磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第138号(豊岡地区旧村研究)
野部村と上野部・下野部 ── 「野部」が分かれた谷の村
山あいの村の分立と地名
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
旧豊岡村を構成した旧村の一つ野部村は、その内に上野部・下野部・新開といった小地名を含みながら、2005年の合併によって磐田市へ合流した。本稿は、この「野部」という地名がなぜ上・下に分かれて伝わるのか、また新開がいかなる開発の記憶を負うのかを、旧村沿革・地形図・鉄道資料という性格の異なる三種の手がかりに照らして検討する。地名「野部」の由来、上野部・下野部への分立の年代、新開の成立の経緯は、いずれも管見の限り一次史料で一点に確定できるものではない。本稿はこれらを断定せず、確認できる事実・地形からの推定・地域に伝わる伝承の三層に腑分けし、各説の根拠と限界を対等に並べる立場をとる。あわせて、敷地川の谷という地形と、旧二俣線を継ぐ天竜浜名湖線がこの山あいの集落を外へつないできた過程を、地名の分立を読む背景として位置づける。分立の年代を確定することを目的とせず、確度の層を保ったまま記録することを本稿の課題とする。
キーワード:野部村/上野部・下野部/新開/豊岡村/敷地川/天竜浜名湖線/旧村沿革
1. 問題設定 ── 「野部」はなぜ上・下に分かれるのか
磐田市豊岡地区の北寄り、山あいの谷筋に、野部(のべ)という古い地名が残る。現在は上野部(かみのべ)と下野部(しものべ)という二つの地区名として地図に見え、天竜浜名湖線には上野部駅が置かれている。旧村としての野部村は、旧豊岡村が成立する以前の地域のまとまりを示す名であり、上野部・下野部・新開といった小地名を束ねる、いわば谷ひとつぶんの生活圏の呼び名であった。
ところが、この「野部」を少し立ち止まって眺めると、いくつもの問いが立ち上がる。第一に、そもそも「野部」という地名は何に由来するのか。第二に、なぜ一つの野部が上と下に分かれて伝わっているのか。その分立はいつのことで、行政上の区分なのか、それとも集落の実態が先にあって後から名が整えられたのか。第三に、野部村の内に見える「新開」という地名は、どのような開発の記憶を負っているのか。これらはいずれも、地図を開けば目に入る素朴な問いでありながら、答えようとすると一次史料の壁に突き当たる。
本稿の姿勢は、これらの問いに性急な答えを与えないことにある。地名の由来や分立の年代を、確からしい一つの説へ還元して語ることは容易であるが、その容易さは往々にして、確認できていない事柄を確認できたかのように述べる誤りを伴う。そこで本稿は、どの説が正しいかを裁定するのではなく、各説がどのような資料に支えられ、どの程度の確からしさをもつのかを腑分けすることを課題とする。断定を避けることは、記述を曖昧にすることではない。何がどこまで言えるのかを明示することこそ、後から検証に耐える記録の条件だと考える。
この作業のために、本稿では確度を三つの層に分けて扱う。第一に事実、すなわち沿革資料・地形図・鉄道資料などによって確認できる事柄。第二に推定、根拠はあるが未確定の事柄で、地形や地名の一般的な傾向から導かれる読みがこれにあたる。第三に伝承、地域で語り継がれてきたが史料の裏づけを欠く事柄である。この三層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。豊岡という山あいの地域を読むうえで、この腑分けは敷地村や広瀬村を扱った先行の論考とも共有する方法論である。
あわせて、本稿では「未確認」と「記載なし」を区別する。ある事柄について「未確認」というのは、それを裏づける一次史料に管見の限り突き当たっていないという状態を指し、そのような史料が存在しないと断定することを意味しない。他方「記載なし」は、参照した史料のなかにその記述が見当たらないことを指す。野部村をめぐっては、分立の年代のように、確定的な記録が現に伝わっているのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした記録が作られなかったのかを、いま一律に判じることはできない。だからこそ、この二つの言い方を混同せずに用いることが、以下の論述で一貫して求められる。
