失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 旧赤松家門・塀を読む

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第170号(見付・近代和風建築研究 一)

旧赤松家門・塀を読む

近代和風の遺構と保存の論理 ── 部分から全体を推す作法をめぐって

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市見付

要旨

見付の旧赤松家に伝わる門と塀は、静岡県指定の建造物として、明治期の屋敷構えの一端を今に残す。本稿は、この門・塀を近代和風建築の遺構として読み解くにあたり、確認できる情報を確度の層に腑分けする。指定区分・種別・指定年月日といった公式指定情報は史料で確認できる史実として扱い、意匠の系譜や建築的評価は根拠のある推定として提示し、赤松則良や赤松家をめぐる逸話は伝承の層に位置づける。とりわけ本稿が重視するのは、門・塀という部分の遺構が何を語り、何を語らないのかという問いである。屋敷の主屋や全体像を裏づける一次史料は本稿の範囲では未確認であり、これは公式指定が門・塀のみを対象として主屋に言及しない「記載なし」とは区別されねばならない。この未確認と記載なしの弁別を保ちつつ、部分から全体を推す方法の限界を示し、あわせて指定・登録という文化財保存の論理のなかに、この遺構を位置づけ直すことを試みる。

キーワード:旧赤松家門・塀/赤松則良/近代和風建築/県指定文化財/遺構/文化財保存/見付宿

1. 問題設定 ── 遺構としての門・塀をどう読むか

文化財としての建造物を前にしたとき、私たちはしばしば、それが完結した一個の作品であるかのように向き合ってしまう。だが門や塀は、本来それ単体で立つものではない。門は屋敷の内と外を分ける境であり、塀は敷地の輪郭をなぞる線である。いずれも、その奥にある主屋や庭、そして敷地全体という文脈があってはじめて意味をもつ部分にほかならない。旧赤松家門・塀を読むという作業は、したがって、失われたかもしれない全体を背後に置きながら、いま残る部分を見るという二重の視線を要求する。

見付の旧赤松家に残る門と塀は、静岡県の指定を受けた建造物である。指定名称がすでに「門・塀」と部分を名指している点に、この文化財の性格が端的に表れている。屋敷そのものではなく、屋敷の構えの一部が、独立した指定の対象として選び取られている。ここから直ちに問いが立ち上がる。なぜ門と塀だけが残り、指定されたのか。残らなかった部分については、何が分かり、何が分からないのか。そして、部分だけを手がかりに、かつての屋敷の姿をどこまで語ってよいのか。

本稿は、この一連の問いを、確度の層を分けるという方法によって扱う。地域史の記述において繰り返し確認してきたことだが、一つの対象をめぐる情報は、必ずしも同じ確からしさをもって並んでいるわけではない。公式の指定情報のように史料で確認できる事柄もあれば、意匠の系譜のように根拠はあるが確定はできない推定もあり、地域や家に伝わる逸話のように、事実の当否とは別の水準で意味をもつ伝承もある。これらを同じ平面で語れば、確度の低い話を史実のように扱い、あるいは価値ある伝えを根拠薄弱として切り捨てる誤りに陥る。

そこで本稿では、四つの層を語の水準で書き分ける。第一に史実、すなわち公式の指定情報や公刊された記録によって確認できる事柄。第二に通説、広く受け入れられているが一点では確定できない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域や家で語り継がれてきた事柄である。この四層を混同しないことが、遺構を読む前提となる。

あわせて、本稿はもう一組の区別を一貫して保持する。「未確認」と「記載なし」の弁別である。未確認とは、その事柄を裏づける一次史料に、管見の限りまだ突き当たっていないという筆者の側の状態を指す。記載なしとは、参照した史料や公式情報のなかに、その事柄への言及が現に無いという史料の側の状態を指す。両者はしばしば混同されるが、意味はまったく異なる。ある事柄が未確認であることは、それが存在しなかったことを意味しないし、記載がないことも、また同じではない。門・塀という部分の遺構を扱う本稿にとって、この区別はとりわけ重要になる。以下では、まず確認できる史実を押さえ、次いで人物史・意匠・遺構の残存範囲を順に検討し、比較と保存の論理を経て結論に至る。

