失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 「堤外」と「内郷堤」

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第141号(旧豊田町の地名研究 川と堤)

「堤外」と「内郷堤」 ── 天竜川の堤が分けた土地

堤防をめぐる地名と暮らしの記憶

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市豊田(旧豊田町)

要旨

旧豊田町の地名資料には「堤外」がくり返し現れ、また「内郷堤」という堤の名も地名として伝わる。本稿は、これら堤にまつわる地名を手がかりに、天竜川左岸の土地が堤の線によってどのように分けられ、どのような暮らしの条件を生んできたかを検討する。まず「堤外」を一般語と地名の両面から定義し、堤内・堤外・川原・新田という地名群を確度の層に腑分けする。天竜川が幾度も流路を変えた暴れ川であったことは河川史から確認できる史実であるが、内郷堤そのものの築造年代・位置を直接記す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。この「未確認」と「史料に記載がない」ことの区別を保ちつつ、堤が土地を守る線であると同時に土地を分ける線でもあったこと、そして堤と寺谷用水という「止める線」と「引く線」が同じ左岸の土地を生かしてきたことを示す。地名を防災の記憶として読む方法上の含意も論じる。

キーワード:堤外/内郷堤/天竜川左岸/堤内堤外/川原・新田/寺谷用水/地名と防災

1. 問題設定 ── 地名から堤の線を読む

「堤外(つつみそと)」という地名は、地図の上では小さな文字にすぎない。だがその意味を考えると、そこには天竜川と向き合って暮らしてきた人びとの緊張が刻まれている。堤の内側は水から守られる土地であり、堤の外側は川に近い土地である。わずか二文字の違いが、土地の安全、耕作、所有、そして暮らし方そのものを分けていた。旧豊田町の地名資料には、この「堤外」がくり返し現れる1。本稿は、その地名を入口として、天竜川左岸の土地が堤の線によってどう分けられたのかを読み直す試みである。

あわせて注目したいのが「内郷堤(うちごうつつみ)」という呼び名である。堤そのものが地名として残るとき、そこには単に堤があったという事実だけでなく、どの集落を、どの田を、どの道を守るための堤だったのかという記憶が含まれる。堤外が「守られない側」を指すのに対し、内郷堤の名は「郷を守る」という意識の側から堤を名づけている。この二つの語を並べて読むと、堤という一本の線が、土地に内と外という非対称な意味を与えていた様子が見えてくる。

本稿がとる姿勢を、あらかじめ述べておきたい。地名の由来を語るとき、私たちはしばしば断定に傾く。「この地名はこういう意味だ」と一息に言い切りたくなる。しかし地名の由来には、史料で確認できる事柄と、語の意味から読み取れる推測と、地域で語り継がれてきた伝えとが混在している。これらを同じ平面で扱えば、確度の低い推測を由来の定説のように語り、あるいは価値ある伝えを根拠薄弱として切り捨てる誤りに陥りやすい。そこで本稿では、堤にまつわる事柄を史実・推定・伝承の層に腑分けし、層をまたいだ断定を避けながら記述を進める。

もう一点、方法上の区別を先に明示しておく。以下では「未確認」と「記載なし」を厳密に使い分ける。「未確認」とは、管見の限り、それを裏づける一次史料に突き当たっていないという筆者の側の状態を指す。「記載なし」とは、参照した史料のなかにその事柄の記述が存在しないという史料の側の事実を指す。両者を混同すると、単に筆者が把握していないだけの事柄を「史料に存在しない」と誤って断じてしまう。堤の築造年代のように直接の記録が乏しい主題では、この区別がとりわけ重要になる。

以下ではまず「堤外」という語の性格を検討し(第2節)、続いて天竜川左岸という土地の成り立ちを押さえる(第3節)。そのうえで「内郷堤」の呼び名を読み(第4節)、堤と寺谷用水という二つの線の関係を論じ(第5節)、堤内・堤外・川原・新田という地名群を確度の層に腑分けする(第6節)。近代治水による堤の完成を背景として確認したうえで(第7節)、地名を防災の記憶として読む方法上の含意へと至る(第8節)。素材とした一般向け記事の記述を、確度の層を明示しながら学術的に組み替えることが、本稿の企図である。

