失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 掛塚祭屋台囃子を読む

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第167号(掛塚湊まち芸能研究)

掛塚祭屋台囃子を読む ── 無形民俗文化財としての湊まちの音

制度的枠組みと天竜川河口の記憶の両面から、囃子という消えやすい文化財を記述する

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市掛塚(旧竜洋町)

要旨

掛塚祭屋台囃子は、天竜川河口の湊まち掛塚で貴船神社の例祭に演じられてきた祭囃子であり、昭和45年(1970年)6月2日に静岡県の無形民俗文化財として指定された。本稿は、この囃子を無形民俗文化財という制度的枠組みと、廻船で栄えた湊まちの記憶という二つの面から読み直す。指定名称・指定区分・指定年月日は公的資料で確認できる史実として扱い、いっぽう囃子の成立年代と由来は公式に「不詳」とされる点をふまえ、これを史料上の「未確認」として腑分けする。そのうえで、笛・太鼓・摺鉦を基本とする祭囃子一般の構造を手がかりに、屋台の巡行に拍を与える囃子の芸能としての性格を論じ、口伝によって継承されるがゆえに担い手の断絶が即座に消滅を意味するという、無形の民俗芸能に固有の脆さを記述する。音は形に残らない。だからこそ、屋台彫刻という有形の美に付随するものとしてではなく、湊まちが手放さずにきた独立した芸能として記録する視点を、本稿は提示する。

キーワード:掛塚祭/屋台囃子/無形民俗文化財/貴船神社/祭囃子/湊まち/天竜川河口

1. 問題設定 ── 音を文化財に指定するということ

掛塚祭屋台囃子は、静岡県磐田市掛塚(旧竜洋町)で、貴船神社の例祭にあわせて演じられてきた祭囃子である。昭和45年(1970年)に静岡県の無形民俗文化財として指定されており、天竜川河口の湊まちに伝わる祭礼芸能を代表する存在として位置づけられてきた。本稿の出発点は、この文化財が「もの」ではなく「音」であるという一点にある。

同じ掛塚祭のなかでも、屋台そのものは彫刻をまとった有形の造形物であり、蔵に納め、修復し、後世へ受け渡すことができる。ところが屋台囃子は、笛が吹かれ太鼓が打たれるその瞬間にしか存在しない。演奏が終われば音は空気のなかへ消え、あとには何も残らない。楽譜の一枚も伝わらぬまま、担い手の記憶と身体だけを媒体として受け継がれてきた芸能を、いったいどのようにして「文化財」として守ることができるのか。無形民俗文化財という区分は、この問いに制度の側から答えようとした枠組みである。

本稿は、掛塚祭屋台囃子を二つの面から読む。ひとつは、無形民俗文化財という制度がこの音に与えた枠組みである。指定という行為が、囃子の何を対象とし、どこまでを守ろうとしているのかを問う。もうひとつは、この囃子を育てた湊まち掛塚の記憶である。天竜川河口の廻船問屋が栄えた町が、なぜこれほどの祭礼芸能を抱えることになったのか、その社会的な母体を読む。制度と記憶、その両面から光を当てることで、指定一覧の一行に還元されがちな屋台囃子を、地域史のなかへ置き直すことを課題とする。

あらかじめ、本稿が守る作法をひとつ明示しておきたい。指定名称・指定区分・指定年月日といった指定情報は、公的資料によって確認できる史実として扱う。これに対し、囃子がいつ成立し、どのような由来をもつのかについては、公式の指定情報が年代を「不詳」と記していることをふまえ、これを史料上の「未確認」として扱う。ここで「未確認」とは、管見の限り成立年代を直接に裏づける一次史料に突き当たっていない、という状態を指す。それは「そのような史料は存在しない(=記載がない)」と断定することとは異なる。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした記録が作られなかったのか──これらは別個に検証を要する問いであり、本稿はその区別を最後まで保つ。

