磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第1号(見付天神裸祭研究 一)
見付天神裸祭 起源三説の学史的検討
歓喜踰躍舞説・人身御供悉平太郎説・反閇説をめぐる伝承史と史料批判
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
国指定重要無形民俗文化財である見付天神裸祭の起源については、単一の史実に還元しがたい複数の説明が併存してきた。本稿は、そのうち代表的な三説──菅原道真勧請の喜びを起源とする歓喜踰躍舞説、人身御供と霊犬悉平太郎の物語を起源とする人身御供説、鬼踊りを大地を踏み鎮める所作とみる反閇説──を対象とし、各説を史実・通説・推定・伝承の四つの確度層に腑分けしたうえで比較検討する。矢奈比賣神社の沿革は九世紀の国史に確認できる一方、現行の裸衆堂入り・鬼踊りの成立時期を直接記す一次史料は管見の限り確認できない。この「未確認」と「史料に記載がない」ことの区別を保ちつつ、本稿は起源の一元化を退け、祭礼が長期にわたり複数の意味を累積してきた過程として記述する立場をとる。あわせて総社淡海國玉神社への渡御が示す遠江国府祭の記憶を、起源論の背景として位置づける。
キーワード:見付天神裸祭/矢奈比賣神社/歓喜踰躍/悉平太郎/反閇/総社渡御/史料批判
1. 問題設定 ── なぜ起源は一つに定まらないのか
見付天神裸祭は、静岡県磐田市見付の矢奈比賣神社(やなひめじんじゃ、通称・見付天神)を中心に営まれる祭礼で、平成の登録をもって国の重要無形民俗文化財に指定されている1。腰蓑をまとった裸衆が拝殿へ堂入りし、鬼踊りと呼ばれる激しい所作を経て、氏神が夜半に総社へ渡御するその一連の神事は、遠州の秋を代表する光景として広く知られてきた。
ところが、これほど著名な祭礼でありながら、その「起源」を問うと、答えは一つに収束しない。地域では複数の起源説明が語り継がれ、近年は民俗学の側からも新たな解釈が提示されている。本稿の出発点は、この不一致そのものを研究対象とみなす点にある。すなわち、どの説が唯一の史実かを裁定するのではなく、各説がどのような資料に支えられ、どの程度の確からしさをもつのかを腑分けすることを課題とする。
こうした姿勢をとる理由は、起源の確定それ自体が目的ではないからである。地域史の記述において大切なのは、正解を一つ選び出すことよりも、いま伝わっている複数の語りが、どのような資料的根拠のうえに立ち、どの程度信頼できるのかを、読者が自分で判断できる材料として提示することにある。断定を急げば、確度の低い伝えを史実のように語り、あるいは価値ある伝承を根拠薄弱として切り捨てる誤りに陥りやすい。本稿は、そのいずれの過ちも避けるために、各説の資料的基盤を一つずつ点検していく。以下ではまず史料で確認できる神社沿革を押さえ、続いて三説を順に検討し、比較と背景を経て結論に至る。
祭礼の起源は、近代的な年表のように「何年何月に始まった」と一点で確定できるとは限らない。神社の由緒、社家に伝わる社伝、地域で語られる伝説・口碑、後世の文人による記録、そして民俗学上の学術仮説が、長い時間のなかで折り重なって「起源」として語られる。したがって、起源論を読むには、まず語りの層を分離する作業が要る。本稿では次章以下で三つの代表説を扱うが、その前提として、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないための枠組みを設定しておきたい。
先行する言及を概観しておく。見付天神裸祭に関する記述は、近代では神村直三郎が『風俗画報』第170号(1898年)に残した見聞記録が早い時期のものとして知られ、当時の祭礼の様子を伝える資料として参照されてきた。戦後は見付天神裸祭保存会が刊行するガイドブック類が、祭礼の次第や由来をまとめる中心的な媒体となり、そのなかで歓喜踰躍舞説・人身御供説・南方渡来説・国府祭説など複数の起源説明が並記されてきた。学術的な分析としては、民俗学者・谷部真吾による一連の考察があり、とりわけ鬼踊りを反閇として読む視点は、祭礼の所作を儀礼構造として説明する試みとして注目される。本稿はこれらの先行する記述・研究を、確度の層を明示しながら整理し直すことを企図する。
ここで用いる四つの層を、あらかじめ定義しておく。第一に史実、すなわち編纂物や文書など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されているが史料的に一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。