敷地全体(外周=塀) 主屋(未確認) 全体像は本稿では確認できない 塀(残存) 塀(残存) 門・塀は屋敷の「部分」である 青の実線(門・塀)が指定・残存する部分、破線の主屋・敷地は本稿では未確認。
図1 門・塀の構成模式図。指定の対象は屋敷の外縁をなす門と塀であり、その奥にあったはずの主屋・庭・敷地全体は、本稿の範囲では確認できない。部分と全体の非対称が、この遺構を読む出発点となる。

2. 公式指定情報から確認できる史実

遺構の読解に入る前に、史料で確認できる範囲を確定しておく。旧赤松家門・塀は、静岡県の指定を受けた建造物であり、その種別は建造物、指定年月日は平成4年(1992年)3月17日である。年代は明治時代とされ、所在地は見付、所有者・管理者は磐田市である1。これらは磐田市の公式指定文化財情報および磐田物語の「磐田市の指定文化財一覧」に基づく事実情報であり、本稿ではこの範囲を史実として扱う。

ここで、指定情報が語る事柄の水準を丁寧に読み分けておきたい。まず「県指定・建造物」という区分と、平成4年3月17日という指定年月日は、行政的な事実として確定している。これは、この門・塀が公的に文化財として価値を認められた日付であり、疑いようがない。だが注意すべきは、この日付が門・塀そのものの成立年代ではないという点である。指定年月日は、近現代の保存意識が制度として表れた節目であって、建造物が造られた時期とは別の層に属する。

では建造の時期はどうか。公式情報は年代を「明治時代」と記す。この記載は、門・塀が明治期の屋敷構えを伝えるものであるという同定に基づく。しかし「明治時代」という幅のある表記は、逆に言えば、建造の年を特定の一年に絞り込む史料が示されていないことをも示している。明治という時代のどの段階に、どのような経緯で、誰の手によって建てられたのか。その細部を直接に記す一次史料に、本稿は突き当たっていない。すなわち、建造年代の細部は未確認である。年代が明治時代とされること自体は史実として受け取りつつ、その内部の具体的な年次は推定の余地を残す、という二重の姿勢が求められる2

公式情報の性格についても一言しておく。指定文化財の公式説明は、その文化財を同定するための骨格である。名称・区分・種別・年代・所在地・指定年月日といった項目は、対象を一意に特定し、行政的に管理するための情報であって、建築の意匠や来歴を詳述する性格のものではない。したがって、公式情報から引き出せるのは「この門・塀が県指定の建造物として確定している」という事実であって、「どのような様式で、いつ、なぜ建てられたか」という問いへの答えではない。この限界を踏まえておくことが、後続の推定的な議論を節度あるものに保つ。

もう一点、所有者・管理者が磐田市であることの含意にも触れておきたい。個人の屋敷に由来する門・塀が、現在は市の管理下にあるという事実は、この遺構がある時点で公的な保存の対象へと移されたことを示す。私有の建造物が公的管理へ移行する過程には、しばしば所有者の意向、家の継承の断絶、地域の保存運動といった複数の契機が絡む。ただし、旧赤松家門・塀が具体的にどのような経緯で市の管理に帰したのかを記す史料は、本稿の範囲では確認できていない。管理者が磐田市であることは史実として確認できるが、そこに至る過程は未確認である。この点も、史実と未確認を分けて記録しておく。

明治時代 門・塀の建造 (年次は未確認) 1992 平成4年3月17日 県指定(史実) ■ 推定(時代は史実/年次は未確認) ■ 史実(指定の日付) 建造年代と指定年月日は別の層にある
図2 建造と指定の時間軸。門・塀が造られた「明治時代」という時代区分は公式情報による史実だが、その内部の具体的な建造年次は未確認である。一方、平成4年(1992年)の県指定は行政的に確定した史実であり、両者は別の確度層に属する。

