失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 町や村を背負った人びと

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第203号(竜洋地域史研究 三)

町や村を背負った人びと

竜洋の地域運営を支えた者たち ── 代官・戸長・町長の事績と史料批判

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市旧竜洋町域

要旨

静岡県磐田市旧竜洋町域の地域運営は、天竜川の治水と河口の湊経営という固有の課題のもとで、世代ごとの担い手によって引き継がれてきた。本稿は、その担い手を近世の中泉代官(犬塚祐一郎・林伊太郎)、明治の区制改革を担った戸長層、昭和30年の合併期を主導した初代町長らの事績から通観する人物史である。役職・在任・普請の記録は公開資料で確認できる史実として扱う一方、動機・人物像・顕彰される功績と実像との差は推定として腑分けし、両者を混同しないことを方法上の軸とする。とりわけ、社山疏水の先駆けとされる犬塚の治水構想が治水史資料に確認できるのに対し、昭和期の首長の個々の在任年には一次史料の裏づけが十分でない点を明示し、「未確認」と「記載なし」を区別する。制度を動かしたのは人であり、地域運営という営みがいかに世代を超えて手渡されたかを、顕彰と史料批判の緊張のなかで記述することを目的とする。

キーワード:中泉代官/犬塚祐一郎/林伊太郎/大区小区制/竜洋町/地域運営/史料批判

1. 問題設定 ── 「制度」を動かした「人」をどう書くか

竜洋の地域史は、しばしば制度の変遷として語られる。天領としての天竜川両岸、明治の区制、町村制による掛塚町・袖浦村・十束村の成立、昭和30年(1955年)の合併による竜洋町の誕生。これらは行政の枠組みの移り変わりであり、年表として整理しやすい。だが枠組みそのものは、誰かが背負い、動かさなければ機能しない。堤を築く判断を下したのは代官であり、区制の混乱を実務で受け止めたのは戸長であり、生業も水利事情も異なる三つの町村を一つにまとめる困難を引き受けたのは初代の町長であった。本稿が焦点を当てるのは、この「制度を動かした人」の側である。

人物を主題に据えると、すぐに一つの困難に突き当たる。役職と在任年、手がけた普請といった記録は史料で確認できても、その人物がなぜそう動いたのか、地域からどう見られていたのか、という部分は史料にほとんど残らない。残っているのは、しばしば後世の顕彰である。功績をたたえる記述は、その人物を英雄的に描く方向に働き、実像との間にずれを生む。人物史の落とし穴は、この顕彰の言葉を史実そのものと取り違える点にある。本稿は、記録として確認できる事実と、顕彰によって形づくられた像とを一つずつ腑分けし、両者を混同しないことを方法上の軸に据える。

この姿勢をとる理由は、竜洋という土地の性格にある。天竜川の河口部に開けたこの地は、川の氾濫と河口の砂、そして湊の盛衰という、人の力だけでは制御しきれない条件のもとに置かれてきた。地域運営は、平時の徴税や訴訟の裁きにとどまらず、災害への対処と復興、治水普請の差配という、命と暮らしに直結する重い判断を含んでいた。それゆえ担い手の事績は美談として語られやすく、また美談だからこそ、確度の検証を経ないまま定着しやすい。竜洋の地域運営を担った人びとを書くには、顕彰を鵜呑みにせず、かといって記録に残る功績を過度に疑うのでもない、抑制のきいた記述が求められる。

本稿では、確認できる事柄と推定にとどまる事柄とを、語の水準で書き分ける。史料で裏づけられる事実は史実として、記録は伝わるが一次史料に突き当たっていない事柄は未確認として、根拠はあるが確定に至らない解釈は推定として扱う。とりわけ「未確認」と「記載なし」は峻別する。前者は、管見の限り裏づけとなる一次史料に行き当たっていないという筆者の側の限界であり、後者は、史料にその事柄が書かれていないという史料の側の事実である。この区別を保つことは、人物史を後世の調べものに耐える形で残すための最低限の作法である1。以下ではまず史料で確認できる枠組みを押さえ、続いて近世・近代・現代の担い手を順に検討し、最後に系譜として束ね直す。

