失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 掛塚の御神輿・西洋型帆船・フタナリ船

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第140号(掛塚湊町史料研究 一)

掛塚の御神輿・西洋型帆船・フタナリ船 ── 湊町の記憶を伝えるもの

三つの資料が語る掛塚の海と信仰

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋(掛塚)

要旨

竜洋地区の掛塚に伝わる御神輿・西洋型帆船・フタナリ船という三つの資料は、いずれも湊町掛塚の海と信仰、そして産業の記憶を担う。本稿は、この三者を一括して掲げる「磐田お宝見聞帳」の一記事を唯一の直接的手がかりとしつつ、その記載がインターネット・アーカイブを経由して伝わった二次資料である点をふまえ、そこに抽出された年代・数量の帰属を安易に確定しない立場から検討する。貴船神社の御神輿は水神信仰と湊の祭祀の記憶を、西洋型帆船にまつわる資料は近世の廻船から近代海運への転換を、掛塚まつりのフタナリ船は湊町の祭礼の意匠を、それぞれ別の層で証言する。本稿は三者を史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別しながら、掛塚という一つの湊町が海と信仰と生業を束ねてきた過程として読み直す。あわせて既刊の掛塚湊・貴船神社・掛塚港近代の各論考と接続し、湊町の記憶の全体像へ一歩近づくことを企図する。

キーワード:掛塚/貴船神社/御神輿/西洋型帆船/掛塚まつり/湊町/史料批判

1. 問題設定 ── 三つの資料を一つの湊町から読む

掛塚は、天竜川の東派川が遠州灘へ注ぐ河口に開けた湊町であり、現在は磐田市竜洋地区に属する。近世には木材の集散地として栄え、廻船問屋が軒を連ねた湊として「遠州の小江戸」とも呼ばれた1。その掛塚に伝わるものとして、地域資料は御神輿・西洋型帆船・フタナリ船という三つの資料を並べて掲げている。本稿は、この三者を素材として、湊町掛塚の海と信仰、そして産業の記憶を読み直すことを課題とする。

一見すると、この三つは性格の異なるものである。御神輿は神社の祭祀にかかわる神具であり、西洋型帆船は海運と造船にかかわる産業の資料であり、フタナリ船は掛塚まつりという祭礼のなかに現れる意匠である。信仰・産業・祭礼という別々の領域に属するこれらを、なぜ一つの論考のもとに束ねて論じうるのか。その問いに答えることが、本稿の出発点となる。

三者を束ねる結節点は、掛塚という湊町そのものにある。海に開いた町であればこそ、海上の安全を祈る信仰が育ち、帆船を操る海運が生業となり、その豊かさを背景に祭礼が磨かれた。御神輿・西洋型帆船・フタナリ船は、いずれも「海とともにあった町」という一つの母体から派生した記憶の断片であり、別々の資料でありながら同じ地の履歴を別の角度から照らしている。三者を並置して読むことは、掛塚の記憶を信仰・産業・祭礼という三つの切り口から立体的に捉え直す試みにほかならない。

ただし、素材となる資料はきわめて簡潔である。三者を並べて掲げる記載は、後述するように地域情報サイトの一記事に由来し、しかもそれはすでに閉じたサイトをインターネット・アーカイブから採取したものである。そこには三つの名称のほかに、いくつかの年代と数量が断片的に付随するが、どの数値がどの資料に帰属するのかは、抽出された文字列からは一義に定まらない。本稿はこの資料的制約を欠点として糊塗するのではなく、むしろ史料批判の主題として正面から扱う。

そこで本稿は、はじめに素材資料そのものの性格を検討し、次いで御神輿・西洋型帆船・フタナリ船を順に取り上げ、各資料が確度のどの層で何を証言しうるのかを腑分けする。そのうえで三者を比較し、地理的背景を押さえ、結論として掛塚という湊町の記憶へ束ね直す。事実として確認できることと、伝承として語られてきたこと、そして推定にとどまることを、語の水準で区別しながら進めることを、あらかじめ本稿の作法として断っておきたい。

