磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第129号(磐田娯楽施設史研究 一)
磐田市の旧映画館を歩く ── 見付・中泉から郊外型シネコンまで
消えた映画館が語る娯楽と町の変化
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市域には、かつて見付・中泉の街なかから掛塚・福田・豊浜の町場に至るまで、芝居小屋を前身とする劇場や活動写真の館が数多く点在していた。そのほとんどはすでに姿を消し、跡地には住宅・公園・会館などが建つ。本稿は、これら旧映画館の立地と盛衰を、娯楽施設の消長としてだけでなく、町の重心がどこにあり人がどこへ集まっていたかを読む史料として扱う。館名・所在地・開館閉館時期には資料間の揺れが残るため、確認できる事項と伝えられる事項とを区別し、「未確認」と「記載なし」を混同しない姿勢をとる。検討の結果、旧映画館の分布は、宿場町見付の町割、鉄道が開いた中泉駅前、周辺町場の小さな娯楽核、そして車社会を先取りしたドライブインシアターという四つの型に整理でき、その盛衰が戦後の暮らしと町の形の変化に同期していたことが浮かび上がる。既刊の閉鎖ボウリング場論・閉鎖プール論と併せ、消えた娯楽施設という視座から磐田の近代と戦後を記述する。
キーワード:旧映画館/見付宿/中泉駅前/芝居小屋/ドライブインシアター/郊外型シネコン/娯楽施設史
1. 問題設定 ── 跡地から町の重心を読む
磐田の市域には、かつて数多くの映画館があった。見付の本通り、中泉の駅前、掛塚・福田・豊浜の町場に、芝居小屋を前身とする劇場や、活動写真を受け入れた映画館が点在していた。そのほとんどはいま残っていない。跡地には住宅や公園、会館、コンビニエンスストア、バスの車庫などが建ち、客席や映写室の痕跡を地表に見いだすことはできない。本稿が問うのは、この「消えた映画館」を、単なる娯楽施設の盛衰としてではなく、町の中心がどこにあり、人がどこへ集まっていたのかを読む史料として扱えないか、という点である。
映画館は、映写機と座席を備えた建物である以前に、人が家の外で出会う場であった。芝居、浪曲、歌舞伎、ニュース映画、公開ラジオ番組、地域の式典までを受け止める集会所として機能し、暗い客席で同じ画面を見上げる時間そのものが、共同体の経験を形づくっていた。したがって映画館の立地は、その時代にどの場所が人を吸い寄せる求心力をもっていたかを示す指標となる。館が建った場所を地図の上にたどり直すことは、娯楽の歴史を復元する作業であると同時に、町の重心の移動を読む作業でもある。跡地に痕跡が残らないからこそ、逆に立地の記録は、失われた町の姿を再構成するための貴重な手がかりになる。
本稿は、一般読者向けに磐田の旧映画館を通覧した記事「磐田市の旧映画館を歩く」を土台に、館ごとの事実を確度の層に腑分けし、立地と盛衰の型を史料批判の観点から整理し直すことを課題とする。あわせて、すでに本シリーズで扱った閉鎖したボウリング場や閉鎖した市民プールと同じく、映画館もまた「消えた娯楽施設」の一つとして、戦後の暮らしと町の形の変化を映す鏡であることを示したい。娯楽施設は、その時代の余暇のかたちと、人が集う場所の所在とを同時に刻んでおり、その撤退のしかたには町の構造変化がそのまま現れる。
以下ではまず、映画館史を扱ううえで避けて通れない資料の性格と、確度を腑分けする方法を定める(2節)。続いて見付(3節)・中泉(4節)・周辺の町場(5節)の順に館を追い、そのうえで比較表によって立地と盛衰の型を析出する(6節)。さらに映画館が消えた理由と郊外型シネコンの再来を、テレビ普及・区画整理・車社会という社会変化のなかに位置づけ(7節)、結論(8節)に至る。個々の館の逸話を並べることが目的ではなく、それらを貫く構造を読み取ることが本稿の狙いである。
2. 資料と方法 ── 館名・年代の揺れをどう扱うか
