磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第93号(豊田・地名研究)
旧豊田町の地名 ── 土地の記憶を読む
天竜川左岸の地名が語る開発と信仰
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
旧豊田町──現在の磐田市豊田地区──は、見付宿や遠江国府を核とする旧磐田市中心部とは成り立ちを異にする、天竜川左岸の一帯である。本稿は、豊田町郷土を研究する会と豊田町教育委員会が1992年にまとめた地名資料『ふるさと 豊田町地名地図』を主たる手がかりとし、同地区の小字・通称地名を「川」「水と田」「道」「屋敷と祈り」「台地」の類型に腑分けして、地名が伝える土地の記憶を読む。分析からは、天竜川に近い低地では島・堤・新田の名が、北側の台地では丘・原・久保・森の名が卓越するという、地形に対応した地名分布の層位が浮かび上がる。個別地名の由来については、史料で確認できる事柄と、地形や伝承から推し量られる解釈とを層として区別し、由来の断定を避けて諸説を対等に併置する立場をとる。あわせて寺谷用水と加茂、池田荘と葛巻という二つの事例を通して、近世の開発と中世以来の信仰の記憶が、地名にどう畳み込まれてきたかを検討する。地名を土地の台帳として読むこの手続きは、失われつつある小地名を後世の調べものに耐える形で残す方途でもある。
キーワード:旧豊田町/地名/天竜川左岸/寺谷用水/池田荘/新田開発/地名の層位
1. 問題設定 ── 地名を土地の台帳として読む
磐田の歴史を語るとき、多くの人はまず見付宿や遠江国府、中泉の天領を思い浮かべる。街道と国府のまちという像が、磐田の記憶の中心を占めてきたためである。しかし現在の磐田市の地図を西へたどると、天竜川のすぐ手前に、それとは別の成り立ちをもつ一帯が広がっている。かつての豊田町、いまの磐田市豊田地区である。この一帯を歩くと、見付や中泉とは手ざわりの異なる地名に出会う。島、堤、新田、用水、あるいは丘、原、久保。これらの名は、川と田と台地がせめぎ合ってきた土地の履歴を、短い符号のかたちで今に伝えている。
本稿の出発点は、これらの地名を単なる呼称としてではなく、土地の台帳として読むという姿勢にある。地名は、その土地が長いあいだ何に使われ、どのような地形であったかを伝える小さな証言である。ただし証言には確度の差がある。検地帳や村絵図に文字として残る地名もあれば、地形の特徴を映したと推し量られるにすぎない地名、あるいは伝承のなかで意味づけられてきた地名もある。これらを同じ平面で扱えば、確かな事柄と推測とが混じり合い、地名から引き出せる情報はかえって曖昧になる。そこで本稿は、地名が属する資料の層をそのつど明示しながら、旧豊田町の地名を類型に分けて読み進める。
ここで一点、方法上の禁欲を先に断っておきたい。地名の由来を問うと、しばしば一つの語源へ収束させたくなる。だが個別地名の由来は、確実な史料で裏づけられる場合よりも、地形や信仰、後世の解釈から推し量られる場合のほうがはるかに多い。本稿は、由来を一つに断定することを目的としない。史料で確認できることは確認できることとして、地形から推し量れることは推定として、地域で語り継がれてきたことは伝承として、それぞれの位置を保ったまま併置する。由来を断定しないことは記述の弱さではなく、確度の異なる情報を読者が自ら判断できる状態に置くための手続きである。
この姿勢は、地名研究に固有のものではない。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられ、複数の伝えのなかから一つの正解を選び取ろうとする。しかしその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった伝えを切り捨てることにつながりやすい。地名という素材は、この誘惑がとりわけ強く働く領域である。もっともらしい語源が一つ思いつくと、それだけで土地の来歴が判明したかのように感じられてしまう。以下の検討では、その性急な一元化をくり返し押しとどめながら進む。