この禁欲的な手続きを採る理由は、無形の芸能ほど、断定と創作の誘惑が強いからである。形に残らないものを語ろうとすると、書き手はしばしば、確かめられていないことをあたかも確かめられたかのように述べてしまう。成立年代を勝手に補い、由来の物語を都合よく整えることは、記録の名を借りた創作にほかならない。本稿は、確かめられたことと確かめられていないことのあいだに、はっきりと線を引く。以下ではまず指定情報という確実な足場を固め、続いて制度・芸能・母体・継承の順に検討を進め、最後に結論へ至る。

有形 ── 屋台・彫刻 ものとして残る 蔵に納め・修復し 受け渡せる 無形 ── 屋台囃子 音として消える 人の身体を媒体に 口伝で継がれる 同じ祭りの、二つの文化財のかたち 囃子は演じられる瞬間にしか存在しない。担い手が絶えれば、その場で失われる。
図1 有形と無形の対比。屋台は「もの」として残り修復もできるが、屋台囃子は演奏の瞬間にしか存在しない「音」であり、担い手の身体だけを媒体とする。この非対称が、無形民俗文化財という枠組みを必要とした。

2. 史料で確認できる指定情報

読みものの厚みを加える前に、公的資料によって確認できる範囲を確定しておく。掛塚祭屋台囃子について、指定に関わる基本情報は次のとおりである。文化財名は「掛塚祭屋台囃子」、指定区分は静岡県指定の無形民俗文化財、種別は無形民俗文化財、指定年月日は昭和45年(1970年)6月2日、所在地は掛塚とされる1。これらは磐田市の指定文化財一覧および磐田市公式の文化財情報に基づいており、本稿はこれを史実として扱う。

掛塚祭そのものは、掛塚の鎮守である貴船神社の例祭(秋季の大祭)として営まれる。豪華な彫刻をまとった屋台が町内を巡行することで遠州でも屈指の祭礼として知られ、その屋台に伴う囃子が、ここでいう屋台囃子である。屋台という有形の造形と、囃子という無形の音とが、同じ一つの祭礼のなかで並び立っている点に、掛塚祭の文化財としての厚みがある。

注意を要するのは「年代」の項である。公式の指定情報は、この囃子の年代を「不詳」と記す。すなわち、囃子がいつ成立し、どのような由来をもつのかについて、公的資料は積極的な年代を示していない。ここで前章に述べた区別が生きてくる。年代が「不詳」であることは、成立年代が判明していない、という事実の記録である。本稿はこれを、成立年代を直接に裏づける一次史料が未確認である状態として受け取り、想像で年代を補うことをしない。指定年月日が昭和45年という近現代の日付として明確に確定していることと、囃子の起源年代が不詳であることとは、まったく別の層に属する情報である。前者は制度が価値を認めた日付であり、後者は芸能そのものの発生時期にかかわる。

もう一点、保持団体についても層を分けておきたい。無形民俗文化財の指定は、その芸能を実際に演じ伝える保持者ないし保持団体の存在を前提とする。したがって、掛塚祭屋台囃子を継承する担い手の集団が存在すること自体は、指定という制度の構造から導かれる。ただし、その団体の正式な名称・構成については、本稿の調査範囲では確定的な一次情報に当たれておらず、未確認とせざるをえない。担い手が存在するという事実の水準と、その団体名という具体の水準とを、ここでも混同しない。

史料の性格にも一言しておく。指定文化財一覧や公式の文化財ページは、行政が保護の対象を管理するために整えた記録であり、指定という行政行為の事実を正確に伝える。しかしそれらは、囃子の楽曲や所作の中身を細部まで記述する性格の資料ではない。指定情報から引き出せるのは、あくまで「この音が県の文化財として認められている」という制度上の事実であって、「その音がどのような旋律と拍でできているか」という芸能の内実ではない。この限界を踏まえておくことが、次章以降で祭囃子一般の知見を援用する際の前提となる。