天竜川 堤防 堤内 守られる側・集落と田 堤外 川に近い側・草地と河原 堤は土地を守り、同時に分ける線
図1 堤を境とする土地の断面模式図。堤の内側(堤内)は守られる土地、外側(堤外)は川に近い土地であり、一本の線が土地に非対称な意味を与える。

2. 「堤外」という語 ── 一般語と地名のあいだ

「堤外」という語は、二つの水準で理解する必要がある。第一に、河川管理や土木の分野で用いられる一般語としての「堤外」である。堤防を境として、川の流れる側を「堤外地(ていがいち)」、集落や田畑のある側を「堤内地(ていないち)」と呼ぶ。ここでの内・外は、人の住む側から見た内・外ではなく、川を基準とした呼び分けである。すなわち川に近い側が「外」、川から遠い守られる側が「内」となる。日常の感覚とは逆転しているように見えるこの用語法は、堤防を「川を締め出す線」として捉える発想に由来する2

第二に、旧豊田町に残る地名としての「堤外」である。地名は一般語がそのまま土地に固定されたものであり、その土地がかつて堤の川側にあった、あるいは堤の外に位置づけられていたという履歴を伝える。地名として残るということは、その区別が単なる専門用語にとどまらず、そこに暮らす人びとにとって現実の生活条件の違いとして意識されていたことを意味する。堤内は洪水から守られることを期待された土地であり、家が建ち、田畑が広がり、村の中心になりやすい。一方の堤外は水に近く、平時には畑や草地として使えても、増水時には水をかぶる可能性があった。だからこそ「堤外」という名は、地名であると同時に、土地利用上の注意書きでもあった。

ここで一つ、確度の腑分けを明示しておきたい。「堤外」が一般に堤の川側・外側を指す語であること、これは河川用語として確認できる史実に属する。しかし旧豊田町の個々の「堤外」地名が、具体的にどの堤の外側を指し、どの範囲を占めていたかについては、地名資料の記載を超えて確定するには、なお現地の照合と史料の突き合わせを要する。すなわち語義は確定できても、個別地点の正確な比定は未確認の部分を残す。この点を曖昧にしたまま「ここが堤外であった」と地図上に線を引くことは、本稿の慎むところである。

とはいえ、個別の比定が未確定であることは、地名の価値を損なうものではない。むしろ「堤外」という語が複数の地区に残ること自体が、天竜川左岸の広い範囲で、堤の内と外という区別が生活に食い込んでいたことを示している。地名は、正確な地点を示す座標としてよりも、土地の履歴を伝える証言として読むべきである。堤外という名に出会ったとき問うべきは「それは正確にどこか」よりもまず「なぜここに堤の外という記憶が残されたのか」であり、その問いは自ずと天竜川という川の性格へと向かう。

もう一つ、用語法そのものについて注意を促しておきたい。河川用語の「堤外」と、日常語の感覚とのずれである。ふつう私たちは、家や田のある側を「内」、そこから離れた側を「外」と感じる。ところが河川の用語では、川の流れる側が「堤外」、人の暮らす側が「堤内」であって、感覚とは逆になる。この逆転は、堤防を「人の側の内と外」ではなく「川を締め出す境」として捉える発想から生まれている。地名としての「堤外」を読むとき、この用語法上のねじれを踏まえておかないと、川に近い危うい土地を、かえって集落の外れの安全な土地と取り違えかねない。地名を土地の履歴として正しく読むには、まずこの語の視点そのものを、川の側に置き直す必要がある。

3. 天竜川左岸という土地 ── 暴れ川がつくった低地

堤外という地名がいくつも残る背景には、天竜川という川そのものの性格がある。天竜川は、長野県の諏訪湖に発し、伊那谷を貫いて遠州灘へ注ぐ大河である。その急流と、運ぶ土砂の多さから、古くから「暴れ川」と呼ばれてきた。下流の遠州平野に出ると勾配がゆるみ、川は幾筋にも分かれ、増水のたびに流れを変えた。旧豊田町を含む左岸の低地は、こうした天竜川が土砂を積んでつくり、また幾度も流路を移してきた土地である。