あらかじめ断っておけば、本稿の目的は掛塚の三資料について新たな一次史料を提示することにはない。素材となる記載はきわめて簡潔であり、そこから直ちに確定的な事実を引き出すことはできない。本稿がめざすのは、むしろその簡潔な記載を出発点として、三資料が湊町掛塚の歴史のなかでどのような位置を占めうるのかを、確度の層を保ったまま見取り図として描くことにある。断片的な地域資料を、確定に急がず、しかし放置もせず、後続の調査が接ぎ足しうる形で書き留めること。これが、既刊の掛塚関連論考を承けて本稿が引き受ける役割である。

こうした断片資料を軽んじない理由も述べておきたい。地域で親しまれてきた事物を並べて掲げる記録は、学術的な校訂を経ていないという点では確度が低い。しかし、何がその町で「伝えるべきもの」として選び取られてきたのかを示す点では、他に代えがたい証言となる。御神輿・西洋型帆船・フタナリ船という取り合わせそのものが、掛塚の人々が自らの町を信仰・産業・祭礼の三つの相において記憶してきたことの表れであり、この選択の構図を読むことにも、なお一定の意味がある。

掛塚湊 海に開いた町 御神輿 信仰・祭祀 西洋型帆船 海運・産業 フタナリ船 祭礼の意匠 三つの資料が交わる湊町掛塚 信仰・産業・祭礼は別々の領域だが、海に開いた一つの町を母体として派生した。
図1 三資料の関係構造。御神輿(信仰)・西洋型帆船(産業)・フタナリ船(祭礼)は、掛塚という湊町を共通の母体とし、同じ地の記憶を別々の角度から照らす。

2. 史料の性格 ── お宝見聞帳とアーカイブ二次資料

三つの資料を並べて掲げる直接の典拠は、NPO磐田まちづくりネットワークが運営していた地域情報サイト「磐田お宝見聞帳」の一記事である2。同サイトはすでに閉鎖されており、本稿が参照しうるのは、インターネット・アーカイブに保存された過去の版を採取したデータにとどまる。すなわち本稿が扱う素材は、原資料そのものではなく、閉じた二次的な地域情報を、さらにアーカイブという別の媒体を経て受け取った、いわば伝来の三段目に位置する記録である。

この伝来の性格は、記載内容の扱いに一定の慎重さを求める。第一に、地域情報サイトの紹介記事は、一次史料の校訂を経たものではなく、地域の人々に親しまれてきた事物を平易に紹介することを目的とした媒体である。したがってそこに記された年代や由来は、地域で語られてきた通説や伝承をそのまま採録した可能性を含み、原典に遡って検証されているとは限らない。第二に、アーカイブからの採取という過程は、本文の一部を断片的な語句として抽出する。実際、素材には掛塚・貴船神社・湊・東海道といった地名と、御神輿・西洋型帆船・フタナリ船という主題語のほか、複数の年代と数量が並ぶが、それらは文脈を伴わない断片として残されている。

年代として抽出されているのは、たとえば1697年、明治14年〔1881年〕、明治22年〔1889年〕、明治30年〔1897年〕、そして平成期にあたる年などである。数量としては帆柱の本数と思われる「二本」や、二メートル台の寸法が挙がる。しかし、どの年代がどの資料に対応し、どの寸法がいずれの船を指すのかは、抽出された文字列の並びからは復元できない。1697年という近世の年紀が神社の由緒にかかるのか湊の沿革にかかるのか、明治期の複数の年が西洋型帆船の来歴を示すのか祭礼の整備を示すのかは、素材の記載だけでは確定しえない。

閉じた地域情報サイトをアーカイブから読むという行為には、固有の作法が要る。原サイトの編集方針や執筆者、取材の経緯は、採取されたデータからは復元しにくい。したがって、そこに記された事柄を引用する際には、それが一次史料の水準の記録ではなく、地域紹介という目的のもとで編まれた記述であることを、つねに明示しておく必要がある。本稿が素材の年代・数量をそのまま本文の断定に組み込まず、注記と留保を伴わせて扱うのは、この伝来経路に対する史料批判上の要請にほかならない。アーカイブは失われかけた記録を救う貴重な手段であるが、救われた記録の確度までを保証するわけではない。

