失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / こひめっこの墓 ── 赤池の真田姫伝承

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第200号(豊田・赤池伝承研究)

こひめっこの墓 ── 赤池に400年伝わる真田の姫の伝承を読む

「未確認」と「記載なし」を分ける ── 伝承の史料的価値と限界、そして記憶の継承

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市豊田・赤池

要旨

磐田市赤池の墓地に、真田幸村が徳川秀忠に攻められた際、幼い姫を赤池の藤原氏(後の大杉家)に託したとの伝承をもつ「こひめっこの墓」が伝わる。本稿は、この400年の言い伝えを対象に、伝承が史実になりうるかという問いを史料批判の観点から検討する。石造物としての墓が現存し、地域が長く弔ってきたことは確認できる史実である一方、「真田の姫」という比定と幸村個人との関係は、一次史料に突き当たらない未確認の領域にとどまる。本稿はこの「未確認」と「史料に記載がない(記載なし)」とを厳密に区別することを中心論点に据える。そして伝承を史実の劣位に置くのでも史実へ短絡させるのでもなく、地域が名も残らぬ弱い者を四世紀にわたり弔い続けてきたという記憶の継承それ自体を、独立した歴史的事実として記述する立場をとる。あわせて落人・姫伝説という説話類型の広がりのなかに、赤池の墓を位置づける。

キーワード:こひめっこの墓/真田幸村/落人・姫伝説/史料批判/未確認と記載なし/記憶の継承/赤池

1. 問題設定 ── 伝承は史実になりうるか

磐田市赤池の墓地に、「こひめっこの墓」と呼ばれる小さな石造の墓がある。豊田町郷土を研究する会が昭和53年(1978年)に編んだ『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』は、旧豊田町域の史跡・伝承地60か所を大字ごとに紹介するが、その最後、60番目に置かれたのがこの墓である1。信州上田城主・真田幸村が二代将軍徳川秀忠に攻められたとき、幼い姫を遠く離れた遠江国豊田郡赤池の藤原氏(後の大杉家の先祖)に託し、姫は両親と離れたまま幼くして世を去った──赤池の人々はその小さな命を、以来四百年にわたって弔い続けてきたと伝える。

本稿がこの言い伝えを第200号の主題に選んだのは、それが「伝承は史実になりうるか」という、本論考シリーズが繰り返し向き合ってきた問いを、最も凝縮した形で差し出すからである。派手な合戦や制度の記録とは違い、ここにあるのは名も残らぬ幼い命の墓ひとつと、それを守り続けたという一族の記憶だけである。史料の裏づけは薄い。しかし薄いからといって切り捨ててしまえば、地域が四世紀にわたり抱え続けてきたものを、まるごと取りこぼすことになる。問われているのは、確かめられない伝えをどう扱うか、という一点である。

そこでまず、混同されがちな二つの事柄を切り分けておきたい。第一に、赤池の墓地に「こひめっこの墓」と呼ばれる墓が現に存在し、地域の人々によって長く守られてきたこと。これは現地の石造物と、それを記録した郷土資料によって確認できる史実である。第二に、その墓に葬られたのが「真田幸村が託した姫」であるという比定。これは資料に伝えられてはいるが、一次史料による裏づけをもたない伝承であり、後述するとおり、その中核部分は未確認の領域にとどまる。墓の実在と、被葬者の比定とは、確度の層がまったく異なる。この二つを一息に「真田の姫の墓が残っている」と語ってしまうところに、伝承を扱う際の最初の落とし穴がある。

本稿は、この腑分けのために四つの確度層を用いる。史料で確認できる史実、学界で広く支持される通説、根拠はあるが未確定の推定、地域で語り継がれてきた伝承の四層である。そして本稿の中心論点は、このうち伝承をさらに二つの状態へ分けることにある。すなわち、当該史料に記述が存在しないと確認された「記載なし」と、管見の限り一次史料に突き当たっていないだけの「未確認」との区別である。両者はしばしば同じ「証拠がない」という言葉でくくられるが、意味はまるで違う。前者は探索が尽きた結果であり、後者は探索がまだ途上にあることを示すにすぎない。