映画館の歴史を扱うとき、まず直面するのは史料の乏しさである。神社の沿革が国史や式内社の記載によって年代を確定できるのとは異なり、映画興行は近代の私企業の営みであって、その記録は体系的に残されにくい。開館・改称・閉館の年月、座席数、経営者の交替といった基本的な事項でさえ、住宅地図・電話帳・新聞の番組欄・広告、そして関係者や観客の回想といった断片的な資料をつなぎ合わせて復元するほかない。館名の改称が多いこと、同じ建物が経営者交替のたびに名を変えることも、事実の追跡を難しくする1。
この史料状況を踏まえ、本稿は事実を確度の層に腑分けして扱う。行政資料・住宅地図・当時の広告など同時代の文字資料で裏づけられる事項は、比較的確実な事実として記す。一方、開館年が資料により食い違う場合や、聞き取り・回想にのみ由来する事項は、そのことわりを付して扱う。その際、「未確認」と「記載なし」を区別することを一貫した方針とする。前者は、その事項を裏づける一次史料に筆者が突き当たっていない状態を指し、後者は、参照した資料に記載そのものがない状態を指す。両者を混同すると、確かめられていないだけの事柄を、あたかも存在しない事柄のように語る誤りに陥る。
具体例を挙げれば、中泉の中活劇場の開館年は、資料によって1919年とも1921年とも記される。この食い違いは、いずれかが誤りだと断ずるよりも、開館の実態が一点の年月に還元しにくいこと──たとえば芝居小屋としての開設と映画常設館への転換とがずれていた可能性──を示すものとして受け止めるべきである。同様に、多くの館の閉館年に付された「頃」は、営業実態が徐々に細り、正式な閉館日を特定しにくいという興行の実態を反映している。本稿がしばしば「とみられる」「伝わる」といった語を用いるのは、確度を偽装しないための手続きであって、記述の弱さではない。
もう一点、方法上の断りを加えておく。本稿が依拠する主たる基盤は、映画館史の一般記事「磐田市の旧映画館を歩く」と、その典拠となった調査報告である。個々の館について新たに一次史料を博捜したわけではなく、本稿の寄与は、既知の事実を確度の層に腑分けし、立地と盛衰の型として構造化する点にある。したがって以下に記す年代・規模の多くは、既存資料の整理の産物であり、その先の検証は今後の課題として残る。この限界をあらかじめ明示したうえで、記述に進む。
もっとも、確度の低い事項が多いことは、映画館史が史料として無力であることを意味しない。年代や座席数のような数値は揺れても、館がどの地区のどの土地にあったかという立地情報は、住宅地図・跡地の現況・地元の記憶によって比較的安定して確認できる。本稿が個々の開館年よりも立地と分布の型を重視するのは、この確度の非対称性を踏まえた方法上の選択である。数値の精度を競うのではなく、確かめやすい立地の情報から町の構造を読み取ること――それが、乏しい史料のもとで映画館史を扱う現実的な道筋である。立地は、年代が曖昧でも町の重心を語りうる、映画館史のなかで最も頑健な情報なのである。
3. 見付 ── 宿場町の芝居小屋から映画館へ
見付は、近世に東海道の宿場町として栄えた古い町場である。ここでの映画館の系譜は、街道沿いの町割と、寺院の跡地という土地の履歴に深く根ざしている。もっとも古い層にあるのが、西坂町にあった栄座、のちの磐田座・磐田劇場である。資料では、1881年(明治14年)には本格的な興行があったとされ、廻り舞台・花道・奈落を備えた本格的な芝居小屋であった。天井の升目には地元商店の広告が描かれていたと伝わり、この一点だけでも、劇場が町の商いと固く結びついた場所であったことがうかがえる。
この磐田座は、蓮光寺の跡地を利用して開かれたと伝えられる。寺院の跡地に大衆娯楽の場が生まれるという流れは、近代のまちの変化をよく表している。宗教的な空間が世俗の娯楽空間へと転じ、しかもそこが引き続き人の集まる場でありつづけた事実は、土地の記憶が用途を変えながら継承されることを示す。磐田座は戦後もしばらく興行を続けたが、1951年(昭和26年)に解体され、跡地には西坂会館が建った。映画館としての建物は失われたが、人が集まる場所という性格は、会館というかたちで残ったのである。