川が流路を変えるということは、堤の意味も変わるということである。ある年に堤の内側であった土地が、川筋の移動によって川に近づき、あるいは逆に、かつて川原であった土地が新たな堤の内に取り込まれる。天竜川のように流れの定まらない川では、堤は一度築けば終わりというものではなく、川が流れを変えるたびに築き直し、補強し、守り続けなければならない営みであった。「堤外」という地名がいくつも残るのは、堤の線そのものが時代とともに動き、そのたびに内と外の境が引き直された歴史の名残でもある。地名は、ある一時点の堤の位置を凍結して伝えているにすぎず、その背後には線が何度も移動した長い過程が畳み込まれている。

この土地の成り立ちは、本論考シリーズでもくり返し扱ってきた主題である。天竜川が池田・掛塚のような村をつくり、また流した過程については別稿で論じた(天竜川がつくった村、流した村)。中州に生きた十郎島・川袋の暮らし(十郎島と川袋)や、「島」のつく地名が微高地の記憶を伝えること(弥藤太島・気子島)も、いずれも同じ左岸低地の土地条件を別の角度から照らしたものである5。堤外・内郷堤の地名は、これら一連の「川がつくった土地」の記憶の系列に、堤という人為の線の側から加わる主題として位置づけられる。

低地の土地条件を、もう少し具体的に押さえておきたい。天竜川下流の左岸は、旧河道の跡である低湿地と、それより一段高い自然堤防上の微高地とが入り組んでいる。微高地は水はけがよく、古くから集落や田が営まれた。低湿地は水がたまりやすく、耕地化には排水の工夫を要した。堤はこうした地形の凹凸の上に、人が引いた新たな境界である。自然の地形がつくった高低差に、堤という人為の線が重ねられることで、土地は「守られる側」と「守られない側」に区分された。堤外の地名は、この自然と人為が重なった境界の、外側に置かれた土地の記憶なのである。

旧河道(跡) 中間の流路 現在の流路 微高地 低湿地 流路の移動が残した左岸の低地
図2 天竜川左岸の成り立ちの模式図。川が幾度も流路を変え、旧河道の低湿地と自然堤防の微高地が入り組む土地に、堤という人為の線が重ねられた。

4. 「内郷堤」という呼び名 ── 郷を守る堤の記憶

「内郷堤」という名は、堤の内側にある郷、あるいは郷を守る堤という感覚を思わせる。前節で見たように、堤の名が地名として残るとき、そこにはどの集落を、どの田を、どの道を守るための堤だったのかという記憶が含まれる。堤外が川を基準とした「外」を指すのに対し、内郷堤は守られる共同体の側から堤を名づけている点で、対をなす語として読める。堤という一本の線を、川の側から見るか、郷の側から見るかで、名づけの視点が反転するのである。

旧豊田町の低地は、天竜川左岸の水害と開発の歴史を抜きには語れない。水を避けるために堤を築き、水を引くために用水を通し、さらに新田を開いた。堤と用水は相反するものではなく、同じ土地を生かすための両輪であった。内郷堤の名は、この営みのうち「水を避ける」側、すなわち郷を水から守る堤普請の記憶を伝えるものと解される。

堤の名が地名として固定されるまでには、長い普請の積み重ねがあったと考えられる。江戸時代の天竜川下流では、堤防の維持や水防は流域の村々が共同で担い、増水期には村人が総出で土俵を積み、堤を見回った。一つの堤を守ることは、その堤に守られる集落どうしが利害を共有することでもあり、堤普請の負担と水防の責任が、村と村の関係を結び直していった。「内郷堤」という呼び名にこめられた「郷を守る」という感覚は、こうした共同の営みの記憶でもあろう。堤は土木構造物であると同時に、それを維持する人びとの共同体の輪郭を、地に描き出す線でもあった。堤普請の割り当て、水防の当番、増水時の見回りといった負担の分担は、どの郷がその堤に守られるのかという範囲を、そのまま社会的な結びつきの範囲として定めていった。内郷堤の「郷」という一字には、こうした堤を介した村どうしの関係の記憶が畳み込まれていると読める。