ここで本稿は、方法上の区別を一つ立てておく。ある事柄について「本稿の調査範囲では裏づけとなる一次史料に突き当たっていない」状態を未確認と呼び、「その事柄を記す史料が存在しないと積極的に判断できる」状態を記載なしと呼んで、両者を峻別する。素材に付随する年代・数量の帰属は、いずれも現時点では未確認である。これは、それらが誤りであると断ずることでも、正しいと認めることでもなく、原典に遡る検証を保留したまま、確度の層を明示して扱うという態度の表明である。この区別は、以下の三資料の検討を通じて一貫して保持する。未確認を誤りと同一視すれば価値ある伝えを取りこぼし、逆に未確認を史実と混同すれば根拠なき断定に陥る。両者の中間に確度の層を丁寧に置くことが、断片資料を扱う唯一の穏当な道である。

地域の事物原資料・口碑 お宝見聞帳紹介記事 アーカイブ保存・採取 本稿史料批判 素材資料の伝来経路 ── 確度は段ごとに減衰する 本稿が受け取るのは伝来の三段目であり、年代・数量の帰属は未確認として扱う。
図2 素材資料の伝来経路。地域の事物が紹介記事・アーカイブを経て本稿に届くまでに、文脈は断片化する。抽出された年代・数量の帰属は未確認の層にとどまる。

3. 第一の資料:貴船神社の御神輿と水神信仰

資料①・信仰/祭祀

資料の位置。素材が所在地として掲げる貴船神社は、掛塚の鎮守として湊町の祭祀の中心を担ってきた社である3。御神輿は、その神社の祭礼において神霊を乗せて渡御するための神具であり、湊町の信仰が形をとって現れたものと位置づけられる。貴船の社号を負う神社は、全国的には水をつかさどる神を祀ることで知られ、京都・貴船神社を本源とする水神信仰の系譜に連なる。掛塚の貴船神社もまた、天竜川と遠州灘に面した湊町において、水の恵みと海上の安全を祈る信仰の場であったと考えられる。

御神輿が担う記憶。湊町にとって、海は生業の場であると同時に、いつ荒ぶるとも知れぬ畏怖の対象でもあった。船を出す者にとって、無事の帰港は神の加護に負うところが大きい。水神をまつる貴船神社の祭礼で御神輿が渡御することは、その加護を町へ迎え入れ、海と町の安寧を確かめる所作であったと解される。御神輿という一個の神具は、単なる祭りの道具ではなく、海に生きる共同体が水神へ寄せてきた祈りの累積を担う器として読むことができる。

渡御という所作。神輿の渡御は、社に鎮まる神霊を一時的に町中へ迎え、氏子の暮らしの場をめぐらせる神事である。定まった社殿を離れて町を練り歩くことで、祭りは神と人との距離を一年に一度だけ縮め、共同体の範囲を可視化する。湊町においては、その巡行の路がしばしば湊や川辺と関わり、海に開いた町の空間そのものを神の加護のもとに置き直す意味をもったと考えられる。御神輿を担ぐという身体の営みは、水神信仰を抽象的な観念にとどめず、町の人々が毎年くり返し引き受ける具体的な所作として継承する回路であった。もっとも、掛塚の御神輿の渡御路や祭次第の具体を記す史料の博捜は本稿の範囲を超えており、ここでは湊町の祭祀一般に照らした読みにとどめる。

水神をまつる社という性格。貴船の社号は、水の供給と鎮めをつかさどる神への信仰と結びついてきた。農にとっては雨と灌漑を、漁と海運にとっては海上の平穏を、いずれも水の神に託すという心性は、水に依存する暮らしのあり方から自然に育つ。掛塚のように、川の水運と海の海運の双方に生きた町では、水神への信仰は二重の切実さをもったと考えられる。上流から材を運び下す川の水と、廻船を各地へ送り出す海の水と、その双方の安寧が町の生存に直結していたからである。御神輿の渡御は、この二重の水に寄せる祈りを、目に見える所作として毎年たしかめる営みであった。

