失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 帯金家長屋門を読む

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第205号(豊田・家名由来伝承研究)

帯金家長屋門を読む

家康の恩義に由来する姓の伝承 ── 賜姓譚の類型と江戸期長屋門の史料批判

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市上本郷(豊田)

要旨

磐田市上本郷の帯金家には、江戸時代初期に建てられ末期に同規模で建て替えられたと伝わる長屋門が現存し、その由緒とともに、元亀年間(1570〜1573年)に武田信玄との戦いに敗れて敗走する徳川家康を助けたという言い伝えが語り継がれてきた。当主が帯の間から財布を取り出して金を与え、その恩義によって家康から「帯金」の姓を賜ったとする賜姓譚である。本稿は、この姓の由来譚を伝承の層に、長屋門という建築の現存と様式を史実の層に厳密に腑分けし、両者を混同しない立場をとる。そのうえで、賜姓譚を家名由来伝承の一類型として位置づけ、なぜこの型の物語が遠江・三河の旧家に多く生じたのかを史料批判の観点から検討する。逃避行伝承を裏づける一次史料は本稿の範囲では未確認であり、この「未確認」を「史料に記載がない」ことと区別して扱う。姓の由来が史実になりうるかを問うのではなく、地域が家の由緒をどう記憶してきたかを読む方途を示す。

キーワード:帯金家長屋門/賜姓伝承/徳川家康逃避行/元亀年間/家名由来譚/史料批判/上本郷

1. 問題設定 ── 姓の由来譚をどう扱うか

磐田市上本郷の帯金家には、大きな長屋門が今も残る。門の由緒とともに語り継がれてきたのが、元亀年間(1570〜1573年)、武田信玄との戦いに敗れて敗走する徳川家康を、当家の当主が助けたという言い伝えである1。追われる家康に対し、当主は帯の間から財布を取り出して金を与えた。後にその恩義によって、家康から「帯金」の姓を賜ったと伝わる。姓そのものが家康との縁を刻んでいるという、きわめて印象的な由来譚である。

この言い伝えを前にしたとき、郷土史の記述はいくつかの態度をとりうる。一つは、由来譚をそのまま史実として受け取り、「帯金家は家康を助けた家である」と語る態度である。もう一つは、逆に一次史料の裏づけがないことを理由に、由来譚を史実性のない作り話として退ける態度である。本稿はそのいずれの態度もとらない。前者は確度の低い伝えを史実へ格上げする誤りに、後者は伝承のもつ資料的価値を切り捨てる誤りに、それぞれ陥りやすいからである。

本稿が設定する課題は明確である。第一に、帯金家に関して史料や現物で確認できる事柄と、伝えとして語り継がれてきた事柄とを、語の水準で厳密に腑分けする。すなわち、長屋門という建築が現存しその様式が読み取れることは史実の層に、家康の逃避行と帯からの金と賜姓のいきさつは伝承の層に、それぞれ位置づける。第二に、この賜姓譚を単独の奇談としてではなく、遠江・三河の旧家に広く見られる家名由来伝承の一類型として捉え直し、なぜこの型の物語が生じ、語り継がれてきたのかを問う。第三に、姓の由来譚が史実になりうるかという問いに、史料批判の観点から一定の見通しを与える。

ここで、以下の検討を通じて堅持する二つの区別を、あらかじめ明示しておきたい。一つは、史実・通説・推定・伝承という確度の層の区別である。史料や現物で確認できることを史実、学界で広く受け入れられているが一点で確定はできないことを通説、根拠はあるが未確定のことを推定、地域で語り継がれてきたことを伝承と呼び分け、層をまたいだ断定を避ける。もう一つは、「未確認」と「記載なし」の区別である。本稿で「未確認」と述べるのは、管見の限り該当する一次史料に突き当たっていないという状態を指し、「そのような史料は存在しない(=記載なし)」と断定することとは峻別する。この二つの区別は、由来譚のように史実と伝承が分かちがたく結びついた対象を扱ううえで、とりわけ重要な手続きとなる。