成立年代 不詳=未確認 1970年 昭和45年6月2日 県指定(史実) 現在 継承・保存 確定した指定日と、不詳の起源 近現代の指定日は明確だが、囃子がいつ始まったかを記す一次史料は未確認である。
図2 指定情報の時間軸。昭和45年(1970年)の県指定という日付は史実として確定するが、囃子の成立年代は公式に「不詳」であり、本稿はこれを未確認として扱う。両者は同じ時間軸上の別の層にある。

3. 無形民俗文化財という制度の枠組み

掛塚祭屋台囃子を制度の側から読むには、無形民俗文化財という区分が何を守ろうとする仕組みなのかを押さえておく必要がある。文化財保護法は昭和25年(1950年)に制定され、その後の改正を経て、有形の建造物や美術工芸品だけでなく、地域の生活のなかで受け継がれてきた民俗的な文化についても保護の対象を広げてきた2。祭礼や年中行事、そこで演じられる芸能は、こうした民俗文化財のなかに位置づけられる。都道府県のレベルでも、早い時期から地域の祭礼芸能を指定する動きがあり、掛塚祭屋台囃子の昭和45年の県指定も、その流れのなかにある一例である。

ここで肝要なのは、無形民俗文化財の「無形」という語が意味するところである。有形文化財が保護するのは、絵画や仏像や建物といった、目に見え手に触れられる「もの」である。これに対して無形民俗文化財が保護しようとするのは、「もの」ではなく、人から人へ伝えられる「わざ」であり「所作」であり、掛塚の場合でいえば「音」である。守るべき対象が物体ではなく、人の身体と記憶のなかにしか宿らないという点に、この区分の特質がすべて集約されている。

この特質は、保存という営みの意味を根本から変える。有形の文化財であれば、適切な環境に保管し、傷めば修復することで、物体としての存続をはかることができる。担い手が一時的に途絶えても、ものが残っていれば、後世が改めて研究し価値を見いだす余地がある。ところが無形の芸能は、それを演じる人が絶えた瞬間に、この世から消える。楽譜も録音も伝わらぬまま最後の奏者が世を去れば、その音は二度と再現できない。無形民俗文化財の指定とは、したがって、完成した保存の宣言ではありえない。それは、いままさに失われつつあるかもしれない継承の営みを、社会が支えると表明する出発点である。

この理解に立てば、掛塚祭屋台囃子の指定を「昭和45年に価値が確定した」とだけ読むのは一面的である。指定は、囃子が完成品として博物館的に固定されたことを意味しない。むしろ、毎年の祭礼で笛が吹かれ太鼓が打たれ続けること、その反復のなかで技が次の世代の身体へ移されていくこと──その継承の連続こそが、文化財としての実質である。指定は、この連続を励まし支えるための制度的な後ろ盾なのであって、囃子そのものは、演じられ続ける限りにおいてのみ存在する。

無形民俗文化財の指定は、記録という営みとも切り離せない。演じられる瞬間にしか存在しない芸能を後世へつなぐには、その所作や旋律を記録として書き留め、あるいは映像・音として残す作業が伴う。ただし記録は、生きた継承の代替にはならない。記録された音は、演じられる音の影であって、担い手の身体から身体へと直接に受け渡される継承の厚みを、そのまま写しとることはできない。制度としての無形民俗文化財は、記録による保存と、生きた担い手による継承という、性質の異なる二つの営みを、どちらも欠かせないものとして抱えている。掛塚祭屋台囃子を読むということは、この二重性のなかに、湊まちの音を置いてみることでもある。

4. 祭囃子の芸能構造 ── 笛・太鼓・摺鉦

制度の枠組みを押さえたうえで、次に問うべきは、屋台囃子という芸能そのものの中身である。ここで一つ、方法上の断りを入れておく。前章までに確認したとおり、掛塚祭屋台囃子の具体的な編成・曲目・旋律を細部まで記述した一次史料は、本稿の範囲では未確認である。したがって以下では、日本各地の祭囃子に広く共通する一般的な構造を手がかりとして、屋台囃子という芸能の性格を素描する。掛塚に固有の細部を断定するのではなく、祭囃子一般の型を補助線として引くことで、この音の輪郭に近づこうとする試みである。

