである。資料によれば、助郷には二つの層があった。日常の渡船を支える「定助郷」と、大通行の際に増員を出す「大助郷」である。
定助郷を務めたのは、中野町村・半場村・新貝村・東大塚村・西大塚村・東村・芋瀬村・西堀村・敷知村・江口村など、天竜川左岸の御料、すなわち幕府直轄領の村々であった。これらの村は高瀬船・小船を出し合い、日々の渡船業務を分担した。定助郷の日常勤務は毎年12月から翌年正月19日頃までと定められていたともみえ、農閑期にあたるこの時期に、助郷村々の人足が交代で渡船場に詰めていたことがうかがえる。農繁期を避けて課役を割り当てる配慮がそこにあったとみられるが、逆にいえば、渡船の負担は農業の暦と切り結んで村の生活に食い込んでいた。
これとは別に、将軍の上洛や大名の大通行など、渡船の需要が一時的に膨れ上がる際に増員を出したのが大助郷である。国吉村・鶴見村・駒場村・老間村・茅場村・向新田・末島村・内名村・吹上村など、私領の村々が中心であった。定助郷が幕府直轄領、大助郷が私領という領地の別におおむね対応していることは、助郷の編成が単なる地理的な近さだけでなく、支配関係の枠組みのうえに組まれていたことを示している。文久3年〔1863年〕、14代将軍徳川家茂の上洛に際しては、「御上洛ニ付増役等相勤候処書面之通御座候」として、定助郷・大助郷の別なく多くの村が池田渡船場の増役に動員された記録が残る2。この一句は、大通行が村々の課役をどこまで拡張しえたかを端的に伝える。
助郷の記録を読むうえで留意すべきは、これらの村名の一覧が、しばしば増役や負担をめぐる文書のなかに現れる点である。すなわち助郷村の名が書き留められるのは、多くの場合、負担の割当てを確定するため、あるいは負担の過重を訴えるためであった。村名の羅列は中立的な台帳ではなく、負担をめぐる交渉の産物という性格を帯びる。助郷の具体的な仕事の内容や村ごとの負担割合、手伝人足・野道人足・築出役といった多様な役の区分については、「渡船を支えた助郷たち」で立ち入って整理されている。本稿では、助郷制が渡船権を支える現実の労働の体制であったこと、そしてその記録が負担をめぐる文書に由来することを確認するにとどめる。
5. 渡船の経済 ── 船賃・船勧進物・大名特約
渡船は、村々の負担であると同時に、渡船方にとっての生業でもあった。渡し場の運営には、伝馬・高瀬船・小船・荷物・人馬それぞれについて細かく定められた渡船賃の表があり、渡船役人によって代々受け継がれてきた。渡船賃の分配、渡船方への「船勧進物」という祝儀の慣行、堤や仮橋の修理費用の負担、水量が増した際の船橋の架設、助船・助人足の動員体制など、渡船を一年を通じて維持するための細かな取り決めが、資料には数多く書き残されている。渡船が一個の経済としてどう回っていたかは、これらの文書の集積から復元される。船名敷という持分に基づく収益配分や、遠江国中から集められた船勧進物の実態、勘定辻調帳のような会計文書については、「渡船経済のしくみ」で立ち入って扱われている。
この経済のなかで、独特の位置を占めたのが大名との特約である。渡船をめぐっては、特定の大名家と池田村の渡船役人とが個別に契約を結ぶ例があった。紀州藩・尾張藩の御三家をはじめ、奥州の有力大名も、池田村の渡船役の家と契約を結び、その藩の参勤交代の際の渡船一切を請け負わせていたことが史料からわかる。こうした特約は、大名側にとっては渡船の手配をあらかじめ確実にしておく意味があり、渡船方にとっては安定した収入源になった。紀州藩や尾張藩ほどの大藩の通行ともなれば、供の人数も荷も膨大であり、渡船方は前もって日程の連絡を受け、出府の月日が定まると早速村々へ伝え、大名一行が到着する前に川を渡りきれるよう準備を整えていたという。
もっとも、特約が渡船方に大きな利益をもたらしたと即断するのは早計である。資料には、特約が実際にはさほど大きな利益にはならなかったとも記されている。渡船契約とは別に、渡船賃の三割増しや二十人扶持といった優遇を受けていた大名もあれば、目録や祝儀程度で済まされた大名もあり、その扱いは藩によってまちまちであった。特約の待遇が藩ごとに大きく異なるこの実態は、渡船をめぐる経済関係が、市場的な取引というより、大名と村との身分的な関係のうえに成り立っていたことを物語る。仙台藩姫君輿入れの渡船目録帳や福井藩通行の具体的な記録など、個別の事例は「大名と渡船の特約」で詳しく検討されている。