2. 史料で確認できる矢奈比賣神社の沿革
起源三説の検討に入る前に、史料によって確認できる範囲を確定しておく。祭礼の主体である矢奈比賣神社そのものの古さは、九世紀の正史に記載がある。『続日本後紀』承和7年(840年)条には矢奈比賣神への神階授与に関わる記事があり、『日本三代実録』貞観2年(860年)条にも関連する記録が見える。さらに、平安中期に編まれた『延喜式神名帳』には、遠江国の式内社として矢奈比賣神社の名が挙がる。ここまでは、いずれも国家的な編纂物に基づく史実として扱ってよい2。
問題は、この神社の古さと、現在われわれが目にする裸祭の形式とを、そのまま同一視できない点にある。九世紀に神階を受けた神社であることと、腰蓑姿の裸衆が堂入りして鬼踊りを演じる現行の祭礼形式が九世紀に成立していたこととは、論理的に別の事柄である。神社の由緒は祭礼の背景であって、祭礼形式の成立年代を直接には保証しない。
もう一点、祭礼形式と神社沿革を切り離して考えるべき理由を補っておく。祭礼はしばしば、担い手の交替や社会の変化に応じて所作を加除しながら伝えられる。堂入りや鬼踊りといった具体的な形は、ある時点で一挙に完成したというより、長い年月のなかで少しずつ現在の姿へ整えられてきたと考えるのが、民俗芸能一般の実態に照らして妥当である。とすれば、「起源はいつか」という問いに単一の年代で答えること自体に、方法上の無理がある。神社の格を示す古代史料と、祭礼の形を語る後世の伝えとを、別の層として扱う本稿の姿勢は、この祭礼変化の実態を踏まえたものである。
ここで史料の性格にも一言しておきたい。『続日本後紀』『日本三代実録』はいずれも国家が編んだ正史であり、神階の授与記事は律令国家による神祇統制の記録として残されたものである。したがってこれらは矢奈比賣神が九世紀に国家の視野に入る有力な神であったことを示すが、その神をまつる祭礼が具体的にどのような所作を伴っていたかまでは語らない。『延喜式神名帳』もまた官社の一覧であって、祭礼の内容を記述する性格の史料ではない。古代史料から引き出せるのは、あくまで「神社の格」であって「祭礼の形」ではない。この限界を踏まえておくことは、後続の三説を評価するうえで欠かせない。
加えて、菅原道真を祀る「見付天神」としての性格が加わる時期、見付宿の鎮守としての位置づけ、遠江国府との地理的近接といった要素は、いずれも祭礼の意味を厚くする背景ではあるが、堂入り・鬼踊りという所作そのものの起点を記すものではない。天神信仰そのものは、道真の没後、平安中期以降に全国へ広まった比較的新しい信仰であり、矢奈比賣神社の古代以来の神格に、後世、天神としての性格が重ねられていったと考えるのが自然である。神社の重層的な性格は、祭礼の起源もまた重層的でありうることを示唆する。
ここで一つ、方法上の区別を明示しておきたい。現行の鬼踊り・堂入りの成立年代を直接記述した一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しないと断定できる(=記載がない)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、成立年代を裏づける一次史料に突き当たっていない(=未確認)」という状態である。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした記録が作られなかったのかは、それ自体が別個に検証を要する問いである。この「未確認」と「記載なし」の区別は、以下の三説の評価においても一貫して保持する。
3. 第一説:歓喜踰躍の舞(社伝)
菅原道真勧請の喜びを起源とする歓喜踰躍舞説
説の骨子。正暦4年(993年)、太宰府天満宮より菅原道真の御霊をこの地に勧請したと伝わる。その勧請を喜んだ人々が歓喜踰躍(かんきゆやく)の舞を舞ったことが、裸祭の起こりであるとする3。天神信仰と見付の町とが結びつく物語として、地域の信仰史のなかで語られてきた社伝的説明である。
この説の説明力。歓喜踰躍舞説は、裸祭を「畏れ」ではなく「喜び」の祭りとして読む視点を提供する。学問の神・天神への信仰が町の祝祭へ転化したという筋立ては、見付天神という呼称の由来とも整合し、祭礼を地域の信仰の表現として位置づける力をもつ。
