失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 「町内史跡めぐり」60選を読む

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第131号(豊田・地域史目録研究)

「町内史跡めぐり」60選を読む ── 昭和53年、豊田町を歩いた記憶

郷土研究会がえらんだ史跡と地域の自己認識

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
豊田

要旨

昭和53年(1978年)3月、豊田町郷土を研究する会は『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』を編み、旧豊田町全域の史跡・伝承地60か所を大字別に記録した。本稿はこの目録を、個々の史跡の解説としてではなく、郷土研究会が何を「わがまちの史跡」として選び取ったかを映す一次資料として読む。まず資料の編纂経緯と性格を確認し、60選の大字・時代・種別の分布を集計して選定の偏りを取り出す。そのうえで、治水と河川、合戦と武将、信仰と巡礼という三つの観点から選定の論理を腑分けし、編集委員会自身が伝承と考えられるものもかなり含まれると断った点を手がかりに、史実と伝承の層を書き分ける。目録が示すのは客観的な史跡の総量ではなく、天竜川左岸という条件のもとで地域が抱いた自己認識である。本稿は、史跡目録を地域の記憶の編成として読む方法を、豊田の事例に即して提示する。

キーワード:町内史跡めぐり/豊田町郷土を研究する会/史跡目録/天竜川左岸/池田の渡し/史実と伝承/地域の自己認識

1. 問題設定 ── 史跡目録を「読む」とはどういうことか

地域には、しばしば史跡の一覧が編まれる。寺社や古墳、碑や伝承地を大字ごとに並べ、それぞれに短い解説を添えた冊子は、郷土史研究のもっとも基礎的な仕事の一つである。旧豊田町域についていえば、その代表が昭和53年(1978年)に豊田町郷土を研究する会が編んだ『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』であり、旧豊田町全域から60か所の史跡・伝承地を選び、大字別に記録している1。本稿はこの目録を素材とする。

ただし本稿の関心は、個々の史跡がいつ建ち、誰にゆかりがあるかという解説の側にはない。関心はむしろ、「なぜこの60か所が選ばれたのか」という選定そのものにある。史跡は地面のうえに客観的に存在する物体ではあるが、そのどれを「わがまちの史跡」として拾い上げ、目録に書き留めるかは、選ぶ側の関心と判断に委ねられている。したがって一冊の史跡目録は、その土地に何があるかを教えると同時に、その土地の人々が自分たちの過去のどこに価値を見いだしていたかを、間接的に映し出している。

この視点をとると、目録は二重の資料になる。第一に、天竜川左岸の史跡群についての情報源として。第二に、昭和50年代の豊田町において郷土を研究する会という主体が抱いた、地域の自己認識の記録として。本稿が主として扱うのは後者である。60選という選択の集合を一つの構造とみなし、そこにどのような偏りと論理が働いているかを、史料批判の手続きで読み解いていく。

こうした読み方が有効なのは、史跡目録が中立的な全数調査ではないからである。もし旧豊田町域の史跡をすべて漏れなく数え上げたのであれば、そこに選ぶ側の関心は現れない。しかし現実の目録は、紙幅と労力の制約のもとで、編者が知りえたもの・重要と考えたもの・地域の人々が語り伝えてきたものを、一定の判断を通して収めた集合である。何を選び、何を落としたかという取捨の痕跡こそが、地域の自己認識を読み取る手がかりになる。

あらかじめ本稿の姿勢を述べておく。第一に、目録の記載を事実の当否から裁くのではなく、まず選定の構造として記述する。第二に、記載された史跡について史実・伝承の別を語の水準で書き分け、編者自身が伝承として扱った事柄を史実に格上げしない。第三に、目録から読み取れる自己認識を、天竜川左岸という地理的条件と接続して説明する。以下ではまず資料の性格を確認し、次に分布を集計し、選定の三観点を腑分けしたうえで、史料批判と地理の考察を経て結論に至る。

60選の目録 町内史跡めぐり 史跡群の情報 何が どこに あるか =解説としての読み 選定の反映 何を選び 何を落とすか =自己認識の読み 一冊の史跡目録がもつ二つの顔 本稿が主に扱うのは右側 ── 選定そのものが映す地域の自己認識である。
図1 史跡目録の二重性。目録は史跡の情報源であると同時に、何を選んだかという選定を通じて地域の自己認識を映す。本稿は後者の読みに重心を置く。