見付にはほかにも複数の館があった。1921年(大正10年)8月に開館した磐田キネマ、のちの見付劇場は、木造2階建てで500席以上の規模をもったとされ、見付を代表する映画館の一つであった。1958年(昭和33年)頃まで営業したとみられる。1951年(昭和26年)1月には商店街のなかに新興劇場(磐田新興劇場)が開き、小規模ながら商店街の日常に近い映画館として1962年(昭和37年)頃まで続いた。天王町の金剛寺西隣にあった朝日座(見付映画劇場)は、畳敷きの芝居小屋を前身とし、大正後期から1966年(昭和41年)頃まで営業した。戦時中にはニュース映画も上映したと伝わる。
見付の館を並べて気づくのは、蓮光寺跡や金剛寺西隣といった寺院にまつわる土地に劇場が立地している点である。宿場町の町割のなかで、寺社の周辺は人の往来が集まる結節点であり、そこに娯楽の場が置かれるのは自然な選択であった。いずれの館も、大都市の大劇場ではなく、日々の生活圏のなかにあって歩いて行ける距離で映画や芝居に触れられる場所だった。見付の映画館史は、宗教空間・宿場の町割・大衆娯楽が一つの土地の上で層を成した過程として読むことができる。なお、磐田を舞台とした映画については別稿「映像に残る磐田」で扱った。
見付の館の規模は一様ではなかった。500席以上をもったとされる見付劇場のような比較的大きな館から、商店街の一角の小規模な新興劇場まで幅があり、この規模の差は、それぞれの館が想定した客層と商圏の広さを反映している。大きな館が周辺の町からも人を集める興行の場であったとすれば、小さな館は商店街の日常に溶け込んだ身近な娯楽の場であった。同じ見付のなかにも、商圏の異なる複数の映画館が併存していたのであり、そのことは、宿場町見付が単一の中心ではなく、大小の求心力が入れ子になった町であったことを示している。
4. 中泉 ── 鉄道が決めた駅前の映画文化
見付が街道の町割に沿って劇場を配したのに対し、中泉では鉄道が立地を決めた。1889年(明治22年)に東海道本線が開通し中泉駅が開かれると、人と物の流れは駅前へ集まる。商店・飲食店・旅館・金融機関が並ぶ場所に、映画館も置かれた。近世以来の見付の求心力に対し、近代の中泉は鉄道という新しい装置によって町の重心を引き寄せた。映画館の分布は、この重心の移動を敏感に映している。
その古い層にあるのが、1889年(明治22年)に秋鹿邸跡の一部に建てられた照日座である。のちに中泉座となり、1944年(昭和19年)に解体された。終戦直後の1946年(昭和21年)12月、その跡地にスバル劇場が開く。歌舞伎や軽演劇の舞台から映画上映へと移り、のちに磐田日活として知られた。戦前の芝居小屋の跡地に戦後の映画館が建つという継承は、見付の蓮光寺跡と同じく、娯楽の土地が用途を変えつつ受け継がれた例である。
中泉の映画館で特に記録が濃いのは、中活劇場、のちの磐田中活である。資料では大正期に開かれ、1927年(昭和2年)の調査では活動弁士4名、洋楽手4名、売店員1名を抱え、年間入場者数は5万9,196人に達したという2。無声映画の時代、映画はただ黙って映るものではなかった。弁士が語り、楽団が音を添え、観客はその場の空気ごと作品を受け取っていた。この人員構成と入場者数は、当時の映画館が高度に人手を要する総合的な興行空間であったことを具体的に示す、数少ない同時代の数値記録である。中活は中泉507付近、大乗院の西側にあり、1983年(昭和58年)頃まで、磐田の映画館としては最後期まで営業を続けた。
駅前一帯には、ほかにも劇場が集まっていた。現在のジュビロード周辺にあたる中泉402-1には、1941年(昭和16年)1月に開館した磐田東映(松竹劇場)があり、1970年(昭和45年)頃まで営業した。ここではNHKの公開ラジオ番組の収録やオペラの実演が行われた記録もあり、映画館が映像の箱である前に駅前の文化会場であったことを物語る。善導寺北側の花月劇場は畳敷きの劇場で、戦後から昭和30年代後半まで続いたが、駅前の区画整理によって姿を消した。栄町付近の巴座(中泉映画劇場)は、1926年(大正15年)3月に開き、芝居小屋を前身として戦後は映画劇場となり、1963年(昭和38年)頃まで営業した。