祭囃子は、多くの場合、旋律を担う笛と、拍と間を刻む太鼓と、テンポや色彩を添える鉦(かね)という、三つの要素の組み合わせで成り立つ3。笛は篠笛(しのぶえ)と呼ばれる横笛が用いられることが多く、囃子の旋律線を受けもつ。太鼓は、腹に響く大太鼓と、細かい刻みを打つ締太鼓(しめだいこ)とを組み合わせ、祭りの時間に拍動を与える。そして摺鉦(すりがね)ないし当り鉦と呼ばれる小さな鉦が、金属的な音色で拍の頭を示し、全体のテンポを引き締める。屋台囃子とは、こうした編成の囃子が、屋台に乗って、あるいはその傍らで演奏されるものを指す。

屋台囃子が単なる音楽と異なるのは、それが屋台という「動く舞台」と一体で機能する点にある。屋台が曳き出され、町内を練り歩き、辻で向きを変え、宮へ入る──その一連の動きに、囃子は拍子を与える。曳き出しには曳き出しの、練りには練りの、宮入りには宮入りの調子があり、場面の移り変わりに応じて曲や速さが変わっていくのが、祭囃子一般の姿である5。囃子は屋台の運行を音の側から支え、同時に、その場に集う人々の身体を高揚させ、あるいは鎮める。音が祭りの時間そのものを組み立てているといってよい。

もう一つ、祭囃子という芸能の本質にかかわるのが、その伝承の仕方である。多くの祭囃子は、五線譜のような固定された楽譜をもたず、口唱歌(くちしょうが)と呼ばれる、音を口まねで唱える方法を介して、耳から耳へ、身体から身体へと受け継がれてきた。「テンツク」「スケテン」といった擬音の連なりが、旋律と拍のかたちを記憶に刻む。この口伝性こそが、祭囃子を無形の民俗文化財たらしめている根であり、同時に、担い手が途絶えれば継承が断たれるという脆さの源でもある。楽譜という物体に外部化されていないからこそ、この音は人の身体のなかにしか存在しえない。

したがって、掛塚祭屋台囃子を芸能として記述するとは、屋台という有形の造形の陰に隠れがちなこの「音の技」に、あらためて焦点を当てることにほかならない。屋台の彫刻がいかに精巧であっても、囃子が伴わなければ、屋台は静止した造形物にすぎない。囃子が入ってはじめて、屋台は祭りの時間のなかで動きだす。屋台囃子は、屋台彫刻に添えられた背景音ではなく、祭礼の運行を音の側から成り立たせている、独立した芸能である。この視点の転換が、本稿が掛塚の音に対して提案する最も重要な読み替えである。

屋台囃子 屋台の運行を刻む 笛(篠笛) 旋律を担う 太鼓 拍と間を刻む 摺鉦 テンポを締める 祭囃子の基本編成(一般型) 掛塚固有の編成詳細は未確認。図は各地の祭囃子に共通する型を示す。
図3 祭囃子の基本編成(一般型)。笛が旋律を、太鼓が拍と間を、摺鉦がテンポを担う三要素の組み合わせが、屋台の運行に音の拍動を与える。掛塚祭屋台囃子固有の編成の細部は本稿では未確認であり、図は各地に共通する型を示したものである。

5. 湊まち掛塚という母体 ── 廻船・天竜川河口・貴船神社

屋台囃子という芸能は、どこにでも自然に生じるものではない。豪華な屋台を仕立て、囃子連を組織し、毎年の祭礼を維持していくには、それを支える富と共同体が要る。掛塚が、遠州でも屈指といわれる祭礼を抱えることになった背景には、この町が天竜川河口の湊まちとして栄えた歴史がある4