資料的裏づけと限界。993年勧請は社伝として伝えられる年紀であり、九世紀の国史に見える神階記事とは資料の性格が異なる。すなわち勧請伝承それ自体は伝承の層に属し、勧請の年と鬼踊り・堂入りの開始とを直接に結ぶ史料は限定的である。天神信仰が全国へ広まるのは道真没後のことであり、993年という年紀は、古代以来の矢奈比賣神社に天神としての性格が加わっていく過程の、ある画期を象徴的に語ったものと解するのが穏当であろう。この説を年代決定の根拠に用いることはできないが、見付という宿場町が学問の神・天神への信仰を自らの祭礼の起点として選び取った、その自己理解を読み取ることはできる。
語の含意。「歓喜踰躍」という語は、仏典に由来し、教えに触れた喜びのあまり躍り上がるさまを表す。この語が祭礼の起源譚に用いられていること自体が、裸祭を宗教的な歓喜の身体表現として意味づけようとする志向を示している。神を迎えた喜びが舞となり、やがて激しい群舞へと展開したという筋立ては、祭礼の情動的な核を宗教的に説明する枠組みとして機能してきた。
4. 第二説:人身御供・悉平太郎譚(伝説・口碑)
人身御供・泣き祭り・霊犬悉平太郎による退治を起源とする説
説の骨子。かつて見付では、白羽の矢が立った家の娘を神へ供える「泣き祭り」があったと語られる。旅の僧が信濃から霊犬・悉平太郎(しっぺいたろう)を借り受け、娘を求める怪物を退治したことで人身御供が廃され、悲しみの祭りが喜びと感謝の祭りへ転じた──こうした筋立てが、地域に根強く伝わる。
この説の説明力。畏れの祭りが救済と感謝の祭りへ反転するという物語構造は、祭礼の情緒的な核をよく説明する。史実としての確認とは別に、この物語は地域の記憶を長く支えてきた。悉平太郎伝説は見付天神・猿神退治の系譜と結びつき、見付を語るうえで欠かせない口碑となっている。「泣き祭り」という名称そのものが、供犠の記憶と結びついた情動を刻んでおり、祭礼の激しさや夜の渡御といった要素に、悲しみを乗り越えた共同体の感情という意味を与える。人身御供の物語は、祭礼を単なる神事ではなく、かつての恐れをいまも抱えつつそれを克服し続ける営みとして読ませる力をもつ。
説話類型としての位置。娘を求める怪物を旅の者や霊犬が退治するという筋立ては、いわゆる猿神退治として類型化される説話群に連なる。この型の物語は各地に分布し、中世の説話集にも同種の話柄が見える。悉平太郎譚を、見付だけに固有の史実としてではなく、広く分布する説話型が見付天神の信仰と結びついて定着したものとして捉えると、なぜこの物語が地域の祭礼と強く結びついたのかという問いが立ち上がる。白羽の矢が立つというモチーフ、供犠から救済への転換という構造は、この型に共通して見られる要素である。
資料的裏づけと限界。人身御供の実在を示す一次史料は確認できず、これを史実として断ずることはできない。また悉平太郎譚は、信濃・光前寺に伝わる霊犬・早太郎(はやたろう)伝説と、名称・筋立ての両面で強い類縁をもつ。両者は同一の説話が伝播の過程で犬の名を変えたものとも、別個に成立して後に結びついたものとも解しうるが、その異同の判定は伝説伝播史の問題として別に検討を要する(この点は本論考シリーズの続編で扱う)。伝説であることは価値の低さを意味しない。むしろ、地域が何を記憶として選び取ってきたかを読む対象として重要である。
5. 第三説:反閇説(民俗学的仮説)
鬼踊りを「反閇」に由来する所作とみる説
説の骨子。谷部真吾は、鬼踊りの本質を反閇(へんばい)、すなわち大地を強く踏みしめて邪を鎮め、場を浄める所作として読む視点を提示した4。この見方に立てば、鬼踊りは無秩序な乱舞ではなく、神輿渡御に先立って祭場を清める神事の中核として理解される。
この説の説明力。反閇説は、堂入り・鬼踊り・闇の渡御という一連の激しい所作を、一つの浄めの儀礼構造として統一的に説明する手がかりを与える。祭礼の「激しさ」を、逸脱ではなく所作の様式として読み直す点に、この仮説の意義がある。
反閇という所作。反閇は、もともと陰陽道や修験の作法として知られ、大地を規則的に踏むことで邪気を鎮め、歩む先の場を浄める呪術的な足の運びを指す。芸能の世界では、能の翁の足拍子などにその名残がみられるとされる。鬼踊りを反閇として読むことは、地を踏みしめる激しい足の所作に、単なる高揚ではなく場を浄める儀礼的な意味を見いだす解釈である。堂入りで場を締め、鬼踊りで地を鎮め、闇のなかを渡御するという一連の流れを、浄めから送りへと向かう儀礼の連鎖として一貫して説明できる点に、この仮説の強みがある。