2. 資料の性格 ── 『町内史跡めぐり』とその編纂

選定を読む前に、その器である資料の性格を確定しておく。『町内史跡めぐり』は、豊田町郷土を研究する会が編集し豊田町教育委員会が発行した郷土研究資料の第四集にあたる。発行は昭和53年(1978年)3月20日、印刷は浜松市外東若林の中部印刷株式会社である。この会はそれ以前に、第一集『ふるさと豊田』(昭和49年/1974年)、第二集『天竜川池田の渡船』(昭和51年/1976年)、第三集『ふるさと豊田改訂版』(昭和52年/1977年)を刊行しており、第四集はその四番目の成果にあたる。

この刊行の順序自体が、選定の背景を語っている。会はまず『ふるさと豊田』で町域の概観をまとめ、続いて『天竜川池田の渡船』という一つの主題に集中した資料を編み、改訂版で概観を練り直したうえで、第四集において史跡を大字別に列挙する目録へと進んだ。総論から各論へ、そして地理的な網羅へと向かう編纂の歩みは、地域を一つの全体として把握しようとする意志の表れと読める。第四集の「まえがき」も、これまでに編集した『ふるさと豊田』や『池田の渡船』をもとにまとめたと述べており、既刊の蓄積のうえに立つ資料であることを自ら明かしている。

資料の性格を考えるうえで見落とせないのが、その「まえがき」に置かれた一つの断り書きである。編集委員会は、収録した史跡には史実というより伝承と考えられるものもかなり含まれている、と自ら注意を促している2。この一文は、目録の学術的な性格を評価するうえで決定的な意味をもつ。編者は、収録した事柄のすべてが史料で裏づけられるとは考えておらず、地元の人々の言い伝えを、伝承として区別しながらも、できる限りそのまま書き留めておこうとしていた。史実と伝承を混同せず、しかし伝承を切り捨てもしないというこの姿勢は、本稿が採る四層の腑分けの精神とよく通じている。

したがって『町内史跡めぐり』は、二つの水準で読まなければならない。一つは、記載された個々の史跡がどの程度史料で確認できるかという確度の水準。もう一つは、編者がどの範囲までを「わがまちの史跡」として選び取ったかという選定の水準である。編者自身が伝承の混在を明言している以上、本稿はこの目録を、史実の集成としてではなく、史実と伝承がともに書き留められた地域の記憶の集成として扱う。以下の分布分析も、この前提のうえで行う。

もう一点、資料の到達範囲について補っておく。目録は60か所の史跡本体に加え、巻末に町内の巡礼札所一覧表を付している。新四国八十八か所、遠江四十九薬師めぐり、観世音菩薩三十三所霊場、豊田三十三か所観音巡礼という由来を異にする四つの巡礼路の札所を、一枚の表に重ねて示したものである。史跡本体の目録と巡礼札所の付表という二層の構成は、この会が地域を、点としての史跡と、点を結ぶ信仰の道の双方から捉えようとしていたことを示している。

1974第一集ふるさと豊田 1976第二集池田の渡船 1977第三集改訂版 1978第四集町内史跡めぐり 郷土研究資料の系譜 ── 総論から目録へ 概観(第一・三集)と主題(第二集)の蓄積のうえに、大字別の史跡目録(第四集)が編まれた。
図2 資料シリーズの系譜。会は概観と個別主題の資料を積み重ねたうえで、第四集において史跡を大字別に網羅する目録へ到達した。橙が本稿の対象である。

3. 60選の分布 ── 大字・時代・種別からみる偏り

目録を選定の記録として読むには、まず60選がどこに、いつの、どのような史跡に偏っているかを取り出す必要がある。分布に偏りがあれば、そこに選ぶ側の関心が現れているからである。以下では大字・時代・種別の三つの軸から、目録の構造を粗く数え上げる。厳密な統計ではなく、選定の傾きを可視化するための概観である。

まず大字の軸である。目録は旧豊田町の23の大字にわたって史跡を配しているが、その分布は一様ではない。60選のうち、天竜川に近い池田とその周辺(池田・池田北浦・上横町・宿・中町・下横町・小立野など)、および一言とその周辺(一言・北原・富丘など)に、収録が明らかに集中している。池田の一帯には行興寺・誓渡院・妙法寺といった寺院に加え、池田橋跡・渡船場跡・三国堤・大囲堤・間の宿と、渡しと治水にまつわる史跡が密に並ぶ。一言の一帯には、一言坂の戦跡・智恩斎・稲荷山・皆川陣屋跡・静大農学部跡・かぶと塚と、合戦と近代の学びにまつわる史跡が集まる。この二極への集中は、後に見る選定の観点と正確に対応している。