第200号という節目にあたって、あらためて確認しておきたいことがある。郷土史の仕事は、伝承を史実へと格上げすることでも、逆に伝承を「作り話」として退けることでもない。伝えられてきたものを、それが属する確度の層のなかで正当に評価し、どこまでが確かめられ、どこからが確かめられないのかを、読者が自分で判断できる形にして残すことである。以下では、まず素材となった史料の性格を確定し、言い伝えの中身を押さえたうえで、「真田幸村」という比定を検証し、落人・姫伝説の類型のなかに置き直し、確度の腑分けを経て、最後に四百年の弔いという記憶の継承へと論を進める。

こひめっこの墓をめぐる情報の確度層 史実(史料で確認) 墓の現存/弔いの継続 郷土資料への記録 伝承(地域で語り継ぐ) 真田の姫という比定 幸村が託したという経緯 推定(根拠あり未確定) 戦国末の落人的な経緯 遠隔地への子女託し 未確認(一次史料に未到達) 幸村個人と姫の関係 託しの年次・具体的経路
図1 情報の確度層。同じ「こひめっこの墓」という主題のなかにも、史実・伝承・推定・未確認が混在する。本稿はこれらを一息に語らず、層ごとに分けて評価する。

2. 素材の確定 ──『町内史跡めぐり』という史料

伝承を検討する前に、その伝承が拠って立つ史料の性格を確定しておく必要がある。本稿がこひめっこの墓について依拠しうるほぼ唯一のまとまった記録は、豊田町郷土を研究する会が編み、豊田町教育委員会が昭和53年(1978年)3月に発行した『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』である。この資料は旧豊田町域の史跡・伝承地60か所を大字ごとに整理して紹介したもので、赤池のこひめっこの墓はその60番目、掉尾に置かれている。一般向けの紹介としては磐田物語の記事「こひめっこの墓」が、また同資料の全体像については「町内史跡めぐり60選」が、それぞれ扱っている。

ここで史料批判の初歩として押さえるべきは、この資料が1978年に地域の研究会によって編まれた二次的な記録だという点である。すなわち、戦国末の出来事を同時代に書きとめた一次史料ではなく、四世紀のちに、地域に伝わっていた口碑を聞き書きし、整理した記録である。したがってそこに記された「真田幸村」「徳川秀忠」「藤原氏」といった固有名は、当時の文書に裏づけられた記載ではなく、伝承として語り継がれてきた内容を、編者が忠実に書きとめたものと理解しなければならない。資料の価値は、伝承をありのまま記録した点にあり、伝承の史実性を保証する点にあるのではない。

もう一点、この資料の記述に見える「400年」という数字の扱いにも注意を要する。1978年の時点で「400年もの長い間」守られてきたと表現されているのだから、この数字は編纂時から逆算した概数であって、墓の造立年や託しの年次を史料で確定した数値ではない。単純に逆算すれば16世紀末から17世紀初頭にあたり、真田氏が徳川方と激しく争った時代に重なりはするが、この重なり自体が伝承を裏づけるわけではない。「400年」は、地域の記憶がそれだけ長く続いてきたという体感を表す言葉として受けとめるべきであり、精密な編年の根拠として用いることはできない。

史料がこの一点に事実上限られること自体が、本稿の方法を規定する。豊富な文書に恵まれた主題であれば、記述を突き合わせて事実を絞り込む作業ができる。しかしこひめっこの墓については、突き合わせるべき別系統の一次史料が、本稿の調査範囲では見あたらない。したがって本稿にできるのは、この単一の記録が伝える内容を、確度の層ごとに腑分けし、それぞれの層が何を語り、何を語りえないのかを見定めることである。素材が薄いことを嘆くのではなく、薄い素材からどこまで慎重に読み取れるかを示すことに、方法上の意味がある。