「制度」と「人」── 本稿の視点 制度・枠組み 天領/区制/町村制/合併 担い手・人 代官/戸長/町長 動かす 記録(史実)と顕彰(後世の像)を腑分けする 未確認と記載なしを区別し、断定を避ける
図1 本稿の視点。制度の枠組みは、それを背負う担い手によって動く。本稿は記録に残る事実と後世の顕彰とを腑分けし、確度の層を保って人物を記述する。

2. 史料で確認できる枠組み ── 中泉代官所と天領支配

担い手を論じる前に、彼らが働いた制度の枠を史料で確認しておく。近世の竜洋一帯、すなわち天竜川両岸の村々の多くは、幕府の直轄領(天領)として、中泉(現在の磐田市中泉)に置かれた代官所の支配を受けた。中泉代官所は遠江の天領を差配する拠点であり、代官はそこに派遣される幕臣として、徴税・治水普請・訴訟の裁許・災害時の救恤といった実務を担った。竜洋の地域運営を近世にさかのぼって論じるとき、その制度的な起点はこの中泉代官の職にある2

ここで押さえておくべきは、代官という職の性格である。代官は在地の領主ではなく、任期を負って赴任し、やがて転じていく官僚であった。したがってその関心は、地域に根を張った領主のそれとは異なり、幕府への貢租を滞りなく確保し、支配地を安定させることに置かれる。だが天竜川の氾濫が続けば徴税の基盤である田畑そのものが失われるため、治水は幕府の財政的関心と地域の存亡とが交わる場となった。代官が治水普請に力を注いだ背景には、この二つの利害の一致がある。地域運営を担った代官の事績を、純粋な民への慈愛としてのみ読むのは一面的であり、統治の合理と地域の必要とが重なった結果として理解するのが穏当である。

もう一点、代官の下で実務を支えた在地の担い手層にも触れておかねばならない。代官所の少数の幕臣だけで広い天領を運営することは不可能であり、実際の村々の統治は、庄屋・組頭・百姓代といった村役人が担った。彼らは年貢の割り付けと取りまとめ、用水の配分、争いの調停、普請の人足の差配といった日常の運営を引き受けた。代官が制度の頂点にあったとすれば、村役人はその制度を村の現場で機能させる基層であった。後述する明治の戸長は、この村役人層から連続する面と、新たに官の側から編成される面とを併せもつ。近世の地域運営を「代官の物語」としてのみ描くと、この基層の担い手が視野から抜け落ちる。本稿は代官を軸に据えつつ、その足もとに広がる村役人層の存在を、確認しうる範囲で記録にとどめる。

竜洋の地域史については、合併以前の町村沿革をたどった竜洋になるまでの町村沿革、および中世から近世の支配の推移を扱った室町以降の竜洋 ── 池田荘・掛塚湊から天領支配までで、制度の枠組みそのものを検討した。本稿はそれらと対をなす人物編として、枠組みを背負った担い手の側から同じ歴史を照らし直すものである。制度史と人物史は、同じ出来事の表裏であり、一方だけでは地域運営の実相はつかめない。

3. 近世の担い手(一)犬塚祐一郎と天保の治水

中泉代官として天竜川の治水に深く関わった人物として、まず犬塚祐一郎(いぬづかゆういちろう)の名を挙げる。天保2年(1831年)、天保の大飢饉が始まる二年前に中泉代官所へ着任した犬塚は、天竜川をはじめとする河川の普請を担う役目を負ったと伝えられる3。当時の草崎村(現在の磐田市域)周辺は低湿地で、毎年のように水害に見舞われていた。犬塚は排水路「蛯島水道(えびしますいどう)」を新たに開削し、水を迂回させることで地域を洪水から守る工夫を講じたとされる。