次に時代の軸である。60選には、5世紀前半の築造とされるかぶと塚や上坂上遺跡の方形周溝墓といった古代の遺跡から、延暦22年(803年)創建と伝わる豊田山薬師堂、戦国期の一言坂の戦い(元亀3年〔1572年〕)、江戸期の渡船と治水事業、明治の学校・橋・行幸、昭和の治水記念碑まで、時代の異なる記憶が並存している。もっとも数のうえで目立つのは、江戸から明治にかけての近世・近代の史跡である。渡船権を認めた家康の証文、堤の築造、有料橋の架設、学校の開設といった、生活と交通の基盤にかかわる記憶が、目録の中核をなしている。

最後に種別の軸である。60選を大づかみに分けると、寺院・神社・堂宇などの寺社、古墳・遺跡、碑・記念物、堤・橋・渡しなどの治水と交通、そして地名や口碑にまつわる伝承地に整理できる。数のうえでは寺社と治水・交通の史跡が多く、これに碑と伝承地が続く。特徴的なのは、堤・橋・渡しといった水にかかわる土木の記憶が、単独の分類として立つほどの厚みをもって選ばれている点である。これは、後述するように天竜川左岸という土地の条件を強く反映している。

二極への集中の一方で、目録は周縁の大字にも目を配っている。匂坂西の東光寺跡や大めし祭、七蔵新田の治水記念碑と岩田堤締切記念碑、気子島の豊田山薬師堂、海老塚の少林寺跡の大イチョウ、立野の安楽寺、森本の福王寺、上本郷の帯金家長屋門、そして赤池のこひめっこの墓と、町域の縁にあたる大字にも一つ二つの史跡が配されている。中心への厚い集中と周縁への目配りが同居するこの構成は、二つの核を濃く描きつつ、町域の全体を一巡りしようとする網羅の意志の表れである。目録が旧豊田町域という枠を単位として編まれた資料であることが、この構成からも読み取れる。

三つの軸から浮かぶのは、この目録が旧豊田町域の史跡を平板に網羅したのではなく、特定の場所・時代・種別に明確に傾いた集合であるという事実である。池田と一言への地理的集中、近世・近代への時代的集中、治水・交通への種別的集中。これらの偏りは欠落ではなく、選ぶ側が何を地域の要と考えていたかの反映として読むべきものである。次章では、この偏りを生んだ選定の論理を三つの観点に腑分けする。

60選の種別内訳(概観) 寺社・堂宇多い 治水・交通(堤・橋・渡し) 碑・記念物 古墳・遺跡 伝承地・地名 帯の長さは概略の傾きを示す模式であり、厳密な計数ではない。
図3 60選の種別内訳(概観)。寺社と治水・交通の史跡が厚く、水にかかわる土木の記憶が独立した層として立つ点に、この目録の特徴が表れている。

4. 選定の三つの観点 ── 治水・合戦・信仰

前章で取り出した偏りは、偶然の産物ではない。目録の背後には、地域の過去のどこに価値を見いだすかという、いくつかの一貫した観点が働いている。ここでは60選の選定を貫く論理を、治水と河川、合戦と武将、信仰と巡礼という三つの観点に腑分けし、それぞれがどの史跡群に対応し、どの確度の層に属するかを検討する。三観点は排他的ではなく、一つの史跡が複数の観点にまたがることもある。

観点①・治水と河川

天竜川と向き合った記憶を選ぶ

対応する史跡群。池田の渡し、渡船場跡、三国堤、大囲堤、岩田堤締切記念碑、治水記念碑、天竜川治水祈念公園、池田橋跡、天竜橋跡、万能橋、船橋。60選のうち相当数が、天竜川という大河との関わりを主題とする史跡である。渡船は延長5年(927年)頃から行われていたとみられ、天正元年(1573年)には徳川家康が池田船方十人衆に朱印状を与えて渡船権を認めたと伝わる3。三国堤は慶長10年(1605年)、駿河・遠江・三河の三国から人夫を徴発して築いたことにその名が由来するという。