以下ではまず、本稿が依拠する地名資料の性格を確認し(第2節)、次に旧豊田町という行政単位の成り立ちと地形の二面性を押さえる(第3節)。そのうえで、地名を川・水と田・道・屋敷と祈りという営みの側面から読み(第4節〜第6節)、最後に台地の地名と中世荘園の痕跡を検討して(第7節)、地形と地名の対応関係という見取り図に至る(第8節)。個々の地名の詳細な考証よりも、地名の分布が土地の層位をどう映しているかという全体像を描くことに、本稿の主眼を置く。
なお、旧豊田町の個別のテーマ──新田開発が刻んだ地名、中世荘園池田荘の痕跡、磐田全域の地名の総論──については、本論考シリーズですでに稿を重ねてきた1。本稿はそれらの個別考証を前提としつつ、旧豊田町の地名を一つの面として俯瞰し、地形との対応において読み直す総論の位置づけにある。
2. 素材と方法 ──『豊田町地名地図』の性格
本稿が主たる手がかりとするのは、『ふるさと 豊田町地名地図』である。これは豊田町郷土を研究する会と豊田町教育委員会が、1992年3月31日に「郷土研究資料 第10集」として発行した地名資料である2。同会は1972年に発足し、それまでにも『ふるさと豊田』『天竜川池田の渡船』『ふるさとの石碑』『ふるさと池田』などをまとめてきた地域の研究団体である。この地名地図は、1990年度からの2か年をかけ、江戸期の村絵図や水帳(検地帳)、明治初期の村地図、そして各地区に伝わる言い伝えを取材して、町内の古い小字(こあざ)や通称地名を一つひとつ拾い集めたものである。
資料の作りはきわめて実直で、地区ごとに「名称/よみがな/現在地/摘要」という形式で地名が並んでいる。摘要欄には、検地帳に出てくる年号や、用水の東西、東海道との位置関係といった、土地の手がかりが短く書き添えられている。観光案内ではなく、土地の台帳に近い資料と受け止めるのが正確である。この性格こそが、本稿にとって重要な意味をもつ。摘要に記された「用水西」「一里塚」「池田荘・松尾大社の古文書」といった短い注記は、地名の由来を断定するものではないが、その地名がどのような文脈で記録されてきたかを示す、確度の高い手がかりだからである。
方法についても一言しておきたい。地名資料を扱うにあたっては、資料に記された事柄と、それをもとに筆者が解釈した事柄とを、明確に切り分けなければならない。資料の摘要に「寺谷用水西」とあることは、その地名が用水の西側に位置づけられて記録された事実である。しかし、その地名の由来が用水そのものにあると解するのは、あくまで解釈である。本稿では、前者を資料の記載として、後者を本稿の推定として書き分ける。資料が語る範囲を超えて由来を断定しないことが、地名を扱う研究の最低限の規律である。
もう一点、確認しておくべき区別がある。「未確認」と「記載がない」とは異なる。ある地名の由来を裏づける文書に、筆者がまだ突き当たっていない状態は「未確認」であって、そのような文書が存在しないと断定できる「記載なし」とは違う。旧豊田町の小地名の多くは、その由来を直接に記した史料が管見の限り見当たらない。だがそれは、由来を語る史料が元来なかったことを意味しない。地名の由来が不明であることと、由来を記す史料が失われた、あるいは筆者が把握していないこととを、以下の検討では区別して扱う。
なお、この資料は当サイトが別に扱っている佐口行正氏所蔵史料とは系統を異にする。所蔵・利用許可の関係に不明な部分があるため、本稿では資料の文章や表をそのまま引き写すのではなく、出典として明記したうえで、地名の読みや位置、摘要の要点を参照するにとどめる。地名そのものは固有名詞であって特定の著作物ではないが、資料の編集された表現を尊重する立場から、この扱いをとる。
3. 旧豊田町の成り立ち ── 富岡・井通・池田と天竜川左岸