3. 赤松則良と旧赤松家 ── 履歴の史実と逸話の伝承

旧赤松家門・塀を語るとき、必ず引き合いに出されるのが赤松則良の名である。赤松則良は、幕末に生まれ、明治期の海軍において造船や技術の分野に携わった人物として知られる。海軍の草創期に技術者・技術官僚として関与したその履歴は、近代日本の海軍史・造船史のなかで一定の位置を占める。門・塀を「赤松則良ゆかりの旧赤松家」の遺構として読む視点は、この人物の履歴に支えられている3

層①・史実

確認できる履歴 ── 海軍技術者としての赤松則良

確認できる範囲。赤松則良が幕末から明治にかけての海軍において、造船・技術の領域で活動した人物であることは、近代史の記述として広く確認されている。見付の旧赤松家がこの人物にゆかりをもつ屋敷として伝えられ、その門・塀が県指定の建造物となっていることも、公式情報および地域史の記述によって裏づけられる。ここまでは史実の層に置いてよい。

史実の限界。ただし、赤松則良その人がこの門・塀の建造に直接どのように関わったのか、建造の意思決定や費用の負担、設計への関与といった具体的な事柄を記す史料には、本稿は突き当たっていない。「赤松則良ゆかりの旧赤松家」という結びつきは確認できるが、「赤松則良が門・塀を建てた」と一次史料で確定できるかは別問題である。人物と遺構のゆかりを史実として認めることと、建造の主体を特定の個人に帰することとは、慎重に区別する必要がある。この点は未確認である。

層②・伝承/逸話

語り継がれる逸話 ── 家をめぐる記憶

伝承の扱い。著名な人物にゆかりの家には、しばしば逸話が伴う。誰がどのように暮らし、どのような来客があり、家の格がどう語られてきたか──こうした語りは、地域や家の記憶として受け継がれる。本稿はこれらを伝承の層に置き、事実の代替としてではなく、人々が旧赤松家の何を記憶し、何を価値としてきたかを示す資料として扱う。

逸話と史実を混ぜない。ここで警戒すべきは、著名人の履歴という確かな史実に引き寄せられて、家をめぐる逸話までを史実の水準へ格上げしてしまう傾向である。人物が著名であることは、その人にまつわる逸話のすべてを保証しない。本稿は、赤松則良の履歴を史実として尊重しつつ、家や門・塀をめぐる個別の逸話については、確認できる史料の有無を一つずつ問い、確認できないものは伝承の層にとどめる。伝承であることは価値の低さを意味しない。むしろ、地域が旧赤松家をどのように記憶に組み込んできたかを読む対象として重要である。

本稿の評価:赤松則良の海軍技術者としての履歴は史実として確認できる。だが門・塀の建造主体を個人に帰す点、および家をめぐる個別の逸話は、確認できる史料に乏しく、それぞれ未確認・伝承の層に置くべきである。

この腑分けは、人物ゆかりの文化財を読むうえで一般に有効である。ゆかりの人物が著名であればあるほど、遺構はその人の物語のなかへ回収されやすい。しかし文化財としての門・塀の価値は、赤松則良という個人の名声にのみ由来するのではない。むしろ、見付という土地に残る近代の屋敷景観の一端を伝える点にこそ、建造物としての価値がある。人物史と建築史は、重なりつつも別の評価軸であり、両者を切り分けることが、遺構をその内在的な価値において読むことを可能にする。旧赤松家という独自調査に値するテーマは、旧赤松家の記事とあわせて、人物と屋敷の双方から追う必要がある。

赤松則良の履歴 海軍・造船の技術 = 史実 門・塀への 建造の関与 = 未確認 家をめぐる逸話 暮らし・格の記憶 = 伝承 人物と遺構のゆかりを層に分ける 履歴は史実だが、建造への直接の関与は未確認、家の逸話は伝承にとどまる。
図3 人物と遺構のゆかりの腑分け。赤松則良の海軍技術者としての履歴は史実として確認できるが、門・塀の建造への直接の関与は未確認であり、家をめぐる逸話は伝承の層に置かれる。著名な履歴が逸話までを史実に格上げしないよう、層を分けて読む。