この観点の説明力。治水と河川の史跡群は、旧豊田町域の歴史が天竜川との攻防に貫かれてきたことを、目録の骨格として示している。渡しがもたらした富、洪水がもたらした危険、堤と橋が積み重ねた労苦──これらは、この土地に暮らすうえで避けて通れない現実であった。渡船権をめぐる家康の証文から、明治16年(1883年)に地元有志が私費で架けた池田橋、昭和8年(1933年)の鉄橋開通に至る一連の記憶は、水とともに生きた共同体の連続した営みとして読める。

本稿の評価:治水・河川は、この目録を最も強く規定する選定の観点である。史料で確認できる近世・近代の事実と、渡船の起源のように伝承を含む部分とが混在するため、確度の層を区別しながら扱う必要がある。
観点②・合戦と武将

戦国と徳川の記憶を地に結ぶ

対応する史跡群。一言坂の戦跡、智恩斎、挑燈野、かぶと塚、帯金家長屋門、こひめっこの墓。元亀3年(1572年)の一言坂の戦いは、本多忠勝の殿(しんがり)で知られる合戦であり、目録はその戦跡と周辺の伝承地を厚く収める4。かぶと塚は5世紀前半の古墳でありながら、一言坂の戦いで奮戦した忠勝がこの塚の松に兜をかけたという言い伝えから名を得たとされる。帯金家には、武田信玄との戦いに敗れて逃げる家康が立ち寄り助けを求めたという言い伝えが残り、こひめっこの墓は真田幸村ゆかりの姫を弔ったものと伝わる。

この観点の説明力。合戦と武将の観点は、天竜川左岸という土地を、戦国から徳川草創期の大きな歴史の舞台として位置づける。とりわけ徳川家康にまつわる伝承が、渡船権の証文・帯金家の恩義・かぶと塚の言い伝えと、複数の史跡に反復して現れる点は見逃せない。古墳という古代の遺構にまで忠勝の名が付されることは、この観点が史跡の実際の年代を超えて、地域の記憶を戦国の物語へ引き寄せる力をもっていたことを示している。

本稿の評価:合戦と武将は、地域の記憶を全国史へ接続する観点である。ただしかぶと塚や帯金家の由来は伝承の層に属し、合戦そのものの史実(元亀3年の一言坂の戦い)とは資料の性格を異にする。
観点③・信仰と巡礼

祈りの場と道の網を選ぶ

対応する史跡群。行興寺、松向寺、福王寺、安楽寺、豊田山薬師堂、長森観音、禁酒地蔵、そして巻末の巡礼札所一覧。目録は寺社と堂宇を数多く収めるだけでなく、新四国八十八か所・遠江四十九薬師めぐり・観世音菩薩三十三所霊場・豊田三十三か所観音巡礼という四つの巡礼路の札所を付表に重ねて示す5。少林寺跡が遠江四十九薬師めぐり第四番と豊田三十三か所観音巡礼第三十二番を兼ね、妙法寺が遠江四十九薬師めぐり第七番と新四国八十八か所第十四番を兼ねるように、一つの寺が複数の巡礼路の結節点になっている。

この観点の説明力。信仰と巡礼の観点は、史跡を孤立した点としてではなく、祈りの道が結ぶ網として捉える視点を目録に与えている。眼病平癒を祈る豊田山薬師堂、子どもの健康を願う長森観音、禁酒の霊験で受験の信仰まで集めた禁酒地蔵のように、暮らしの願いと結びついた身近な信仰が、大寺の由緒と同じ平面で拾い上げられている。四つの巡礼路が狭い町域に重なるという事実の記録は、この土地が信仰の道の交わる場であったことを、地域自身が価値として認めていたことを示す。

本稿の評価:信仰と巡礼は、地域を面と道の網として捉える観点である。創建年代に伝承を含む寺社が多いため、由緒の年紀は史実として断定せず、信仰の広がりの記録として読む。
60選 町内史跡めぐり 治水・河川 堤・橋・渡し 合戦・武将 一言坂・家康 信仰・巡礼 札所・薬師・観音 選定を貫く三つの観点 三観点は排他的ではなく、一つの史跡が複数の観点にまたがることがある。
図4 選定の三観点。治水・河川、合戦・武将、信仰・巡礼の三つが60選を貫き、互いに重なりながら目録の骨格を形づくっている。

5. 史実と伝承の腑分け ── 編集委員会の断り書きから

三観点を確認したところで、目録の記載を確度の層から読み直す。手がかりは、第2章で触れた編集委員会の断り書き、すなわち収録には伝承と考えられるものもかなり含まれるという一文である。この自己言及は、目録の記載を史実と伝承に腑分けする作業が、外から資料へ押しつける操作ではなく、編者自身の意図に沿う読みであることを保証している。

