磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第169号(南部地区研究 一)
南部地区の生い立ち ── 天竜川がつくった村、人が守った村
於保庄・長野村を中心とする三つの旧村の町村沿革と大字の記憶
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市南部地区は、見付や中泉のように単一の宿場・拠点を核として育った市街ではなく、天竜川下流の低地と遠州灘沿いの砂丘地に、性格の異なる複数の旧村が寄り集まって形づくられた生活圏である。本稿は、この地区を天竜・於保・長野という三つの旧村のまとまりに分けて整理する総論として、その生い立ちを二つの視点から記述する。第一は「天竜川がつくった村」、すなわち河道変遷と砂州・自然堤防が用意した自然の条件である。第二は「人が守った村」、すなわち堤防・排水・防風松林と共同体が積み重ねた治水と営みである。方法としては、町村制施行と昭和・平成の合併という行政沿革を史料で確認できる史実として確定し、大字(旧村名)の由来や地名伝承を推定・伝承の層に腑分けする。とりわけ「未確認」(一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に無い)とを区別し、地名由来を安易に断定しない姿勢を保つ。単一の中心を欠くことを空白とみるのではなく、三つの旧村が並び立つ重層として南部地区を読み直すことを本稿の課題とする。
キーワード:南部地区/天竜川/於保庄/長野村/町村制/大字/治水
1. 問題設定 ── 中心を持たない地区をどう読むか
磐田市南部地区は、地区の名を聞いてもその輪郭を一息に思い描きにくい土地である。見付が見付宿と見付天神を核として、中泉が中泉御殿と代官所を核として育ったのに対し、南部地区にはそうした一点の中心が見あたらない。磐田市の都市計画マスタープラン地域別構想も、この一帯を「天竜・長野・於保地区」と呼び、複数の旧村の集合体として扱っている1。磐田物語では、現在の南部中学校区・磐田南小学校区・長野小学校区の生活圏を手がかりに、この一帯を南部地区として束ねている。
本稿の出発点は、この「中心のなさ」を欠落ではなく、地区の成り立ちそのものとして読み直す点にある。天竜川下流の低地、遠州灘沿いの砂丘、今之浦の後背湿地という三つの地形条件のうえに、由来を異にする旧村が並んで育った。南部地区とは、そうした複数の旧村が寄り集まった生活圏の総称であって、単一の由来へ還元すべき対象ではない。ひとつの物語で語ろうとすると、かえってこの土地の実態から遠ざかる。
そこで本稿は、南部地区を天竜・於保・長野という三つの旧村のまとまりに分けて整理する。この三分は行政上の正式な区分ではなく、地形の性格と旧村の沿革をあわせて読むための便宜的な枠組みである。天竜地区は天竜川東岸の氾濫原に開けた村々、於保地区は於保庄の系譜をひく低地の集落、長野地区は性格の異なる複数の小集落が近代に束ねられた村を指す。三つはそれぞれ別の来歴をもち、その差異こそが南部地区を理解する鍵となる。
記述にあたっては、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないための枠組みを設けておきたい。第一に史実、すなわち編纂物・公式資料など史料で確認できる事柄。第二に通説、広く受け入れられているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。町村制施行や合併の年次は史実として確定できるが、地名の由来や旧村の起源の多くは、推定あるいは伝承の層にとどまる。本稿はこの四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避ける。
あわせて、「未確認」と「記載なし」の区別も一貫して保つ。ある地名の由来について一次史料に突き当たっていないこと(未確認)と、史料を博捜した結果それを記す記録が存在しないと判断できること(記載なし)とは、まったく別の事柄である。地名研究では、この二つを混同したまま「由来は不明」と一括してしまうことが多いが、未確認は今後の調査で解消しうる暫定的な状態であり、記載なしは史料状況そのものの記述である。以下では、確認できた沿革と、地形や旧村名から導かれる推定と、地域が語り継いできた伝承とを、そのつど区別しながら三つの旧村を順に見ていく。
2. 史料で確認できる町村沿革