本稿がこの手続きにこだわるのは、家名の由来という主題が、地域の記憶のなかでも特別な位置を占めるからである。姓は日々呼ばれ、書かれ、代々受け継がれる。その姓に由来譚が結びつくとき、物語は抽象的な言い伝えにとどまらず、一族が自らをどのような家として理解してきたかという自己認識に深く根を下ろす。したがって由来譚を検討することは、単に一つの逸話の真偽を判定することではなく、地域の旧家がどのような記憶を選び取り、何を家の誇りとして次代へ手渡してきたかを読むことにほかならない。以下ではまず、確実に語りうる長屋門の現状から出発する。

長屋門 現存・様式 史実の層 賜姓譚 帯から金・ 帯金の姓 伝承の層 逃避行 元亀の敗走 背景・推定 帯金家をめぐる情報の三層 本稿は現存する建築(史実)と姓の由来(伝承)を混同せず、逃避行を背景の層に置く。
図1 帯金家をめぐる情報の三層。長屋門の現存・様式は史実、帯からの金と賜姓のいきさつは伝承、元亀の逃避行はその背景をなす推定として、本稿は層を分けて扱う。

2. 史料で確認できること ── 長屋門の現存と様式

伝承の検討に入る前に、確実に語りうる範囲を確定しておく。帯金家について現在の目で確認できる中心的な事実は、長屋門という建築が現に存在することである。『町内史跡めぐり』の記述によれば、この長屋門は江戸時代初期に建てられ、江戸時代末期に至って同じ規模のものとして建て替えられたと伝わる2。門が現に建っていること、それが長屋門という様式をとっていることは、現物によって確認できる事柄であり、史実の層に置いてよい。

ただし、ここでも語の水準に注意を払う必要がある。長屋門が現存することは現物で確認できる史実であるが、その建立が「江戸時代初期」であること、末期に「同規模で建て替えられた」ことは、当家に伝わる由緒に基づく伝えであって、棟札や普請文書といった一次史料によって年代を裏づけたわけではない。したがって、現存という事実は史実、建立と建て替えの年代は伝承と推定の層に属する、と腑分けするのが正確である。建築そのものの様式や部材から建立年代を絞り込む建築史的な調査は、本稿の範囲では及んでおらず、この点は未確認としておく。

長屋門とは、門の両側に長屋を連ねた形式の門を指す。長屋の部分は、使用人の住まいや納屋、物置などに用いられた。この形式は、本来は武家屋敷の表門として発達したものであり、江戸時代には格式を許された有力な家、すなわち名主・庄屋といった村役を務める豪農層の屋敷にも用いられるようになった。門でありながら居住や収納の機能を併せもつ点に、長屋門の特徴がある。帯金家の門がこの形式をとっていることは、当家が単なる一農家ではなく、地域において一定の格式を認められた家であったことを、建築の側から静かに物語っている。

『町内史跡めぐり』は、この長屋門を「昔の建物研究の上で貴重な文化財」と評している3。同じ規模を保ったまま建て替えられたと伝わる点は、当家がその由緒と格式を意識し、門の姿を保存しようとしてきた姿勢をうかがわせる。建築は、由緒を語る言葉とは別の仕方で、家の来歴を伝える。姓の由来譚が言葉で受け継がれる記憶であるとすれば、長屋門は形として受け継がれる記憶であり、両者はしばしば互いを支え合いながら、一族の自己理解を形づくってきた。

ここで、建築が伝承に対してもつ役割を確認しておきたい。旧家に立派な門が残っていること自体は、その家が由緒ある家であったことの物証となる。しかし、門の存在は「格式ある家であった」ことを示しても、「家康を助けた家である」ことまでを証明するわけではない。長屋門が語りうるのは格式であって、賜姓譚の史実性ではない。この点を混同すると、現存する立派な門を根拠に、そこに結びついた由来譚までを史実と受け取ってしまう誤りが生じる。建築が確かに存在することと、その建築に付随して語られる物語が史実であることとは、別の水準の問題である。本稿が建築と伝承を層として分ける第一の理由は、まさにこの混同を避けるためにある。