ここで確度の腑分けを明示しておく。内郷堤そのものの築造年代や正確な位置については、地名資料以上の確かな記録を、本稿の範囲では確認できていない。これは「そうした堤が存在しなかった」とか「記録が存在しない」と断定することとは異なる。あくまで、管見の限り築造の年代・位置を裏づける一次史料に突き当たっていないという未確認の状態である。地名としての「内郷堤」が伝わることと、その堤の物理的な実体を史料で復原できることとは、別の水準の問いなのである。

本稿の立場:内郷堤については、築造年代・位置の確定を急がず、「郷を守る堤」という呼び名がこめてきた共同体の記憶を読む対象として位置づける。地名の意味あいを読むことと、堤の実体を史料で復原することを区別し、後者は未確認として今後の課題に残す。
内郷堤 郷A 郷B 郷C 天竜川(水の側) 一つの堤を複数の郷が共同で守り、利害を分かち合う
図3 内郷堤の概念図。一つの堤が複数の郷を水から守り、堤普請と水防の負担を共有することが、村と村の関係を結び直した。築造年代・位置は未確認とする。

5. 止める線と引く線 ── 堤と寺谷用水

堤外という言葉は水害の記憶を伝えるが、天竜川左岸の歴史は、川を恐れるだけのものではなかった。同じ川の水を引いて田を潤す試みが、堤の歴史と並んで進められていたからである。その代表が、磐田の地に今も流れる寺谷用水である。堤と用水を一対のものとして捉えることは、堤外・内郷堤という地名を、水害の記憶としてだけでなく、水利の記憶とあわせて読むための鍵となる。

寺谷用水は、徳川家康の命を受けた伊奈忠次が天竜川の治水と開発を進めるなかで、平野重定を普請奉行として開かれたと伝えられる。完成は天正18年〔1590年〕とされ、取水口を置いた寺谷の地名にちなんで名づけられた。以来、用水は400年以上にわたって天竜川左岸の水田をうるおし続け、現在も約1504ヘクタールの田に水を送っている。その歴史的・技術的・社会的価値が認められ、令和4年〔2022年〕には世界かんがい施設遺産に登録された3

ここでも確度の層を分けておく。寺谷用水が現に約1504ヘクタールを灌漑していること、2022年に世界かんがい施設遺産へ登録されたことは、公開資料で確認できる史実である。一方、天正18年の完成、伊奈忠次の関与、平野重定の普請奉行としての役割は、「伝えられる」「とされる」という語のとおり、史料の性格としては伝承・通説の層に属し、開削年をこの一点に確定する一次史料の博捜は今後の課題に属する。近世初頭の用水開削は、ある年に一挙に完成したというより、取水・分水の整備を重ねながら形を整えていったと考えるのが、この種の土木事業の実態に照らして穏当である。

堤と用水を対比すると、両者の関係がよく見える。堤が川の水を「止める」線であるとすれば、用水は川の水を「引く」線である。両者は向きが逆でありながら、川という同じ相手と向き合い、左岸の土地を田として生かすための、いわば表と裏の工夫であった。堤外・川原・新田といった地名は、この止める努力と引く努力が積み重なった土地の上に置かれている。堤外という地名だけを取り出せば、そこは水に脅かされる土地に見える。だが同じ土地は、用水によって水を引かれ、田として生かされる土地でもあった。地名の一語だけを見て土地の性格を決めつけることの危うさが、ここにある。

本稿の立場:堤外・内郷堤の地名は、「水を止める」堤の記憶と「水を引く」用水の記憶の双方を背景にもつ。水害の記憶としてのみ読むのではなく、止める線と引く線が同じ土地を生かしてきた両輪の営みとして読むことを、本稿の立場とする。
天竜川 堤 ── 水を止める線 洪水を締め出す 寺谷用水 ── 水を引く線 田をうるおす 同じ川に向き合う二つの線
図4 堤と用水の対比。堤が水を止める線であるのに対し、用水は水を引く線であり、向きは逆ながら同じ左岸の土地を田として生かす両輪であった。