資料的裏づけと限界。谷部は、神村直三郎が『風俗画報』第170号(1898年・明治31年)に記した見付天神裸祭関連の記述や、神輿出御前の祝詞に見える「拝殿の大床をふみならし」という表現を、反閇的所作を読み取る手がかりとして重視する。ただし史料批判の観点からは注意も要る。『風俗画報』は明治期の絵入り風俗雑誌であり、地方祭礼を都市の読者へ紹介する二次的な記録であって、祭礼当事者による一次記録ではない5。したがってそこに描かれた所作を、そのまま古態と見なすことはできない。また祝詞の一句も、反閇と直接に結ぶには解釈の媒介を要する。これらは構造的な解釈であって、鬼踊りが反閇として意図的に成立したことを直接に証する一次史料が存在するわけではない。谷部自身も慎重な筆致をとっており、本稿もこれを確定した史実ではなく学術仮説として扱う。
所作連関としての祭礼。反閇説の意義は、個々の所作を孤立して見るのではなく、祭礼全体を一つの儀礼の流れとして捉え直す点にある。浜での垢離による身の清め、拝殿への堂入りによる場の締め、鬼踊りによる地の鎮め、そして闇のなかの渡御による神の送り──こうした一連の段階を、浄めから送りへと向かう首尾一貫した儀礼過程として読むことができる。鬼踊りをその過程の中核に位置づけると、祭礼の激しさは無秩序の表出ではなく、場を浄めるという明確な機能をもった所作として理解される。この統一的な見取り図こそ、反閇説が他の二説にない説明範囲をもつ理由である。
6. 三説の比較と史料批判
ここまで見た三説は、しばしば「どれが本当か」という択一の問いのもとに並べられる。しかし各説は、依拠する資料の性格が根本的に異なる。歓喜踰躍舞説は社伝に、人身御供・悉平太郎説は伝説・口碑に、反閇説は近代の記録と民俗学的解釈に、それぞれ基盤を置く。資料の層が異なる説を同一平面で優劣化するのは、方法として適切でない。以下の比較表は、各説をその性格・内容・資料・留意点において対等の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。特定の説を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。
| 起源説 | 確度の層 | 主な内容 | 依拠する資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 歓喜踰躍舞説 | 社伝・伝承 | 993年の道真勧請を喜び、歓喜踰躍の舞が起こったとする。 | 見付天神の社伝、神社沿革。 | 勧請の年紀と鬼踊り開始を直結する史料は限定的。年代を断定しない。 |
| 人身御供・悉平太郎説 | 伝説・口碑 | 泣き祭り・人身御供を霊犬悉平太郎の退治が廃したとする。 | 地域に伝わる悉平太郎伝説、猿神退治譚。 | 人身御供の史実性は確認できない。信濃・早太郎伝説との異同を要検討。 |
| 反閇説 | 学術仮説 | 鬼踊りを大地を踏み鎮める反閇の所作として読む。 | 谷部真吾の研究、『風俗画報』第170号、出御前祝詞。 | 構造的説明として有力だが、成立を証する一次史料はなく仮説にとどまる。 |
この比較から見えてくるのは、三説が競合しているというより、それぞれが祭礼の異なる側面に光を当てているという事実である。歓喜踰躍舞説は祭礼の「信仰的動機」を、人身御供説は「情緒的意味」を、反閇説は「所作の様式」を説明する。三者はいわば、同じ祭礼を動機・意味・所作という別々の切り口から照らしており、互いを打ち消すのではなく補い合う関係にある。一つの説で祭礼の全体を覆おうとすると、他の側面が視野から抜け落ちる。
史料批判の観点からは、いずれの説についても「現行祭礼形式の成立年代を直接記す一次史料は未確認である」という同一の限界が課される。この限界は三説に等しく課されるのだから、それを理由に特定の説だけを退けることはできない。むしろ問うべきは、各説がどの資料層に立脚し、その層の資料がどこまでを語りうるのか、という点である。社伝は祭礼の自己理解を、伝説は共同体の記憶を、学術仮説は所作の構造を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの説も単独では起源を確定できず、また確定できないことをもって説の価値を否定することもできない。
なお三説のほかに、保存会資料では南方渡来説にも言及があり、また遠江国府祭の要素を継承したとみる見方も示されている。これらは本稿の主対象ではないが、起源説明が三説に尽きないこと、そして後述する総社渡御の位置づけと関わることを、ここに記録しておく。起源説がこれほど多岐にわたること自体が、見付天神裸祭が長い歴史のなかで多くの人々の解釈を引き寄せてきた祭礼であることの証左であり、説の多さを混乱とみるのではなく、意味づけの厚みとして読むべきである。