地名を読む前に、「豊田町」がどの範囲を指すのかを整理しておく必要がある。行政単位としての豊田町は、比較的新しい。公的記録から確認できる範囲では、現在の豊田地区は、明治期に成立した富岡村と井通(いどおり)村が1955年3月に合併して豊田村となり、同年4月に池田地区や旧竜洋町側の一部(赤池・上本郷・下本郷など)を加えて形づくられた、とされている3。その後、1973年に町制をしいて豊田町となり、2005年4月、磐田市・竜洋町・福田町・豊岡村とともに合併して、現在の磐田市の一部となった。
この合併の履歴は、それ自体が地名を読むうえでの前提となる。旧富岡村・旧井通村・旧池田といった旧村の枠は、明治以前の村の集合を近代の行政が束ね直したものであり、現在の大字・小字の分布は、この旧村の重なりの上に成り立っている。つまり豊田地区の地名は、単一の共同体が均質に生み出したものではなく、由来を異にする複数の村の地名が、合併によって一つの町名の下に集められたものとして読む必要がある。ある地区に「島」のつく地名が集中し、別の地区に「原」のつく地名が並ぶという偏りも、この旧村ごとの地形と履歴の違いを映している。
地形から見ると、この一帯は大きく二つの顔をもつ。北側には水はけのよい台地が広がり、富丘・東原・高見といった「丘」「原」「山」のつく地名が並ぶ。いっぽう天竜川に近い南側は、川がたびたび流れを変えてきた低地で、宮之一色・中田・西之島・下万能・笹原島のように、川と新田と集落がせめぎ合ってきた土地が連なる。地名を地区順に眺めていくと、この「台地」と「低地」の対比が、地名そのものに刻まれていることに気づく。見付や中泉が街道と国府のまちであったとすれば、豊田は川と田のまちであった。同じ磐田市のなかに、成り立ちの異なる土地の記憶が静かに重なっている。
近代の交通史も、この地の性格を映している。大正から昭和にかけては光明電気鉄道がこの地域を通っていたが、経営は短命に終わり姿を消した。それから半世紀余りを経た1991年2月14日、東海道本線に豊田町駅が開業する。浜松までは8分、磐田駅までは3分という近さとあわせて、駅周辺の土地区画整理や都市計画道路の整備が進み、現在まで豊田地区の玄関口となっている。川と田のまちが、鉄道駅を核とする新しい市街へと姿を変えていく過程が、ここに重なっている。古い小地名の多くは、この区画整理と宅地化のなかで、地図の表面からしだいに姿を消しつつある。地名を記録することの緊急性は、この現実に根ざしている。
以上を踏まえ、本稿は旧豊田町の地名を、行政区分の順ではなく、土地に働いてきた営みの側面から類型化して読む。すなわち、川との関わり、水と田をめぐる開発、道と交通、屋敷と信仰、そして台地の土地利用である。次節以下、この類型に沿って地名を検討する。類型はあくまで読みの便宜であって、一つの地名が複数の側面をあわせもつことは言うまでもない。
4. 川と低地の地名 ── 島・堤・新田
天竜川に近い低地の地名には、川とどう向き合ってきたかの記憶が、くり返し現れる。なかでも顕著なのが「島」「堤」「新田」の三つである。弥藤太島(やとうだじま)、気子島(きこじま)、西之島、笹原島。こうした「島」のつく地名は、海に浮かぶ島ではなく、たびたび流れを変えた天竜川がつくった低地のなかの、わずかに高い土地──微高地──を指すと読むのが穏当である4。増水のたびに水につかる低湿地のなかで、水につかりにくいわずかな高まりが、あたかも川中の島のように見えたところから、この種の地名が生まれたと考えられている。ただし個々の「島」地名が具体的にいつ、どの高まりを指して名づけられたかを直接に記す史料は、本稿の範囲では確認できていない。
「堤」に関わる地名も、低地に特徴的である。素材資料の摘要には「堤外(ていがい)」という語がくり返し現れ、また「内郷堤」の名も見える。堤外とは、堤防の川側、すなわち堤の外側を指す語であり、堤の内と外で土地の性格が分かれていたことを地名がとどめている。堤の内側は人が住み田を作る土地、外側は増水時に水を受け入れる土地──この境界を、地名が今に伝えている。堤にまつわる地名は、川を制御しようとした人の営みと、なお制御しきれなかった川の力との、せめぎ合いの記録である。