実際、60選には資料の性格を大きく異にする記載が同居している。一方には、家康が池田船方に朱印状を与えた事実、慶長9年(1604年)の東海道一里塚築造、明治16年(1883年)の池田橋架設、明治11年(1878年)の明治天皇の行幸のように、文書や年紀で追える史実に近い事柄がある。他方には、坂上田村麻呂が延暦22年(803年)に薬師堂を建てたという創建伝承、忠勝がかぶと塚の松に兜をかけたという命名譚、真田幸村ゆかりのこひめっこの物語のように、地域が語り継いできた伝承がある。両者を同じ確度で扱えば、伝承を史実に格上げする誤りに陥る。

ここで注意すべきは、確度の区別が価値の序列ではないという点である。伝承であることは、その記載の価値が低いことを意味しない。むしろ、地域が何を記憶として選び取り、語り継いできたかを読むうえで、伝承は史実に劣らぬ資料である。かぶと塚に忠勝の名を結び、帯金家に家康の恩義を語り、赤池に幸村ゆかりの姫を弔うという営みは、この土地が自らの過去をどのような物語の枠で捉えていたかを、史実以上に雄弁に語っている。本稿が伝承を切り捨てず、しかし史実と混同もしないのは、この二つの価値を別々に汲み取るためである。

方法上、一点を明示しておく。渡船の起源とされる延長5年(927年)や、薬師堂の延暦22年(803年)創建といった古い年紀について、それを直接に裏づける一次史料に、本稿は突き当たっていない。これは「そのような史料が存在しない(=記載なし)」ことを断定するものではなく、あくまで「管見の限り確認できていない(=未確認)」という状態を指す。目録がこれらを伝承として記録していること自体は事実であり、本稿はその記録を、年代決定の根拠としてではなく、地域の由緒意識の反映として扱う。以下の比較表は、三観点それぞれの代表史跡を、確度の層と史料批判上の留意点とともに並べたものである。

表1 選定三観点の比較 ── 代表史跡・時代層・資料の性格・史料批判上の留意点
観点代表史跡主な時代層確度の層留意点(史料批判)
治水・河川池田の渡し、三国堤、池田橋跡、天竜橋跡中世〜近代史実(近世・近代)+伝承(起源)橋・堤・証文は年紀で追えるが、延長5年頃の渡船起源は未確認。
合戦・武将一言坂の戦跡、かぶと塚、帯金家、こひめっこの墓戦国・徳川草創期史実(合戦)+伝承(命名・由来)一言坂の戦いは史実だが、兜掛けや姫の物語は伝承の層に属する。
信仰・巡礼豊田山薬師堂、松向寺、巡礼札所一覧古代〜近世伝承(創建)+史実(近世の記録)創建年紀は伝承を含む。札所の重なりは記録として確度が高い。

混合の様式を具体に即して見ておきたい。宮之一色の松向寺は元和5年(1619年)の創立と伝わる豊田町最古最大の木造建築とされるが、その須弥壇前の板には、天明2年(1783年)の浅間山噴火による火山灰の降下、米価の上昇、疫病の流行を書き留めた文字が残るという。創立の年紀が伝承の色を帯びる一方で、噴火の記録は同時代の出来事を刻んだ確度の高い記録である。一つの寺のなかにも、伝承と記録という性格の異なる情報が層をなして共存している。目録がこうした細部を拾い上げていることは、確度の混在をならして一様に語らず、そのまま後世へ手渡そうとする編者の姿勢を、あらためて示している。

この表から見えてくるのは、三観点のいずれもが史実と伝承を併せ持ち、しかもその混ざり方が観点ごとに異なるという事実である。治水・河川では近世・近代の事実が骨格をなし起源が伝承に沈む。合戦・武将では合戦の史実に命名や由来の伝承が付随する。信仰・巡礼では古い創建伝承と近世以降の記録が層をなす。目録を読むとは、この混合の様式を観点ごとに見分けることにほかならない。編者の断り書きは、その見分けを読者に委ねる、良質な資料の作法であったと評価できる。

史実 証文・年紀で確認 伝承 地域が語り継ぐ 未確認 ≠ 記載なし 突き当たっていない /存在しないは別 目録を読むための確度の弁別 伝承は史実の劣位ではなく、地域の記憶を読むための別の資料である。
図5 確度の弁別。史実と伝承を語の水準で書き分け、「未確認」と「記載なし」を区別することが、目録を史料として読む前提となる。