4. 近代和風建築としての門・塀 ── 意匠の系譜という推定

門・塀を建築として読むとき、まず問われるのはその様式である。ここからは史実の層を離れ、推定の層に入る。門や塀の意匠は、時代や地域、家の格に応じて一定の型をもつ。武家屋敷の格式を示す門、街道沿いの町家の構え、近代の邸宅がまとった和風の意匠──それぞれに系譜があり、細部の形式にその系譜が刻まれる。旧赤松家門・塀を近代和風建築の遺構として位置づける本稿の視点も、こうした様式論の枠組みに立つ。

近代和風建築とは、明治以降、伝統的な和風の意匠を基調としながら、近代の生活様式や技術、あるいは施主の社会的地位を反映して展開した建築の総称である。武家社会が解体したのち、旧士族や新興の名士、あるいは実業家や官僚といった近代の有力者たちは、しばしば伝統的な格式を意匠のうえで継承しつつ、そこに近代的な要素を織り込んだ屋敷を構えた。門と塀は、そうした屋敷の格を外に向けて示す装置であり、施主の社会的位置を最も端的に表現する部分でもある。海軍の技術者という近代的な履歴をもつ人物にゆかりの屋敷であることは、この門・塀を近代和風の文脈で読む一つの手がかりとなる。

ただし、ここで慎重でなければならない。門・塀の具体的な形式──柱の立て方、屋根の架け方、塀の構造や仕上げ──を、本稿は現物の詳細な実測や様式的分析に基づいて論じる立場にない。したがって、この門・塀がどの様式系譜に厳密に連なるかは、あくまで推定の水準にとどまる。近代和風建築の遺構であるという大枠の位置づけは、明治時代という年代と屋敷構えという性格から導けるが、その内部のより細かい様式判定は、建築史の専門的な調査に委ねられるべき事柄である。本稿は推定を推定として明示し、これを史実と偽らない。

それでも、系譜という視点は遺構を読む助けになる。門は単なる出入口ではなく、内と外の境界を儀礼的に画する装置であり、その形式には家の自己規定が表れる。塀もまた、敷地の輪郭を可視化し、屋敷の領域を街路に対して主張する。近代和風の門・塀を読むとは、これらの部分が、施主の社会的位置や時代の美意識をどのように翻訳しているかを問うことである。旧赤松家門・塀の場合、その翻訳の具体相は推定の域を出ないものの、近代の名士の屋敷が街道の町並みのなかに構えを示していた、その一般的な情景のなかに置いて考えることはできる。旧見付学校のような近代の建造物とあわせて見付の近代景観を構成する要素として捉える視点も、ここで有効になる。

系譜論のもう一つの効用は、比較の座標を与える点にある。単独の門・塀を眺めているだけでは、その特徴は見えてこない。同時代・同地域の他の門・塀と並べ、共通する型と個別の差異を測ることで、はじめてこの遺構の位置が浮かび上がる。近代和風建築という枠組みは、そうした比較のための共通の物差しを提供する。本稿はその物差しの目盛りを、この一件のみで確定することはできないが、比較の座標のなかに旧赤松家門・塀を置くという方向性を示しておきたい。

武家門の格式 近世の系譜 近代和風の 門・塀 明治の名士屋敷 近代的要素 技術・生活様式 意匠の系譜(推定) ── 伝統の格式と近代の要素の合流 具体的な様式判定は推定にとどまり、建築史的な実測調査に委ねられる。
図4 近代和風の意匠系譜(推定)。近世以来の門の格式に、明治の生活様式や技術という近代的要素が合流する地点に、この種の門・塀は位置づく。ただし旧赤松家門・塀の厳密な様式判定は推定の域にとどまる。

5. 遺構が語らないもの ── 主屋・全体像の未確認と記載なし

ここまで、門・塀という部分が語りうる事柄を見てきた。本節では逆に、この遺構が語らないもの、すなわち失われたかもしれない全体について考える。指定名称が「門・塀」と部分を名指している以上、屋敷の主屋や庭、敷地全体は、少なくとも指定の対象には含まれていない。ではその全体は、いま何が分かっているのか。