6. 地名群の腑分け ── 堤内・堤外・川原・新田

堤外という地名は、単独で存在するのではなく、堤内・川原・新田といった一群の地名と組をなしている。これらはいずれも、天竜川と土地との関わりを異なる側面から刻んだ名であり、まとめて読むことで、川と向き合った土地利用の全体像が浮かび上がる。以下の比較表は、これらの地名を、指し示す土地の性格・確度の層・史料批判上の留意点において対等の粒度で並べ、一語だけを取り出して土地を断定する誤りを避けるための見取り図を示すものである。

表1 天竜川左岸の「川と堤」にまつわる地名群 ── 指し示す土地の性格と確度の層
地名指し示す土地確度の層暮らしとの関わり留意点(史料批判)
堤内堤に守られる側。川から遠い土地。語義は史実/個別比定は推定集落・田畑・道が安定して置かれやすい。川を基準とした「内」であり、生活感覚の内・外とは逆。
堤外川に近い側。堤の川側の土地。語義は史実/個別比定は未確認草地・畑・河原利用の場。増水時は水をかぶりやすい。複数地区に残るが、各地点の範囲確定は現地照合を要する。
川原川がつくった砂礫地・低湿地。地形由来の推定耕地化の歴史と重なり、開発の前段階を示す。旧河道の位置と対照して読む必要がある。
新田堤・用水の整備後に開かれた土地。開発史に基づく推定川を制御した後の開発の記憶を示す。開発年代・主体は新田ごとに個別の検討を要する。

この表から見えてくるのは、四つの地名が競合しているのではなく、それぞれが土地と川の関わりの異なる局面を刻んでいるという事実である。堤内・堤外は堤という人為の線を基準とした区分であり、川原は川がつくった地形そのものを、新田は川を制御した後の開発を指す。時間軸で並べれば、川原(自然の地形)→堤・用水の整備→新田(開発後の土地)という順序が見えてくる。堤内・堤外の区分は、その全過程を通じて、堤が引かれるたびに更新され続けた。地名群は、この土地が川とのあいだで積み重ねてきた交渉の、いわば地層のように読める。

史料批判の観点からは、これらの地名すべてに共通する限界を指摘しておかねばならない。すなわち、いずれの地名についても、それが指す土地の範囲を厳密に確定し、成立の年代を一点に定める一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。地名資料が伝えるのは名の存在であって、その名が指す土地の境界や成立時期そのものではない。この限界は四つの地名に等しく課されるのだから、それを理由に特定の地名だけを不確かとして退けることはできない。むしろ問うべきは、各地名がどの資料層に立脚し、その層がどこまでを語りうるのかという点である。

この整理は、地名から土地を読む作業に一定の含意をもつ。「新田」の一語からその土地の開発年代を断ずることも、「堤外」の一語からその土地が今も危険であると決めつけることも、いずれも一語への過度の依存という同じ誤りである。地名は土地の履歴を伝える証言ではあるが、証言はつねに、それが属する層のなかで正当に評価されねばならない。四つの地名を一枚の見取り図のなかに並べ、互いの関係のなかで読むこと──それが、一語の断定を避けるための手続きである。

この見取り図は、地名を組として読むことの効用も教えてくれる。一つの土地には、しばしば複数の地名が層をなして重なっている。かつて川原であった土地が新田として開かれ、その一部が堤の内に取り込まれる、といった具合である。もし「新田」という名だけを見れば、そこは川を制御した後の安定した耕地に見える。だが同じ土地が「川原」の記憶を下層にもつのなら、その安定は堤と用水の維持によって支えられた、条件つきの安定にほかならない。地名を単独で読むのではなく、隣り合う地名との関係のなかで読むことで、土地が川と結んできた交渉の履歴が、より立体的に浮かび上がる。堤外・内郷堤の地名も、このように地名群の一部として読むとき、はじめて土地の全体の物語のなかに位置を得る。

川原自然の地形 堤・用水の整備止める/引く 新田開発後の土地 堤内・堤外線ごと更新 地名群が刻む土地利用の時間軸 堤内・堤外の区分は全過程を通じて堤が引かれるたびに更新された。
図5 地名群が刻む土地利用の時間軸。川原(自然の地形)から堤・用水の整備を経て新田に至る流れの上に、堤内・堤外の区分が更新され続けた。