三つの旧村を個別に見る前に、史料によって確認できる範囲を確定しておく。南部地区の母体となった村々は、1889年(明治22年)の町村制施行によって近代の自治体として発足した。長野村をはじめとする村々がこのとき成立し、以後の行政区画の骨格が定まる。次いで1894年(明治27年)、御厨村から南御厨村が分立した。これらの年次は公式資料に基づく史実として扱ってよい2。
その後、1955年(昭和30年)に長野村・南御厨村の一部などが磐田市へ編入され、旧磐田市の一部となった。さらに2005年(平成17年)、旧磐田市・豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村の5市町村が新設合併し、現在の磐田市が発足する。南部地区の村々は、この二段階の合併を経て今日の市域に組み込まれた。町村制施行から新設合併まで、行政沿革の骨格はいずれも公的記録によって跡づけられる。
ここで注意すべきは、行政沿革が確定できることと、個々の旧村の起源が確定できることとは別の問題だという点である。町村制施行の1889年は、あくまで近代自治体としての発足年であって、村そのものの成立を意味しない。長野村を構成した集落の多くは、中世・近世にさかのぼる来歴をもつと考えられており、明治の町村制は、既存の集落を近代の行政単位へ再編した画期にあたる。近代の村と、それ以前の村落とを、同じ「村」の語で連続的に語ると、成立年代をめぐる混乱が生じやすい。
もう一点、合併の性格にも触れておきたい。1955年の編入は「一部」という語を伴う。すなわち旧村が丸ごと磐田市へ移ったのではなく、村域が分割されて複数の自治体にまたがった例が含まれる。後述する於保の系譜は、その典型として、一部が磐田市へ、一部が福田町へと編入されたと伝えられる。合併とは境界の引き直しであり、旧村の一体性がそこで解かれる場合があった。行政沿革を史実として押さえるとは、こうした分割の事実まで含めて確定することにほかならない。
現在の南部地区は、南部中学校区、および磐田南小学校区・長野小学校区に相当する。人口については、磐田市の統計上、見付・中泉・御厨・向陽とともに「磐田地区」として合算集計されており、南部単独の人口・世帯数は公表されていない。磐田地区全体では89,868人(令和8年5月末現在)とされるが、この数値には南部以外の地区が含まれる。南部地区固有の人口統計は、管見の限り公表資料に確認できていない。これは統計が存在しないという意味ではなく、地区別の集計単位が「磐田地区」に括られているため、南部だけを取り出した数値に突き当たっていないという状態である。
3. 天竜川がつくった村 ── 河道と「島」地名群
三つの旧村のうち、天竜地区は南部地区の性格を最も端的に示す。天竜川下流東岸の氾濫原に開かれたのが、豊島・北島・新島・長須賀・刑部島などの集落である。天竜川はたびたび河道を変え、そのたびに古い村が水に沈み、新しい中州が田畑へと変わった。この土地は、川がつくり、川が奪い、また川がつくり直す、そうした反復のうえに立っている。天竜地区の成り立ちを扱った既刊では低地と水利の観点から集落を論じたが、本節では地名に刻まれた土地の記憶に焦点を絞る。
この地区で目を引くのは、「島」の字を持つ大字の多さである。豊島・北島・新島・長須賀・刑部島、さらに小島・鮫島を加えれば、南部地区の大字には「島」が繰り返し現れる。海に囲まれた島ではないこの内陸の土地に「島」が多いのは、これらの集落が天竜川の中州や砂州、あるいは氾濫原に浮かぶ微高地から始まったことを反映すると考えるのが自然である。この「島」地名群と河道変遷との対応は、地形図と旧村名を突き合わせて導かれる推定であって、個々の地名の由来を一次史料で確認したものではない3。
「島」の一字を安易に「中州」と読み替えることには、なお慎重でありたい。地名の「島」は、水に囲まれた土地のほか、周囲と区切られた一区画や、集落のまとまりそのものを指す用法もあると説かれる。したがって個々の「島」大字がすべて天竜川の中州に由来すると断ずることはできない。地形からの推定として「島」地名群と河道変遷の対応を提示しつつ、各大字の由来の確定は、旧村誌や近世の検地・水帳といった一次史料の検討に委ねるべきである。ここでもまた、推定と史実の層を混同しないことが要点となる。
個別の地名にも、確度を分けて読むべき例がある。刑部島という地名は、古代の職能部民「刑部部(おさかべ)」に由来すると伝えられる。刑部部は律令制下で刑罰・訴訟にかかわった部民とされ、その名が地名として残ったとする説である。ただしこれは地名伝承の域にあり、当地の刑部島が刑部部の居住地であったことを直接に証する一次史料は未確認である4。天竜川の中州という孤立した地勢を切り拓いた人々の記憶が、古い部民名と結びついて語り継がれてきたものと解するのが穏当であろう。