3. 言い伝えの中身 ── 真田の姫と赤池の藤原氏

資料が伝える言い伝えは、おおむね次のような筋立てである。信州上田城主であった真田幸村(真田信繁)が、二代将軍・徳川秀忠に攻められたとき、幼い姫を遠く離れた遠江国豊田郡赤池の藤原氏、すなわち後の大杉家の先祖に託した。姫はその後、両親のもとを離れたまま、幼くして亡くなった。それを哀れんだ赤池の人々が、長くその墓を弔い続けてきた──というのである。「こひめっこ」という呼び名そのものが、幼い姫への親しみと憐れみを込めた土地の呼称であり、正式な戒名や諱ではない。この呼称のありようが、この墓が公式の系譜のなかにではなく、地域の日々の記憶のなかに保たれてきたことを示している。

この筋立てには、三つの構成要素が絡み合っている。第一に、託した側としての「真田幸村」という固有名。第二に、託された側としての「赤池の藤原氏=大杉家先祖」という受け皿。第三に、両者を結ぶ「戦に追われて幼い姫を遠地に預ける」という行為の型である。史料批判にあたっては、この三要素を分けて考えるのが有効である。というのも、それぞれが依拠する根拠の性格が異なるからである。第二の受け皿については、大杉家という現に続く家がその墓を守ってきたという事実によって、地域内でひとまず跡づけられる。これに対し第一の固有名と第三の行為の型は、いずれも地域の外の歴史、すなわち信州の真田氏の動向に関わるため、地域の記憶だけでは裏づけようがない。

とりわけ第二の要素、託された側の家が地域に実在し、その家が墓を守り続けてきたという構造は、この伝承の骨格をなす。落人や姫を「預かった」とする伝承は、預かった側の家にとって、自家の由緒を高める物語ともなりうる。そのことは伝承の成り立ちを考えるうえで割り引いて見るべき点だが、同時に、預かった家が代々その墓を実際に守ってきたという継続の事実は、伝承の内容が単なる思いつきではなく、具体的な弔いの営みに支えられてきたことを示してもいる。物語の真偽とは別に、墓と、それを守る家と、憐れみの呼称とが一体となって伝わってきたこと自体は、確かめうる。

信州上田と遠江赤池のあいだには、直線でおよそ二百キロメートルの隔たりがある。国でいえば信濃から遠江へ、山を越え、いくつもの国境を越える道のりである。この地理的な遠さは、伝承の劇性を高める一方で、その検証を難しくする要因でもある。近隣の落人伝説であれば、逃避の経路や中継地を地形に沿って推測することもできるが、これほど離れた二地点を結ぶ経緯を、中間の記録なしに跡づけるのは容易でない。伝承は結果としての「赤池に姫が来た」ことだけを語り、そこに至る経路を語らない。この沈黙もまた、伝承という史料の性格を考えるうえで見落とせない。

信州上田 → 遠江赤池 ── 伝承が結ぶ二百キロ 信州上田 真田氏の拠点 遠江赤池 藤原氏=大杉家 幼い姫を託す(伝承) 約200km・信濃から遠江へ ── 中間の経路を伝承は語らない
図2 伝承が結ぶ二地点。信州上田と遠江赤池を隔てる約二百キロの道のりを、伝承は結果として結ぶが、その経路や中継地は語らない。この沈黙も史料の性格の一部である。

4. 「真田幸村」という比定を検証する

史料批判・中核

「上田城主・真田幸村が姫を託した」を史実の側から点検する

呼称そのものの検討。伝承は託した人物を「上田城主・真田幸村」と呼ぶ。しかし史実に照らすと、この呼称には二重のずれがある。まず「幸村」は、諱を信繁といったこの武将が、後世の軍記物や講談を通じて広めた通称であって、同時代に本人が名のった名ではない。次に、上田城の城主は父・真田昌幸であり、慶長5年(1600年)以降は兄・信之がその地位を継いだ。信繁自身が上田城主であった事実は確認できない2。つまり「上田城主・真田幸村」という呼び方は、後世に定着した真田像を通して人物を整理した表現であり、伝承が近世以降の真田人気のなかで形を整えていった痕跡を示している。