7. 近代の治水と堤の完成 ── 明治の洪水と金原明善

天竜川左岸の堤の歴史を語るとき、近代の治水もまた欠かせない。旧豊田町の堤や堤外の地名が、現在のような安定した姿に近づいていくのは、近世の堤普請の蓄積のうえに、近代の大規模な治水事業が重ねられてからのことである。ここでは近代治水の画期として、明治初年の洪水と、それに立ち向かった人びとの営みを確認しておく。

明治元年〔1868年〕の大洪水では、天竜川の堤防が広範囲にわたって決壊し、流域は大きな被害を受けたと記録される。この惨状を前に、流域の人びとは資金を募って堤防の修築に取り組んだ。なかでも知られるのが、浜松の安間村に生まれた金原明善である。明善は天竜川の治水を生涯の事業とし、堤防の築造や植林による治山に私財を投じたと伝えられる。明治政府への建白、堤防会社の設立、そして家産を治水資金として差し出すに至るその歩みは、川とともに生きる遠州の人びとが、川をどれほど切実な相手として受けとめていたかを今に伝えている4

ここでも確度の層を分けておきたい。明治元年に天竜川で大規模な洪水が発生し堤防が決壊したこと、金原明善が天竜川の治水と治山に尽力したことは、複数の公開資料で確認できる史実に属する。一方、明善の個々の事績の年次や、私財投入の具体的な額といった細部は、資料によって記述に幅があり、本稿では立ち入らない。重要なのは、近代の治水が、個人の献身から国家的な河川事業へと段階的に広がっていった過程のなかで、左岸の堤が現在の姿へと整えられていったという大きな流れである。

この近代治水の延長線上で、旧豊田町の堤外・内郷堤の地名も、その意味あいを変えていった。近世まで、堤外は現実の危険と隣り合わせの土地であった。だが堤防が高く強固になり、河川改修が進むにつれ、堤の内と外という区別は、日常生活のなかで意識される度合いを弱めていく。堤外という地名が伝える緊張は、近代治水の達成によって、いわば過去の記憶の層へと沈んでいった。地名だけが、かつてそこが川に近い土地であったことを、静かに伝え続けている。

もっとも、堤が現在の姿に近づいたことは、川の危険が消えたことを意味しない。近代治水は水害の頻度と規模を大きく抑えたが、天竜川が暴れ川であった記憶は、地形と地名のなかに残り続けている。堤外という地名が伝えるのは、克服された過去の危険であると同時に、条件が変われば再び顔を出しうる土地の履歴でもある。この二重性を踏まえることが、次節で論じる「地名を防災の記憶として読む」という主題へとつながる。

近世の堤普請村の共同 明治元年洪水堤防決壊 金原明善ら修築・治山 現在の堤河川改修 堤の完成へ ── 近世から近代への流れ
図6 近世の村の堤普請から、明治の洪水と金原明善らの修築を経て、現在の堤に至る流れ。左岸の堤が安定した姿に近づく過程を示す。

8. 結論 ── 地名を防災の記憶として読む

本稿は、旧豊田町の「堤外」と「内郷堤」という地名を手がかりに、天竜川左岸の土地が堤の線によってどう分けられたかを検討してきた。得られた見取り図は次のとおりである。「堤外」は堤の川側を指す一般語であると同時に、複数地区に残る地名であり、堤内・川原・新田とともに、川と向き合った土地利用を刻む地名群をなす。「内郷堤」は、その堤群のうち「郷を守る」側から名づけられた呼び名である。天竜川が幾度も流路を変えた暴れ川であったこと、寺谷用水が左岸の田をうるおしてきたこと、近代治水によって堤が現在の姿に近づいたことは、いずれも公開資料で確認できる史実の骨格をなす。

他方、内郷堤そのものの築造年代・位置、個々の「堤外」地名が指す土地の正確な範囲、寺谷用水の開削年をめぐる細部については、本稿の範囲では未確認の部分を残した。本稿はこの未確認を、あたかも「史料に記載がない」かのように塗りつぶすことをせず、未確認は未確認として明示した。地名が伝えるのは名の存在であって、その名が指す土地の境界や成立時期そのものではない──この限界を保つことが、地名から土地を読む作業の前提である。