犬塚の事績として治水史資料に伝わるものは、これにとどまらない。天竜川に大規模な堤防を築き、川床の新田開発を進めるとともに、両岸に水利組合を組織したとされる。さらに注目すべきは、磐南平野の地形を測量した結果、太田川や原野谷川の水量だけでは灌漑用水として不十分であると見抜き、平野北部の社山(しゃやま)を掘り抜いて天竜川の水を引く隧道(トンネル)構想を立案したことである。この構想は犬塚の代には実現しなかったが、後年「社山疏水」として結実する大事業の先駆けとなった。遠州地方の治水史において、犬塚の測量と構想は重要な布石として位置づけられる。

ここで確度の腑分けをしておきたい。犬塚の中泉代官着任、蛯島水道の開削、社山を掘り抜く疏水構想の立案といった事績は、天竜川流域の治水史資料に記録されており、本稿では確認しうる史実として扱う。一方で、これらの事業を犬塚がどのような意図と展望のもとに構想したのか、地域の百姓たちが彼をどう受け止めたのかといった内面や評価は、史料からは直接には読み取れない。社山疏水の先駆けという評価そのものも、後年に疏水が実現したという結果から遡って与えられた位置づけであり、犬塚自身がそこまでの見通しをもっていたかは未確認である。先駆者としての顕彰と、当人が実際に見ていた地平とを、慎重に切り分ける必要がある。

それでも、犬塚の事績が示すものは小さくない。代官という転任を前提とする職にありながら、その代では実らない長大な構想を立て、測量という基礎作業に人と時間を割いたことは、目先の徴税を超えた射程で地域を見ていたことを推測させる。治水は、一人の代官の任期では完結しない事業である。堤は代を越えて守り継がれ、疏水の構想は数十年を経て後人の手で結実する。犬塚の事績は、地域運営が世代を超えた事業の連鎖として営まれることを、近世の段階で示した一例として読むことができる。この「代を越えて引き継がれる」という主題は、本稿全体を貫く筋でもある。

犬塚祐一郎の治水事績 ── 代を越える構想 蛯島水道排水・洪水防御 堤防・新田川床開発 水利組合両岸に組織 社山疏水構想隧道の立案 後年「社山疏水」として結実 先駆けの評価は結果から遡る(未確認) ■ 史実(治水史資料で確認) ■ 遡って与えられた顕彰
図2 犬塚祐一郎の治水事績。蛯島水道から社山疏水構想までの一連は治水史資料で確認できる史実だが、「疏水の先駆け」という位置づけは後年の結実から遡って与えられたもので、当人の見通しは未確認である。

4. 近世の担い手(二)幕末の代官・林伊太郎

犬塚の治水からおよそ二十年を経た幕末、竜洋に足跡を残した代官が林伊太郎(はやしいたろう)である。彼は嘉永6年(1853年)から安政5年(1858年)までの中泉代官を務めた人物であり、武蔵国の出身であったと伝わる4。この在任期間は、日本の近世が大きく揺らいだ時期にあたる。嘉永6年はペリーが浦賀に来航した年であり、安政年間には安政東海地震をはじめとする激しい自然災害が相次いだ。林伊太郎の代官在任は、対外的な緊張と天災とが重なる、統治の困難な数年間であった。

林伊太郎は「長浦」と号し、代々学者を輩出した林家の出身であったと伝えられる。その治世においては、天竜川の河川堤防の修築や、荒廃した農地からの徴税の適正化に取り組み、被災した村々の復興のために動いたとされる。公正な地域管理の姿勢は領内の庄屋や百姓たちから尊敬され、困難な幕末期における竜洋の地域安定に寄与したと語られる。犬塚が長期の治水構想を残した代官であったとすれば、林伊太郎は動乱と災害のただなかで地域の秩序を保つことに力を注いだ代官として、その事績が伝えられている。