「秀忠に攻められた」局面の照合。一方、信繁が徳川秀忠と直接対峙した局面は、史実として明瞭に押さえられる。慶長5年(1600年)の第二次上田合戦において、信繁は父昌幸とともに上田城に拠り、関ヶ原へ向かう秀忠の大軍を足止めした。のち大坂の陣(慶長19〜20年、1614〜1615年)で豊臣方に加わり、そこで生涯を閉じている3。伝承の「徳川秀忠に攻められたとき」という一句は、この1600年の上田城での対峙とよく重なる。人物比定に難があっても、時代設定そのものは史実の骨格と矛盾しない。伝承がまったくの荒唐無稽ではなく、ある歴史的状況を核として形づくられていることは認めてよい。

「姫を赤池へ託した」の裏づけ。問題は、この核から「幼い姫を遠江赤池へ託した」という具体的経緯へ至る部分である。信繁には複数の子女があったと伝わり、その一部が縁者を頼って各地へ落ちのびたとする話も、真田氏をめぐっては各地に語られている。しかし、そのいずれかを遠江国豊田郡赤池の藤原氏へ託したことを記す一次史料に、本稿は突き当たっていない。系譜史料や大名家の記録のなかに赤池への託しを裏づける記述があるのか否か、本稿の調査範囲では確認できていない。ここは断定を避け、伝承として提示するにとどめるほかない。

「未確認」であって「否定」ではない。強調しておきたいのは、裏づけが見あたらないことは、伝承を否定する根拠にはならないという点である。一次史料に突き当たらないのは、そのような事実がなかったからかもしれないし、記録が残らなかったからかもしれないし、記録は残っているが本稿が把握していないからかもしれない。この三つは截然と異なる。落ちのびる姫を密かに託すという事柄は、そもそも記録に残しにくい性質のものであり、記録の不在をただちに事実の不在と読み替えることはできない。したがって本稿は、幸村と姫の関係を「否定される伝承」ではなく「未確認の伝承」として扱う。

本稿の評価:「上田城主・真田幸村」という呼称は後世の真田像による整理を含み、そのまま史実とは読めない。ただし1600年の秀忠との対峙という時代設定は史実と整合する。姫を赤池へ託したとする中核の経緯は、否定されるのではなく未確認の領域にとどまる。
伝承の各要素の弁別 ── 史実と整合/未確認 史実と整合する要素 未確認・要検討の要素 秀忠と対峙(1600年・上田) 戦乱の時代設定 大杉家が墓を守った継続 「上田城主・幸村」の呼称 姫を赤池へ託した経緯 託しの年次・具体的経路 同じ一つの伝承のなかに、確度の異なる要素が同居している。
図3 伝承の要素弁別。時代設定と弔いの継続は史実と整合するが、人物比定と託しの経緯は未確認にとどまる。伝承を丸ごと肯定も否定もせず、要素ごとに確度を測る。

5. 落人・姫伝説という類型のなかで

個別の史実性を離れて視野を広げると、こひめっこの墓は決して孤立した奇談ではないことが見えてくる。敗れた武将が、身を隠すため、あるいは縁戚・同盟の縁を頼って、幼い子女を遠隔地の土地の者に託す──こうした筋立ての伝承は、いわゆる落人伝説・姫伝説として、全国に広く分布している4。平家の落人、南朝方の遺臣、あるいは戦国大名の遺児をめぐる話が、山あいの集落や旧家に数多く伝わっている。赤池のこひめっこの墓も、この広い説話群の一つとして位置づけることができる。

類型として捉える利点は、個々の伝承の真偽を問う手前で、なぜこの種の物語がかくも多く生まれ、守られてきたのかを問えるようになる点にある。落人・姫伝説には、いくつかの共通する要素がある。中央の大きな歴史(合戦や王朝の興亡)と、地方の小さな共同体とを一本の糸で結ぶこと。敗者・弱者への憐れみが物語の情動的な核をなすこと。そして、預かった側の家にとっては、自家の由緒を語る記憶ともなること。こひめっこの墓の伝承は、これらの要素をひととおり備えている。真田という全国に知られた名、幼い姫という最も弱い存在、そして大杉家という受け皿。類型の骨格にきれいに収まっている。