したがって本稿の立場は明確である。堤にまつわる地名は、正確な地点を示す座標としてではなく、土地の履歴を伝える証言として読むべきである。そして証言は、史実・推定・伝承という属する層のなかで正当に評価されねばならない。「堤外」の一語からその土地が今も危険だと決めつけることも、逆に近代治水の達成をもって川の記憶を消し去ることも、いずれも一語・一時点への過度の依存である。四つの地名を一枚の見取り図のなかに並べ、止める線と引く線の両輪のなかに置き直すこと──その手続きによってはじめて、地名は土地の全体像を語りはじめる。

最後に、地名を防災の記憶として読むことの意味を述べておきたい。地名は、現代のハザードマップの代わりにはならない。土地の安全性を判断するときは、必ず行政の防災情報、河川情報、地盤情報を確認する必要がある。地名は座標ではなく履歴であり、履歴は現在の危険度をそのまま保証しない。しかし古い地名は、近代以降の安心感の下に沈んだ土地の履歴を思い出させる入口になる。堤外、川原、島、新田──こうした名に出会ったとき、そこが水とどう関わってきた場所なのかを考えることは、防災情報を補う想像力を育てる。旧豊田町の地名は、天竜川とともに生きた地域の記録である。「堤外」という小さな名は、川が土地をつくり、人が堤で土地を守り、その境目で暮らしを積み重ねてきたことを、今も静かに伝えている。この記憶を、確度の層を保ったまま次の世代へ手渡すことが、地名を記録する営みの意義であると考える。個々の「堤外」地名の比定、内郷堤の実体の復原、寺谷用水開削史の精査については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である旧豊田町の低地には、川とともに営まれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。地名を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 「堤外」および「内郷堤」の地名は、『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集、豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会、1992年)に基づく。本稿は一般向け記事 t010「『堤外』と『内郷堤』── 天竜川の堤が分けた土地」の記述を、確度の層を明示しながら学術的に再構成した論考版である。
  2. 河川用語としての「堤外地」「堤内地」の定義、および天竜川が「暴れ川」と称される河道変化の性格については、国土交通省・静岡県の河川関連公開情報による。
  3. 寺谷用水の開削年代(天正18年〔1590年〕とされる)、灌漑面積(約1504ヘクタール)、世界かんがい施設遺産への登録(令和4年〔2022年〕)は、磐田市の公式資料による。開削年・関与人物は「伝えられる」年紀であり、国家的編纂物に基づく史実とは資料の性格を異にする。
  4. 明治元年〔1868年〕の天竜川洪水と堤防決壊、および金原明善の治水・治山事業については、一般財団法人金原治山治水財団の公開情報による。
  5. 堤内・堤外・川原・新田を確度の層に腑分けする本稿の枠組みは、天竜川左岸の土地形成を扱う既刊論考(本シリーズ第37号・第90号・第118号)と方法を共有する。

付記:本稿は一般読者向け記事 t010 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。地名の語義(堤外=堤の川側)を史実、寺谷用水の開削年紀や内郷堤の築造を伝承・未確認として区別し、「未確認」と「記載なし」を語の水準で書き分けた。

参考文献・参考資料

  • 『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集)豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会、1992年。
  • 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』通史編、豊田町、該当章。
  • 磐田市『磐田市史』通史編、磐田市、該当章。
  • 建設省中部地方建設局『天竜川治水史』関係資料。
  • 磐田市「『世界かんがい施設遺産』寺谷用水」公式ページ(寺谷用水の開削年代・灌漑面積・登録年) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 一般財団法人金原治山治水財団「治水|金原明善」(明治の天竜川治水・堤防修築) https://www.kanbara-meizen.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 国土交通省 中部地方整備局 浜松河川国道事務所「天竜川」河川情報 https://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 静岡県 河川・砂防関連 防災情報 https://www.pref.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 t010「『堤外』と『内郷堤』── 天竜川の堤が分けた土地」 https://iwata-monogatari.net/t010 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第37号「天竜川がつくった村、流した村」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/037/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第90号「十郎島と川袋 ── 天竜川の中州に生きた村」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/090/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第118号「弥藤太島・気子島 ──『島』のつく地名と低地の暮らし」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/118/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 佐口行正氏所蔵史料。