寺院名がそのまま地名として残った例もある。千手堂・万正寺という大字は、いずれもかつてこの一帯に存在した寺院に由来すると考えられている。中世にはこの地に大きな伽藍を持つ寺院があったとも語られるが、その伽藍の規模や沿革を裏づける史料は確認できず、「消えた伽藍」の記憶は伝承の域にとどまる。上大之郷・下大之郷は、古代の郷名「大郷」に起源をもつとされ、中世の庄園化と近世の村落分立を経て現在の大字に至ったと考えられている。いずれも、地名が土地の古い歴史を封じ込めた化石のように残る例であり、その一つ一つが確度の異なる来歴を抱えている。
4. 於保庄 ── 分割された旧村の記憶
南部地区の東寄り、上岡田・下岡田を中心とする一帯が於保地区である。この地は、中世に於保庄として栄えたと伝えられる旧村の系譜をひく。砂丘と湿地が入り混じるこの土地では、水を「得ること」と「逃がすこと」の両方が生活の条件であった。岡田の神々への信仰は、こうした水との付き合い方のなかで育まれたと考えられる。低湿地を農地へ変えるには、用水を引いて水を得るとともに、排水路を穿って余分な水を逃がさねばならない。相反する二つの営みが同居していた点に、於保の土地柄がよく表れている。
於保庄が中世にどのような領域を占め、誰が支配したのかについては、荘園としての実態を詳細に伝える一次史料に本稿は突き当たっていない。したがって「於保庄」という呼称は、中世にこの地に荘園的なまとまりがあったとする伝承・通説の層で扱い、その具体的な範囲や年代の確定は今後の課題とする。荘園名が近世・近代の村名へ、さらに現在の大字へと引き継がれていく過程は、地名の連続性を示す興味深い事例だが、その連続を史料で一続きに跡づけるには、なお検討の余地が大きい。
於保の系譜で特筆すべきは、昭和の町村合併に際して村域が分割されたと伝えられる点である。ひとつの旧村が、一部は磐田市へ、一部は福田町へと編入されたとされ、村の一体性がそこで解かれた。ひとつの共同体が二つの自治体にまたがって解体された経緯は、南部地区の旧村がたどった変遷の複雑さをよく示している。合併の線引きは、必ずしも旧村の輪郭に沿って引かれたわけではなく、より広域の行政都合のなかで旧村を横断することがあった。於保と長野を扱った既刊では両地区の関係を水利と農地から論じたが、本節では於保を「分割された旧村」として、その解体の位相に光を当てる。
この分割は、地名の記憶にも影を落とす。ひとつの旧村が二つの自治体に分かれると、村の由来を語る主体も二分され、記憶の継承が細りやすい。於保という名が現在どの範囲を指すのか、住民の実感と行政区分と歴史的領域とがずれる場面も生じる。地名研究の立場からは、こうした分割の事実そのものを記録に残すことが、後世の混乱を防ぐうえで重要になる。「於保」を単一の輪郭で語れない状態は、この旧村がたどった行政的解体の帰結であり、その事情まで含めて於保庄の記憶を書き留める必要がある。
5. 長野村 ── 十一の集落が束ねられた村
三つの旧村のうち、近代の統合という性格を最も強く帯びるのが長野村である。長野村は、性格の異なる十一の集落がひとつにまとまってできた村と伝えられる。野箱・白拍子のように中世の芸能者の記憶を残す土地もあれば、鮫島・小島のように砂丘地の開拓史をもつ土地もある。もともと別々の来歴をもった集落が、明治の町村制のもとで一つの行政村へと束ねられ、学校や産業組合の設置を通じて、しだいに一つの生活圏へまとまっていった。この統合の軌跡は、南部地区における近代化の縮図として読み取れる。
「十一の集落」という数え方そのものは、旧村の伝えに基づくものであり、どの集落をもって十一とするか、その内訳は資料によって揺れうる。したがって本稿は「十一」という数を確定した史実としてではなく、長野村が複数の小集落の寄り合いであったことを示す通説的な数えとして扱う。重要なのは正確な数ではなく、性格を異にする集落が近代に一村へ編成されたという構造である。この構造こそが、長野村を「はじめから一つの村」ではなく「束ねられた村」として理解させる。
個々の集落の地名にも、確度を分けて読むべきものがある。白拍子という地名は、中世に諸国を巡った芸能者「白拍子」の足跡に由来すると伝えられ、化粧箱にまつわる伝説も地域に残る。白拍子は、男装で歌舞を演じた中世の女性芸能者を指す語であり、その一行がこの地に足を留めた記憶が地名になったとする説である。ただし、これは地域が語り継いできた伝承であって、白拍子の来訪を裏づける一次史料は確認できない5。伝承と地名の一致は由来を証明するものではないが、地域が何を記憶として選び取ってきたかを示す資料として尊重すべきである。