「新田」については、本論考シリーズで別に一稿を設けて論じた5。旧豊田町域には、江戸期の新田開発に由来する地名が数多く残る。新田とは、既存の田に対して新たに開かれた田を指し、多くは開発者の名や開発の順序、地形を冠して呼ばれた。低地の新田地名は、天竜川がつくった沖積地を、堤と用水によって田へと変えていった開発の歴史そのものを刻んでいる。詳細は「新田」と名のつく土地の論考に譲るが、ここで確認しておきたいのは、島・堤・新田という三つの地名群が、いずれも天竜川という一つの川をめぐる、異なる局面の記憶だという点である。島は川がつくった地形を、堤は川を制御しようとした構造物を、新田はその制御のうえに成り立った土地利用を、それぞれ指している。
この三者を重ねて読むと、低地の地名は一枚の断面図のように立ち上がる。まず川が流路を変えながら微高地と低湿地の起伏をつくり(島)、次に人が堤を築いて川の氾濫域を区切り(堤外・内郷堤)、その内側の土地を用水で潤して田に変えた(新田)。地名は、この地形改変の三つの段階を、それぞれの語で証言している。低地を一枚の平面としてではなく、川・堤・田が重なる立体として見るとき、地名はその立体を読み解くための最良の手がかりとなる。もっとも、こうした読みは地名の分布と地形から導かれる推定であって、個々の地名がこの三段階のどこに正確に対応するかは、古地図や地形分類図との照合を要する課題として残る。
5. 水と田の地名 ── 寺谷用水と加茂
低地を田に変えたのは、堤だけではない。水を引く用水もまた、土地の性格を決定づけた。旧豊田町の地名資料には、寺谷用水・高木用水といった用水の名が随所に現れ、摘要には「用水西」「用水東」という注記がくり返し見える。これは、用水の流れが土地を分ける境界として意識されていたことの名残と読める。田に水を配る用水路は、単なる水路ではなく、土地の帰属や耕作の単位を分ける線でもあった。用水の東と西で地名が書き分けられているのは、水の流れが人々の生活圏を分節していた証左である。この事例は、地名の由来をめぐる諸説を対等に併置する本稿の姿勢を、具体的に示すのに適している。
加茂と「寺谷用水西/東」──開発者の記憶か、地形の記憶か
資料の記載。北の台地のふもとにある加茂(古くは「賀茂」とも書かれた)の摘要には、「寺谷用水西」「寺谷用水東」という語が見える。地名が用水の流れによって東西に分けられていたことがうかがえる。寺谷用水は、天正18年〔1590年〕に天竜川左岸へ引かれた、幅約4メートル・延長12キロメートルにおよぶ用水で、2022年には世界かんがい施設遺産に登録された。この普請は、当時の領主・徳川家康の命を受け、家臣の伊奈忠次が計画し、代官の平野重定が工事にあたったと伝えられる。
解釈の分岐。加茂という地名の由来については、性格の異なる複数の見方が立てられる。第一に、その普請奉行をつとめたとされる平野重定が当時この加茂に住んでいたと伝えられることから、加茂を用水開発と結びつけて読む見方がある。この見方に立てば、加茂は土地を田に変えた人の記憶を宿す地名となる。第二に、加茂・賀茂という表記そのものは、京都の賀茂社をはじめとする賀茂信仰に関わる地名として全国に分布しており、信仰に由来する古い地名とみる見方もありうる。第三に、地形や耕地の性格を映した語が「かも」の音に当てられたとする見方も、一般論としては排除できない。
層の腑分け。ここで確実に言えるのは、加茂の摘要に用水の東西が記され、寺谷用水がこの地に深く関わったという事実である。これは資料に基づく確かな事柄に属する。他方、加茂という地名の語源が平野重定や用水にあるのか、賀茂信仰にあるのか、地形にあるのかは、いずれも決め手を欠く。地名の初出が用水普請より古いのか新しいのかを確定できなければ、用水由来説は成り立たない。この初出年代は本稿では未確認である。