6. 背景としての地理 ── 天竜川左岸という条件

選定の三観点、とりわけ治水・河川への強い傾きは、旧豊田町域の地理的条件を抜きには理解できない。この町域は、磐田市街の西、天竜川の左岸に広がる低地を主とする。大河のすぐそばに開けた土地であるという条件が、目録の骨格を規定している。渡しの富と洪水の危険、堤と橋の労苦が史跡の中核をなすのは、この土地が天竜川と隣り合って生きてきたことの、当然の帰結である。

天竜川左岸という位置は、二つの相反する性格をこの土地に与えた。一つは、東海道が大河を渡る要衝としての性格である。池田の渡しは、天竜川下流域における交通の結節点として、渡船権を認めた家康の証文以来、300年にわたり栄えた。延享元年(1744年)には池田村の家数が216軒に達したと伝わり、辻屋や杉田屋のような茶屋が並ぶ間の宿としての景観も備えていたという。渡しと間の宿の記憶が目録に厚く収められるのは、この交通上の要衝という性格の反映である。

もう一つは、洪水に絶えずさらされる危険な土地としての性格である。渡船場のあった池田は、大水のたびに危険にさらされた。慶長10年(1605年)の三国堤の築造、西面の大囲堤、東面の内郷堤という囲堤の営み、そして明治・昭和の治水記念碑の数々は、この危険に対して人々が積み重ねてきた防御の歴史である。要衝としての富と、低地としての危険──この二つが同じ天竜川に由来していることこそ、旧豊田町域の地理の核心であり、目録が治水・河川を選定の第一の観点とした理由でもある。

治水の記憶が近代を通じて更新され続けたことも、目録は書き留めている。七蔵新田の治水記念碑は昭和10年(1935年)、岩田堤締切記念碑は昭和47年(1972年)の建立であり、森本の北方の堤防上には昭和37年(1962年)の井通堤締切記念の碑が立つ。小立野の天竜川治水祈念公園は、天竜川と関わる複数の市町村による治水促進の同盟会が管理し、園内の治水記念碑には、治水に貢献した先人の労苦を偲び水の恵みを願う意匠が凝らされているという。近世の囲堤から昭和の締切事業までが一続きの営みとして拾われている点に、この土地が天竜川との攻防を自らの歴史の中心軸として捉えていたことが、はっきりと表れている。

この地理的条件は、他の二観点とも無縁ではない。合戦と武将の観点についていえば、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いが磐田原台地の西縁で戦われ、天竜川の渡河が戦局に関わったことは、この土地が軍事上も交通の要であったことを示す。信仰と巡礼の観点についても、渡しと街道が結ぶ人の往来が、四つの巡礼路の重なりを支えていた。天竜川左岸という条件は、治水だけでなく、合戦の舞台性も信仰の道の交わりも、まとめて用意した基盤であった。

したがって、60選の偏りは編者の恣意ではなく、土地の条件が選定の観点を通じて目録に刻まれた痕跡と読むべきである。池田と一言への地理的集中、治水・交通への種別的集中は、天竜川左岸という条件のもとで、この地域が自らの過去のどこに価値を見いだしてきたかを、そのまま映している。目録は、土地の地理が地域の自己認識を形づくる過程を、史跡の配置として結晶させた資料なのである。

天竜川 池田 渡し・堤・橋 一言 合戦・学び 宮之一色他 街道・信仰 天竜川左岸に沿う史跡の帯 要衝の富と低地の危険が、渡し・堤・街道を軸とする史跡の配置を生んだ。
図6 天竜川左岸の史跡分布(模式)。要衝としての富と低地としての危険が同じ大河に由来し、渡し・堤・街道を軸とする史跡の帯を形づくった。

7. 郷土研究会の自己認識 ── 何を選ばなかったか

ここまで、目録が何を選んだかを読んできた。選定を読み解くうえで、もう一つ有効なのは、何を厚く扱い、何を薄くしたかという軽重の付け方である。目録は、既に十分に知られた合戦史については、一言坂の戦跡や智恩斎の項で概要にとどめ、周辺の地名や道筋の伝承に紙幅を割いている。よく知られた事柄を繰り返すよりも、消えかけた地名や口碑を書き留めることに、この会の関心が向いていたことがうかがえる。