掛塚は、天竜川が遠州灘へ注ぐその河口に開けた町で、近世には廻船問屋が軒を連ねる川湊として繁栄した。天竜川の上流から筏で流し下された材木や、周辺で産する物資が、この湊で海船に積み替えられ、江戸をはじめ各地へ運ばれた。廻船で得た富は、町の有力者たちの手に蓄えられ、その富が、精巧な彫刻をまとった屋台という形をとって祭礼のうえに結晶した。屋台彫刻の豪華さは、掛塚が湊まちとして達した富の水準を、いまに伝える指標でもある。掛塚まつりと遠州屈指の豪華屋台に見られる彫刻の粋は、この廻船文化を母体として育まれたものである。

ここで見落とせないのは、屋台という有形の造形を生んだのと同じ富と共同体が、屋台囃子という無形の芸能をも支えていたという点である。屋台を仕立てるのが町内の財力であるとすれば、その屋台の上で囃子を演じ、次の世代へ伝えていくのは、町内の人の連なりである。湊まちの共同体は、屋台という「もの」と、囃子という「音」の、双方の担い手であった。廻船文化を語るとき、私たちはとかく屋台彫刻という目に見える成果に目を奪われがちだが、その同じ町場が、目に見えない音の芸能をも育てていたことを、あわせて記録しておかねばならない。

祭りの中心にある貴船神社の性格も、湊まちの記憶と響き合う。貴船の名を負う神社は、一般に水にかかわる神を祀るものとして知られる。天竜川の水運によって立った掛塚の町が、水の神を鎮守として仰いだことは、この町の生業と信仰との照応として読むことができる。川と海の境に開けた湊まちにとって、水は富をもたらす道であると同時に、洪水や時化として脅威ともなる。その水を鎮め、恵みを願う信仰が、祭礼の核に置かれたと考えるのは自然である。ただし、貴船神社の祭神や創建の由緒を史料の水準で細かく確定することは本稿の範囲を超えるため、ここではあくまで、湊まちの生業と水の信仰との照応を推定として述べるにとどめる。

この地理的・社会的な母体を視野に入れると、屋台囃子の音は、単なる祭りの伴奏を超えた意味を帯びてくる。天竜川河口の水辺に響く笛と太鼓の音は、廻船で栄えた町の記憶を、耳から呼び起こす装置でもある。屋台が町内を巡り、囃子が水辺の空気を震わせるとき、そこで反復されているのは、この町が湊として立っていた時代の共同体の身ぶりである。音は形に残らないが、演じられるたびに、町の来歴をその場に立ち上がらせる。屋台囃子を湊まちの記憶として読むとは、この音のなかに、掛塚という町の生業の履歴を聴きとることにほかならない。掛塚祭の全体像については掛塚祭屋台囃子(一般向け読みもの)および掛塚祭竹馬もあわせて参照されたい。

天竜川 遠州灘 掛塚湊 廻船問屋の町 貴船神社 水の神・例祭 屋台巡行 囃子が拍を刻む 天竜川河口の湊まちと祭礼の空間
図4 掛塚の祭礼空間。天竜川と遠州灘の境に開けた湊まちに、水の神を祀る貴船神社の例祭として屋台が巡行し、囃子がその運行に拍を与える。廻船で栄えた町の富と共同体が、屋台と囃子の双方を支えた。

6. 担い手の継承と変容

無形民俗文化財の核心が「継承」にあることは、第3章に述べたとおりである。掛塚祭屋台囃子もまた、演じ伝える人がいて初めて存在する。ここでは、その担い手による継承がどのような仕組みで成り立ち、いかなる変容の圧力にさらされているのかを、祭囃子一般の知見に照らして考える。なお、掛塚の囃子連の具体的な人数・組織の現状といった個別の実態は、本稿の範囲では未確認であり、以下は継承という営みの一般的な構造についての記述である。

祭囃子の継承は、多くの場合、町内という単位に根ざしている。屋台を出す町ごとに囃子の担い手があり、年長者から年少者へ、耳と身体を通じて技が受け渡されていく。子どもが幼いうちから祭りの場で音に触れ、見よう見まねで摺鉦を打ち、やがて太鼓を任され、熟達すれば笛を吹く──という段階的な成長の道筋が、囃子連という集団のなかに用意されているのが、この種の芸能の典型である。前章に述べた口唱歌による伝承は、この世代から世代への手渡しを支える技術であった。継承は、個人の習得であると同時に、共同体が世代をまたいで一つの音を維持し続ける、集団的な営みである。