ここで、磐田物語がすでに扱ってきた近隣の事例と並べてみると、赤池の墓の位置がいっそう明瞭になる。たとえば池田に伝わる熊野御前の物語もまた、中央の貴顕と地方の地とを結び、一人の女性の生涯に憐れみを寄せる点で、同じ情動の型を共有している。史実と伝承を分けて扱うべき対象であることも共通する。地域の伝承をこうした類型のなかに置くことは、その伝承を相対化して価値を下げることではなく、むしろ、なぜ人々がその物語を必要とし、語り継いできたのかという、より深い問いへ導くことである。

ただし、類型論には慎むべき一線もある。「よくある落人伝説の一つだ」と分類し終えた気になってしまえば、それはそれで、個別の伝承がもつ固有の質感を切り捨てることになる。赤池のこひめっこの墓には、「こひめっこ」という土地固有の憐れみの呼称があり、四百年にわたる弔いという具体的な営みがある。類型は伝承を理解する枠組みを与えるが、枠に収めることが目的ではない。型を押さえたうえで、なおその型に還元しきれない、この墓ならではの個別性へ立ち返ること。それが、類型論を有効に使う際の作法である。

落人・姫伝説という類型のなかの赤池 こひめっこの墓 赤池・真田の姫 中央と地方大きな歴史を結ぶ 弱者への憐れみ情動的な核 受け皿の家由緒の記憶 遠隔地への託し逃避と保護
図4 類型のなかの位置。落人・姫伝説に共通する四要素を、赤池のこひめっこの墓もひととおり備える。ただし類型への還元で終わらせず、土地固有の質感へ立ち返ることが要る。

6. 「未確認」と「記載なし」── 確度の腑分け

ここまでの検討を、本稿の中心論点である「未確認」と「記載なし」の区別に沿って整理しておきたい。この二つは、どちらも「証拠が示せない」状態を指すように見えて、その内実はまったく異なる。「記載なし」とは、特定の史料を実際に確かめたうえで、そこに当該の記述が存在しないことが確認された状態をいう。これは探索の結果としての不在であり、それ自体が一つの積極的な知見となる。これに対し「未確認」とは、管見の限りそれを裏づける一次史料に突き当たっていない、という探索途上の状態をいう。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが把握できていないのか、元来作られなかったのか──そのいずれであるかは、まだ判定されていない5

この区別を、こひめっこの墓に即して適用すると、次のようになる。墓の現存と、大杉家による弔いの継続、そして『町内史跡めぐり』への記録は、いずれも確かめられる史実である。信繁が1600年に秀忠と対峙したことは、独立した史料で裏づけられる史実であり、伝承の時代設定はこれと整合する。他方、「上田城主・真田幸村」という呼称は、史実の真田氏の系譜と照らして不整合が確認できる部分であり、これはむしろ「記載と食い違う」ことが分かった例にあたる。そして最も肝心な、幸村個人が姫を赤池へ託したという中核の経緯は、それを裏づける一次史料にも、それを否定する明確な記述にも、本稿は突き当たっていない。すなわち未確認である。この墓の伝承を扱う難しさの核心は、この最後の一点が「記載なし」ではなく「未確認」である、というところにある。

なぜこの区別にこだわるのか。もし「一次史料に記載がないから、真田の姫という話は史実ではない」と言い切ってしまえば、それは探索が尽きていないにもかかわらず不在を断定する誤りに陥る。逆に、「否定する史料もないのだから、真田の姫は実在した」と言えば、未確認を史実へ短絡させる誤りに陥る。伝承を扱う書き手が犯しやすい過ちは、この両極に分かれる。本稿がとる第三の道は、未確認を未確認のまま正確に名指し、その状態がどのような追加調査によって前進しうるのかを示すことである。真田氏の系譜史料や大名家の記録、赤池・大杉家に伝わる文書、墓石そのものの銘や様式の調査──これらは、いずれ「未確認」を「記載なし」あるいは「確認」へと動かしうる手がかりである。

関連する方法論は、本論考シリーズでも繰り返し試みてきた。たとえば第160号「千手前の足跡を読む」では、一人の女性をめぐる伝承を、地名や人の記憶に即して史料批判的に読み解いた。伝承の確度を層に分け、断定を避けながら、なお伝承の価値を切り下げないという姿勢は、赤池のこひめっこの墓にもそのまま通じる。次の比較表は、この墓をめぐる主要な情報を、確度の層ごとに整理したものである。特定の結論へ誘導するのではなく、各項目がどの層に属し、何によって支えられ、何が欠けているのかを、同じ粒度で並べることを心がけた。