この整理の作業は、郷土史の記述にとって一定の含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられ、複数の伝えのなかから一つの正解を選び取ろうとする。しかしその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった伝えを切り捨てることにつながりやすい。ここで採った四層の腑分けは、そうした性急な一元化を避け、それぞれの伝えを、それが属する層のなかで正当に評価するための手続きである。史料で確認できることは史実として、地域が語り継いできたことは伝承として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。これは祭礼研究に限らず、地域史一般に適用できる記述の作法であると考える。
7. 背景としての地理 ── 総社渡御と国府祭の記憶
起源三説を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、祭礼の地理的背景である。見付天神裸祭では、氏神が夜半に総社である淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)へ渡御する。この総社渡御という形式は、裸祭を見付宿という一町内の祭礼にとどめず、遠江国府の記憶と結びつける手がかりとなる。
見付は遠江国府が置かれた地とされ、国府の宗教的中心である総社への渡御は、国府祭の系譜を引く可能性を示唆する。前章で触れた「国府祭の要素を継承する」という見方は、この渡御の形式を根拠とする。氏神が個別の社にとどまらず総社へ向かうという構造は、祭礼が地域全体の秩序と関わっていたことを推測させる。総社とは、国司が国内の主要な神々を一社にまとめてまつるために設けた社であり、その成立自体が国府の統治と不可分である。氏神が総社へ渡るという形式は、地域の神が国という一段大きな秩序のなかに位置づけ直される所作として読むことができる。
もっとも、その前提となる遠江国府の所在そのものが、なお論点を残す主題である。国府が見付周辺に置かれたとする見方は有力であるが、その具体的な位置をめぐっては複数の説があり、一点に確定しているとは言い難い。この国府所在論は本稿の主題を超えるため立ち入らないが、総社渡御を国府祭の後継とみる推論が、国府の所在という別の未確定の問いの上に立っていることは明記しておく必要がある。渡御形式の成立時期や、それが国府祭の直接の後継であることを証する一次史料についても、本稿の範囲では確認できていない。したがってこの点は、史実としてではなく、地理と祭礼形式から導かれる推定として提示するにとどめる。
この背景を支えたのは、近世には東海道の宿場として栄えた見付宿の人々である。祭礼の担い手が宿場町の共同体であったことは、天神信仰・共同体の記憶・浄めの所作という三つの層が一つの祭礼へ束ねられていく現実的な母体を用意した。町の鎮守としての見付天神への寄進、祭礼組織の編成、渡御路の維持といった営みは、いずれも宿場町の社会構造と不可分である。起源の三説はいずれも観念の水準の説明であるが、それらが実際の祭礼として毎年くり返し演じられ、伝えられてきたのは、この担い手の共同体があったからにほかならない。
それでもこの地理的背景は、起源三説の意味を深める。歓喜踰躍舞説の天神信仰、人身御供説の共同体的畏れ、反閇説の浄めの所作は、いずれも「国府の総社へ向かう祭礼」という枠のなかに置き直すことで、より大きな文脈を得る。見付天神裸祭は、一社の祭礼であると同時に、遠江の古い政治・信仰の中心地に営まれ、宿場町の共同体によって支えられてきた祭礼でもある。
8. 結論 ── 起源論から重層性の記述へ
本稿は、見付天神裸祭の起源をめぐる歓喜踰躍舞説・人身御供悉平太郎説・反閇説の三説を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。矢奈比賣神社の古さは九世紀の国史に確認できる史実であるが、現行の堂入り・鬼踊りの成立年代を直接記す一次史料は、本稿の範囲では未確認である。三説はいずれもこの同じ限界を共有し、依拠する資料の層を異にしながら、祭礼の信仰的動機・情緒的意味・所作の様式をそれぞれ説明している。