この継承の仕組みは、しかし、近現代の社会の変化に対して脆い。祭礼芸能一般が直面してきた課題として、担い手となる若い世代の減少、町場の人口構成の変化、生活様式の変容による祭りへの関与の希薄化などが、繰り返し指摘されてきた。町内という単位そのものが揺らげば、そこに根ざした囃子連の継承も細くなる。無形の芸能は物体として残らないだけに、いったん世代の連鎖が一箇所で切れると、その修復はきわめて難しい。昭和45年(1970年)という時期に県の指定が行われたこと自体が、こうした継承の細りへの社会的な危機感と、これを支えようとする意思の表れであったと読むことができる。

継承は、そのまま同じ形を保つことではない。芸能は、担い手が交替し、社会が移り変わるなかで、少しずつ姿を変えながら伝えられていく。囃子の速さや装飾、演じられる場面の構成は、時代ごとの担い手の解釈や、祭礼の運営上の都合に応じて、加除されうる。この変容を「本来の姿からの逸脱」と見て嘆くこともできるが、それは無形の芸能の実態にそぐわない。固定された正解の楽譜が存在しない以上、祭囃子はもともと、演じられるたびに微妙に更新されながら生き続けてきた。変容は継承の失敗ではなく、生きた芸能が生きている証である。守るべきは、凍結された一つの形ではなく、世代をまたいで音を受け渡し続ける、その営みそのものである。

とはいえ、変容と断絶とは区別されねばならない。担い手が交替しながらも音が受け渡され続ける限り、それは生きた継承であるが、受け渡す相手が絶えれば、それは断絶であり、文化財の消滅である。無形民俗文化財の指定と、それに伴う記録・保存の営みは、この断絶の淵を、社会の側から少しでも遠ざけるための仕組みにほかならない。掛塚祭屋台囃子を継承の相のもとに読むとは、この音が、変容を許容しつつも断絶だけは避けようとする、共同体の粘り強い営みのなかにあることを見てとることである。掛塚祭の別の側面については、既刊の大石浩之の磐田論考 第140号もあわせて参照されたい。

年長世代笛を吹く 中堅太鼓を打つ 年少摺鉦から 次の世代断絶の淵 口伝による世代継承と断絶の淵 摺鉦から太鼓、やがて笛へ。受け渡す相手が絶えれば、その場で消える。
図5 継承の構造。摺鉦から太鼓、やがて笛へと、町内のなかで段階的に技が受け渡される。変容を許容しつつも、次の世代への手渡しが一箇所で切れれば、無形の芸能はただちに断絶する。

7. 掛塚祭の文化財群のなかの屋台囃子 ── 比較の視点

掛塚祭は、屋台囃子だけをもって成り立つ祭礼ではない。この祭りには、豪華な彫刻をまとった屋台、神輿の渡御、竹馬をはじめとする諸行事など、複数の要素が伴い、そのいくつかは個別に文化財として位置づけられてきた。屋台囃子の性格をより鮮明にするには、これらを並べ、有形と無形、造形と芸能という軸で比較してみるのが有効である。以下の比較表は、掛塚祭を構成する要素を、その性格・保存の対象・失われやすさという観点から対等に並べ、屋台囃子がそのなかでどのような位置を占めるのかを可視化することを目的とする。

表1 掛塚祭を構成する要素の比較 ── 有形/無形、保存の対象、失われやすさ
要素性格保存の対象担い手・媒体失われやすさ(本稿の見立て)
屋台(彫刻)有形の造形物もの(屋台本体・彫刻)町内が所有・保管、職人が修復。比較的低い。物体として残り、修復で存続をはかれる。
屋台囃子無形の芸能(音)わざ・音(旋律・拍・所作)囃子連の身体、口伝・口唱歌。高い。演じ手が絶えれば即座に消える。
神輿渡御有形+無形の複合もの(神輿)と所作(渡御)神社・氏子、渡御の慣行。中程度。神輿は残るが、渡御の作法は継承に依存する。
諸行事(竹馬等)無形の民俗行事行事の所作・慣行地域の共同体、年中行事の反復。高い。行う人が絶えれば慣行ごと失われる。