表1 こひめっこの墓をめぐる情報の腑分け ── 史実・伝承・推定・未確認
項目確度の層内容根拠・支え欠けているもの/留意点
墓の現存史実赤池の墓地に「こひめっこの墓」と呼ばれる石造の墓がある。現地の石造物、郷土資料の記録。造立年を記す銘は未確認。編年は今後の課題。
弔いの継続史実大杉家と地域が長く墓を守り弔ってきた。継承する家の存在、地域の証言、1978年の記録。継続の起点・過程を記す文書は乏しい。
秀忠との対峙史実真田信繁は1600年に上田城で秀忠軍と対峙した。近世の記録・軍記、諸家の系譜。これ自体は赤池と直接は結びつかない。
戦国末の託しの経緯推定戦乱のなか子女を遠隔地に託す事例は各地にあった。落人・姫伝説の分布、時代状況。赤池の事例への一般化は仮説にとどまる。
真田の姫という比定伝承被葬者は真田幸村が託した幼い姫であるとする。地域の口碑、『町内史跡めぐり』。一次史料の裏づけを欠く。
幸村個人と姫の関係未確認幸村が姫を赤池へ託したこと。裏づけ・否定いずれの一次史料にも未到達。「記載なし」ではなく「未確認」。追加調査の対象。
「上田城主・幸村」の呼称要検討託した人物を上田城主・真田幸村と呼ぶ。後世に定着した真田像。城主は昌幸・信之であり史実と不整合。
伝承の伝達経路 ── 出来事から記録、そして現在へ 戦国末の出来事(伝承・未確認) 大杉家の口伝預かった家の記憶 弔いの継続墓守り(史実) 1978年の記録町内史跡めぐり 現在本稿 確度は右へ進むほど確かめやすくなる。左端の出来事だけが未確認のまま残る。
図5 伝承の伝達経路。出来事から口伝、弔いの継続、記録、現在へと右へ進むほど確度は高まる。確かめられないのは経路の起点、すなわち出来事そのものである。

7. 400年を守るということ ── 記憶の継承

ここまで史料批判の観点から慎重に腑分けを重ねてきたが、それは伝承の価値を測り落とすためではない。むしろ逆である。中核の経緯が未確認であることを見定めたうえで、なお確かに残るものが何かを浮かび上がらせるためである。そして確かに残るのは、赤池の人々が、遠い土地で幼くして亡くなった名もなき命を、四百年にわたって弔い続けてきたという事実そのものである。この弔いの継続は、伝承の真偽とは独立に確かめうる、それ自体一個の史実である。

祭りのように華やかな行事ではなく、静かに墓参りが続けられてきたという営みが、口伝えだけで四世紀にわたり同じ場所で保たれる。これは決して当たり前のことではない。多くの墓は、家の断絶や土地の変転のなかで、守り手を失い、やがて誰のものとも知れぬ石になっていく。こひめっこの墓が「こひめっこ」という憐れみの名とともに今日まで伝わったのは、大杉家という受け皿の家が代々その記憶を手放さず、地域がその弔いを支え続けてきたからにほかならない。ここにあるのは、史料に残る大きな歴史ではなく、記憶を継承するという地道な営みの厚みである。

この視点は、本論考シリーズが一貫して大切にしてきたものでもある。第185号「山内克巳の足跡を読む」で論じたように、一つの名、一つの記憶が地域のなかでどう受け継がれ、あるいは失われていくかを見つめることは、大きな合戦史や制度史とは別の水準で、地域の歴史を支えている。天下を左右した合戦の記録の陰には、名も残らぬ、しかし確かに弔われ続けてきた小さな命がある。こひめっこの墓は、そのことを静かに証している。真田という名にゆかりがあろうとなかろうと、弱い者を長く弔い続けたという行為の持続は、それ自体として尊い。