長屋(納屋・物置・使用人) 門口 長屋(納屋・物置・使用人) 長屋門の構造 ── 門の両側に長屋を連ねる
図2 長屋門の構造模式図。中央の門口の両側に長屋を連ね、納屋・物置・使用人の住居を兼ねる。武家屋敷や格式を許された豪農層の屋敷に用いられた形式で、家の格を建築の側から示す。

3. 逃避行伝承の骨子と元亀年間の情勢

次に、伝承の内容を骨子として押さえ、それが語られる歴史的背景を確認する。『町内史跡めぐり』が記す言い伝えでは、武田信玄と戦って敗れ、逃げる家康が、上本郷の帯金家に立ち寄って助けを求めたという。追われる身の主君に対し、当主は帯の間から財布を取り出し、金を与えて助けた。後にその恩義に対して、家康から「帯金」の姓を与えられた、と伝わっている。物語の核は、危機にある主君を私財をもって助けたという功と、その功に対する賜姓という報いにある。

この伝承が置かれる元亀年間とは、どのような時期であったか。元亀元年(1570年)から元亀4年(1573年、7月に天正へ改元)にかけて、遠江は徳川と武田の勢力がせめぎ合う最前線であった。とりわけ元亀3年(1572年)は、甲斐の武田信玄が大軍を率いて遠江へ侵攻し、同年末に三方原で家康が大敗を喫した年にあたる。豊田町域では、この三方原合戦の前哨として一言坂の戦いが起こったと伝えられ、退却する徳川勢の殿を本多忠勝が務めたという武勇譚が語り継がれている。この一言坂と本多忠勝の殿については、別稿で詳しくたどった。帯金家の逃避行伝承も、こうした武田軍の侵攻と徳川方の敗走が繰り返された時期の記憶の一つとして、地域の歴史のなかに位置づけられる。

ここで重要なのは、元亀年間に家康が遠江で武田方に敗れ、しばしば劣勢に立たされたこと自体は、広く知られた史実に属するという点である。三方原の敗戦は諸書に記録され、家康の生涯における危機の一つとして語られてきた。したがって、「敗走する家康」という伝承の枠組みそのものは、荒唐無稽な設定ではなく、実際の軍事情勢とゆるやかに整合している。逃避行伝承が生まれ、受け入れられていった背景には、この歴史的事実の裏打ちがあったと考えられる4

しかし、枠組みが史実と整合することと、個別の逸話が史実であることとは、やはり別の問題である。家康が敗走したことは史実であっても、その途上で上本郷の帯金家に立ち寄り、当主から帯の間の金を受け取ったという具体的な出来事を裏づける一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。これは「そのような立ち寄りはなかった」と断定できることを意味しない。あくまで、管見の限り、当該の立ち寄りを記す同時代の記録に突き当たっていないという未確認の状態である。敗走のさなかに、追う側にも追われる側にも記録を残す余裕は乏しく、こうした個別の恩義の逸話が文書に残りにくいこともまた、事の性質上、当然に予想される。史料の不在をもって伝承の否定とすることはできない。

この時期の家康にまつわる伝承が、遠江・三河の各地に数多く残っていることも、あわせて押さえておきたい。家康は三河・遠江を拠点に育ち、その勢力圏の各地に、家康を助けた、家康が立ち寄った、家康から何かを賜ったという言い伝えを残す家や寺社が少なくない。たとえば行興寺には、家康からの朱印地寄進をめぐる伝承と、それを裏づけようとする江戸期の古文書が伝わっており、この主題は別稿で近世文書に即して検討した。帯金家の逃避行伝承も、こうした遠江における家康伝承の広がりのなかに置いてみると、その位置がより鮮明になる。個別の家に固有の奇談として孤立しているのではなく、地域全体が家康との縁を家や寺の由緒として語り継いできた、その大きな流れの一部をなしているのである。