2. 確認できる範囲 ── 野部村の位置と近代の沿革
諸説の検討に入る前に、資料によって確認できる範囲を確定しておく。野部村は、豊岡地区の谷筋に位置する旧村であり、上野部・下野部・新開などの小地名を含む。この地域が近代以降にたどった行政の変遷のうち、資料で確認できる骨格は比較的はっきりしている。旧村としての野部村は、敷地村・広瀬村とともに旧豊岡村を構成し、その豊岡村が2005年(平成17年)の合併によって磐田市へ合流した1。三つの旧村が一つの豊岡村へまとまり、さらに磐田市の一部となったこの過程は、公開されている町村沿革の資料で追うことができる事実である。
もう一つ、外から野部の地を捉える目印となるのが鉄道である。谷筋を縫って走る天竜浜名湖線には、豊岡駅・敷地駅・上野部駅が置かれ、上野部の名は駅名として地域の外へ伝えられてきた。この天竜浜名湖線は、かつての国鉄二俣線を継承した路線であり、山あいの集落を都市部や隣接地域へつなぐ役割を果たしてきた2。ただし、各駅の開業年や駅名の変更については鉄道資料で個別に確認すべき事柄であり、本稿では路線の性格と集落との接続関係を背景として扱うにとどめ、年次の細部には立ち入らない。
ここで注意しておきたいのは、こうして確認できる沿革が、いずれも「行政の枠組み」と「近代交通の目印」に関わるものであって、地名の由来や集落の分立そのものの起点を直接に語るものではない、という点である。野部村が敷地村・広瀬村と並ぶ旧村であったことは沿革資料で確かめられるが、その野部がいつ上と下に分かれたのか、なぜ「野部」と呼ばれるのかは、これらの資料からは直接には出てこない。行政区分の記録は村の外形を教えてくれるが、名の来歴や集落の内部構造までは照らさない。この限界を踏まえておくことが、後続の三つの論点を評価するうえで欠かせない。
地形の側からも、確認できることと推定にとどまることを分けておく。野部村の一帯が敷地川の水系に属する山あいの谷であること、集落が谷底や山すそに寄って営まれてきたことは、地形図の上で読み取れる。谷の向き、尾根の位置、川の流れ、駅と集落の距離といった地形的な骨格は、長い時間のなかでも比較的安定して残る手がかりであり、現在の地図と旧版地形図を重ねることで確かめられる。しかし、その地形がいかにして「上野部」「下野部」という名の分立を生んだのかとなると、そこには地形からの推定が介在する。地形は名の背景を用意するが、名そのものを決定するわけではない。
したがって本章で確定できるのは、次の三点に尽きる。第一に、野部村が旧豊岡村を構成した旧村の一つであり、2005年に磐田市へ合流したこと。第二に、天竜浜名湖線が旧二俣線を継ぎ、上野部駅などを通じてこの谷を外へつないできたこと。第三に、野部村の一帯が敷地川水系の山あいの谷に位置すること。これらを土台に据えたうえで、以下では地名の由来・上下への分立・新開という三つの論点を、それぞれ確度の層を明示しながら順に検討していく。
3. 第一の論点:地名「野部」の由来
「野部」は何に由来する地名か
問いの所在。「野部」という地名の由来については、確定した一次史料に基づく定説があるわけではない3。地名の来歴は、文字の当て方が後世に整えられることも多く、現在の表記からただちに原義をたどれるとは限らない。ここでは、地名解として想定しうるいくつかの読みを対等に並べ、そのいずれも断定できないことを確認する。地名の原義を一つに決めることが目的ではなく、どのような読みがありうるのかを整理し、それぞれの根拠と弱点を示すことが本節の課題である。
「野の辺(へ)」とみる読み。一つの読み方は、「野部」を「野の辺」、すなわち野の広がるあたり、平地と山地の境目の地を指す名とみるものである。谷あいに開けたわずかな平地や、山すそに沿った耕地の縁を「野辺」と呼び、それが「野部」の字に落ち着いたと考える筋立てである。地形の実態とはよく合う読みだが、これを裏づける古い表記の史料に突き当たっているわけではなく、あくまで地形と語感からの推定にとどまる。