野箱もまた、中世の芸能や職能にかかわる記憶を残す地名と語られるが、その由来を史料で確定することはできない。一方、鮫島・小島といった「島」を含む集落は、前節で見た天竜地区の「島」地名群と地続きに、砂丘地の微高地に開かれた開拓の記憶を伝える。芸能者の記憶を宿す地名と、砂丘開拓の記憶を宿す地名とが、同じ長野村のなかに併存している。この地名の多様さは、長野村がいかに異質な来歴の集落を抱え込んで成立したかを、そのまま映し出している。
束ねられた村の一体性は、近代の制度によって支えられた。学校区の設定、産業組合の結成、村役場を中心とする行政運営といった近代の仕組みが、もともと別々だった集落を一つの共同体へと編み直していった。長野小学校区が現在なお南部地区の生活圏の一つの単位をなしていることは、この近代の統合が今日まで生活の枠組みとして生きている証左である。旧村の一体性は自然に与えられたものではなく、制度と営みによって「つくられ、守られた」ものであった。
6. 人が守った村 ── 治水・防風林・共同体
ここまで三つの旧村を見てきたが、いずれにも通底するのが「川がつくった土地」を「人が守り育てた土地」へ変えてきた営みである。天竜川は、繰り返す氾濫と河道の移り変わりのなかで、砂州・自然堤防・後背湿地をこの一帯に残した。その土地を安定した集落と農地へ変えたのは、堤防、排水、用水、そして遠州灘の潮風と砂を防ぐ防風松林であった。自然が用意した条件のうえに、人の手が幾重にも加えられて、はじめて南部の村々は成り立った。
治水は、この地区の暮らしの根幹をなす。河道が動くたびに耕地が失われる氾濫原で田畑を維持するには、堤を築き、水を導き、余分な水を逃がす普請を絶え間なく続けねばならない。こうした治水・利水の営みは、一戸の農家で完結するものではなく、村ぐるみ、時には村を越えた共同の労働を要した。用水路の維持、堤の見回り、洪水時の水防といった作業は、共同体の結束そのものを土台としており、南部の旧村が強い共同性を帯びたのは、この自然条件への対応の必然的な帰結であったと考えられる。
遠州灘に面した南縁では、潮風と飛砂への備えが欠かせなかった。鮫島・小島の一帯には防風のための松林が育てられ、浜部では塩田と地引き網漁が営まれたと伝えられる。防風松林は、砂丘地の農地を飛砂から守る「緑の堤防」であり、その造成と維持もまた世代を越えた共同の営みであった。海からの脅威に対して松林で土地を守り、川からの脅威に対して堤で土地を守る──南部地区の暮らしは、二つの水際で「守る」ことを軸に組み立てられていた。塩田や地引き網といった生業は、その厳しい自然条件を逆手にとって暮らしを立てた記録でもある。
こうして見ると、南部地区の「人が守った村」という性格は、三つの旧村に共通する基盤として浮かび上がる。天竜地区は河道の脅威に、於保地区は低湿地の排水に、長野地区は砂丘の飛砂に、それぞれ主として向き合ったが、いずれも自然の脅威を共同の営みで御するという点で一致する。地名の由来や旧村の来歴は三者三様でありながら、「守る」という営みの構造は共通していた。南部地区を一つの地区として束ねうる根拠は、単一の中心にではなく、この共通の営みの構造にこそ求められる。
ただし、個々の治水施設や防風林の造成年代、塩田の経営実態といった具体については、本稿は網羅的な一次史料に突き当たっていない。防風松林の造成が近世にさかのぼるのか、近代の事業によるのかといった問いは、村方文書や近代の事業記録の検討を要する。ここで述べた「守る営み」の構造は、地形条件と旧村の性格から導かれる推定を含むものであり、その一つ一つを史料で裏づける作業は、なお残されている。共同性の強さを南部の特質として語るにも、それを個別の史料でどこまで実証できるかは、慎重に見極めねばならない。
7. 三つの旧村の比較と史料批判
ここで、三つの旧村を対等の粒度で並べ、その位相を整理しておきたい。天竜・於保・長野は、いずれも南部地区を構成する旧村でありながら、主たる地形条件も、行政上たどった道筋も、地名に刻まれた記憶の性格も異なる。次の比較表は、三者を地形・沿革・代表的な大字・史料批判上の留意点という同じ観点で並べ、確度の層を可視化することを目的とする。特定の旧村を代表として突出させる書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が三者の差異と共通性を自ら判断できる状態をつくる。