1570元亀元年 1572武田遠江侵攻一言坂・三方原 1573元亀4年→天正信玄没 元亀年間逃避行伝承 敗走という枠組みは史実の情勢と整合するが、帯金家への立ち寄りは未確認。 元亀年間の遠江 ── 徳川と武田の攻防
図3 元亀年間の情勢年表。青は史実として知られる年紀、赤は武田侵攻と敗戦、橙は帯金家の逃避行伝承の想定される時期を示す。敗走の枠組みは情勢と整合するが、個別の立ち寄りは未確認である。

4. 賜姓譚という説話類型

伝承の類型/家名由来譚

「主君を助けた功により姓を賜った」という型

型の骨子。帯金家の由来譚は、危機にある主君を私財や機転で助け、その功に対して姓や所領、家紋などを賜ったという筋立てをもつ。この「功→報い(賜姓)」という構造は、地域の旧家に伝わる由緒譚のなかでも、比較的よく見られる型に属する。とりわけ「帯の間から金を出した」という具体的な所作が、そのまま「帯金」という姓の由来として語られる点に、この譚の分かりやすさと記憶されやすさがある。

賜姓譚の分布。主君を助けた功により姓を賜ったという型の伝承は、遠江・三河の旧家にいくつも見られ、なかでも家康にまつわるものが多い。家康自身がこの地域を拠点に育ち、その勢力圏で数々の合戦と敗走を経験したことが、こうした伝承が生じる土壌を用意した。旧家の側からすれば、家の始まりを地域の英雄である家康との個人的な縁に結びつけることは、家の格と由緒を語るうえで、これ以上ない権威づけとなる。賜姓譚は、こうした家の側の自己主張と、家康を地域の誇りとする共同体の心情とが交わるところに生まれ、育まれてきた。

地名・姓の由来譚という様式。そもそも、地名や姓の由来を具体的な出来事に結びつけて説明する語りは、日本各地に広く見られる様式である。ある地名が、そこで起きた事件や、ある人物の行為にちなむとする説明は、しばしば後世になって、その地名や姓の文字面から遡って作られる。「帯金」という文字を「帯」と「金」に分け、帯の間から金を出したという所作に結びつける発想も、この文字面からの遡及という様式に沿っている。こうした由来譚は、姓が先にあり、その字面を説明するために物語が後から編まれた可能性を、つねに含んでいる。ただし、そのように編まれたからといって物語が無価値になるわけではなく、むしろ、家がその字面にどのような意味を与えようとしたかを示す資料となる。

史実化の欲求。由来譚は、しばしば時とともに史実としての性格を強めていく。最初は「〜と伝わる」という留保つきで語られていた話が、繰り返し語られ、書き留められるうちに、留保が薄れ、あたかも確かな出来事であったかのように扱われるようになる。長屋門という立派な物証がそばにあることは、この史実化をさらに後押しする。門が現に建っている以上、それに結びついた物語もまた本当であろう、という心理が働くからである。前章で述べたとおり、建築の現存は格式を証しても賜姓譚の史実性を証さないが、両者は語りのなかでしばしば分かちがたく結びつく。

本稿の評価:帯金家の賜姓譚は、遠江・三河に広く分布する家名由来伝承の一類型として位置づけられる。この型に属することは、譚の史実性を否定する根拠にはならないが、逆に、譚が広く共有された物語の型に沿っていること自体が、それを直ちに個別の史実とみなすことへの慎重さを求める。
危機の主君 敗走・困窮 私財で助力 帯の間の金 =功 恩義 報いの約束 賜姓 「帯金」 の姓 賜姓譚の構造 ── 功から報いへ この型は遠江・三河の旧家に広く分布し、家康にまつわるものが多い。
図4 賜姓譚の類型構造。危機の主君を私財で助けた功が恩義となり、姓の賜与という報いに至る。帯金家の由来譚はこの型に沿い、「帯の間の金」が姓の字面と対応する。