寺谷用水そのものの意義は、加茂の一地区にとどまらない。天正18年〔1590年〕という年紀は、徳川家康が関東へ移る直前、なお遠江を領していた時期にあたり、天竜川左岸の低地開発が近世初頭の領国経営のなかに位置づけられていたことを示す。用水がもたらした水は、低地の新田開発を可能にした基盤であり、前節で見た新田地名の多くは、この用水の水があってはじめて成り立った。水と田の地名は、堤の地名と一対をなす。堤が川の水を防ぐ構造物の記憶であるのに対し、用水は川の水を引き入れて田を潤す構造物の記憶である。防ぐ水と引く水、この二つの水をめぐる営みが、低地の地名の骨格を形づくっている。
用水の記憶が地名に残るのは、それが日々の耕作に直結する、生活の基盤だったからである。堤の決壊が災いをもたらすのと同じ切実さで、用水の配分は集落の死活に関わった。用水の東西が地名を分けるほどに意識されたのは、水をめぐる権利と負担が、そこに暮らす人々にとって最も具体的な土地の秩序だったことの反映である。地名は、こうした水の秩序を、後の世まで運ぶ器の役割を果たしている。
6. 道と信仰の地名 ── 東海道・一里山・屋敷
川と水の記憶に対し、道の記憶を刻む地名も、旧豊田町には色濃く残る。天竜川に近い宮之一色には、「一里山(いちりやま)」のように摘要で「一里塚」と注された地名や、「馬捨場(うますてば)」「おくせど」といった、旧東海道沿いらしい地名が並ぶ。一里塚は、街道に一里ごとに築かれた塚であり、それが「一里山」という地名として残ったとみられる。馬捨場は、死んだ馬を処理した場所を指すと考えられる地名で、街道を行き交った物資輸送の裏側を伝えている。これらは、人と荷が絶えず往来した東海道の道筋を、地名の形で指し示している。
資料の発刊のことばにも、東海道から分かれて天竜川の舟着場へ向かった「市場道」「市海道(いちかいどう)」のことが記されている。見付宿から池田の渡しへと続いた道の記憶が、この一帯の地名に折りたたまれている。東海道の本道と、そこから渡し場へ分岐する枝道──この道の階層が、地名に痕跡を残している。池田の渡しは天竜川を越える東海道の要衝であり、そこへ向かう道が独立した地名として記憶されたことは、この地が街道交通の結節点であったことを物語る。道の地名は、街道という線が土地の上にどう引かれていたかを、後世に伝える手がかりである。
道と並んで、屋敷と信仰の記憶を刻む地名もある。資料には「○○屋敷」「寺前」「観音堂」「天王」といった地名が見え、人が住み、祈った場所の名が土地に残されている。「屋敷」のつく地名は、かつてそこに有力な家の屋敷があったことを、「寺前」は寺の門前に開けた土地であったことを、「観音堂」「天王」は堂や社が祀られていた場所であったことを、それぞれ伝えている。これらの地名は、土地の所有と信仰の歴史が、地名の形で保存されてきたことを示している。
ただし、こうした屋敷・信仰の地名についても、由来の断定は慎まねばならない。「天王」の地名が牛頭天王を祀る社に由来することはほぼ確実としても、その社がいつ勧請され、いつ地名として定着したかを直接に記す史料は、多くの場合確認できない。「屋敷」がどの家の屋敷を指すのかも、旧家の伝承や検地帳の照合を要する。地名が信仰や屋敷の存在を示すことと、その具体的な来歴を確定することとのあいだには、なお埋めるべき距離がある。本稿は、地名が土地の記憶の存在を告げているという事実を確認するにとどめ、個々の来歴の考証は今後の課題とする。
道と信仰の地名を重ねて見ると、この一帯が単なる農村ではなかったことがわかる。東海道という大動脈が近くを通り、渡し場へ向かう枝道が分かれ、その沿道に屋敷や堂社が営まれた。低地の新田と用水が農の土地の記憶であるとすれば、道と屋敷と信仰の地名は、人の往来と暮らしと祈りの土地の記憶である。地名は、農・交通・信仰という複数の営みが、同じ土地の上に重なっていたことを教えている。
| 類型 | 代表的な地名・語 | 読みの手がかり | 確度の層 | 留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 川・低地 | 弥藤太島・気子島・西之島・笹原島 | 低地の微高地(水につかりにくい高まり)を「島」と呼んだ。 | 推定 | 個々の島地名が指す高まりを特定する史料は未確認。 |