記憶の継承という観点は、伝承の史実性をめぐる問いを、別の角度から照らし直す。仮に将来、幸村と姫を結ぶ一次史料が見つかり、伝承が史実へと確定したとしても、この墓がもつ意味の中心が変わるわけではない。逆に、その経緯が最終的に否定されたとしても、四百年の弔いが失われるわけではない。伝承が史実になるか否かという問いの手前に、地域がその記憶を選び取り、守り続けてきたという、より確かな事実が横たわっている。史料批判は、この確かな事実を、あやふやな比定から切り分けて救い出すための手続きなのである。

ここで一つ、記憶の継承という営みが、書き手にとって何を意味するかも考えておきたい。口伝えによる記憶は、語り手が代替わりするたびに細部を欠き、また新たな解釈を加えられながら伝わる。「上田城主・真田幸村」という呼称が後世の真田像を映し込んでいるのは、まさにこの過程の産物である。したがって伝承を記録するとは、変質を免れた原型を取り出す作業ではなく、変質の痕跡もろとも、いま伝わっている姿を正確に書き留める作業である。四百年のあいだに伝承がどう形を整えてきたか、その変化の跡それ自体が、地域が何を大切にしてきたかを語る資料となる。原型を求めて細部を切り捨てるのではなく、伝わった姿の全体を、確度の層を付して残すこと。それが、記憶の継承を受けとめる側の作法であろう。

近世の赤池は、旧豊田郡の農村として、天竜川下流の低地に営まれた集落であった。派手な合戦の舞台になったわけでも、著名な社寺を擁したわけでもない。しかしそうした無名の土地にこそ、記録に残らない無数の記憶が堆積している。『町内史跡めぐり』が60番目にこの墓を置いたのは、豊田町域を歩き尽くした研究会が、最後に、最も小さく、最も静かな記憶へ行き着いたことを意味していよう。大きな史跡から小さな墓へと下りていくこの配列自体が、地域史のまなざしのありようを示している。

四百年、守られてきた ── 弔いの継続 17C初頭託し(伝承) およそ四百年の弔いの継続(史実) 1978町内史跡めぐり 2026 本稿 起点は伝承だが、そこから現在へ続く帯(弔いの継続)は確かめうる史実である。
図6 四百年の弔い。起点の出来事は伝承にとどまるが、そこから現在まで途切れず続いてきた弔いの帯そのものは、確かめうる史実として残る。記憶の継承こそがこの墓の核である。

8. 結論 ── 伝承を読むという作法

本稿は、赤池のこひめっこの墓に伝わる真田の姫の言い伝えを、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けし、とりわけ「未確認」と「記載なし」の区別を軸に検討してきた。得られた見取り図は次のとおりである。墓の現存と大杉家による四百年の弔いの継続は、確かめうる史実である。真田信繁が1600年に秀忠と対峙したことも独立した史実であり、伝承の時代設定はこれと矛盾しない。しかし「上田城主・真田幸村」という呼称は史実の系譜と不整合であり、後世の真田像による整理を含む。そして最も肝心な、幸村が姫を赤池へ託したという中核の経緯は、肯定・否定いずれの一次史料にも突き当たらない未確認の領域にとどまる。

この結論から引き出すべきは、伝承をどう扱うかという作法である。中核が未確認であることを理由に、この伝承を「作り話」として退けるのは、探索が尽きていないのに不在を断ずる誤りである。逆に、否定する史料がないことを理由に「真田の姫は実在した」と語るのは、未確認を史実へ短絡させる誤りである。本稿がとったのは、その両極を避け、未確認を未確認と正確に名指したうえで、確かめうる部分──墓の実在と、四百年の弔いの継続──を、あやふやな比定から切り分けて救い出す道であった。伝承を読むとは、伝承を史実へ格上げすることでも、史実の劣位へ切り下げることでもなく、確度の層を保ったまま、その全体を正確に書き留めることである。

では、伝承は史実になりうるか。本稿の立場を一文で示せば、こうなる。伝承の中核が史実へと確定するには、なお一次史料による裏づけが要り、その道はいまなお開かれている(未確認は否定ではない)。だが、その確定を待つまでもなく、地域が弱い者を四百年にわたり弔い続けてきたという記憶の継承それ自体は、すでに揺るがぬ史実として、この墓に刻まれている。伝承が史実になるか否かという問いは重要だが、その手前に、より確かな別の史実が横たわっていることを見落としてはならない。