| 旧村のまとまり | 主たる地形条件 | 行政沿革の位相 | 代表的な大字 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 天竜地区 | 天竜川東岸の氾濫原・中州・自然堤防 | 氾濫原の村々。河道変遷により集落の消長を反復。 | 豊島・北島・新島・長須賀・刑部島・千手堂・万正寺 | 「島」地名群と河道の対応は推定。刑部島=刑部部由来、消えた伽藍は伝承で未確認。 |
| 於保地区 | 砂丘と湿地が入り混じる低地 | 於保庄の系譜。昭和の合併で村域が磐田市・福田町に分割と伝わる。 | 上岡田・下岡田 | 於保庄の範囲・年代を伝える一次史料は未確認。分割の具体的線引きも未確定。 |
| 長野地区 | 水田・砂丘の微高地 | 十一の集落が近代に一村へ統合。学校・組合が一体化を担う。 | 鮫島・小島・野箱・白拍子・草崎・前野 | 「十一」の内訳は伝えにより揺れる。白拍子・野箱の芸能者由来は伝承で未確認。 |
この比較から見えてくるのは、三つの旧村が対立するのではなく、それぞれ南部地区の異なる側面を体現しているという事実である。天竜地区は「川がつくった土地」の反復生成を、於保地区は「分割された旧村」の行政的解体を、長野地区は「束ねられた村」の近代的統合を、それぞれ最も鮮明に示す。三者を優劣で並べるのではなく、南部地区という一つの生活圏が抱え込んだ三つの位相として読むとき、この地区の重層性がはじめて像を結ぶ。
史料批判の観点からは、三つの旧村に共通する限界がある。すなわち、行政沿革の年次は公的記録で確定できる一方、旧村の起源や地名の由来の多くは、推定あるいは伝承の層にとどまり、一次史料による確定に至っていない。この限界は三者に等しく課されるのだから、それを理由に特定の旧村だけを「由来が確かだ」あるいは「由来が曖昧だ」と序列化することはできない。むしろ問うべきは、どの事柄がどの資料層に属し、その層の資料がどこまでを語りうるのか、という点である。
ここで改めて、「未確認」と「記載なし」の区別を強調しておきたい。本稿が刑部島の刑部部由来、於保庄の範囲、白拍子の芸能者由来などを「未確認」と記したのは、それらを記す一次史料に本稿が突き当たっていないという意味であって、そのような史料が存在しないと断定したわけではない。地域の旧村誌や近世の村方文書、近代の地誌類を博捜すれば、未確認の一部は史実あるいは通説へと押し上げられる余地がある。逆に、博捜のうえでなお記録が見いだせなければ、それは「記載なし」として、由来の不明そのものを史料状況の記述に組み替えることができる。地名研究の作法とは、この二つの状態を丁寧に往還しながら、確度を一段ずつ引き上げていく手続きにほかならない。
こうした腑分けは、南部地区に限らず、中心を持たない地区の歴史を書くうえで一般的な含意をもつ。単一の中心や単一の由来を欠く土地を記述するとき、私たちはしばしば無理に一つの物語を与えようとし、その過程で確度の異なる情報を平板に均してしまう。だが南部地区のように複数の旧村が並び立つ土地では、むしろ差異を差異のまま、確度を確度のまま書き留めることが、実態に忠実な記述となる。三つの旧村を対等に並べる本稿の書式は、そうした記述の作法を具体化する試みでもある。
8. 結論 ── 中心なき地区を重層として読む
本稿は、磐田市南部地区の生い立ちを、天竜・於保・長野という三つの旧村のまとまりに分けて整理し、「天竜川がつくった村」と「人が守った村」という二つの視点から記述した。得られた見取り図は次のとおりである。南部地区は、単一の中心を核として育った市街ではなく、天竜川下流の低地と遠州灘沿いの砂丘地に、由来を異にする旧村が並び立って形づくられた生活圏である。町村制施行と昭和・平成の合併という行政沿革は史料で確定できる史実であるが、大字の由来や旧村の起源の多くは、推定あるいは伝承の層にとどまり、一次史料による確定には至っていない。
三つの旧村は、それぞれ南部地区の異なる位相を体現していた。天竜地区は河道変遷が反復した「川がつくった土地」を、於保地区は昭和の合併で二自治体に分かれた「分割された旧村」を、長野地区は十一の集落が近代に一村へまとまった「束ねられた村」を、最も鮮明に示す。三者は来歴を異にしながら、自然の脅威を共同の営みで御し、土地を「守り育てた」という一点で通底する。南部地区を一つの地区として束ねうる根拠は、地理的な一つの中心にではなく、この共通の営みの構造にこそ求められる。
したがって本稿の立場は明確である。中心を持たない地区の歴史は、無理に一つの物語へ還元するのではなく、複数の旧村を差異のまま、確度を確度のまま並べて記述すべきである。史実・通説・推定・伝承を語の水準で書き分け、「未確認」と「記載なし」を区別し、地名の由来を安易に断定しない。この禁欲的な手続きこそが、南部地区のような重層的な土地を、後世の調べものに耐える形で書き留める方途である。単一の中心の欠如は、この地区の弱みではなく、三つの旧村が並び立つ重層としての豊かさの表れにほかならない。