| 堤 | 堤外・内郷堤 | 堤の内と外で土地の性格が分かれた境界の記憶。 | 資料の記載+推定 | 摘要に「堤外」の語。堤の築造年代は地区ごとに要確認。 |
| 水と田 | 加茂「寺谷用水西/東」・新田各種 | 用水の流れが土地を東西に分節した。 | 資料の記載+推定 | 寺谷用水は1590年開削。地名「加茂」の由来自体は諸説。 |
| 道 | 一里山・馬捨場・市場道・市海道 | 東海道と渡し場へ向かう枝道の道筋を指す。 | 資料の記載+推定 | 一里塚・馬捨場の具体的位置は現地照合を要する。 |
| 屋敷と祈り | ○○屋敷・寺前・観音堂・天王 | 屋敷・寺門前・堂社の存在を示す。 | 推定・伝承 | 個々の来歴(勧請年・屋敷の主)は多く未確認。 |
| 台地・中世 | 富丘・東原・久保/小立野・西之島「葛巻」 | 台地の地形と、中世荘園池田荘の痕跡。 | 資料の記載+通説 | 葛巻は摘要に「池田荘・松尾大社の古文書」。 |
表1に整理したとおり、地名から引き出せる情報の確度は、類型によっても、また個々の地名によっても一様ではない。摘要に明示的な注記のある地名は確度が高く、地形や語感からの推定にとどまる地名は確度が低い。この確度の差を保ったまま地名を並べることが、地名を史料として扱う際の作法である。表を一覧すると、旧豊田町の地名が、川・水・道・信仰・台地という複数の営みの層を、地形の上に折り重ねてきたことが見てとれる。
7. 台地の地名と中世荘園 ── 丘・原と池田荘・葛巻
ここまで主に低地の地名を見てきたが、北側の台地に目を移すと、地名の顔ぶれは大きく変わる。低地に卓越した島・堤・新田の名に代わって、台地では富丘・東原・高見のように「丘」「原」「山」「久保」「森」のつく地名が増える。「原」は開けた平坦地を、「久保」は台地のなかのくぼんだ地形を、「丘」はまわりより高い地形を指すと読むのが一般的である。低地の地名が水との関わりを刻むのに対し、台地の地名は地形の起伏そのものを刻んでいる。台地には天竜川の氾濫が及ばないため、川・堤・新田といった水の記憶が乏しく、代わって地形と土地利用の記憶が地名の中心を占める。
この台地と低地の地名の対比は、本稿全体の見取り図を象徴している。同じ旧豊田町でありながら、天竜川に近い低地と北側の台地では、地名が伝える内容がまったく異なる。低地では川・堤・島・新田の名が目立ち、台地では丘・原・山・久保・森の名が増える。地名の分布は、地域を一枚の平面としてではなく、川・堤・田・森・野・道が重なる立体として見るための手がかりである。地形が地名を規定し、地名が地形を証言する──この対応関係こそ、旧豊田町の地名を読んで得られる最も確かな知見である。
台地の地名が地形を映すのに対し、この一帯にはもう一つ、中世の記憶を宿す地名の系列がある。中世荘園、池田荘の痕跡である。この主題については本論考シリーズで別に一稿を設けたが、本稿の類型論のなかに位置づけ直しておきたい。
小立野・西之島「葛巻」──地名は荘園をどこまで証言するか
資料の記載。天竜川の渡し場として知られた池田の周辺は、平安末から中世にかけて池田荘(いけだのしょう)と呼ばれた荘園の地でもあった。池田荘は仁安年間(12世紀後半)に立てられ、京都の松尾大社の所領であったと伝わる。地名資料では、小立野・西之島の地内に「葛巻(くずまき)」という地名が確認され、摘要に「池田荘・松尾大社の古文書」と書き添えられている。
解釈の分岐。この「葛巻」を、池田荘の荘域や荘官・名主に関わる地名として読む見方がありうる。荘園の内部は名(みょう)と呼ばれる単位に分けられ、名の呼称が後の小字として残る例は各地に見られる。摘要が「池田荘・松尾大社の古文書」に言及することは、この地名が中世文書のなかに現れる可能性を示唆する。他方、「葛巻」という語そのものは、葛(つる草)の茂る地形を映した地名とも読め、荘園と直接に結びつくとは限らない。地名の初出が荘園期にさかのぼるのか、後世に地形から名づけられたのかは、古文書の博捜を要する。