5. 長屋門を読む ── 建築が語る格式

ここで再び建築に立ち返り、長屋門が何を語りうるのかを、もう少し掘り下げておきたい。前章までで、賜姓譚は伝承の層に属し、その史実性は未確認であることを述べた。しかし、伝承とは独立に、長屋門という建築それ自体が伝える情報がある。それは、帯金家が地域において一定の格式を認められた家であったという事実である。

長屋門は、誰もが建てられる門ではなかった。江戸時代の身分秩序のもとでは、門の形式は家の格と結びついており、長屋門を構える資格は、武家や、村役を務める上層の百姓など、格式を許された家に限られていた5。したがって、帯金家に長屋門が構えられていること自体が、当家が上本郷において名主・庄屋級の有力な家であったことを、様式の側から推定させる。門は、単なる出入り口ではなく、家の格を外へ向けて表示する装置でもあった。通りに面して長屋門を構えることは、家の由緒と地位を、無言のうちに地域へ示す行為であった。

同じ規模で建て替えられたと伝わる点も、この観点から読み直せる。建物は、時とともに傷み、いずれ建て替えを要する。そのとき、規模を変えずに元の姿を保とうとしたことは、当家が門を単なる実用の構造物としてではなく、家の由緒を体現する象徴として扱っていたことを示唆する。新しく大きな門に造り替えて富を誇るのでもなく、簡素に縮小するのでもなく、旧来の規模をそのまま踏襲したところに、由緒を守るという意識が読み取れる。建築の保存は、それ自体が一種の記憶の継承であり、姓の由来譚を語り継ぐことと、深いところで通じ合っている。

もっとも、建築から読み取れることにも限界がある。本稿は現物の建築史的な実測調査に基づくものではなく、様式や部材から建立年代を絞り込む作業には及んでいない。したがって、「江戸時代初期の建立」という伝えを建築の側から裏づけることも、また反証することも、本稿の範囲ではできない。長屋門が現存し、それが格式ある家の門であることは確かに言えるが、その建立が具体的にいつであったかは、当家の伝えに依拠するほかなく、この点は推定と伝承の層にとどまる。建築が語りうることと語りえないことの境界を、ここでも見きわめておく必要がある。

それでも、長屋門が地域に残された意味は小さくない。合戦の勝敗や政治の大きな動きは、年表や通史のなかに記録される。しかし、一軒の家がどのような格式を保ち、どのような由緒を意識して暮らしてきたかは、そうした大文字の歴史にはなかなか残らない。長屋門のような建築は、まさにその、記録に残りにくい家の来歴を、形として今日まで伝えてくれる。帯金家長屋門は、姓の由来譚とあわせて読むとき、豊田町域に生きた一つの旧家の自己理解を、言葉と形の両面から現代に手渡している。この論考シリーズでは、こうした地域の建築や由緒を扱った稿を重ねており、たとえば第170号もその一つである。

6. 確度の腑分けと三層の比較

ここまでの検討を、確度の層に沿って整理しておく。帯金家をめぐる情報は、大きく三つの層に分けられる。第一に、長屋門が現存し、それが格式ある家の門の様式をとっていること。これは現物で確認できる史実である。第二に、その長屋門が江戸時代初期に建てられ末期に同規模で建て替えられたという年代。これは当家の伝えに基づく伝承であり、建築史的な裏づけは未確認である。第三に、元亀年間の家康逃避行と帯からの金と賜姓のいきさつ。これは地域に語り継がれてきた伝承であり、個別の出来事を裏づける一次史料は未確認である。以下の比較表は、この三層を対等の粒度で並べ、それぞれの確度と留意点を可視化することを目的とする。