結論から言えば、旧赤松家の主屋や屋敷全体の姿を裏づける一次史料に、本稿は突き当たっていない。これは未確認の状態である。かつて門と塀の奥に主屋があったのか、あったとすればどのような規模と構えであったのか、それがいつ、なぜ失われたのか──これらの問いに答える史料を、筆者は把握していない。未確認とは、こうした筆者の側の到達点の限界を指す表現であって、主屋が存在しなかったという断定でも、その記録が世に存在しないという断定でもない。

この未確認と、公式指定情報における「記載なし」とは、明確に区別しなければならない。公式の指定情報は、対象を門・塀に限定し、主屋その他について言及しない。これは記載なし、すなわち参照した公式情報のなかに主屋への言及が現に無いという、史料の側の状態である。指定情報に主屋の記載がないことは、指定の範囲が門・塀に限られていることを示すだけであって、主屋がかつて存在しなかったことを意味しない。指定制度は、価値を認めた対象を選んで登録するものであり、記載の有無は保存対象の選択を反映するにすぎない。記載なしを「存在しなかった証拠」と読み替えることは、史料批判の初歩的な誤りである。

この二つの区別が実務上どう働くかを、具体に即して述べておく。仮に将来、屋敷の絵図や普請の記録、あるいは古写真が発見されれば、いま未確認である主屋の姿は史実の層へと繰り上がりうる。一方、公式指定情報に主屋の記載がないという事実は、そうした新史料が現れても変わらない。前者は筆者の探索の進展によって解消されうる状態であり、後者は指定という行為の性格に由来する固定した事実である。両者を混同すれば、「指定情報に書いていないから主屋はなかった」という誤った推論や、逆に「主屋があったに違いない」という根拠なき断定に、いずれも滑り落ちてしまう。

部分の遺構を扱うことの難しさは、まさにこの点にある。門・塀は確かに残り、県指定という確かな地位をもつ。だがその確かさは、屋敷全体の確かさを保証しない。残った部分の存在感が強いほど、私たちはその奥に完結した全体を思い描きたくなる。しかし、遺構が雄弁に語る部分と、遺構が沈黙する全体とを、同じ確度で扱ってはならない。本稿が門・塀という部分の遺構を「何を語り、何を語らないか」という問いのもとで読むのは、この誘惑に抗するためである。残る部分から、失われたかもしれない全体を、いかに節度をもって推すか──それが次節以降の主題となる。

門・塀(残存・県指定 = 史実) 主屋・全体像 一次史料に未到達 = 未確認 残存・史実 未確認(筆者の到達限界) 記載なし(指定の範囲外) 遺構の残存範囲 ── 部分は残り、全体は語られない
図5 遺構の残存範囲図。県指定された門・塀は史実として確かに残るが、その奥の主屋・全体像は一次史料に未到達の「未確認」である。公式指定が門・塀に限られ主屋に触れない「記載なし」とは、意味の水準を異にする。

6. 比較と史料批判 ── 指定と登録、見付の文化財のなかで

旧赤松家門・塀の位置を測るには、比較の座標が要る。ここでは二つの軸を用いる。第一に、文化財を守る制度の軸、すなわち「指定」と「登録」の違い。第二に、地域の軸、すなわち見付という土地に集積する他の文化財との関係である。前者は保存の論理を、後者は地域史のなかでの位置を、それぞれ照らし出す。

まず制度の軸から述べる。旧赤松家門・塀は「県指定」の建造物である。指定とは、文化財保護の制度において、とりわけ価値が高いと認められた対象を、行政が積極的に選び出して手厚く保護する仕組みを指す。これに対して「登録」は、平成期に近代の建造物の保存を目的として整えられた制度で、届出制を基調とし、より緩やかに広く近代の建造物を保存の網に掛けることを狙いとする4。旧赤松家門・塀が登録ではなく指定の対象であることは、この門・塀が、緩やかな網に掛けられる多数の近代建造物の一つとしてではなく、県が積極的に価値を認めた個別の対象として遇されていることを意味する。近代和風の遺構でありながら指定を受けているという事実自体が、この門・塀の評価の高さを示している。