層の腑分け。池田荘が仁安年間に立てられ松尾大社領であったことは、荘園史の通説として扱ってよい。葛巻という地名が現存し、摘要が荘園文書に言及することも、資料に基づく確かな事柄である。しかし、葛巻が荘園のどの単位に対応するのか、地名が荘園期に直接さかのぼるのかは、なお未確認の主題である。地名が荘園の記憶を宿すことと、地名から荘園の内部構造を復元することとは、別の課題として区別しなければならない。
台地の地形地名と、中世荘園の痕跡地名。この二つの系列は、性格を異にしながら、いずれも低地の水の地名とは別の土地の履歴を証言している。台地の地名は近世以降の地形と土地利用を、荘園の地名は中世以来の土地の帰属を映す。旧豊田町の地名は、こうして低地・台地・中世という複数の時間の層を、一つの地区のなかに畳み込んでいる。地名を読むとは、この畳み込まれた時間の層を、一枚ずつ開いていく作業にほかならない。
もっとも、こうした層の読み分けは、旧豊田町に限られたものではない。国府・街道・水・信仰が刻んだ磐田全域の地名についても、同じ手続きで層を腑分けする総論を本論考シリーズで示した。旧豊田町の地名は、その磐田全域の地名の一部でありながら、天竜川左岸という固有の地形条件のもとで、川と田と台地の記憶をとりわけ濃く残す一帯として、独自の位置を占めている。詳しくは磐田の地名をたどる論考とあわせて読まれたい。
8. 結論 ── 地名の層位から土地の履歴へ
本稿は、旧豊田町──現在の磐田市豊田地区──の地名を、川・水と田・道・屋敷と祈り・台地の類型に腑分けし、地名が伝える土地の記憶を読んできた。得られた見取り図は次のとおりである。天竜川に近い低地では、川がつくった微高地を指す「島」、川を区切る「堤」、そのうえに開かれた「新田」、田を潤す「用水」といった、水をめぐる営みの地名が卓越する。いっぽう北側の台地では、地形の起伏そのものを映す「丘」「原」「久保」「森」の地名が増える。地名の分布は、地形の二面性に忠実に対応している。地形が地名を規定し、地名が地形を証言するというこの対応関係が、旧豊田町の地名を読んで得られる最も確かな知見である。
さらに、地名は地形だけでなく、時間の層をも畳み込んでいる。近世初頭の寺谷用水開削、江戸期の新田開発、そして中世の池田荘。加茂に残る「用水西/東」は近世の開発の記憶を、小立野・西之島の「葛巻」は中世荘園の記憶を、それぞれ宿している。一つの地区のなかに、中世から近世、そして駅を核とする現代の市街化まで、複数の時間が地名の形で堆積している。地名を読むとは、この堆積した時間の層を、確度を保ったまま一枚ずつ開いていく作業である。
ここで、本稿が一貫して守ってきた手続きを改めて確認しておきたい。地名の由来を一つに断定しないこと。史料で確認できる事柄、地形から推し量れる推定、地域に伝わる伝承を、それぞれの層に置いたまま併置すること。「未確認」と「記載なし」を区別すること。加茂の由来を用水に一元化せず、葛巻を荘園復元の直接の証拠と即断しなかったのは、この手続きに従った結果である。地名という素材は、もっともらしい語源へ一足飛びに向かわせる引力をもつ。その引力に抗い、確度の層を保つことこそ、地名を後世の調べものに耐える形で記録するための規律である。
最後に、本稿が扱いきれなかった課題を明記しておく。第一に、個々の小地名の由来考証である。加茂・葛巻をはじめ、多くの地名の由来は、検地帳や中世古文書との照合を経てはじめて、未確認を推定へ、推定を通説へと押し上げることができる。第二に、地形分類図と地名分布の重ね合わせである。「島」の地名が微高地に、「久保」の地名がくぼ地に、どこまで正確に対応するかは、地形図との照合によって検証されるべき仮説である。第三に、区画整理と宅地化のなかで失われつつある通称地名の記録である。地図の表面から消えていく小地名を、住民の記憶が残るうちに書き留めることは、猶予のない課題である。旧豊田町の地名を読む作業は、これらの課題を残しながら、なお続いていく。