確度の腑分け。ただし、掛塚の貴船神社の勧請年代や、現存する御神輿の製作年を直接に記す一次史料は、本稿の範囲では未確認である。素材に見える近世の年紀を神社の由緒に結びつけることは可能な仮説だが、その帰属は前章に述べたとおり確定できない。したがって本稿は、水神信仰と御神輿の結びつきを掛塚の信仰の通説的な背景として述べつつ、個別の年代を史実として断定することは避ける。貴船神社と水神信仰の詳細については、既刊の第54号「貴船神社と水神信仰」に譲る。

本稿の評価:御神輿は、掛塚の水神信仰が形をとった資料であり、湊町の祭祀の記憶を担う。個別の年代は未確認とし、水神への祈りという信仰の層においてその意味を評価する。
遠州灘・天竜川 貴船神社 水神をまつる 御神輿の渡御 加護を町へ迎える 水神信仰と御神輿 ── 海の安全を祈る湊の祭祀 海に面した町で、水神の加護を御神輿が町中へ渡す(年代は未確認)。
図3 貴船神社と御神輿の関係。海に面した湊町において、水神をまつる社の祭礼で御神輿が渡御することは、海上の安全と町の安寧を祈る所作として読める。

4. 第二の資料:西洋型帆船と近代海運への転換

資料②・産業/海運

資料の位置。第二の資料は、西洋型帆船にまつわるものである。近世の掛塚は、和船である弁才船を主体とする廻船が木材や産物を運ぶ湊であった4。これに対し西洋型帆船とは、明治期に国の勧奨のもとで普及した、洋式の船体構造をもつ帆船を指す。掛塚のような海運の湊にこの資料が伝わることは、伝統的な和船の海運が、近代の洋式船へと移り変わっていく転換の一齣を示すものと解される。

近世の掛塚海運。近世の掛塚が栄えた基盤は、天竜川の水運によって上流域から流し下される木材にあった。集められた材は掛塚で船積みされ、廻船によって江戸をはじめとする各地の市場へ運ばれた。廻船問屋が軒を連ね、船主や船乗り、材木商が行き交うこの湊の賑わいこそが、「遠州の小江戸」という呼称の実体である。海運は掛塚の富の源泉であり、その富が神社の祭祀や祭礼の意匠を支える経済的な母体でもあった。信仰・産業・祭礼が一つの町で結びつく現実的な回路は、この海運の富に求められる。

近世から近代への転換。明治政府は、在来の和船に代えて洋式の船を建造・使用することを促す施策を進め、各地の海運業者はこれに応じて船型の転換を迫られた。廻船問屋の湊として栄えた掛塚においても、鉄道の延伸や近代港湾の整備とあいまって、海運のありようは大きく変わっていったと考えられる。西洋型帆船にまつわる資料は、その転換の局面に掛塚の海運が立ち会っていたことを物語る手がかりとなる。素材に明治期の複数の年が現れることは、この転換の時期と重なるが、前述のとおり各年の具体的な帰属は未確認である。鉄道が内陸の物流を担うようになると、河口の廻船湊が握っていた集散の機能は相対的に後退し、掛塚の海運もまた新たな条件のもとで生き延びる道を探ることになった。

寸法・数量をめぐる留保。素材には帆柱の本数と思われる数や、二メートル台の寸法が断片的に残る。これらが西洋型帆船そのものの規模を指すのか、その模型や絵図の寸法を指すのか、あるいは後述するフタナリ船にかかる数値なのかは、抽出された文字列からは判別できない。二本の帆柱という記載は、洋式帆船の帆装を思わせるが、二メートル台という寸法は実船よりはむしろ模型や祭礼用の造作を想起させる。この齟齬自体が、素材の数量が複数の資料にまたがって混在している可能性を示しており、個別の帰属を確定しない本稿の態度を裏づける。