ここでも確度を腑分けしておく。林伊太郎の中泉代官としての在任年(嘉永6年から安政5年)と出身、号については、公開資料に記載が見られる。一方、「公正な統治で尊敬された」「地域安定に大いに貢献した」といった評価的な記述は、その性格からして顕彰の色合いを帯びる。堤防の修築や徴税の適正化が具体的にどの村で、どの規模で行われたのかを一村ごとに跡づける一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。したがって林伊太郎の人物像は、在任という骨格は史実として確認しつつ、統治の手腕をめぐる評価は未確認を含む顕彰として、慎重に距離を置いて扱うのが妥当である。

二人の代官を並べると、代官職という同じ枠のなかにも、担い手の個性と時代の刻印が見える。天保期の犬塚は、飢饉と水害の時代に長期の治水を構想した。幕末の林伊太郎は、開国前夜の動揺と震災の時代に地域の秩序維持に努めた。同じ中泉代官でありながら、その事績の重心は、それぞれが直面した危機の性質に応じて異なっている。制度は同じでも、それを背負う人と時代によって、地域運営の内実は変わる。人物史が制度史だけでは描けない実相をとらえうるのは、まさにこの点においてである。二人はともに転任を前提とする幕臣でありながら、竜洋という土地の記憶のなかに名を残した。地域が誰を記憶し、誰を顕彰したのかということ自体が、その土地の価値観を映す史料でもある。

5. 明治の区制改革 ── 庄屋から戸長へ

明治維新は、竜洋の地域運営の担い手を大きく組み替えた。廃藩置県を経て、遠州一帯は「浜松県」の管轄となる。浜松県は明治4年(1871年)11月から12月にかけて遠江国一円を82の区に分けたのち、明治6年(1873年)2月に「大区小区制」へと切り替え、県全体を三つの大区・82の小区に再編した5。大区には大区長・副大区長を、小区には小区長・副小区長を官選で置き、さらに村々の実務を担う戸長・副戸長を民選で配置した。旧来の村落単位とは異なる、上からの行政区画である。

この改革が担い手にもたらした変化は、単なる呼称の交替ではない。近世の庄屋・組頭は、村という自然の共同体を基盤に、世襲的な性格を帯びて村を束ねていた。これに対し大区小区制の区長や戸長は、県が引いた区画のうえに官選ないし民選で置かれる、制度的な役職である。地域運営の正統性の根拠が、村の慣習と家格から、県の任命と制度へと移ったのである。もっとも現実には、新たに戸長となった者の多くは、旧来の村役人層から出ていたと考えられる。地域の実務に通じ、読み書きと算用に長けた人材は、そう多くはいない。制度は改まっても、それを動かす人は連続していた面がある。この連続と断絶の二重性が、明治初年の地域運営の実相であった。

大区小区制は、しかし長くは続かなかった。区画が住民の生活実感と合わず、行政の末端が混乱したため、明治11年(1878年)の郡区町村編制法によって、より旧来の町村に近い枠組みへと再び組み替えられていく。竜洋の担い手たちが直面したのは、この制度の激しい揺れ動きであった。ここで注目すべきは、彼らが新しい命令をただなぞるだけの存在ではなかった点である。伝統的な水利組合や、河口部で営まれた製塩の組合といった、地域固有の運営力を保ちながら、上から降ってくる制度の変化に適応していった。天竜川の用水配分や河口の砂との闘いは、どの制度のもとでも続く現実の課題であり、それを担い続けたのは制度ではなく人であった。

この時期の地域管理のあり方が、その後の基盤を用意した。明治22年(1889年)の町村制施行によって、竜洋の地には掛塚町・袖浦村・十束村が確立する。近世の村々を束ね、明治初年の制度的動揺をくぐり抜けた担い手層の蓄積があってはじめて、これらの町村は自治の単位として立ち上がりえた。庄屋から戸長へ、そして町村長へと続く担い手の系譜は、名称と制度を変えながらも、地域の実務を絶やさず引き継ぐ細い糸としてつながっていた。制度史が区制の変遷を描くのに対し、人物史が浮かび上がらせるのは、この変わり続ける枠の下で変わらずに営まれた運営の連続性である。