「〜部」を集団の名残とみる読み。もう一つの読み方は、地名の末尾に付く「部」を、古代の部民制に由来する「べ」の名残とみるものである。各地に残る「〜部」の地名のなかには、特定の職掌や集団に結びつく古い呼称を継ぐものがあるとされる。この読みに立てば、「野部」もそうした古い集団名を継ぐ可能性が視野に入る。ただし、地名の「部」がすべて部民に遡るわけではなく、単なる地形語や当て字である場合も少なくない。この読みは魅力的だが、野部について具体的な裏づけを欠くため、可能性の指摘以上には進めない。
諸説を並べる意味。以上の読みは、いずれも決め手を欠いたまま併存している。ここで大切なのは、どれか一つを選び取ることではなく、地名の由来がこの段階では未確認であると明示することである。地名解はしばしば、もっともらしい一つの説明が独り歩きし、あたかも確定した由来のように流布する。だが、そうした断定は後の検証をかえって妨げる。素材となった一般向けの記事も、地名の由来を確定した事実としては書かず、確認できる資料が現れるまで判断を保留する姿勢をとっていた。本稿もその慎重さを引き継ぐ。
表記と原義のずれ。地名を読むうえで忘れてはならないのは、現在の漢字表記が原義をそのまま伝えるとは限らないという点である。「野部」の二字も、音を先にもつ地名へ後から文字が当てられた結果である可能性があり、字面から意味を復元する作業には慎重さが要る。同じ音に別の字が当てられた例、逆に同じ字が別の由来をもつ例は各地に多く、表記の一致だけを根拠に由来を論じることはできない。野部の由来を保留するのは、この表記と原義のずれを軽んじないためでもある。仮に「野の辺」説を採るにせよ「〜部=べ」説を採るにせよ、その判断は表記以外の資料的な裏づけを得てはじめて可能になる。
4. 第二の論点:上野部・下野部への分立
一つの野部が上と下に分かれたのはなぜか
問いの所在。野部は、現在では上野部と下野部という二つの地区名として認識される。この上下の別が、行政上の区分として整えられたものなのか、それとも集落の実態が先にあって後から名が付いたのか、そして分立がいつのことかは、いずれも一次史料で一点に確定できるものではない。本節では、上下の分村地名に共通してみられる一般的な傾向を手がかりに、この分立を地形と生活の側から読み解く。ただし、その読みが推定の域を出ないことを、はじめに断っておく。
上下の別という一般型。各地の谷筋の村には、一つの村が「上」と「下」に分かれて呼ばれる例が数多くみられる4。多くは、川の上流側を「上」、下流側を「下」とし、あるいは谷の奥手を「上」、開けた側を「下」とする。集落が谷筋に細長く連なるとき、その上手と下手とで生活の中心や耕地のまとまりが分かれ、やがて別々の呼び名として定着していく。上野部・下野部も、この一般型に照らせば、敷地川の谷に沿った上手と下手の集落が、それぞれの位置に応じて呼び分けられたものと読むことができる。図2に示した上下の位置関係は、この読みを視覚的に補うものである。
分立を生む契機。谷の村が上下に分かれる背景には、いくつかの現実的な契機が想定される。耕地や山林の帰属、用水の分配、寺社や集会所の位置、婚姻や交際の圏といった生活の単位が、谷の上手と下手とで別々にまとまることがある。こうした生活圏の分化が先にあり、行政がそれを追認する形で「上」「下」の区分を整えた、という順序も十分に考えられる。逆に、村高の管理や年貢の便宜といった行政上の要請から区分が生まれ、それが日常の呼称に定着した可能性も排除できない。分立の契機は一つに絞れず、複数の要因が重なった結果とみるのが穏当であろう。
年代をめぐる慎重論。ここで年代について断っておく。上野部・下野部への分立がいつのことかを直接に記す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。これは分立の年代を示す記録が存在しないと断定するもの(=記載なし)ではなく、あくまでその記録に突き当たっていない(=未確認)という状態である。近世の村方文書や検地関係の資料、あるいは近代の地籍・行政資料のなかに、上下の別が現れる時期を示す手がかりが残されている可能性は十分にある。本稿は、分立を近世以前と近代以降のいずれかへ性急に振り分けることを避け、年代の確定を今後の課題として残す。広瀬村と神増・社山の事例でも、旧村内部の小集落の関係は資料の層を分けて丁重に扱う必要があった。野部の上下もまた、同じ慎重さをもって記録すべき対象である。