中泉の映画館史を通覧すると、鉄道駅前という近代的な求心力のもとに、芝居・映画・放送・実演といった多様な催しが集中していたことがわかる。館は単に作品を上映するだけでなく、地域の文化的な催事を受け止める場でもあった。そして、その多くが駅前区画整理という近代化の第二波によって姿を消した点は見逃せない。鉄道が呼び込んだ集積が、道路と区画の再編によって解体されていく──中泉の映画館は、近代化が同じ場所を二度作り替えた過程の証人である。
5. 周辺の町場と車社会 ── 掛塚・福田・豊浜・三ヶ野
映画館は見付と中泉だけのものではなかった。天竜川の水運で栄えた掛塚には、帝国館、のちの掛塚劇場があった。福田町の中川通りには福田座、のちの福田劇場があり、その周辺には菓子店・飲食店・銭湯・遊技場が並んでいた。豊浜座には、周辺の農漁村から自転車で観客が集まったと伝わる。これらの館は大規模ではないが、それぞれの町の暮らしにごく近い場所にあり、地域の娯楽の核として機能していた。
この周辺部の劇場を読むと、かつての娯楽圏が今よりはるかに細かく分かれていたことがわかる。中泉や浜松まで出なくても、地元の町場で映画を観ることができた。劇場は、地域ごとに暮らしの中心を支える小さな核であり、その分布は、まだ人の移動が徒歩や自転車の圏内で完結していた時代の生活圏を映している。福田座の周辺に菓子店や銭湯や遊技場が集まっていたことは、映画館が単独で存在したのではなく、日々の消費と娯楽の複合体の一部であったことを示す。豊浜座に自転車で人が集まったという伝えは、娯楽圏の半径がおおよそ自転車の到達範囲であったことを具体的に物語る。
この周辺町場の館の立地は、それぞれの町の成り立ちとも重なる。掛塚は天竜川の河口に開けた廻船の町であり、水運がもたらした富が芝居や興行を支える下地となった。福田や豊浜は遠州灘に面した農漁の町で、農閑期や漁の合間の楽しみとして映画が受け入れられた。娯楽施設は、その町がどのような生業で栄えたかという経済的な基盤の上に成り立つ。周辺町場の映画館を読むことは、水運・農業・漁業といった在郷の産業史を、余暇の側面からたどり直すことでもある。館の大小や続いた年数の差の背後には、それぞれの町の経済力の差が横たわっていた。
その徒歩・自転車の娯楽圏に、車社会の予兆が差し込む。1969年(昭和44年)12月、三ヶ野地区に日活ドライブインシアターが開かれた。車に乗ったまま屋外スクリーンを見る形式で、150台を収容したという3。これは、町の中心へ歩いて行く映画館とはまったく異なる発想であった。観客は町場に集うのではなく、自動車という個室に乗ったまま、郊外の空き地に集まる。しかし屋外上映につきまとう天候や季節の制約、そしてすでに始まっていたテレビの普及もあって、1973年(昭和48年)6月には閉鎖された。わずか4年に満たない営業であった。
この短命なドライブインシアターは、しかし象徴的な位置を占める。それは、町場の徒歩圏に根ざした街なか映画館の時代と、高速道路と大駐車場を前提とする郊外型シネコンの時代とのあいだに置かれた、車社会への過渡的な実験だったからである。歩いて行く娯楽から車で行く娯楽への転換は、のちに述べる郊外型シネコンにおいて完成するが、その最初の兆しは、すでに1970年前後の三ヶ野の空の下にあらわれていた。娯楽施設の立地は、人の移動手段の変化を先取りして動く。
6. 比較と分析 ── 立地・前身・盛衰の型
ここまで地区ごとに追ってきた館を、立地・前身・時期・特色という同じ粒度で並べ直すと、いくつかの型が浮かび上がる。以下の比較表は、各館を対等に配列し、個別の逸話に埋もれがちな構造を可視化することを目的とする。特定の館を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が立地と盛衰の関係を自分で読み取れる状態をつくることを心がけた。
| 館名 | 地区 | 前身・成立 | 時期(開館〜閉館) | 立地と特色 |