『豊田町地名地図』は、その出発点であり、天竜川左岸のまちを歩き直すための案内図でもある。地名の由来を一つに決める誘惑を退け、地形と時間の層を保ったまま土地の履歴を積み上げていくこと──その地道な手続きの先に、旧豊田町という土地の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 本論考シリーズでは、旧豊田町およびその周辺の地名について、新田地名(第33号)、池田荘と葛巻(第47号)、磐田の地名総論(第55号)を扱ってきた。本稿はこれらの個別考証を前提とし、旧豊田町の地名を一つの面として俯瞰する。↩
- 『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集)豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会、1992年3月31日発行。地区ごとに「名称/よみがな/現在地/摘要」の形式で小字・通称地名を整理した地名資料である。↩
- 豊田村の成立(1955年3月、富岡村・井通村の合併)および同年4月の池田地区等の編入、1973年の町制施行、2005年4月の磐田市への合併については、磐田市の沿革に関する公的記録による。合併の細部には資料により異同がありうる。↩
- 「島」のつく地名を低地の微高地の呼称とする読みは、沖積低地の地名解釈として広く行われる。ただし個々の地名がいつ、どの高まりを指したかを直接記す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。↩
- 新田地名の詳細は本論考シリーズ第33号「『新田』と名のつく土地」で論じた。天竜川下流の新田開発と地名の層位を扱っている。↩
付記:本稿は一般読者向け特集 t006「旧豊田町の地名と、土地の記憶」の内容を、郷土史研究者向けに、地名の確度の層(資料の記載・推定・伝承・通説)を区別する観点から再構成した論考版である。1590年の寺谷用水開削、仁安年間の池田荘立荘などの年紀は、それぞれ資料の性格に応じて確度を明示して扱った。
参考文献・参考資料
- 『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集)豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会、1992年 ── 地名・読み・位置・摘要の出発点として参照。
- 『ふるさと豊田』『ふるさと池田』『天竜川池田の渡船』『ふるさとの石碑』豊田町郷土を研究する会(各年)。
- 磐田市『磐田市史』通史編・資料編(磐田市、該当章)。
- 磐田市『豊田町史』(旧豊田町、該当章)。
- 静岡県編『静岡県史』地誌・通史の該当巻。
- 寺谷用水土地改良区・磐田市ほか「寺谷用水」関連解説資料。
- 『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店。
- 『日本歴史地名大系 静岡県の地名』平凡社。
- 佐口行正氏所蔵史料(豊田橋架設関連の地図・絵図ほか)。
- 磐田市公式ウェブサイト「旧豊田町の住所表示」および磐田市の沿革に関する各ページ https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 農林水産省「世界かんがい施設遺産」寺谷用水の項 https://www.maff.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 千年村プロジェクト「遠江国磐田郡池田庄」、コトバンク「池田荘」ほか中世荘園に関する資料 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 t006「旧豊田町の地名と、土地の記憶 ──『豊田町地名地図』を歩く」 https://iwata-monogatari.net/t006 (最終閲覧:2026年7月25日)。