5. 第三の論点:新開という地名
「新開」は何を記憶する地名か
問いの所在。野部村の内に見える「新開」という地名は、その字面から、新しく開かれた土地を思わせる。実際、各地の「新開」「新田」といった地名の多くは、後世の耕地の開発や、集落の拡張に伴って生まれた開発地名である。しかし、野部の新開について、誰が・いつ・どの範囲を開いたのかを記す個別の史料に、本稿は突き当たっていない5。したがって、この地名を確定した由来として語ることはできず、あくまで「開発の記憶を含む可能性がある地名」として扱うにとどめる。
開発地名という類型。「新開」を開発地名の一つとみる読みは、地名の一般的な傾向とはよく合う。谷あいの村では、既存の集落の周縁に新たな耕地が開かれ、それが「新開」「新田」などの名を得て小地名として残ることがある。豊岡地区でも、川沿いの低地に「新開」や新田に類する地名が伝わる例が知られており、開発の記憶が地名として堆積してきたことがうかがえる。野部の新開も、こうした開発地名の類型に連なるものとみる読みは、蓋然性の高い推定である。ただし、類型として妥当であることと、個別の開発の史実が確認できることとは、別の水準の問題である。
断定を避ける理由。開発地名は、その名の由来がわかりやすいだけに、確認されていない開発の物語を安易に付与されやすい。「新開はいつ誰それが開いた土地である」と語ることは容易だが、その具体を裏づける史料がない以上、それは推測を事実として述べる誤りになる。本稿は、新開を開発地名の類型に位置づけつつ、個別の開発の主体・時期・範囲については未確認として保留する。地籍図や村方文書、あるいは開発に関わる寺社・家の記録が確認された段階で、はじめてこの地名の来歴は具体を得る。それまでは、「開発の記憶を負う地名」という抑えた言い方を守ることが、記録の誠実さにかなう。
低地の新開と山あいの新開。豊岡地区の「新開」を考えるとき、川沿いの低地に開かれた新開と、山あいの谷に開かれた新開とを一括りにできない点にも注意したい。低地の新開は治水や排水の条件と結びつき、山あいの新開は谷の斜面やわずかな平地の開墾と結びつく。開発の性格が地形によって異なる以上、野部の新開がどちらの類型に近いかは、その立地を地形図の上で確かめたうえで論じるべき事柄である。地名の字面だけでなく、その地名が刻まれた土地の条件まで含めて読むことが、開発地名を扱う際の要点になる。豊岡の奥の集落を扱った先行の論考でも、開発や生業に関わる地名は立地の条件と併せて読む必要があった。
6. 三つの手がかりの比較と史料批判
ここまで検討してきた三つの論点は、いずれも「確定した答え」を欠いたまま保留された。この保留は、資料が乏しいことの消極的な帰結ではなく、依拠しうる手がかりの性格を見極めた結果である。野部村を読むために使える手がかりは、大きく分けて旧村沿革の資料、地形図、鉄道資料、そして地域に伝わる伝承の四種であり、それぞれが語りうる範囲と語りえない範囲をもつ。以下の比較表は、各手がかりを「何を語り、何を語らないか」という同じ粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。特定の手がかりを万能とみなさず、複数を重ね合わせて初めて像が結ばれることを示したい。
| 手がかり | 確度の層 | 語りうること | 語りえないこと | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 旧村沿革の資料 | 事実 | 野部村が旧豊岡村を構成し、2005年に磐田市へ合流したこと。 | 地名の由来、上下分立の年代、新開の成立。 | 行政の外形を示すが、集落内部の来歴は照らさない。 |
| 地形図・旧版地形図 | 事実/推定 | 敷地川の谷、尾根・集落の位置、駅と集落の距離。 | 地名の原義、分立の契機の断定。 | 地形は名の背景を用意するが、名を決定しない。推定の介在に注意。 |
| 鉄道資料 | 事実 | 天浜線が旧二俣線を継ぎ、上野部駅などで谷を外へつないだこと。 | 旧村・小地名の成立、地名の由来。 | 近代交通の目印。駅の開業年・改称は個別確認を要する。 |
| 地域の伝承・呼称 | 伝承 | 上手・下手の呼び分け、新開に開発を読む地域の記憶。 | 年代・範囲・主体の確定。 | 記憶を伝えるが、裏づけには別資料が要る。断定しない。 |