ここで史料批判の観点を挟んでおきたい。特約や渡船賃を記した目録帳・書上帳は、事務の記録として作られた文書であり、その意味では請願文書より事実に近いと見られがちである。しかし、これらの文書もまた特定の目的をもって作られている。目録帳は進物や待遇を確認し、後日の証とするために、書上帳は動員した人足や船の数を上申するために書かれた。とりわけ人足や船の数を書き上げる文書は、負担の実績を示して補償や免除を引き出す動機と結びつきやすく、数値がそのまま実態を反映しているとは限らない。「さほど大きな利益にはならなかった」という記述も、渡船方が負担の重さを強調する文脈で書かれた可能性を排除できない。記録文書だからといって額面どおりに受け取らず、その文書が何を証しようとして作られたかを問う姿勢は、経済の復元においても欠かせない。
ここまで見た文書の性格を、系統ごとに一覧しておく。渡船をめぐる古文書は、権利文書・請願文書・記録文書の三系統に大別でき、それぞれ作成の主体・目的・史料批判上の留意点を異にする。次の表は、各系統を対等の粒度で並べ、内容を読む際の確度をあわせて示したものである。特定の系統を史実に近いものとして優位に置くのではなく、いずれの文書も固有の作成目的をもつことを可視化することを狙いとした。
| 文書の系統 | 代表例 | 作成主体・目的 | 読み取れる事柄 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 権利文書 | 家康の朱印状、渡船権に関する証文 | 支配者が渡船の特権を保証するため。 | 渡船特権の内容と、それが安堵された時点。 | 渡船の「開始」ではなく既存の渡しの安堵。由来の動機づけは後世の解釈を含む。 |
| 請願文書 | 助郷免除の嘆願書、見付宿の歎願書、雇用願 | 村々が負担軽減や救済を引き出すため。 | 負担の重さや困窮の訴え、村の主張。 | 救済を得る目的から誇張が生じうる。訴えの内容と実態は区別を要する。 |
| 記録文書 | 渡船賃の表、目録帳、書上帳、勘定辻調帳 | 事務・会計・上申の必要から。 | 船・人足の数、賃・進物の額、勤務の期間。 | 数値は上申の動機に左右されうる。事務記録も中立ではない。 |
6. 危機の記録 ── 洪水・大通行・幕末の疲弊と文書の性格
渡船300年は、平穏に続いた歴史ではない。天竜川は「暴れ天竜」の名が示すとおり、渡船にとって恵みであると同時に、幾度となく渡し場を襲う脅威でもあった。文化13年〔1816年〕8月13日から翌日にかけての大風雨により、渡船場そのものが流失する被害が生じ、仮の渡船場が設けられた。この時の仮渡船は9月まで運用が続いたと伝わる。さらに文政11年〔1828年〕には、6月末から9月にかけて3回の洪水が連続して発生し、そのたびに池田側・対岸側双方の渡船場が被害を受けた。渡船が全く途絶えてしまう日もあり、見付宿から浜松宿までの間で、村々の川船を回して急場をしのぐこともあったという。
洪水への対応は、行政的な手続きを伴っていた。仮渡船の開設・廃止は中泉代官所の役人が現地に出張して取り決め、道中奉行所への届け出も必要とされた3。通行の可否を左右する川の増水量には目安があり、四尺八寸・九寸を超えると徒歩による「越立」は禁止され、五尺以下であれば渡船で渡ることができた、というように、水位に応じた細かな運用基準が定められていた。これらの数値は、いずれも尺貫法の水位で、おおむね1.5メートル前後にあたる。水位という自然の指標が、渡船と徒渡りを分ける制度上の境界として機能していたことは、渡船場の運営が自然条件と行政手続きの接点に置かれていたことをよく示している。仮渡船の運用手続きや川留めの水位基準の詳細は、「天竜川の氾濫と仮渡船」で立ち入って扱われている。