役職の変遷 ── 名は変われど実務は連続する 庄屋・組頭近世/村役人 区長・戸長明治6年〜大区小区制 戸長(改)明治11年〜郡区町村編制 町村長明治22年〜町村制 実務の担い手(読み書き・算用・水利に通じた人材) 制度は改まっても、動かす人は旧村役人層から連続した
図3 役職の変遷。庄屋から区長・戸長を経て町村長へと、制度上の名称と根拠は改まった。しかし実務を担った人材は旧村役人層から連続する面をもち、断絶と連続が二重に働いた。

6. 昭和の合併期を背負った首長たち

時代は下り、地域運営の担い手は近代の町村長から、戦後の合併期を主導する首長へと引き継がれる。昭和30年(1955年)、掛塚・袖浦・十束の三町村が合併して竜洋町が誕生した。歴史も生活慣習も水利事情も異なる三つの町村を一つの自治体にまとめる作業は、容易ではなかった。この合併において最初の舵取り役を務めたのが、初代町長の竹内善平(たけうちぜんぺい)とされる。融和と連帯を最優先にした町政を敷き、悲願であった掛塚橋の竣工や、新町の将来に向けた総合計画の策定を進めたと伝えられる。

合併直後の竜洋町が抱えた困難は、具体的なものであった。掛塚は天竜川河口の湊町として木材交易で栄えた歴史をもち、袖浦・十束はそれぞれ異なる生業と水利の事情を背負っていた。三つの旧町村を一つの自治体として運営するには、道路・橋梁・上下水道といったインフラを町全体で公平に整備することが不可欠であり、これは初代以降の歴代町政に共通する大きな課題であり続けた。合併とは、線引きを変えることではなく、異なる共同体の利害を調整し続ける終わりのない営みであった。首長に求められたのは、華々しい事業の推進以上に、この調整を粘り強く続ける忍耐であったと考えられる。

昭和後期の高度経済成長から成熟期にかけては、歴代の町長や教育行政の担い手が、インフラ整備と並んで、地域固有の文化と歴史を記録し保存する「郷土史事業」にも取り組んだ。昭和52年(1977年)に竜洋町教育委員会関係の資料として編まれた『ふるさと竜洋』は、その代表的な成果である。素材資料には、昭和51年(1976年)当時の牧野定久(まきのさだひさ)町長、中島重助(なかじましげすけ)教育長といった名も挙がる。今日われわれが竜洋の来歴を書物のかたちで参照できるのは、こうした担い手たちが、足もとの歴史を次の世代に受け継ごうとした公共の精神の現れにほかならない。

ただし、ここで史料批判上の留保を明示しておかねばならない。昭和30年の三町村合併、竜洋町の成立、掛塚橋の竣工、そして『ふるさと竜洋』の刊行といった出来事の骨格は、公開資料で確認できる。しかし、竹内善平初代町長・牧野定久町長・中島重助教育長といった個々の人名や、その具体的な在任年については、公開されているweb資料の範囲では一次史料による裏づけが十分に取れていない。これらは町史・議事録・広報といった原典にあたれば確認しうる情報と考えられるが、現段階では未確認にとどまる。「記載なし」ではなく「未確認」であることを強調しておきたい。原典は存在するはずであり、本稿がそこに突き当たっていないだけである。人名を確定的に記すことと、確認の限界を明示することとは、両立させねばならない。

昭和30年(1955年)の合併 ── 三町村から竜洋町へ 掛塚町河口の湊町 袖浦村異なる生業・水利 十束村 竜洋町 初代町長が融和を主導(人名は未確認) 課題:道路・橋梁・上下水道を町全体で公平に整備
図4 昭和30年の合併。生業も水利事情も異なる掛塚・袖浦・十束の三町村を一つの自治体へまとめる作業は、初代以降の歴代町政に共通する調整の課題を残した。合併・成立の骨格は史実だが、個々の首長の人名・在任年は未確認である。