この比較から見えてくるのは、四つの手がかりが競合しているのではなく、それぞれ野部村の異なる側面に光を当てているという事実である。沿革資料は村の外形を、地形図は集落の立地を、鉄道資料は外部との接続を、伝承は内部の記憶を、それぞれ別の仕方で証言する。一つの手がかりで野部の全体を覆おうとすると、他の側面が視野から抜け落ちる。地名の由来を地形図だけで決めようとすれば推定が断定にすり替わり、分立の年代を伝承だけで語れば裏づけを欠いた物語になる。手がかりの性格を見極め、語りうる範囲でだけ語ることが、ここでの史料批判の要である。
史料批判の観点からは、三つの論点にいずれも「集落内部の来歴を直接記す一次史料が未確認である」という同一の限界が課されている。この限界は三論点に等しく及ぶのだから、それを理由に特定の論点だけを軽んじることはできない。むしろ問うべきは、各論点がどの手がかりに立脚し、その手がかりがどこまでを語りうるのか、という点である。由来は地形と語法からの推定に、分立は生活圏と行政の重なりの推定に、新開は開発地名の類型の推定に、それぞれ支えられているが、いずれも一次史料による確定には至っていない。確定できないことは、これらの読みの価値を否定するものではない。読みの妥当性と史料的な確定とを、別の水準として保つことが肝要である。
四つの手がかりのいずれも単独では野部の来歴を語り尽くせないとすれば、残された方法は、それらを重ね合わせて読むことである。沿革資料で村の外形を押さえ、地形図で集落の立地を確かめ、鉄道資料で外部との接続を追い、伝承で内部の記憶を補う。一つの資料の空白を別の資料が部分的に埋め、食い違いがあれば、どちらかを無理に選ばずに未確定の点として残す。この重ね合わせの作業を通じてしか、山あいの村の地名は輪郭を得ない。手がかりの数が限られていることは、記述をあきらめる理由にはならず、むしろ限られた資料をどう組み合わせるかという方法の工夫を要請する。
この整理は、郷土史の記述にとって一定の含意をもつ。地域の来歴を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられ、複数の読みのなかから一つの正解を選び取ろうとする。だがその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった読みを切り捨てることにつながりやすい。ここで採った三層の腑分けは、そうした性急な一元化を避け、それぞれの読みを、それが属する層のなかで正当に評価するための手続きである。確認できることは事実として、地形から導ける読みは推定として、地域が語り継いできたことは伝承として、位置を保ったまま書き留める。豊岡地区の旧村を扱う一連の記述は、この作法を共有している。
7. 背景としての地理 ── 敷地川の谷と天浜線
三つの論点を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、野部村を包む地理的な背景である。野部の一帯は、敷地川の水系に属する山あいの谷であり、集落は谷底や山すそに寄って営まれてきた。この地形の枠が、上野部・下野部という上下の別を生む素地を用意し、新開のような周縁の開発地名を残す余地をつくった。地名の分立を論じるとき、その舞台となる谷の形を押さえておくことは欠かせない。谷が上手と下手に細長く延びているからこそ、村は上下に分かれて呼ばれ、谷の周縁に新たな耕地が開かれれば、それが独立した小地名として残る。
この谷を外へつないできたのが、旧二俣線を継ぐ天竜浜名湖線である。豊岡駅・敷地駅・上野部駅は、山あいの集落を都市部や隣接地域へ接続し、通学・通勤・物資の移動を支えてきた。鉄道は、閉じた谷の生活圏を広域の交通網へ開く役割を果たすとともに、上野部という小地名を駅名として地域の外へ伝える媒体ともなった。地名が外へ知られる経路は、行政の記録だけでなく、こうした近代交通の目印を通じても形づくられる。上野部という名が今日なお通用するのは、旧村の記憶と駅名とが重なり合って支えてきたからだと考えられる。