渡船場を圧迫したのは、洪水だけではなかった。東海道を上下する大名行列や公用の通行――大通行は、江戸時代を通じて数百回にのぼったという。これによって宿場町は繁盛し、商工業も発展したが、その裏で助郷を務める農民は課役の増大に疲弊した。大通行の規模を示す例として、嘉永3年〔1850年〕10月に行われた琉球使節の江戸参府の記録がある。「琉球人参府ニ付御持船人足書上帳」と題された文書には、東海道の天竜川を渡るためだけに船頭百人ほどが動員され、定助船・高瀬船・小船など多数の船が差し出されたことが記されている。将軍への使節、大名行列、公用の荷――さまざまな通行が積み重なるたびに、池田の渡船場と助郷の村々は、その都度この規模の態勢を組んでいたことになる。恩恵と犠牲の両面については、「大通行と池田の渡船場」で立ち入って論じられている。
この負担の記録を読むとき、文書の性格への注意がとりわけ求められる。資料は、嘉永7年〔1854年〕の見付宿からの歎願書を引きながら、往還の通行が近国の諸家に多大の被害を与えていると訴える文言を紹介している。しかし歎願書は、負担の軽減や救済を引き出すために書かれた請願文書である。その目的からして、負担の重さは切実に、時には誇張を交えて訴えられるのが常であった。したがって歎願書に記された困窮の描写を、そのまま客観的な実態として受け取ることはできない。文久3年〔1863年〕頃に米価が高騰し、助郷役の村々が困窮を極め、なかには夜逃げ同然に村を離れる者も少なくなかったという記述も、幕末の宿駅・助郷が置かれた苦境の反映であると同時に、救済を求める文書の論理のなかで語られた表現でもある。困窮が事実であったこと自体は疑いがたいが、その程度を数量的に確定するには、請願という文書の性格を差し引いて読む手続きが要る。幕末の動揺と渡船場の関係は、素材となった資料紹介記事でも概観したとおりである。
7. 渡船の終焉 ── 舟橋架設と渡船権の消滅
渡船300年に終止符を打ったのは、明治の架橋である。ただし、その過程は一夜にして渡しが橋へ置き換わったというような単純なものではなかった。資料の「むすび」は、池田の渡船が徳川幕府初期には江戸防禦の要害として、また東海道の大動脈として重要な地位を占めていたと総括する。池田村が江戸期を通じて存立し続けた第一の理由は、この渡船権にあったと資料は結ぶ。しかし幕府権力の泰平化が進むにつれ、渡船権のもたらす恩恵は薄らいでいった。江戸末期には池田村・船越村ともに財政的な危機に見舞われ、村請人や道中奉行所への嘆願を重ねながら、渡船方は既得の権利を守ろうと努めていた。証文には「無高渡船一ヶ村通用船(前略)私共御渡世方無くにては相成申さず」と、渡船だけで生きてきた者たちの切実な訴えが残されている。
この訴えもまた、請願文書の一句である。渡船以外に生計の手立てをもたない村が、渡船権を失えば立ちゆかないと訴えることは、権利の存続を求める文書として当然の論理であった。だからこの一句は、渡船方の窮状を伝える証言であると同時に、渡船権をめぐる利害を主張する文書のなかで選び取られた表現でもある。渡船だけで生活していた村があったことは事実として認めつつ、その表現が請願の文脈で発せられている点は、あわせて記憶しておきたい。渡船権をめぐる村の主張は、権利が揺らぐ局面でこそ最も雄弁に語られたのである。
橋への移行が具体化するのは明治初年である。明治6年〔1873年〕、新しい時代を迎えて舟橋の計画が持ち上がると、渡船だけを生業としてきた池田・船越の両村は生活の道を失うことを案じ、橋が完成した後は自分たちを橋掛渡人足として雇ってほしいと願い出た嘆願文が残されている4。渡し守が橋の番人へと立場を変えて生き延びようとするこの願いは、交通の技術が変わっても、川べりに生きる人々の暮らしが続いていくことを示している。翌明治7年〔1874年〕11月17日、源平新田村から中野町村へ架ける舟橋の工事が始まり、同年11月に開通式が行われた。これが「東海道天竜川橋」で、豊田郡中野町村の浅野茂平ら外一人が立案したものであったと資料は記す。なお、これに先立つ明治元年〔1868年〕10月3日には、明治天皇が東京行幸の途上、天竜川を仮設の船橋で渡ったとの記録も資料に残されている。