|---|---|---|---|---|
| 栄座・磐田座・磐田劇場 | 見付・西坂町 | 芝居小屋(蓮光寺跡地) | 1881年以前〜1951年 | 廻り舞台・花道・奈落を備え、天井に商店広告。跡地は西坂会館。 |
| 磐田キネマ・見付劇場 | 見付・中心部 | 映画館として開館 | 1921年8月〜1958年頃 | 木造2階建て、500席以上とされる見付の代表館。 |
| 朝日座・見付映画劇場 | 見付・天王町 | 畳敷き芝居小屋(金剛寺西隣) | 大正後期〜1966年頃 | 戦時中はニュース映画も上映。寺院に隣接。 |
| 照日座・中泉座 | 中泉・秋鹿邸跡 | 芝居小屋 | 1889年〜1944年 | 駅開設期に生まれ、跡地はスバル劇場へ継承。 |
| スバル劇場・磐田日活 | 中泉座跡地 | 舞台興行から映画へ | 1946年12月〜1972年頃 | 戦後復興期の舞台と映画を支えた大規模館。 |
| 中活劇場・磐田中活 | 中泉507付近 | 大正期の映画館 | 1919/1921年〜1983年頃 | 弁士・洋楽手の記録が残り、市内最後期まで営業。 |
| 磐田東映・松竹劇場 | 中泉402-1 | 映画館として開館 | 1941年1月〜1970年頃 | 駅前一等地。公開ラジオ収録・実演にも使用。 |
| 福田座・福田劇場 | 福田・中川通り | 町場の劇場 | 不詳〜昭和期 | 周辺に菓子店・銭湯・遊技場。生活圏の娯楽核。 |
| 日活ドライブインシアター | 三ヶ野 | 屋外上映施設 | 1969年12月〜1973年6月 | 150台収容。車社会への過渡的実験。 |
この配列から、少なくとも五つの立地型が読み取れる。第一に、芝居小屋を前身とする型である。栄座・照日座・朝日座・巴座はいずれも近世以来の芝居小屋に起源をもち、活動写真の普及とともに映画館へ転じた。第二に、鉄道駅前への集積型で、これは中泉に典型的にあらわれる。第三に、寺院跡地の転用型であり、蓮光寺跡の磐田座、金剛寺西隣の朝日座がこれにあたる。第四に、周辺町場の小さな娯楽核としての型で、掛塚・福田・豊浜の館がこれを代表する。そして第五が、車社会を先取りしたドライブインシアターである。これらは互いに排他的ではなく、たとえば芝居小屋前身の館が駅前集積の一員でもあるように、しばしば重なり合う。
盛衰の時間軸に目を移すと、もう一つの型が見えてくる。多くの館は昭和20年代から30年代に最盛期を迎え、昭和30年代後半から40年代にかけて相次いで閉じた。見付劇場は1958年頃、巴座は1963年頃、朝日座は1966年頃、磐田東映は1970年頃、スバル劇場は1972年頃に姿を消している。この閉館の集中は、後述するテレビ普及と区画整理の時期におおむね一致する。例外的に中活劇場が1983年頃まで残ったことは、逆に、街なか映画館の時代がいつ終わったのかを画する指標となる。
ただし、この比較表の数値は史料批判の対象でもある。開館年の「1919/1921」の併記が示すように、年代には資料間の揺れが残り、座席数の「500席以上」も一次資料で厳密に確かめられたわけではない。福田座・豊浜座・掛塚劇場のように、開館年を「不詳」とせざるをえない館もある。したがって表1は、確定した年表ではなく、現時点で整理しうる暫定的な見取り図として読まれるべきものである。それでも、立地の型と閉館時期の集中という二つの構造は、個々の年代の揺れを越えて安定して観察される。構造の頑健さこそが、本稿の主張の支えである。
立地の五類型と閉館時期の集中という二つの構造が、年代の揺れを越えて安定して観察される理由は、それらが個々の館の事情ではなく、町全体を動かす力に由来するからである。芝居小屋が映画館へ転じたのは活動写真という技術の普及、駅前への集積は鉄道という装置、閉館の集中はテレビと区画整理という社会変化――いずれも一館の経営判断を超えた広域の要因である。だからこそ、ある館の開館年が一年ずれても、型そのものは崩れない。個別の逸話を確かめる作業と、構造を読み取る作業とは、依拠する確度の水準が異なる。表1は前者のために暫定的な材料を並べたものであり、本稿の主張は後者の水準、すなわち型の観察に置かれている。