最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、墓石そのものの銘や様式の実地調査は、造立年の手がかりを与え、「未確認」を「記載なし」あるいは「確認」へ動かす可能性がある。第二に、赤池・大杉家に伝わる文書や過去帳の博捜は、弔いの継続の過程をより精確に描きうる。第三に、真田氏の子女をめぐる系譜史料との照合は、比定の当否を判定する手がかりとなる。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を一歩ずつ前へ進めていく作業に属する。第200号という節目に、最も小さく静かな墓を主題に選んだのは、大きな歴史の陰で守られてきた名もなき記憶にこそ、地域史の核心が宿ると考えるからである。断定を急がず、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、こひめっこの墓が四百年抱えてきた記憶の全体が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿の舞台である赤池をはじめ、旧豊田町域には、こうした小さな墓や古い家とともに受け継がれてきた土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、家じまいや相続に直面した折に、こうした土地の記憶とも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』(豊田町教育委員会発行、1978年3月20日)の60番「こひめっこの墓(赤池)」による。旧豊田町域の史跡・伝承地60か所を大字ごとに紹介した郷土資料であり、こひめっこの墓はその最後に置かれている。
  2. 真田幸村は諱を信繁といい、「幸村」は同時代の呼称ではなく、後世の軍記物・講談を通じて広く定着した通称である。また上田城の城主は父・真田昌幸であり、慶長5年(1600年)以降は兄・信之が継いだ。信繁自身が上田城主であった事実は確認できない。伝承の「上田城主・真田幸村」という呼称には、近世以降の真田像による整理がうかがえる。
  3. 真田信繁が徳川秀忠と直接対峙した史実として明瞭なのは、慶長5年(1600年)の第二次上田合戦(父昌幸とともに上田城に拠り、関ヶ原へ向かう秀忠の軍を足止めした)と、慶長19〜20年(1614〜1615年)の大坂の陣である。伝承の「秀忠に攻められたとき」という時代設定は、前者とよく重なる。
  4. 敗軍の武将が縁者の子女を遠隔地の土地の者に託したとする落人・姫伝説は、平家の落人譚をはじめ全国に広く分布する説話型である。個々の真偽とは別に、型として比較・分類しうる。
  5. 本稿では「未確認」を「管見の限り一次史料に突き当たっていない状態」、「記載なし」を「特定の史料を確かめたうえで当該の記述が存在しないと確認された状態」と定義し、両者を区別する。前者は探索途上の状態、後者は探索の結果としての不在であり、意味が異なる。

付記:本稿は一般読者向け記事 t054「こひめっこの墓 ── 赤池に400年伝わる、真田の姫の言い伝え」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、墓の現存と弔いの継続を史実、真田の姫という比定を伝承、幸村個人と姫の関係を未確認として扱った。

参考文献・参考資料

  • 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』豊田町教育委員会、1978年。
  • 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』(通史・資料の該当章)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(該当章)。
  • 静岡県編『静岡県史』通史編・資料編(該当章)。
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』角川選書、2015年。
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書、2015年。
  • 『寛政重修諸家譜』真田氏の項。
  • 柳田国男『日本の伝説』(落人・姫伝説に関する伝説論の古典として)。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 磐田物語 t054「こひめっこの墓 ── 赤池に400年伝わる、真田の姫の言い伝え」 https://iwata-monogatari.net/t054.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 t044「『町内史跡めぐり』60選 ── 昭和53年、豊田町郷土を研究する会が歩いた記憶の地図」 https://iwata-monogatari.net/t044.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 t033「熊野御前ものがたり ── 池田に生きた伝説の女性と行興寺」 https://iwata-monogatari.net/t033.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第160号「千手前の足跡を読む ── 向陽の地名と人の記憶を史料批判する」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/160/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第185号「山内克巳の足跡を読む ── 一人の名から地域の記憶を史料批判する」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/185/ (最終閲覧:2026年7月26日)。