もっとも、この鉄道という背景も、地名の由来や分立の年代を直接には照らさない。駅が置かれたのは近代以降のことであり、上野部・下野部という上下の別は、鉄道の敷設よりはるかに古くから谷筋に根づいていたとみるのが自然である。鉄道は既にあった地名を外へ運んだのであって、地名を生んだのではない。したがって天浜線は、野部の地名を読むうえで、分立そのものの起点ではなく、地名が近代にどう受け継がれ、外へ伝えられたかを示す背景として位置づけるのが適切である。
鉄道に先立って、この谷には人と物を運ぶ古い道があった。谷筋を縫う道は、上手の集落と下手の集落を結び、峠を越えて隣の谷や平地へと通じていた。上野部・下野部という上下の呼び分けが早くから通用したのは、この谷の道に沿って人びとが日々行き来し、上手・下手という感覚を共有していたからだと考えられる。近代の鉄道は、その古い道が担ってきた谷の内外の往来を、より大きな交通網へと接ぎ木したものと位置づけられる。道と鉄道を重ねて読むことで、地名の分立が生活の動線と結びついていた様が見えてくる。この点は、駅名の記憶を主題とする万瀬・虫生・大平など、豊岡の奥の集落を扱った論考とも通じる視点である。
あわせて、野部村がたどった統合の過程も、地名の現在を理解するうえで背景となる。敷地村・広瀬村・野部村という三つの旧村が一つの豊岡村へまとまり、その豊岡村が2005年に磐田市へ合流したことで、野部という名は行政上の村名としては表舞台から退いた。しかし、上野部・下野部・新開といった小地名は、行政区分の変化を越えて生活の記憶として残り、地図の上に今も見える。行政の枠組みが幾度も組み替えられても、谷筋に根づいた地名がしぶとく生き残るのは、それが人びとの日々の暮らしと結びついてきたからにほかならない。野部の地名を読むことは、この生活の記憶の層を、行政の記録の下から掘り起こす作業でもある。
この地理的な背景は、三つの論点の意味を深める。地名「野部」の由来をめぐる読み、上下への分立の推定、新開に読む開発の記憶は、いずれも敷地川の谷という枠のなかに置き直すことで、より確かな輪郭を得る。野部村は、山と谷、水と道、鉄道と旧村が重なる豊岡地区のなかでも、谷ひとつぶんの生活圏がそのまま旧村の単位となった、山あいの村の典型として位置づけられる。地名の分立は、その谷の形と暮らしの分化が、名のかたちに刻まれた痕跡なのである。
8. 結論 ── 分立の年代を決めずに記録する
本稿は、豊岡地区の旧村・野部村と、その内に伝わる上野部・下野部・新開の地名を、旧村沿革・地形図・鉄道資料・伝承という四つの手がかりに照らして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。野部村が旧豊岡村を構成し、2005年に磐田市へ合流したこと、天竜浜名湖線が旧二俣線を継いでこの谷を外へつないできたこと、そして野部の一帯が敷地川水系の山あいの谷であることは、資料で確認できる事実である。一方、地名「野部」の由来、上野部・下野部への分立の年代、新開の成立の経緯は、いずれも一次史料による確定を欠き、推定と伝承の層にとどまる。
三つの論点は、それぞれ性格の異なる手がかりに支えられていた。由来は地形と語法からの読みに、分立は生活圏の分化と行政の区分の重なりに、新開は開発地名の類型に、それぞれ立脚するが、いずれも決め手を欠いたまま併存している。ここで「結局どれが本当か」と一つの答えへ還元したくなるのは自然な誘惑だが、その一元化は、野部という地名が谷の暮らしのなかで重ねてきた意味の層を切り捨てることにほかならない。谷の上手と下手の別、周縁に開かれた新開、外へ名を運んだ鉄道──これらが長い時間のなかで折り重なり、現在の地図に見える地名の姿を形づくってきた。
したがって本稿の立場は明確である。野部村をめぐる記述は、「地名の唯一の由来や分立の正確な年代を探し当てる作業」から、「確度の層を分離し、それぞれの読みの根拠と限界を記述する作業」へと組み替えられるべきである。事実・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、推定を事実と偽らず、伝承を根拠薄弱として切り捨てない。この禁欲的な手続きこそが、山あいの村の地名を、後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。