7. 顕彰と実像 ── 担い手の系譜を史料批判で読む

ここまで、近世の代官、明治の戸長層、昭和の首長という三つの世代の担い手を見てきた。最後に、それらを一つの系譜として束ね直し、人物史につきまとう顕彰と実像のずれを、あらためて史料批判の観点から整理する。地域運営を担った人びとの事績は、しばしば功績の顕彰として後世に伝わる。顕彰は、その人物を地域の恩人として記憶にとどめる働きをもつ一方で、実像を英雄的な像へと引き寄せ、確度の検証を経ないまま定着させる危うさも併せもつ。

下の比較表は、本稿で扱った担い手を世代ごとに並べ、確認できる事実と、顕彰的に語られる部分と、史料批判上の留意点とを対等の粒度で示したものである。特定の人物を英雄として際立たせるのではなく、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら確度を判断できる状態をつくることを心がけた。表を貫いて見えてくるのは、時代が下るほど記録の性格が変わるという事実である。近世の代官については治水史資料という比較的まとまった記録があるのに対し、昭和の首長については、事業の骨格は残るが個々の人名・在任の一次的な裏づけがかえって手薄になる。近い時代のことほど記録が確かだとは限らない、という逆説がここにある。

表1 竜洋の地域運営を支えた担い手 ── 世代・確認できる事実・顕彰・史料批判上の留意点
担い手/世代役職・在任確認できる事実(史実)顕彰的に語られる部分留意点(史料批判)
犬塚祐一郎
(近世・天保期)
中泉代官
天保2年(1831年)着任
蛯島水道開削、堤防・新田、水利組合、社山疏水構想。治水史資料で確認。「社山疏水の先駆け」「地域を洪水から守った恩人」。先駆けの評価は結実から遡る。当人の見通しは未確認。
林伊太郎
(近世・幕末)
中泉代官
嘉永6年〜安政5年(1853〜1858年)
在任年・武蔵国出身・号「長浦」。公開資料に記載。「公正な統治で尊敬された」「地域安定に大いに貢献」。統治の具体的規模を跡づける一次史料は未確認。評価は顕彰の色を帯びる。
戸長・区長層
(明治初年)
大区小区制の区長・戸長
明治6年(1873年)〜
大区小区制の区画・官選民選の別。行政史資料で確認。個々の氏名はほとんど顕彰の対象とならず匿名化。旧村役人層との連続は推定。個人名の特定は本稿範囲では未確認。
竹内善平ほか
(昭和・合併期)
竜洋町初代町長ほか
昭和30年(1955年)〜
三町村合併・竜洋町成立・掛塚橋・『ふるさと竜洋』刊行の骨格。「融和と連帯の町政」「悲願の掛塚橋」。人名・在任年は一次史料の裏づけ未確認。原典(町史・議事録)で確認要。

この表から引き出せる方法上の含意は、二つある。第一に、顕彰と史実は別の層として扱わねばならない。「恩人」「貢献」といった評価語は、その人物への地域の敬意を伝える貴重な証言である一方、それ自体は功績の規模や実態を計量する尺度ではない。顕彰を史実に格上げすることも、逆に顕彰だからと切り捨てることも、ともに誤りである。顕彰は「地域が何を記憶に値すると考えたか」を示す史料として、それにふさわしい位置で読むべきである。第二に、確度の検証は時代の遠近と一致しない。近世の治水事績のほうが、昭和の首長の人名よりも確度の高い記録に支えられているという本稿の所見は、記録の残り方が事業の性格や記録主体の有無に左右されることを示している。