ここで史料批判の観点を挟んでおく。指定という行為は、対象の価値を保証するが、対象の来歴のすべてを解明したことを意味しない。指定の判断は、現存する建造物の様式的・歴史的価値に基づいてなされるのであって、失われた主屋や屋敷全体の詳細が明らかであることを前提としない。つまり、指定を受けているという事実は、門・塀の価値を裏づけるが、前節で述べた主屋・全体像の未確認を解消するものではない。指定の確かさと、屋敷全体の未確認とは、両立する。この点を混同すると、「県指定なのだから屋敷の全容も分かっているはずだ」という誤った期待が生じる。

次に地域の軸である。見付には、旧赤松家門・塀のほかにも、近代の建造物や寺社、彫刻・工芸の指定文化財が集積している。近代和風の系譜という点では、近代教育の遺産である旧見付学校のような建造物が、同じ見付の近代景観を構成する。これらを一つひとつ孤立した点として見るのではなく、面としての歴史景観の要素として捉えるとき、旧赤松家門・塀は、見付宿という街道の町の近代を語る証言の一つとして位置を得る。以下の比較表は、この二つの軸を念頭に、確度の層と読みの要点を整理したものである。

表1 旧赤松家門・塀をめぐる情報の確度層 ── 対象・水準・根拠・史料批判上の留意点
対象確度の層内容根拠留意点(史料批判)
県指定・建造物という区分史実種別は建造物、平成4年(1992年)3月17日に県指定。磐田市公式指定文化財情報、指定文化財一覧。指定年月日は保存制度上の日付であり、建造年代ではない。
建造の年代史実/推定年代は明治時代。ただし具体的な建造年次は特定されない。公式情報の「明治時代」表記。時代区分は史実だが、内部の年次は未確認。
赤松則良の履歴史実幕末〜明治の海軍で造船・技術に携わった人物。近代史の一般的記述、地域史資料。人物ゆかりは確認できるが、門・塀の建造主体を個人に帰す根拠は未確認。
意匠の系譜・様式推定近代和風建築の門・塀として位置づけられる。近代和風建築の一般的枠組み。厳密な様式判定は実測調査に委ねられ、推定にとどまる。
主屋・屋敷全体未確認/記載なし全体像を裏づける一次史料は把握していない。公式指定は門・塀に限定。未確認(筆者の到達限界)と記載なし(指定範囲外)を区別する。

この表が示すのは、一つの文化財をめぐる情報が、いかに異なる確度の層に分かれて存在するかという事実である。指定という行政的事実は史実として堅い。人物の履歴も史実として確認できる。だが建造の年次は未確認を含み、意匠の系譜は推定にとどまり、屋敷全体は未確認と記載なしの領域に沈む。同じ「旧赤松家門・塀」という一件のなかに、これだけ確度の異なる情報が同居している。地域史の記述が陥りやすい誤りは、これらを一続きの確かな物語として滑らかに語ってしまうことにある。本稿が層を分けて記すのは、その滑らかさが覆い隠す確度の落差を、あえて可視化するためである。

あわせて指摘しておきたいのは、この確度の落差が、旧赤松家門・塀に固有の欠陥ではなく、部分として残る遺構一般に共通する構造だという点である。全体のうち一部だけが残り、それが指定を受けるという事態は、都市化や世代交代のなかで屋敷が失われていく過程では、むしろありふれている。したがって本稿の腑分けは、この一件を超えて、部分の遺構を読むための一般的な手続きとしての意味をもつ。見付天神裸祭の起源三説を四層に腑分けした先の論考と同じ方法を、本稿は建造物という別の対象に適用しているのである。

7. 保存の論理 ── 制度・地域計画・景観のなかへ

遺構を確度の層に腑分けしたうえで、最後に視野を広げ、この門・塀を保存の論理のなかに置き直しておきたい。文化財は、単に古いから、あるいは著名人にゆかりがあるから守られるのではない。何を、なぜ、どのように守るのかという判断の体系──保存の論理──のなかで、対象は選ばれ、位置づけられる。旧赤松家門・塀もまた、その論理の一つの結節点である。