これだけ多くの説が併存すると、「結局どれが本当か」と一つの起源へ還元したくなる。しかし起源を一元化することは、祭礼が抱え込んできた複数の意味層を切り捨てることにほかならない。天神信仰、総社渡御、見付宿、遠江国府、伝説・口碑、民俗的な浄めの所作──これらが長い時間のなかで折り重なり、現在の祭礼を形づくってきた。起源が一点に定まらないことは、この祭りの弱みではなく、むしろ磐田の歴史と民俗学の接点として、見付天神裸祭がいかに多くの記憶を累積してきたかを示す証左である。
したがって本稿の立場は明確である。起源論は「唯一の起点を探す作業」から「意味の層を分離し、それぞれの確度を記述する作業」へと組み替えられるべきである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝説を史実の劣位に置かず、学術仮説を確定説と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、地域の祭礼を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、現行の堂入り・鬼踊りの成立年代については、近世・近代の地方文書や祭礼記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、悉平太郎伝説と信濃・早太郎伝説の関係は、両地の伝承の異同を系統的に比較することで、説話伝播の経路をより精確に描きうる。第三に、総社渡御の形式と遠江国府祭との接続は、国府の所在論と併せて検討されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。起源を一つに決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、見付天神裸祭という祭礼が抱えてきた記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。悉平太郎伝説と早太郎伝説の異同、総社渡御形式の成立過程については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 見付天神裸祭は国の重要無形民俗文化財に指定されている。指定名称・指定年については文化庁「国指定文化財等データベース」を参照。↩
- 『続日本後紀』承和7年(840年)条、『日本三代実録』貞観2年(860年)条、および『延喜式』神名帳による。いずれも国家的編纂物であり、神社の古さを示す史実として扱う。↩
- 正暦4年(993年)の菅原道真勧請は社伝として伝わる年紀であり、国史に基づく史実とは資料の性格を異にする。↩
- 谷部真吾「鬼踊りの意味をめぐって」(『見付天神裸祭ガイドブック』第10号、見付天神裸祭保存会、2016年)による。↩
- 『風俗画報』第170号(1898年)は明治期の絵入り風俗雑誌であり、地方祭礼の紹介記事は当事者による一次記録ではない二次的記録である点に留意を要する。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 m007 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、840年・860年および延喜式の記載を史実、993年の勧請および1603年の神領寄進を社伝=伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 谷部真吾「鬼踊りの意味をめぐって」『見付天神裸祭ガイドブック』第10号、見付天神裸祭保存会、2016年。
- 神村直三郎「見付天神裸祭」『風俗画報』第170号、東陽堂、1898年(明治31年)。
- 『続日本後紀』承和7年(840年)条。
- 『日本三代実録』貞観2年(860年)条。
- 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
- 見付天神裸祭保存会 公式資料。
- 矢奈比賣神社(見付天神)公式資料。
- 淡海國玉神社(遠江総社)由緒書。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」重要無形民俗文化財の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m007「起源をめぐる三つの説 ── 歓喜・人身御供・反閇」 https://iwata-monogatari.net/m007 (最終閲覧:2026年7月25日)。