表1 帯金家をめぐる三つの対象の比較 ── 確度の層・内容・根拠・史料批判上の留意点
対象確度の層主な内容依拠する根拠留意点(史料批判)
長屋門の現存と様式史実格式ある家の門の様式をとる長屋門が現に建っている。現存する建築(現物)。現存は格式を示すが、賜姓譚の史実性は証さない。両者は別の水準。
建立・建て替えの年代伝承・推定江戸初期建立、末期に同規模で建て替えと伝わる。当家の由緒、『町内史跡めぐり』の記述。棟札・普請文書による年代裏づけは未確認。建築史的調査に俟つ。
逃避行と賜姓のいきさつ伝承敗走する家康を帯の間の金で助け「帯金」の姓を賜ったとする。地域の言い伝え、『町内史跡めぐり』59番。個別の立ち寄りを記す一次史料は未確認。敗走の枠組みは情勢と整合。

この整理から見えてくるのは、三つの対象が異なる確度の層に属し、異なる仕方で検証されるべきだということである。長屋門の現存は現物を見れば確かめられるが、賜姓のいきさつは文書史料の博捜を要し、しかもなお未確認にとどまる。これらを一括して「帯金家は家康を助けた由緒ある家である」と語ってしまうと、確度の高い事実と低い伝えとが一つの平面に押し込まれ、読者はどこまでが確かでどこからが伝えなのかを判別できなくなる。層を分けて記述することは、この判別を読者の手に委ねるための手続きである。

ここで、本稿の中心的な問いに立ち返りたい。姓の由来譚が史実になりうるか、という問いである。結論から言えば、由来譚が史実へと押し上げられるためには、譚の内容を裏づける独立の史料が必要である。帯金家の場合、それは元亀年間の家康の立ち寄りを記す同時代の記録であったり、賜姓の事実を示す文書であったりするだろう。しかし本稿の範囲では、そうした史料は未確認である。したがって現段階では、賜姓譚を史実とみなすことはできず、伝承の層にとどめるほかない。ただし、これは譚の否定ではない。将来、関連する近世文書が見いだされれば、伝承の一部が推定へ、あるいは史実へと格上げされる余地は残されている。未確認とは、そうした将来の検証に開かれた状態を指す言葉なのである。

この作法は、郷土史の記述一般に通じる。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば、由緒ある家の物語を、その家への敬意もあって、確かな史実として語りたくなる。しかし、確度を偽って語ることは、長い目で見れば、その家の由緒を却って傷つける。後の検証によって史実でないと分かったとき、伝承までもが軽んじられてしまうからである。伝えを伝えとして、事実を事実として、それぞれの位置を保ったまま記述すること。それが、家の由緒に対して払いうる最も誠実な態度であると、本稿は考える。この確度の腑分けという方法については、本シリーズの第200号でも論じている。

史実 長屋門の現存 ・様式 推定 名主・庄屋級 の家格 伝承 逃避行・帯の金 ・賜姓 未確認 立ち寄りの 一次史料 確度の層 ── 帯金家の事例に当てはめる 「未確認」は将来の検証に開かれた状態であり、「記載なし」=存在しないとは区別される。
図5 確度の層を帯金家の事例に当てはめた図。現存する長屋門は史実、家格は推定、逃避行と賜姓は伝承、立ち寄りを記す一次史料は未確認に位置づく。未確認と記載なしは区別する。

7. 背景としての地理 ── 上本郷・豊田と敗走の記憶

帯金家の伝承を、地理の側から位置づけておきたい。当家が所在する上本郷は、現在の磐田市の豊田町域に含まれる。この地域は、近世には東海道の宿場町である見付宿に近く、また前述の一言坂の戦いが伝えられる地にも遠くない。徳川と武田がせめぎ合った元亀年間の遠江において、この一帯は軍勢の往来する舞台の一つであった。敗走する家康が通りかかったという伝承の設定は、こうした地理的条件と無理なく結びつく。

もっとも、家康の敗走路の具体的な経路がどのようなものであり、それが上本郷を通ったかどうかについては、確定した史料的裏づけがあるわけではない。三方原の敗戦後、家康が浜松城へ退いたことは知られるが、元亀年間に繰り返された小競り合いや退却のすべての経路が記録に残っているわけではない。したがって、帯金家の前を家康が通ったという地理的想定は、当時の情勢からありえないことではないという水準にとどまり、それ以上の確定はできない。ここでも、情勢との整合という背景の確からしさと、個別の経路という具体の未確認とを、分けて考える必要がある。