近代の建造物をめぐる保存の論理は、近年、大きく展開してきた。かつて文化財保護の中心は、古代・中世・近世の社寺建築や絵画・彫刻に置かれ、明治以降の建造物は保護の対象として意識されにくかった。しかし高度成長期以降、近代の建造物が急速に失われるなかで、それらを保存すべき文化財として捉え直す機運が高まり、近代建造物を広く保存の網に掛ける登録の制度が整えられた。旧赤松家門・塀が明治時代の建造物として県指定を受けている事実は、この近代建造物への評価のまなざしの成熟を、地域のレベルで示す事例といえる。

もう一つ、保存の論理を支える枠組みとして、地域全体で文化財を捉える計画的な取り組みがある。個々の文化財を点として守るだけでなく、地域に集積する文化財を面として把握し、保存と活用の方針を計画として定める動きである5。こうした枠組みのなかでは、旧赤松家門・塀は、見付という地区に集積する多くの文化財の一つとして、寺社や旧道、近代施設とともに、一つの歴史景観を構成する要素として位置づけられる。孤立した名品としてではなく、地域の記憶の連なりのなかの一点として遇されるのである。

この面としての把握は、前節までの議論と深く響き合う。門・塀という部分の遺構は、単独では屋敷全体を語れない。しかし、見付という地区の近代景観という、より大きな面のなかに置き直せば、この遺構は失われた個別の屋敷を超えて、街道の町が近代にどのような構えをもっていたかを証言する要素として意味を回復する。部分から個別の全体を推すことには限界があるが、部分を地域の景観という別の全体のなかに位置づけることは可能である。保存の論理は、この二つの「全体」を混同しない態度を要求する。

最後に、保存が守るのは物だけではないことを付け加えておきたい。門・塀という物理的な遺構とともに、それをめぐる確度の層の記録──何が史実で、何が推定で、何が未確認なのか──を残すことも、広い意味での保存に属する。物としての門・塀は市の管理下で守られるが、それをどう読むかという方法の記録がなければ、後世は再び逸話と史実を混同し、未確認を存在の否定と取り違えるだろう。旧赤松家門・塀の読みものや指定文化財一覧のような地域の記録とあわせて、確度の層を明示した読解を残すことは、物の保存を補完する営みである。まち歩きにおいても、門・塀の前に立つ者が、そこで確かに言えることと、まだ言えないことの境界を意識できるなら、遺構はより誠実な仕方で読まれることになる。

門・塀 点としての指定 見付の歴史景観(面) 門・塀 旧見付学校 寺社 旧道 位置づけ直し 保存の論理 ── 点から面へ 部分の遺構を地域景観という別の「全体」のなかに置くことで、意味が回復する。
図6 保存の論理の模式図。点として指定された門・塀を、見付の歴史景観という面のなかに位置づけ直すことで、失われた個別の屋敷を超えた意味を回復できる。個別の全体(屋敷)と地域の全体(景観)は別の水準にある。

8. 結論 ── 部分から全体を推す作法

本稿は、見付の旧赤松家門・塀を近代和風建築の遺構として読み、そこに関わる情報を史実・推定・伝承の層に、そして未確認と記載なしの区別に沿って腑分けしてきた。得られた見取り図は次のとおりである。県指定・建造物という区分と平成4年(1992年)3月17日の指定は史実として確かであり、赤松則良が幕末から明治の海軍で技術に携わった人物であることも史実として確認できる。年代が明治時代であることは公式情報による史実だが、その内部の建造年次は未確認である。意匠の系譜や様式は根拠のある推定にとどまり、家をめぐる逸話は伝承の層に置かれる。そして、失われたかもしれない主屋・屋敷全体は、一次史料に未到達という意味で未確認であり、これは公式指定が門・塀に限られるという記載なしとは区別される。

この腑分けから引き出せる方法上の含意を、あらためて述べておきたい。門・塀という部分の遺構は、確かに残り、確かに指定されている。その確かさゆえに、私たちはその奥に完結した屋敷を思い描き、著名な人物の物語のなかへ遺構を回収したくなる。しかし遺構が雄弁に語る部分と、遺構が沈黙する全体とを、同じ確度で語ってはならない。残る部分から失われた全体を推すことには、越えてはならない一線がある。その一線を、未確認と記載なしの区別が画する。