確度の腑分け。掛塚の海運が近世の廻船から近代の洋式海運へ移行したこと自体は、湊町の歴史の大枠として通説の水準で述べうる。しかし、この西洋型帆船の資料が具体的に何であり、いつ・誰によって掛塚にもたらされたのかは、本稿の範囲では未確認にとどまる。掛塚港の近代化の過程については、既刊の第73号「掛塚港の近代」に詳しい。あわせて廻船問屋が栄えた最盛期の様相は第29号「掛塚湊と廻船問屋」を参照されたい。

本稿の評価:西洋型帆船の資料は、近世の廻船から近代海運への転換を証言する産業の層の手がかりである。転換の大枠は通説として述べうるが、資料の具体的来歴と寸法の帰属は未確認とする。
近世弁才船の廻船 明治期西洋型帆船の普及 近代鉄道・近代港湾 海運の転換 ── 和船から西洋型帆船へ 明治期の複数の年が素材に現れるが、各年の帰属は未確認。
図4 海運の転換。掛塚の海運は、近世の和船による廻船から明治期の西洋型帆船へ、さらに鉄道・近代港湾の時代へと移り変わった。西洋型帆船の資料はその転換期に位置づけられる。

5. 第三の資料:掛塚まつりのフタナリ船

資料③・祭礼/意匠

資料の位置。第三の資料であるフタナリ船は、素材において掛塚まつりと結びつけて掲げられている5。掛塚まつりは、貴船神社の祭礼として営まれ、精緻な彫刻を施した屋台と屋台囃子で知られる湊町の祭りである。フタナリ船は、その祭礼の意匠のなかに現れる船にかかわる造作と解されるが、この名称そのものの由来や、指し示す形状については、素材の記載だけからは判然としない。

名称と形状をめぐる不確かさ。「フタナリ」という語が何を意味するのかは、素材からは確定できない。二つの成り立ちを一つに合わせた造作を指すとも、二本の帆柱をもつ船形を指すとも読みうるが、いずれも推測の域を出ない。前章で触れた二本という数や二メートル台の寸法が、もしこのフタナリ船にかかるのであれば、それは実船ではなく祭礼のために設えられた船形の造作の規模を示すものと理解できる。しかし、その帰属もまた未確認であり、本稿はフタナリ船の具体的な形状を断定しない。名称の由来を含め、この資料は今後の現地調査と聞き取りによって確かめられるべき対象である。

掛塚まつりのなかで。掛塚まつりは、贅を凝らした屋台の曳き回しと、それを彩る屋台囃子で知られる。湊町が海運によって蓄えた富は、こうした祭礼の造作へと注がれ、彫刻や漆、金具の意匠に結晶した。フタナリ船が、この祭礼のどの場面に、どのような形で現れるものであるのかは素材からは判然としないが、船にかかわる造作が祭りの意匠のなかに位置を占めていること自体は、海と船を誇りとする湊町の祭礼として理解しうる。屋台囃子や彫刻とならんで、船を象る意匠が祭礼に組み込まれることは、掛塚という町が何を自らの表象として選んできたかを映している。

祭礼の意匠としての意味。形状の詳細が未確認であっても、湊町の祭礼に船にかかわる意匠が現れること自体は、掛塚という町の自己理解を読むうえで意味をもつ。海運で栄えた町が、その祭礼のなかに船を象る造作を取り込むことは、海と船が町の暮らしと誇りの中核にあったことの表現と解しうる。屋台に施された彫刻や囃子と同じく、フタナリ船もまた、湊町が海に負っていた記憶を祭礼の形へ昇華させたものとして位置づけられる。祭礼の意匠は、生業の記憶が世代を越えて反復・継承される回路でもある。名称と形状の確定は今後の課題として残るが、その課題が残ること自体が、この資料がなお現地に生きた検証の対象であることを示している。

本稿の評価:フタナリ船は、掛塚まつりの意匠として湊町の祭礼の記憶を担う伝承の層の資料である。名称・形状・寸法の帰属はいずれも未確認とし、海と町を結ぶ意匠という水準でその意味を評価する。