担い手の系譜を通して見ると、竜洋の地域運営には一貫した主題が流れている。天竜川の治水と河口の経営という、人の力を超えた条件のもとで、いかにして地域の暮らしを保ち、次の世代へ引き継ぐか。犬塚の疏水構想は代を越えて結実し、明治の戸長層は制度の動揺の下で実務を絶やさず、昭和の首長は異なる三町村の融和を続けた。役職も制度も名称も変わりながら、この「引き継ぐ」という営みだけは変わらずに続いた。担い手が交替しても営みが連続するという構造こそ、地域運営という言葉の実質である。個々の人物を英雄として孤立させて描くのではなく、この連続する営みの一つの結節点として位置づけることが、人物史の落ち着いた記述の仕方であろう。

担い手の系譜 ── 引き継がれた「地域運営」という営み 天保期犬塚祐一郎 幕末林伊太郎 明治戸長・区長層 昭和合併期の首長 引き継がれた課題 天竜川の治水・用水配分 河口の湊と砂・製塩 引き継がれた営み 暮らしを保ち次代へ手渡す 記録を残す(郷土史事業)
図5 担い手の系譜。役職も制度も名称も変わりながら、天竜川の治水と河口の経営という課題、そして暮らしを次代へ手渡すという営みが、世代を超えて引き継がれた。

顕彰と実像のずれを腑分けする作業は、担い手を貶めるものではない。むしろ逆である。英雄的な像の下に隠れがちな、実際の困難と地道な営みを掘り起こすことこそ、担い手への正当な敬意である。犬塚が測量に費やした時間、林伊太郎が動乱期に維持した秩序、名を残さなかった戸長たちが絶やさなかった実務、首長たちが続けた三町村の調整──これらは英雄譚としてよりも、条件の厳しい土地で運営を続けた人びとの労苦として読むほうが、その重みが伝わる。史料批判は、事実を疑うための冷たい手続きではなく、人びとの営みを等身大で受け止めるための方法である。

記録の確度は時代の遠近と一致しない 近世の代官 治水史資料あり 事績の確度:高 明治の戸長 制度は確認可 個人名:未確認 昭和の首長 事業は確認可 人名・在任:未確認 近い時代ほど記録が確かとは限らない。記録の残り方は事業と記録主体に左右される。
図6 記録の性格の変化。近世の代官の治水事績のほうが、昭和の首長の人名よりも確度の高い記録に支えられている。近い時代ほど確かとは限らないという逆説を示す。

8. 結論 ── 世代を超えて手渡された営みとして

本稿は、竜洋の地域運営を支えた人びとを、近世の中泉代官(犬塚祐一郎・林伊太郎)、明治の区制改革を担った戸長層、昭和の合併期を主導した初代町長らの事績から通観し、役職・在任・普請の記録を史実として、動機・人物像・顕彰と実像の差を推定として腑分けしてきた。得られた見取り図は次のとおりである。制度の枠組みは時代とともに、天領支配から区制、町村制、合併へと組み替えられたが、それを背負い動かしたのは常に人であった。担い手は交替し、役職の名も根拠も変わりながら、天竜川の治水と河口の経営という課題、そして暮らしを次代へ手渡すという営みだけは、世代を超えて連続した。

史料批判の観点からは、二つの区別を一貫して保った。第一に、記録として確認できる事実と、後世の顕彰によって形づくられた像とを混同しないこと。第二に、「未確認」と「記載なし」を峻別すること。犬塚の治水事績は治水史資料に確認できる史実であり、「社山疏水の先駆け」という位置づけは結実から遡って与えられた顕彰である。林伊太郎の在任は史実だが、統治の手腕をめぐる評価は未確認を含む。昭和の首長たちについては、合併や事業の骨格は確認できても、個々の人名・在任年は一次史料の裏づけを欠く未確認の状態にある。近い時代ほど記録が確かだとは限らないという逆説は、記録がいかに残されるかという問題の重さを、あらためて示している。