したがって本稿の立場は明確である。部分の遺構を読むとは、部分が語ることを史実として受け取り、部分が推させることを推定として明示し、部分が沈黙することを未確認として正直に記すことである。個別の屋敷という全体を無理に復元しようとするのではなく、部分を見付の歴史景観という別の全体のなかに置き直すこと。これが、部分から全体を推す誠実な作法であると考える。指定という制度の確かさに寄りかかって屋敷の全容まで分かったように語ることも、逆に未確認を理由に遺構の価値を軽んじることも、いずれも避けるべき態度である。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、門・塀の建築的な様式判定は、現物の実測と近代和風建築の系譜研究に基づいて、推定を一歩進める余地がある。第二に、旧赤松家の主屋・屋敷全体については、屋敷の絵図・普請記録・古写真といった史料の探索によって、未確認を史実へと繰り上げうる可能性が残る。第三に、赤松則良と門・塀の建造との具体的な関わりは、人物史の側からの史料調査を要する主題である。これらはいずれも、本稿が設定した確度の層の枠組みのなかで、未確認を推定へ、推定を史実へと押し上げていく作業に属する。部分から全体を性急に語る誘惑を退け、確度の層を保ったまま史料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、旧赤松家門・塀という遺構が背負う近代の屋敷の記憶が、少しずつ像を結んでいく。門・塀の建築的系譜と旧赤松家の全体像については、稿を改めて論じたい。

本稿が扱った見付には、近代の名士が構えた屋敷のように、家の来歴とともに受け継がれてきた土地や建物が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地と建物の記憶に向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 旧赤松家門・塀は静岡県指定の建造物である。指定区分・種別・指定年月日(平成4年〔1992年〕3月17日)・年代(明治時代)・所在地(見付)・管理者(磐田市)については、磐田市公式の指定文化財情報および磐田物語「磐田市の指定文化財一覧」による。
  2. 公式情報は年代を「明治時代」と記すのみで、建造の具体的な年次を示す一次史料には本稿の範囲では突き当たっていない。時代区分は史実として扱うが、内部の年次は未確認とする。
  3. 赤松則良は幕末から明治にかけて海軍の造船・技術の分野で活動した人物として知られる。ただし門・塀の建造への具体的関与を記す一次史料は本稿では確認できておらず、人物ゆかりを史実、建造主体の特定を未確認として区別する。
  4. 「指定」は価値が高いと認められた文化財を積極的に選び保護する制度、「登録」は近代の建造物を広く緩やかに保存対象とする届出制の制度を指す。旧赤松家門・塀は指定の対象である。
  5. 個々の文化財を点として守るだけでなく、地域に集積する文化財を面として把握し保存・活用の方針を定める枠組みが整えられてきた。磐田市の文化財保存活用に関わる計画的取り組みもこれに属する。

付記:本稿は一般読者向け記事 m020「旧赤松家門・塀」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、県指定・建造物という区分および平成4年(1992年)3月17日の指定を史実、意匠の系譜・様式を推定、家をめぐる逸話を伝承として扱い、主屋・屋敷全体を「未確認」、公式指定の対象外である点を「記載なし」として弁別した。

参考文献・参考資料

  • 磐田市公式ウェブサイト「県指定文化財」旧赤松家門・塀の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 m020「旧赤松家門・塀」 https://iwata-monogatari.net/m020.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 c021「磐田市の指定文化財一覧」 https://iwata-monogatari.net/c021.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 m014「旧赤松家」 https://iwata-monogatari.net/m014.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 m008「旧見付学校」 https://iwata-monogatari.net/m008.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 文化庁「文化財保護法」および指定・登録制度に関する解説 https://www.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 文化庁「登録有形文化財(建造物)制度」関係資料 https://www.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市『磐田市文化財保存活用地域計画』関係資料。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(近代の章)。
  • 静岡県教育委員会 文化財保護関係資料。
  • 太田博太郎『日本建築史序説』彰国社。
  • 日本建築学会編『日本建築史図集』彰国社(近代和風建築の項)。
  • 見付宿および旧東海道に関わる郷土史資料。