ここで年代について一言添えておく。渡船権の制度的起点を天正元年〔1573年〕、その終焉を明治7年〔1874年〕の舟橋開通に置けば、その間はおよそ301年となり、「渡し場300年」という言い方は、この二つの画期の間隔をおおづかみに表したものと理解できる5。渡船そのものは朱印状以前から営まれていたのだから、渡しの歴史はさらに長く遡る。「300年」という数字が指すのは、あくまで家康の証文に始まる近世的な渡船権の存続期間であって、渡船という営みの全体ではない。この区別を意識すれば、「家康の証文から始まった渡し場300年」という表題そのものが、記載の水準と由来の水準を折り重ねた語りであることが見えてくる。渡船の時代を通じて臨時に架けられてきた船橋そのものの歴史については、「天竜川に架けられた船橋」で新田義貞の敗走から朝鮮通信使の来朝までがたどられている。渡船から橋へと移ってなお、川を越える営みは形を変えて続いていった。
8. 結論 ── 証文から読む「渡し場300年」の像
本稿は、「池田の渡しは家康の証文から始まった」という一句を出発点に、天竜川池田の渡船300年を、文書史料の性格に立ち返って腑分けしてきた。得られた見取り図は次のとおりである。天竜川の渡船は延長5年頃にはすでに営まれていたと伝わり、家康の朱印状はその既存の渡しを近世の権利体系のなかへ安堵し直した文書であった。朱印状に渡船の特権が記されることは文書の水準で確認できる事柄であるが、渡し場そのものの起源を家康個人の意志に帰する由来は、後世の語りが重ねた伝承・推定の層を含む。「始まり」の語は、渡船の物理的開始ではなく、近世的渡船権の制度的起点を指していた。
渡船を実際に動かしたのは、定助郷・大助郷の村々の労役であり、渡船賃と船勧進物からなる経済であり、藩ごとに待遇の異なる大名との特約であった。そして渡船は、洪水のたびに流失しては仮渡船で立て直され、大通行のたびに助郷の課役を膨らませ、幕末には財政の危機に見舞われながら、明治7年の舟橋開通によって、その近世的な役割を終えた。渡船権の起点から終焉まではおよそ301年、「渡し場300年」という言い方は、この二つの画期のあいだを大づかみに指す表現であった。
この検討を通じて一貫して働かせたのは、文書がどのような主体によって、何のために作られたのかを問う姿勢である。権利文書は権利の根拠を、請願文書は救済の必要を、記録文書は事務と上申の必要を、それぞれ背負って書かれていた。負担の重さを訴える歎願書の切実な文言も、渡船だけで生きてきた者の悲痛な証文も、その内容が事実を含むことと、その表現が請願の論理のなかで選ばれたこととは、区別して読む必要がある。文書の目的を差し引いて読むこの手続きは、渡船史のように残された文書が交渉や請願の産物である主題において、とりわけ欠かせない。
あわせて本稿が保ったのは、「未確認」と「記載なし」の区別である。池田荘と渡船運営を直接つなぐ史料、朱印状の全文言を裏づける一次史料、家康の動機を記した史料――これらはいずれも本稿の範囲では未確認であって、存在しないと断じたのではない。未確認を記載なしと取り違えれば、伝承を史実へ、あるいは史実の空白を史料の不在へと、いずれかの方向へ像を歪めることになる。渡船300年を後世の調べものに耐える形で残すには、この禁欲を手放してはならない。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、家康の朱印状の原本とその文言については、原文書に即した博捜によって、権利文書としての性格をさらに精確に描く余地がある。第二に、渡船賃・船勧進物・勘定帳といった会計文書の系統的な分析は、渡船経済の全体像を数量的に復元する道を開く。第三に、池田村と対岸の船越村との関係、両村の渡船権をめぐる交渉の局面は、渡し場を一村の視点からではなく、川を挟んだ二村の関係史として描き直す主題である。これらはいずれも、本稿が設定した三系統の文書分類のうえで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。