本稿の立場は明確である。地域運営の人物史は、恩人を顕彰する物語としてではなく、条件の厳しい土地で運営を続けた人びとの営みの連鎖として記述されるべきである。個々の担い手を英雄として孤立させるのではなく、引き継がれてきた課題と営みの結節点として位置づける。顕彰を史実と偽らず、確認の限界を隠さず、それでいて担い手の労苦を等身大で受け止める。この抑制のきいた手続きこそが、竜洋という土地に生きた人びとを、後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、明治の戸長・区長層の個々の氏名は、本稿の範囲ではほとんど特定できなかった。町村役場文書や区有文書を博捜すれば、匿名の担い手に名を与えうる余地がある。第二に、昭和の合併期の首長については、竜洋町の町史・議会議事録・広報といった原典にあたることで、人名と在任年を未確認から史実へと押し上げられるはずである。第三に、犬塚の社山疏水構想と後年の実現との具体的な連なりは、疏水事業史の側から跡づけることで、先駆けという顕彰の内実を精査できる。いずれも、本稿が設定した腑分けの枠組みのなかで、未確認を史実へと一歩ずつ変えていく作業に属する。制度を動かした人びとの名と営みを、確度の層を保ったまま丁寧に積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、竜洋の地域運営を世代を超えて支えた人びとの全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿が扱った代官・戸長・町長たちが背負った竜洋の地には、治水とともに営まれてきた古い家や土地が、いまも数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。地域運営を担った人びとの営みを書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 本稿における確度の四層(史実・通説・推定・伝承)および「未確認(管見の限り一次史料に突き当たっていない)」と「記載なし(史料に記載がない)」の区別は、大石浩之の磐田論考シリーズが方法上の基準として共有するものである。
  2. 中泉代官所と遠江の天領支配の枠組みについては、旧竜洋町域の支配の推移を扱った本論考シリーズおよび『磐田市史』通史編の該当章による。
  3. 犬塚祐一郎の中泉代官着任(天保2年〔1831年〕)、蛯島水道開削、社山疏水構想については、水土の礎「磐南平野の金字塔 第五章 明治の悲願・社山疏水」ほか天竜川流域の治水史資料による。
  4. 林伊太郎の中泉代官在任(嘉永6年〔1853年〕〜安政5年〔1858年〕)、武蔵国出身、号「長浦」については、磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料による。統治の手腕をめぐる評価的記述は顕彰の色を帯びる点に留意する。
  5. 浜松県による遠江国一円82区の編成(明治4年〔1871年〕)、大区小区制への切替(明治6年〔1873年〕2月、3大区・82小区)、戸長制度については浜松県・大区小区制に関する行政史研究資料による。なお昭和期の首長(竹内善平・牧野定久ら)および中島重助教育長の個々の人名・在任年は、公開web資料の範囲では一次史料による裏づけが十分でなく、本稿では未確認として扱う。

付記:本稿は一般読者向け記事 r021「町や村を背負った人達|竜洋の地域運営を支えた人びと」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。犬塚祐一郎の治水事績を治水史資料で確認できる史実、林伊太郎の在任を公開資料に基づく史実として扱う一方、昭和期の首長の人名・在任年は未確認として明示し、顕彰と実像の区別を語の水準で徹底した。

参考文献・参考資料

  • 磐田物語 r021「町や村を背負った人達|竜洋の地域運営を支えた人びと」 https://iwata-monogatari.net/r021.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第158号「竜洋になるまでの町村沿革」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/158/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第198号「室町以降の竜洋 ── 池田荘・掛塚湊から天領支配まで」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/198/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)発行相当資料。
  • 『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 水土の礎「磐南平野の金字塔 第五章 明治の悲願・社山疏水」(犬塚祐一郎の治水事績) https://suido-ishizue.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 浜松県・大区小区制に関する行政史研究資料(区制の編成・戸長制度)。
  • 「郡区町村編制法」(明治11年〔1878年〕)関係史料。
  • 「町村制」(明治22年〔1889年〕)関係史料および掛塚町・袖浦村・十束村の沿革資料。
  • 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料(中泉代官の在任・出身に関する記載を含む)。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺および中泉代官所跡周辺。

本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに、確度の層を区別しながら磐田物語用に再構成したものである。