そのことは、目録が拾い上げた細部の性格に表れている。挑燈野に飛んだという「万能螢」を武田勢戦死者の魂と結ぶ言い伝え、水汲坂の途中に祭られた日本で唯一つといわれる禁酒地蔵、京都の宮様からいただいたという座敷看板を伝える長森こうやくの家。これらは、大きな歴史の本筋からは外れるが、地域の暮らしと記憶に深く根ざした事柄である。郷土を研究する会が選び取ったのは、教科書的な史実の要約ではなく、その土地に生きた人々の手ざわりのある記憶であった。

この選び方は、会の名称そのものと響き合っている。「豊田町郷土を研究する会」という名は、対象を郷土に、主体を地域の人々に置いている。中央の学術が価値づけた史跡を受け取るのではなく、自分たちの町を自分たちで歩き、語り伝えられてきたことを書き留める。その姿勢が、伝承を切り捨てずに収める編集方針と、暮らしに近い細部への関心となって、目録の隅々に現れている。目録は、外から与えられた地域像ではなく、地域が自ら編んだ自己像なのである。

目録が近代の学びと栄誉の記憶を丁寧に拾う点にも、選ぶ側の自己認識が表れている。明治初年に開かれ、見付小学校・鎌田の坊中学校とともに「遠州の三大学校」の一つに数えられたという西之島学校、戦後の師範学校仮校舎から県立の農林専門学校を経てのちに静岡大学農学部へと連なった一言・富丘の校地、そして明治11年(1878年)に明治天皇が西之島の旧家で休憩したことを記念する駐蹕の碑。これらは、この土地が学びと国家の歩みに連なったという誇りの記憶であり、合戦の武勇譚とはまた別の仕方で、地域を大きな歴史へ接続している。近世の渡しと治水、戦国の合戦、そして近代の学校と行幸という三つの時代の記憶が、いずれも「わがまちの誇り」として並べ置かれているところに、この目録の自己認識の輪郭が見えてくる。

もっとも、自己像であるがゆえの限界もある。地域の関心に沿って編まれた目録は、その関心が及ばなかった領域を、必然的に薄く扱う。たとえば、天竜川左岸の低地に暮らした人々の生業の細部、近代以降の産業や交通の変化、あるいは名を残さなかった多くの集落の日常は、史跡という形をとりにくいために、目録には現れにくい。60選が映すのは地域の記憶の全体ではなく、史跡という枠に収まりうる記憶の部分である。この限界を承知したうえで、なお目録は、昭和50年代の豊田町が自らをどう捉えていたかを知る、得がたい手がかりであり続ける。

本稿の姉妹編にあたる論考も、この自己認識の主題と接続する。旧豊田町の地名を読み解いた第93号「旧豊田町の地名」は、地名という別の資料から土地の記憶の編成を論じ、加茂・寺谷の歴史を扱った第111号「加茂・寺谷の歴史」は、用水と寺社から豊田北部の成り立ちを追った。史跡目録・地名・地域史は、いずれも地域が自らの過去を編む異なる様式であり、本稿の60選の読みは、その一つの様式に光を当てたものである。素材とした一般向けの資料記事「町内史跡めぐり60選」も併せて参照されたい。

8. 結論 ── 目録を史料として読む

本稿は、昭和53年(1978年)に豊田町郷土を研究する会が編んだ『町内史跡めぐり』の60選を、個々の史跡の解説としてではなく、地域の自己認識を映す一次資料として読んできた。得られた見取り図は次のとおりである。目録は旧豊田町域の史跡を平板に網羅したのではなく、池田と一言への地理的集中、近世・近代への時代的集中、治水・交通への種別的集中という明確な偏りをもつ。この偏りの背後には、治水と河川、合戦と武将、信仰と巡礼という三つの選定の観点が働いており、いずれも天竜川左岸という地理的条件に根ざしている。

目録の記載は、史実と伝承を併せ持つ。編集委員会自身が伝承の混在を明言しているとおり、家康の証文や近代の橋のように年紀で追える事柄と、薬師堂の創建やかぶと塚の命名のように地域が語り継いだ事柄とが、同じ紙面に同居している。本稿は両者を語の水準で書き分け、伝承を史実に格上げせず、しかし史実の劣位にも置かなかった。「未確認」と「記載なし」を区別し、渡船の起源のような古い年紀は、年代決定の根拠ではなく地域の由緒意識の反映として扱った。