地域の記憶という観点からは、豊田町域が家康伝承の豊かな土地であることが注目される。一言坂と本多忠勝の殿の武勇譚をはじめ、この地域には徳川方の戦いや家康にまつわる言い伝えが数多く残る。帯金家の逃避行伝承も、そうした記憶の集積のなかに置かれることで、孤立した奇談ではなく、地域が共有してきた歴史像の一部として理解される。人々は、自分たちの土地が家康の危機と再起の舞台であったことを、家や寺の由緒を通して繰り返し確認してきた。姓に刻まれた家康との縁は、その最も凝縮した形の一つである。

こうした敗走の記憶が、なぜこれほど大切に語り継がれてきたのかも、考えておく価値がある。勝利の記憶であれば、それは華々しい武勲として語られよう。しかし帯金家の伝承が刻むのは、敗れ、追われ、助けを求める家康の姿である。地域が語り継いだのは、英雄の栄光ではなく、その苦境と、それを支えた一軒の家の情である。ここには、後に天下を取る人物の最も弱い瞬間に手を差し伸べたという、地域の側の誇りが込められている。強き者の勝利に連なる誇りではなく、弱き時の主君を助けた恩義の誇り。帯金家の賜姓譚が長く語り継がれてきた背景には、この種の、いわば陰徳を尊ぶ心情があったと考えられる。

そして、この心情は、上本郷という一地区の記憶にとどまらない。豊田町域、さらには遠江一円に広がる家康伝承の網の目のなかで、帯金家の物語は、個人と個人の関係が姓という形にまで結晶した、とりわけ鮮やかな一例をなしている。合戦の帰趨や領地の得失といった大きな歴史ではなく、追われる主君と、帯の間から金を差し出した一人の当主との、私的な関係。それが姓として残り、長屋門とともに今日まで伝えられてきた。地域の歴史は、こうした無数の小さな関係の集積として編まれている。

東海道 見付宿 東海道の宿 豊田・上本郷 帯金家 一言坂 戦い(伝) 敗走の記憶の地理 ── 豊田町域 位置関係は概念図。家康の具体的な経路が上本郷を通ったかは未確認。
図6 敗走の記憶の地理を示す概念図。東海道の見付宿、豊田・上本郷の帯金家、一言坂の戦いの伝承地の関係を模式的に示す。位置は概念的なもので、家康の具体的経路は未確認である。

8. 結論 ── 由来譚を記憶として読む

本稿は、上本郷の帯金家に伝わる家康逃避行伝承と「帯金」の賜姓譚を、長屋門という現存する建築とあわせて検討し、史実・推定・伝承・未確認の各層に腑分けしてきた。得られた見取り図は次のとおりである。長屋門が現に建ち、それが格式ある家の門の様式をとっていることは史実である。その建立と建て替えの年代、および当家が名主・庄屋級の家格であったことは、伝えと様式に基づく伝承・推定にとどまる。そして、元亀年間の家康逃避行、帯の間から差し出された金、その恩義による賜姓のいきさつは、地域に語り継がれてきた伝承であり、これを裏づける一次史料は本稿の範囲では未確認である。

この腑分けを通じて、本稿の中心的な問い──姓の由来譚が史実になりうるか──に対する立場を、あらためて一文で示しておく。すなわち、賜姓譚は現段階では伝承の層にとどめるべきであり、これを史実とみなすには、内容を裏づける独立の史料を要する。だが未確認とは否定ではなく、将来の検証に開かれた状態を指す。この禁欲的な判断こそが、家の由緒に対して払いうる誠実さである。

同時に、本稿は、賜姓譚を史実でないがゆえに価値の乏しいものとして扱うことも、明確に退ける。この由来譚は、家康を地域の誇りとする遠江・三河の広い心情と、家の格を由緒によって語ろうとする旧家の自己主張とが交わるところに生まれた、家名由来伝承の一つの典型である。そこには、追われる主君を私財で助けたという陰徳の誇りが込められ、その誇りが姓という日々呼ばれる言葉に結晶して、長屋門という形とともに今日まで伝えられてきた。史実の当否とは別の水準で、この物語は、地域が何を記憶として選び取ってきたかを雄弁に語っている。