6. 三資料の比較と史料批判

ここまで見た三つの資料は、しばしば同じ一行のなかに並べて掲げられるために、あたかも等質の事物であるかのように受け取られやすい。しかし各資料は、依拠する層も、証言しうる事柄も、確度の水準も異なる。御神輿は信仰の層に、西洋型帆船は産業の層に、フタナリ船は祭礼の層に、それぞれ立脚する。層の異なる資料を同一平面で優劣づけることは、方法として適切でない。以下の比較表は、三者をその性格・内容・確度・留意点において対等の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。

表1 掛塚の三資料の比較 ── 確度の層・内容・依拠資料・史料批判上の留意点
資料確度の層主な内容依拠する資料留意点(史料批判)
御神輿信仰・通説/伝承貴船神社の祭礼で渡御する神具。水神信仰と湊の祭祀を担う。お宝見聞帳の記載、貴船神社の由緒、水神信仰の一般的背景。勧請年・製作年を直接記す一次史料は未確認。近世の年紀の帰属は確定しない。
西洋型帆船産業・通説/推定近世の和船から近代の洋式海運への転換を示す資料。お宝見聞帳の記載、掛塚海運の沿革、明治期の造船施策。資料の具体的来歴・寸法の帰属は未確認。明治期の各年を直結できない。
フタナリ船祭礼・伝承掛塚まつりの意匠に現れる船にかかわる造作。お宝見聞帳の記載、掛塚まつりの祭礼構成。名称の由来・形状・寸法はいずれも未確認。今後の現地調査を要する。

この比較から見えてくるのは、三資料が競合するのではなく、それぞれが掛塚という湊町の異なる側面を照らしているという事実である。御神輿は町が海へ寄せた「祈り」を、西洋型帆船は海に負った「生業」を、フタナリ船はその生業を祝祭へと昇華させた「誇り」を、それぞれ別の層で証言する。一つの資料で掛塚の全体を覆おうとすれば、他の側面が視野から抜け落ちる。三者を並置する意味は、まさにこの相互補完の関係を回復する点にある。

史料批判の観点からは、三資料に共通して「素材が二次的なアーカイブ資料であり、付随する年代・数量の帰属が未確認である」という同一の限界が課される。この限界は三者に等しく課されるのだから、それを理由に特定の資料だけを退けることはできない。むしろ問うべきは、各資料がどの層に立脚し、その層の資料がどこまでを語りうるのかである。信仰は祈りの記憶を、産業は転換の局面を、祭礼は町の自己表現を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの資料も単独では掛塚の像を確定できず、また確定できないことをもって資料の価値を否定することもできない。

三資料の確度の層が異なることは、それぞれの資料を検証するために必要となる次の一手も異なることを意味する。御神輿については、社蔵の記録や近世・近代の地方文書に当たることが有効であり、西洋型帆船については、海運業者や造船にかかわる記録の照合が求められ、フタナリ船については、何よりもまず現地での観察と担い手への聞き取りが不可欠である。同じ「未確認」であっても、それを解消する経路は資料の性格に応じて分岐する。比較の作業は、単に三者を並べるためだけでなく、それぞれをどの方向へ調べ進めるべきかを見定めるためにも役立つ。

この整理は、郷土史の記述にとって一つの含意をもつ。地域の記憶を書くとき、私たちはしばしば断片的な資料から性急に一つの物語を組み立てようとする。しかしその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、帰属の不確かな数値を史実であるかのように語る誤りに陥りやすい。ここで採った四層の腑分けと「未確認」「記載なし」の区別は、そうした性急な確定を避け、それぞれの資料を、それが属する層のなかで正当に評価するための手続きである。史料で確認できることは史実として、地域が語り継いできたことは伝承として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。これは掛塚の三資料に限らず、断片的な地域資料一般に適用できる記述の作法であると考える。

史実 史料で確認 通説 広く支持 推定 根拠あり未確定 伝承 地域で語り継ぐ 確度の四段階 ── 混同しないための弁別 御神輿・西洋型帆船・フタナリ船は、それぞれ異なる層に属する。
図5 確度の四段階。史実・通説・推定・伝承を語の水準で書き分けることが、断片資料を読む前提となる。三資料は同じ層に属さず、混同は帰属の誤りを招く。