この比較から浮かび上がるのは、同じ一つの祭礼のなかにも、失われやすさの水準がはっきりと異なる要素が同居しているという事実である。屋台の彫刻は、たとえ担い手が一時的に細っても、物体として残り、後世が改めて価値を見いだす余地がある。ところが屋台囃子は、演じ手の連鎖が切れた瞬間に、この世から消える。神輿という物体は残っても、それを担いで渡御する所作が伝わらなければ、祭礼としては半ば失われる。つまり、有形の要素ほど時間の経過に耐え、無形の要素ほど脆いという非対称が、一つの祭りのなかに厳然と存在する。

この非対称は、記録と保存の力点をどこに置くべきかという実践的な問いへつながる。目に見える屋台彫刻は、その豪華さゆえに人の関心を集めやすく、写真にも収めやすい。これに対し屋台囃子は、目に見えず、演奏が終われば形を残さないため、記録の網の目からこぼれ落ちやすい。掛塚祭を語る言葉が屋台彫刻の美にばかり傾きがちであることは、この記録のされやすさの差を反映している。しかし、失われやすさという観点からいえば、むしろ最も手厚く記録されるべきは、最も脆い無形の音のほうである。屋台囃子を屋台彫刻の付属物として扱う視線は、この優先順位を取り違えている。

本稿の立場を、ここで一文にまとめておく。掛塚祭屋台囃子は、屋台という有形の造形に添えられた背景音としてではなく、湊まちの共同体が世代をまたいで維持してきた独立した無形の芸能として記述されるべきであり、その失われやすさゆえに、掛塚祭を構成する諸要素のなかでも、記録という営みが最も優先して向けられるべき対象である。有形の美に引き寄せられがちな視線を、意識して無形の音のほうへ向け直すこと──それが、掛塚祭の文化財群を偏りなく後世へ伝えるための、記述上の要請である。

← 残りやすい 失われやすい → 屋台彫刻 有形 神輿渡御 有形+無形 諸行事 無形 屋台囃子 無形・音/最も脆い 失われやすさの軸で見る掛塚祭の諸要素
図6 失われやすさの軸で並べた掛塚祭の諸要素。有形の屋台彫刻ほど時間に耐え、無形の屋台囃子ほど脆い。最も脆い音にこそ、記録という営みが優先して向けられるべきである、というのが本稿の見立てである。

8. 結論 ── 消えやすい音を記録するために

本稿は、掛塚祭屋台囃子を、無形民俗文化財という制度的枠組みと、天竜川河口の湊まち掛塚の記憶という両面から読んできた。得られた見取り図は次のとおりである。指定名称・指定区分・昭和45年(1970年)6月2日の県指定という指定情報は、公的資料で確認できる史実である。これに対し、囃子の成立年代と由来は公式に「不詳」とされ、本稿はこれを、成立を直接に裏づける一次史料が未確認の状態として扱った。確定した指定日と、不詳の起源とを、同じ時間軸の別の層として区別することが、この音を語るうえでの前提であった。

芸能としての屋台囃子は、笛・太鼓・摺鉦を基本とする祭囃子一般の構造を手がかりに素描した。ただし掛塚固有の編成・曲目の細部は未確認とし、一般型を補助線として引くにとどめた。重要なのは、この囃子が屋台という動く舞台の運行に拍を与え、口伝によって世代から世代へ受け継がれてきた、独立した芸能だという点である。廻船で栄えた湊まちの富と共同体が、屋台という有形の造形と、囃子という無形の音の、双方を育てた。音は形に残らないが、演じられるたびに、町の来歴を水辺の空気に立ち上がらせる。