最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、「島」地名群と河道変遷の対応は、旧村誌・近世検地帳・水帳といった一次史料の検討によって、推定から史実へ一歩進めうる。第二に、於保庄の範囲と昭和の分割の具体的線引きは、荘園史料と合併関係文書の博捜を要する。第三に、長野村を構成した集落の内訳と、白拍子・野箱の芸能者由来の伝承は、地誌類と口碑の系統的な照合によって、未確認の状態を前進させられる。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。天竜川がつくり、人が守ってきたこの土地の記憶は、そうした手続きの積み重ねの先に、少しずつ像を結んでいくはずである。三つの旧村の個別の沿革については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 磐田市都市計画マスタープラン地域別構想では、当該一帯を「天竜・長野・於保地区」と呼ぶ。行政上の正式な地区区分と、磐田物語が生活圏を手がかりに用いる「南部地区」の範囲とは、必ずしも一致しない。↩
- 1889年(明治22年)の町村制施行、1894年(明治27年)の南御厨村分立、1955年(昭和30年)の磐田市編入、2005年(平成17年)の新設合併の各年次は、磐田市の公式資料・町村沿革に基づく史実として扱う。↩
- 「島」地名群と天竜川の河道変遷との対応は、地形図と旧村名を突き合わせて導かれる推定であり、個々の大字の由来を一次史料で確認したものではない。↩
- 刑部島の地名を古代の職能部民「刑部部」に結びつける説は地名伝承の域にあり、当地が刑部部の居住地であったことを直接に証する一次史料は本稿の範囲では未確認である。↩
- 白拍子・野箱を中世の芸能者にかかわる地名とする説は、地域に伝わる伝承であり、その来訪や居住を裏づける一次史料は確認できない。化粧箱伝説もこの伝承圏に属する。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 s023「南部地区の生い立ち」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、町村制施行・合併の年次を史実、地名由来や於保庄の範囲を推定・伝承として扱った。既刊133(天竜地区)・139(於保と長野)とは主題を分け、本稿は三つの旧村の町村沿革と大字を軸とする総論として構成した。
参考文献・参考資料
- 磐田市都市計画マスタープラン 地域別構想「天竜・長野・於保地区」(磐田市)。
- 磐田市「地区別人口」(令和8年5月末現在) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 『御厨村(静岡県)』『南御厨村』ほか町村沿革に関する公開資料。
- 『角川日本地名大辞典 22 静岡県』(角川書店)。
- 『日本歴史地名大系 静岡県の地名』(平凡社)。
- 静岡県編『静岡県史』通史編・資料編(該当巻)。
- 国土地理院 地形図・治水関連資料(天竜川下流域) https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 s023「南部地区の生い立ち ── 天竜川がつくった村、人が守った村」 https://iwata-monogatari.net/s023.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第133号(天竜地区の成り立ち) https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/133/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第139号(於保と長野) https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/139/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 南部地区入口ページ(旧町村・大字対応表、年表) https://iwata-monogatari.net/01005-nanbu.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 佐口行正氏所蔵史料。