7. 背景としての地理 ── 天竜川東派川河口の湊町

三資料を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、掛塚という湊町の地理的背景である。掛塚は、天竜川の下流が分かれて流れる東派川が遠州灘へ注ぐ河口に位置した。川と海の接点に立地したこの地は、上流から流し下される木材を集め、これを廻船で各地へ運び出す集散の湊として発達した。信仰・産業・祭礼という三つの資料は、いずれもこの河口の湊という立地なくしては生まれえなかった。

川と海の境という立地は、掛塚に二重の性格を与えた。一方で、天竜川という大河の水運が上流の物資を運び下し、他方で、遠州灘という外海が廻船を各地へ結んだ。掛塚は、内陸の水運と沿海の海運とが接続する結節点として機能したのである。この結節の性格が、水神をまつる貴船神社の信仰を育て、廻船から西洋型帆船へと連なる海運の生業を支え、その豊かさを背景に掛塚まつりの意匠を磨いた。三資料の背後には、つねにこの河口の地理が横たわっている。

掛塚が面した東派川という呼称そのものが、天竜川下流の流路が一様でなかったことを物語る。大河の下流はいくつもの派川に分かれて海へ注ぎ、その一つの河口に掛塚は開けた。流路の分岐と変化は、湊の立地に恵みと危うさを同時にもたらした。分流は舟運の便を生む一方で、流路の移動や河口の閉塞は、湊の機能を一夜にして脅かしかねない不確実性でもあった。掛塚の海運が、天竜川という大河の気まぐれと絶えず折り合いをつけながら営まれてきたことは、この地理の与件である。

もっとも、河口の湊であることは、恵みであると同時に脆さでもあった。天竜川はしばしば氾濫し、河口の地形は流路の変化にさらされ、砂の堆積は湊の水深を脅かした。水神への祈りが切実であったのは、この不安定な水辺に生きる町の実感に根ざしていたからにほかならない。近代に入り、鉄道の延伸と近代港湾の整備が進むと、河口の廻船湊としての掛塚の地位は相対的に低下していった。西洋型帆船の資料が示す転換は、この地理的条件の変化と不可分である。

この背景を踏まえると、三資料は掛塚の一時代を切り取った静止画ではなく、河口の湊が海とともに歩んだ長い履歴の、それぞれ異なる断面として立ち現れる。御神輿は不安定な水辺に生きる町の祈りを、西洋型帆船は海運の環境変化に応じた生業の転換を、フタナリ船は海に負った記憶を祝祭へ結晶させた町の自己表現を、それぞれ地理の条件のもとで担ってきた。掛塚を読むとは、この河口という場が海と信仰と生業を束ねてきた過程を読むことである。

天竜川東派川 遠州灘 掛塚湊 河口の結節点 内陸の水運 木材を集める 沿海の海運 各地へ運ぶ 河口の湊 ── 内陸水運と沿海海運の結節
図6 掛塚の地理。天竜川東派川の河口に立地した掛塚湊は、内陸の水運と沿海の海運が接続する結節点であった。三資料はいずれもこの立地を母体とする。

8. 結論 ── 三つの資料を湊町の記憶へ束ね直す

本稿は、掛塚に伝わる御神輿・西洋型帆船・フタナリ船という三つの資料を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。三資料の直接の典拠は、閉じた地域情報サイトをアーカイブから採取した二次資料であり、そこに付随する年代・数量の帰属は、いずれも本稿の範囲では未確認である。この限界を三者は等しく共有しつつ、御神輿は信仰の、西洋型帆船は産業の、フタナリ船は祭礼の層で、掛塚という湊町の異なる側面をそれぞれ証言している。

三つの資料を一つの起源や一つの物語へ還元することは、掛塚が海とともに積み重ねてきた複数の記憶の層を切り捨てることにほかならない。水神への祈り、廻船から洋式海運への転換、祝祭に象られた船──これらは、天竜川東派川の河口という一つの立地を母体として、長い時間のなかで折り重なってきた。三者が別々の資料でありながら同じ町を照らすという事実こそ、掛塚が海と信仰と生業を分かちがたく束ねてきた湊町であったことの証左である。