したがって本稿の立場は明確である。史跡目録は、史跡の総量を測る器としてではなく、地域が自らの過去のどこに価値を見いだしたかを読み取る史料として扱われるべきである。何を選び、何を厚く扱い、何を薄くしたか──その取捨の様式にこそ、その土地の自己認識が現れる。60選が映すのは客観的な史跡の集成ではなく、天竜川左岸という条件のもとで、昭和50年代の豊田町が自らを捉えた自己像である。

最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、大字・時代・種別の分布は本稿では概観にとどめたが、目録の全項目を分類して集計すれば、選定の偏りをより精確に測ることができる。第二に、既刊の第一集・第三集『ふるさと豊田』と第四集の記述を突き合わせれば、会の関心がどう推移したかを跡づけられる。第三に、他地区の郷土研究会が編んだ史跡目録と比較すれば、豊田の自己認識の固有性がより鮮明になるはずである。これらはいずれも、一冊の目録を地域の記憶の編成として読むという本稿の方法を、さらに前へ進める作業に属する。史跡の一覧を、単なる案内としてではなく、地域が自らを語った資料として読み直すこと──その先に、失われつつある豊田の記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿が読み解いた池田や一言をはじめ、天竜川左岸の旧豊田町域には、渡しや街道とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』(豊田町教育委員会発行、昭和53年〔1978年〕3月20日、印刷・中部印刷株式会社)。史跡・伝承地60か所を大字別に収録し、巻末に巡礼札所一覧を付す。
  2. 同書「まえがき」による。編集委員会は、収録した史跡に史実というより伝承と考えられるものもかなり含まれる旨を自ら断っている。本稿の史実・伝承の腑分けは、この編者の自己言及に沿うものである。
  3. 池田の渡船は延長5年(927年)頃から行われていたとみられ、天正元年(1573年)に徳川家康が池田船方十人衆へ朱印状を与えたと伝わる。渡船起源の古い年紀は、本稿の範囲では裏づける一次史料に突き当たっておらず、未確認として扱う。渡船運営の詳細は磐田物語 t045 を参照。
  4. 一言坂の戦いは元亀3年(1572年)に戦われた合戦で、本多忠勝の殿で知られる。合戦の経緯と戦場地形については磐田物語 t003・t040 に詳しい。かぶと塚の兜掛け伝承は、5世紀前半の古墳に後世付された命名譚であり、伝承の層に属する。
  5. 同書巻末の巡礼札所一覧表による。新四国八十八か所、遠江四十九薬師めぐり、観世音菩薩三十三所霊場、豊田三十三か所観音巡礼の四路の札所を併載し、少林寺跡・妙法寺のように複数の巡礼路を兼ねる寺のあることを記す。

付記:本稿は一般読者向け資料記事 t044「町内史跡めぐり60選」の内容を、郷土史研究者向けに再構成した論考版である。個々の史跡の解説ではなく、60選という選定そのものを地域の自己認識の記録として読む点に主眼を置き、確度の層(史実・伝承)を語の水準で区別した。年紀のうち近世・近代の文書・記録に基づくものを史実、渡船起源や創建の古い年紀を未確認の伝承として扱っている。

参考文献・参考資料

  • 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第四集 町内史跡めぐり』豊田町教育委員会、昭和53年(1978年)3月。
  • 豊田町郷土を研究する会編『ふるさと豊田』(第一集)、豊田町教育委員会、昭和49年(1974年)。
  • 豊田町郷土を研究する会編『天竜川池田の渡船』(第二集)、豊田町教育委員会、昭和51年(1976年)。
  • 豊田町郷土を研究する会編『ふるさと豊田改訂版』(第三集)、豊田町教育委員会、昭和52年(1977年)。
  • 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』各編、豊田町。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 静岡県編『静岡県史』通史編(静岡県、天竜川治水・東海道関係章)。
  • 『続日本後紀』『日本三代実録』(薬師堂創建伝承の背景となる古代史料として)。
  • 磐田物語 t044「町内史跡めぐり60選 ── 昭和53年、豊田町郷土を研究する会が歩いた記憶の地図」 https://iwata-monogatari.net/t044 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 t045「天竜川池田の渡船 ── 家康の証文から始まった渡し場300年の記憶」 https://iwata-monogatari.net/t045 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第93号「旧豊田町の地名 ── 土地の記憶を読む」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/093/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第111号「加茂・寺谷の歴史 ── 台地と谷が育てた村」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/111/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 k007「寺谷用水の開削」 https://iwata-monogatari.net/k007 (最終閲覧:2026年7月25日)。