証文から始まったと語られてきた渡し場を、証文をはじめとする文書の性格に立ち返って読み解くこと――その地道な手続きの先にこそ、天竜川池田の渡船300年の像が、少しずつ輪郭を結んでいくはずである。船越村との関係史や渡船会計の数量的復元については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』(豊田町教育委員会発行、昭和51年〔1976年〕3月)。本文は「天竜川渡船の起源」「渡船役の組織」「渡船の運営」の3章と「むすび」からなり、巻末に「余録」として関連史料が付される。本稿の事実関係は主にこの資料に依拠する。↩
- 文久3年〔1863年〕、14代将軍徳川家茂の上洛に際する増役動員の記録による。「御上洛ニ付増役等相勤候処書面之通御座候」の一句は、大通行時に定助郷・大助郷の別なく村々が動員されたことを示す。↩
- 仮渡船の開設・廃止は中泉代官所の役人が現地に出張して取り決め、道中奉行所への届け出を要した。四尺八寸・九寸を超えると徒歩の「越立」は禁止され、五尺以下は渡船で渡ることができたという水位基準も、この運用のなかに定められていた。↩
- 明治6年〔1873年〕の舟橋計画に際し、池田・船越の両村が橋完成後に自分たちを橋掛渡人足として雇うよう願い出た嘆願文による。渡船方が橋の番人へ立場を変えて生き延びようとした点を示す。↩
- 「渡し場300年」の年代は、渡船権の制度的起点を天正元年〔1573年〕、終焉を明治7年〔1874年〕の舟橋開通に置いた場合のおおよその期間(約301年)を指す。渡船そのものは朱印状以前から営まれていたと伝わり、渡しの営み全体はさらに長期に及ぶ。↩
付記:本稿は一般読者向けの資料紹介記事 t045「天竜川池田の渡船」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、朱印状に渡船特権が記されることを文書の水準の史実、「家康が渡しを始めた」という由来を伝承・推定として扱った。
参考文献・参考資料
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』豊田町教育委員会、昭和51年〔1976年〕3月。
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第一集 ふるさと豊田』豊田町教育委員会、昭和49年〔1974年〕。
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』豊田町教育委員会、昭和53年〔1978年〕3月。
- 「琉球人参府ニ付御持船人足書上帳」嘉永3年〔1850年〕(前掲『天竜川池田の渡船』所収)。
- 見付宿歎願書、嘉永7年〔1854年〕(前掲『天竜川池田の渡船』所収)。
- 渡船権関係証文・嘆願文(前掲『天竜川池田の渡船』余録所収)。
- 徳川家康朱印状(池田船方十人衆宛、天正元年〔1573年〕)に関する記述(前掲資料による)。
- 磐田市『磐田市史』通史編、磐田市、該当章。
- 静岡県編『静岡県史』通史編(近世)、静岡県、該当章。
- 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』該当章。
- 国土交通省 天竜川の治水・河川史に関する公開資料 https://www.mlit.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 t045「天竜川池田の渡船 ── 家康の証文から始まった渡し場300年の記憶」 https://iwata-monogatari.net/t045.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 t048「渡船経済のしくみ ── 船賃の分配と船勧進物、堤防修理」 https://iwata-monogatari.net/t048.html (最終閲覧:2026年7月26日)。