継承の相から見れば、屋台囃子は、変容を許容しつつも断絶だけは避けようとする、共同体の粘り強い営みのなかにある。そして掛塚祭を構成する諸要素のなかで、屋台囃子は最も失われやすい無形の音であり、それゆえに最も手厚く記録されるべき対象である。有形の屋台彫刻の美に引き寄せられがちな視線を、意識して無形の音のほうへ向け直すこと──これが本稿の立場である。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、掛塚祭屋台囃子の具体的な編成・曲目・伝承系統については、近世・近代の地方文書や祭礼記録、囃子連に伝わる口伝の聞き取りを重ねることで、いまは未確認の細部を一歩ずつ確かめていく余地がある。第二に、保持団体の正式な構成と現況、囃子連の実態については、公開資料と担い手への配慮のもとで、別途の確認を要する。第三に、貴船神社の祭神・由緒と湊まちの水の信仰との関係は、掛塚祭全体の史料的検討のなかで改めて論じられるべき主題である。これらはいずれも、指定情報という史実の足場を保ちつつ、未確認を確認へと押し上げていく作業に属する。消えやすい音を、想像で補うのではなく、確かめられた範囲を誠実に書き留めながら、少しずつ像を結ばせていくこと──その地道な手続きの先にこそ、湊まち掛塚が手放さずにきた音の記憶の、全体像が見えてくるはずである。屋台囃子の伝承系統と貴船神社をめぐる史料的検討は、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である掛塚には、湊まちとして栄えた時代の古い家や土地が、いまも数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。祭りの音を書き留めることと、その音が響いてきた町の家々を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 文化財名・指定区分・種別・指定年月日・所在地は、磐田市の指定文化財一覧および磐田市公式の文化財情報に基づく。指定区分は静岡県指定の無形民俗文化財である。
  2. 文化財保護法は昭和25年(1950年)制定。その後の改正を経て、民俗芸能を含む民俗文化財の保護の枠組みが整えられた。制度史の細部は概説的記述にとどめ、断定を避ける。
  3. 笛(篠笛)・太鼓(大太鼓・締太鼓)・摺鉦(当り鉦)を基本編成とする点は、日本各地の祭囃子に広く共通する一般型である。掛塚祭屋台囃子固有の編成の細部は本稿では未確認。
  4. 掛塚が天竜川河口の川湊として廻船問屋で栄えた点、およびその富が屋台彫刻に結晶した点は、磐田物語の関連読みもの(r002・r013)による。
  5. 屋台囃子が屋台の運行(曳き出し・練り・宮入り)に応じて曲・速さを変える点、および口唱歌による口伝の継承は、祭囃子一般の研究に基づく記述であり、掛塚固有の場面構成の詳細は未確認とする。

付記:本稿は一般読者向け読みもの r013「掛塚祭屋台囃子」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。指定情報(指定名称・区分・年月日)を史実、囃子の成立年代・由来を「不詳=未確認」として区別し、掛塚固有の編成・曲目の細部を断定せず、祭囃子一般の型を補助線として用いた。

参考文献・参考資料

  • 磐田市『磐田市の指定文化財一覧』該当項(掛塚祭屋台囃子)。
  • 磐田市公式ウェブサイト「県指定文化財」掛塚祭屋台囃子の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 静岡県教育委員会『静岡県指定文化財目録』無形民俗文化財の部。
  • 文化庁編『文化財保護法』および同法の解説書。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 三隅治雄『日本民俗芸能概論』(囃子・屋台行事に関する章)。
  • 本田安次『日本の祭』(祭囃子・屋台囃子に関する記述)。
  • 『竜洋町史』(掛塚の川湊・祭礼に関する章)。
  • 貴船神社(掛塚)由緒書。
  • 磐田物語 r002「掛塚まつりと遠州屈指の豪華屋台」 https://iwata-monogatari.net/r002.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r013「掛塚祭屋台囃子」 https://iwata-monogatari.net/r013.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r014「掛塚祭竹馬」 https://iwata-monogatari.net/r014.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第140号(掛塚祭 御神輿) https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/140/ (最終閲覧:2026年7月26日)。