三つの資料を並べて読むという本稿の試みは、掛塚を対象とする既刊の各論考を、別の角度から結び直す作業でもあった。掛塚湊の廻船問屋の最盛期、貴船神社の水神信仰、掛塚港の近代化という主題は、それぞれ独立の論考として論じられてきたが、御神輿・西洋型帆船・フタナリ船という三資料は、信仰・産業・祭礼の相においてこれらを一つの町の履歴として横につなぐ結節点となる。個別の主題を深く掘る作業と、それらを一つの町のもとに束ねる作業とは、湊町の記憶を立体的に描くうえで、いずれも欠かせない。

したがって本稿の立場は明確である。断片的な地域資料を読むにあたっては、そこに残る年代や数量を性急に確定へと結びつけるのではなく、各資料がどの層に立脚し何を語りうるのかを腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別したうえで、確度の層を保ったまま記述すべきである。伝承を史実の劣位に置かず、二次資料の記載を史実と偽らないこの禁欲的な手続きこそが、湊町の記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、御神輿の製作年や貴船神社の勧請年代は、社蔵の棟札や近世・近代の地方文書を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、西洋型帆船の資料が具体的に何であるかは、掛塚の海運業者や造船にかかわる記録を照合することで確かめられるべきである。第三に、フタナリ船の名称の由来と形状は、掛塚まつりの現地調査と担い手への聞き取りによってこそ明らかになる。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を推定へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。掛塚湊町の資料をめぐる個別の検討は、本論考シリーズにおいて稿を改めて論じたい。

本稿の主題である掛塚のような湊町には、海とともに歩んだ暮らしの記憶とともに、古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 掛塚が「遠州の小江戸」と称された近世の廻船問屋の最盛期については、本論考シリーズ第29号「掛塚湊と廻船問屋」に詳しい。
  2. NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」記事ID83「御神輿・西洋型帆船・フタナリ船(掛塚まつり)」。同サイトは閉鎖されており、本稿はInternet Archiveに保存された版を採取したデータ(採取日:2026年6月28日)を参照した。
  3. 貴船の社号を負う神社は水をつかさどる神を祀ることで知られる。掛塚の貴船神社と水神信仰については本論考シリーズ第54号「貴船神社と水神信仰」を参照。
  4. 西洋型帆船は、明治期に国の勧奨のもとで普及した洋式船体の帆船を指す。掛塚の海運の近代化については本論考シリーズ第73号「掛塚港の近代」を参照。
  5. 掛塚まつりは貴船神社の祭礼として営まれ、彫刻を施した屋台と屋台囃子で知られる。屋台と囃子については一般向け記事 r048「掛塚祭 屋台と屋台囃子に残る信仰と文化の記憶」を参照。

付記:本稿は一般読者向け記事 r047 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、素材に付随する年代・数量は原典に遡る検証を保留して「未確認」として扱った。

参考文献・参考資料

  • NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」記事ID83「御神輿・西洋型帆船・フタナリ船(掛塚まつり)」。Internet Archive 採取データ(採取日:2026年6月28日)。
  • Internet Archive 保存ページ http://web.archive.org/web/20170912200348/http://otakara-iwata.net/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 r047「御神輿・西洋型帆船・フタナリ船を地域の記憶として読む」 https://iwata-monogatari.net/r047 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 r048「掛塚祭 屋台と屋台囃子に残る信仰と文化の記憶」 https://iwata-monogatari.net/r048 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「掛塚湊と廻船問屋 ──『遠州の小江戸』の最盛期」大石浩之の磐田論考 第29号、磐田物語 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/029/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「貴船神社と水神信仰 ── 掛塚湊の海の安全を祈る」大石浩之の磐田論考 第54号、磐田物語 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/054/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「掛塚港の近代 ── 灯台・救難所・魚市場が語る港町の変化」大石浩之の磐田論考 第73号、磐田物語 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/073/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 竜洋町『竜洋町史』(竜洋町、該当章)。
  • 貴船神社(掛塚)由緒書。
  • 掛塚まつり保存関係資料。
  • 国土地理院 地形図(天竜川下流域・掛塚) https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 佐口行正氏所蔵史料。