地名の由来を性急に一つに決めることは、いっとき記述を明快にするが、確認されていない事柄を確認済みと見せかける代償を払う。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、地名「野部」の由来については、古い表記を残す文書や地籍資料が確認されれば、併記した諸説のいずれかを推定から一歩進めうる余地がある。第二に、上野部・下野部への分立の年代は、近世の村方文書や検地関係の資料、近代の地籍・行政資料の博捜によって、未確認の状態を前進させられる可能性がある。第三に、新開の成立は、地籍図や開発に関わる家・寺社の記録によって、開発の主体・時期・範囲に具体を与えうる。これらはいずれも、本稿が設定した三層の枠組みのなかで、未確認を事実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。分立の年代を一つに決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、野部という谷の村が抱えてきた記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 旧豊岡村は敷地村・広瀬村・野部村を母体とし、2005年(平成17年)に磐田市へ合流した。合併の年次・経緯については磐田市の公開資料および町村沿革資料による。↩
- 天竜浜名湖線は旧国鉄二俣線を継承した路線である。豊岡駅・敷地駅・上野部駅の開業年および駅名の変更については鉄道関係の公開資料で個別に確認すべき事柄であり、本稿では路線と集落の接続関係を背景として扱うにとどめる。↩
- 地名「野部」の由来については、一次史料に基づく確定した定説を管見の限り確認できない。本稿に挙げた諸説はいずれも地形・語法からの推定であり、いずれかを採るものではない。↩
- 一つの村が上流側・下流側や谷の上手・下手に応じて「上」「下」に分かれて呼ばれる例は各地に広くみられる。上野部・下野部をこの一般型に照らして読むのは推定であり、分立の年代を確定するものではない。↩
- 「新開」は開発地名の一類型とみられるが、野部の新開について開発の主体・時期・範囲を記す個別史料には突き当たっていない。素材とした一般向け記事も、新開を確定した由来としては書かず、開発の記憶を含む可能性がある地名として扱っている。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 y004 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(事実・推定・伝承)を語の水準で区別し、2005年の磐田市合併および天浜線の二俣線継承を事実、地名「野部」の由来・上下分立・新開の成立を推定ないし未確認として扱った。分立の年代は断定せず、諸説を併記した。
参考文献・参考資料
- 磐田市『磐田市史』通史編(豊岡地区・旧町村沿革の章)、磐田市。
- 『豊岡村誌』ほか旧豊岡村の沿革に関する公開資料。
- 磐田市公式資料(地区別人口、通学区域、地区沿革に関する資料)。
- 国土地理院「地理院地図」および当該地域の旧版地形図・治水地形分類図。
- 天竜浜名湖鉄道および旧国鉄二俣線・天竜浜名湖線に関する公開資料。
- 各種地名辞典・地名解説(「〜部」地名、開発地名〔新開・新田〕に関する項目)。
- 近世の村方文書・検地関係資料(上下分村地名の成立に関わる史料一般)。
- 地籍図・字限図(新開ほか小地名の範囲に関する資料一般)。
- 磐田物語「豊岡地区」。
- 大石浩之の磐田論考 第79号「敷地村の成立と山村の記憶」。
- 大石浩之の磐田論考 第84号「広瀬村と神増・社山 ── 豊岡の谷に開けた村々」。
- 大石浩之の磐田論考 第109号「万瀬・虫生・大平 ── 豊岡の奥に開けた山の集落」。
- 磐田物語 y004「野部村と上野部・下野部 ── 天浜線沿いに残る村の記憶」 https://iwata-monogatari.net/y004 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 国土地理院「地理院地図」 https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。