したがって本稿の結論は、由来譚を史実か虚構かで裁くのではなく、記憶として読むべきだという点に帰着する。地域の歴史は、年表に記される大きな出来事だけで編まれるのではない。追われる主君と一軒の家の当主との私的な関係のような、記録に残りにくい無数の小さな縁もまた、姓や建築や言い伝えという形をとって、歴史を静かに支えている。帯金家長屋門と「帯金」の姓は、その最も凝縮した一例である。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、長屋門の建立年代は、建築史的な実測調査と、棟札・普請文書の探索によって、現在の未確認の状態を推定へ、あるいは史実へと前進させうる余地がある。第二に、賜姓譚を裏づけうる近世文書──当家の由緒書、系図、地域の地誌類など──の博捜は、伝承の一部を推定へと格上げする可能性を残している。第三に、遠江・三河に分布する家康賜姓譚を系統的に比較することは、帯金家の物語がどの型に属し、どこに固有性をもつのかを、より精確に描き出すだろう。これらはいずれも、本稿が設定した確度の層の枠組みのなかで、未確認を推定へ、推定を史実へと押し上げていく地道な作業に属する。由来譚を性急に史実と断ずる誘惑も、根拠なく虚構と切り捨てる態度も、ともに退けながら、確度の層を保ったまま資料を積み重ねていくこと──その先にこそ、帯金家という一つの旧家が抱えてきた記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。家康賜姓譚の類型比較については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿が扱った上本郷や豊田町域には、帯金家長屋門のように、由緒とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 帯金家の逃避行伝承・賜姓譚は、豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』(豊田町教育委員会、1978年)59番「帯金家長屋門(上本郷)」の記述による。
  2. 長屋門の江戸時代初期建立・末期の同規模建て替えは、当家に伝わる由緒に基づく伝えであり、棟札等の一次史料による年代の裏づけは本稿の範囲では未確認である。
  3. 「昔の建物研究の上で貴重な文化財」との評は、前掲『町内史跡めぐり』59番による。
  4. 元亀3年(1572年)の武田信玄の遠江侵攻、一言坂の戦い、三方原合戦の経緯は諸書に見える史実であるが、家康が帯金家に立ち寄ったという個別の逸話を記す同時代史料は未確認である。
  5. 長屋門を構える資格が家格と結びついていたことは近世の身分秩序に関する一般的な理解であり、帯金家の具体的な村役就任を示す文書の確認は本稿の範囲では及んでいない。

付記:本稿は一般読者向け記事 t055 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、長屋門の現存を史実、建立年代を伝承・推定、逃避行と賜姓のいきさつを伝承として扱った。「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に存在しない)は区別している。

参考文献・参考資料

  • 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』豊田町教育委員会、1978年(昭和53年3月20日)、59番「帯金家長屋門(上本郷)」。
  • 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』通史編、豊田町、該当章。
  • 磐田市『磐田市史』通史編、磐田市、近世・中世の該当章。
  • 静岡県編『静岡県史』通史編・資料編、静岡県、遠江の戦国期に関する該当章。
  • 『三河物語』(大久保忠教)元亀年間の遠江情勢に関する記述。
  • 『徳川実紀』元亀・天正年間の家康関係記事。
  • 日本建築学会編『日本建築史図集』彰国社、長屋門・門形式に関する項。
  • 大河直躬『住まいの人類学 ── 日本庶民住居再考』平凡社、農家・門構えに関する章。
  • 柳田国男『地名の研究』所収、地名・由来譚の類型に関する論考。
  • 磐田物語 t055「帯金家長屋門 ── 家康を助けた恩義に由来する姓」 https://iwata-monogatari.net/t055.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第170号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/170/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第200号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/200/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。