7. 映画館が消えた理由と郊外型シネコンの再来
磐田の映画館が次々に消えた背景には、二つの流れが重なっていた。ひとつはテレビの普及である。1953年(昭和28年)に本放送が始まり、1959年(昭和34年)の皇太子御成婚パレードの中継を機に、家庭のなかで映像を見る時代が一気に進んだ4。映画館へ出かけ、木戸銭を払って暗い客席に座るという行動は、少しずつ日常の中心から外れていった。娯楽が家の外の集会から家の内の視聴へと移ったこの変化は、映画館という共同体的空間の存立基盤そのものを掘り崩すものであった。
もうひとつは、戦後の区画整理と道路整備である。駅前や旧街道沿いの古い建物は、近代的な道路・商店街・駐車場・公園へと置き換えられていった。花月劇場が駅前区画整理によって閉じたように、映画館の衰退は、建物単体の経営問題であると同時に、まちの形そのものが作り替えられた結果でもあった。テレビが需要の側から映画館を細らせたとすれば、区画整理は供給の側から、館が立っていた土地そのものを消していったといえる。この二つの力が同じ昭和30〜40年代に重なったことが、閉館の集中を生んだ。
背景には、映画産業全体の斜陽もあった。全国的に見ても、映画の観客動員は昭和30年代半ばにひとつの頂点を迎え、その後は長い減少に転じたと考えられている。磐田の館の盛衰は、この全国的な潮流のなかに置いて理解すべきものである。ただし、都市の大劇場と地方の小さな町場の館とでは、閉館へ向かう事情の重みは同じではない。地方の館にとっては、全国的な需要減に加えて、車社会の進展による生活圏の広域化が、徒歩圏の娯楽核という存立条件を直接に奪った。人が浜松や磐田駅前の大型店へ車で出かけるようになれば、町場の小さな館は役割を失う。
娯楽の選択肢が増えたことも、映画館から人を遠ざけた。戦後の暮らしが変わるにつれ、テレビだけでなく、ボウリングやドライブ、家庭電化製品を用いた家での過ごし方など、余暇のかたちは多様化した。かつて映画館は、家の外で味わえる数少ない娯楽の一つであったがゆえに人を集めた。その希少性が失われれば、決まった時刻に木戸銭を払って館へ足を運ぶ理由は薄れる。映画館の衰退は、映画そのものの魅力の問題である以上に、娯楽の生態系のなかで映画館が占める位置が相対的に小さくなった結果であった。すでに本シリーズで論じたボウリング場の隆盛が、まさにこの余暇多様化の一局面であったことも、あわせて想起される。
中活劇場が1983年(昭和58年)頃に閉じてから、磐田市には映画館の空白期が続いた。市内で映画を観る場所そのものが消えたこの期間は、街なか映画館の時代が完全に終わったことを意味する。再び市内に映画館が戻るのは、2009年(平成21年)7月、ららぽーと磐田にTOHOシネマズが開館してからである5。しかしそれは、見付の本通りや中泉の駅前にあった映画館とは性格を大きく異にする。高速道路と広大な駐車場を前提とし、大型商業施設の一区画として設けられた、郊外型のシネマコンプレックスである。
この再来は、単なる映画館の復活ではなく、娯楽の立地が街なかから郊外へ移ったことの完成形である。かつて映画館は、宿場の本通りや鉄道駅前という町の重心に置かれ、歩いて集まる場所であった。いまや映画館は、車でしか到達しにくい郊外の商業集積のなかにあり、買い物や食事とひとつづきの余暇として消費される。三ヶ野のドライブインシアターが1970年前後に垣間見せた「車で集まる娯楽」は、40年を経て、郊外型シネコンというかたちで町の標準となった。映画館の立地は、この半世紀の町の重心移動を、そのまま記録している。
8. 結論 ── 消えた娯楽施設が語る町の変化
本稿は、磐田市域の旧映画館を、娯楽施設の消長としてだけでなく、町の重心がどこにあり人がどこへ集まっていたかを読む史料として検討した。得られた見取り図は次のとおりである。映画館の立地は、近世の宿場町見付の町割、鉄道が開いた中泉駅前、周辺町場の小さな娯楽核、車社会を先取りした三ヶ野のドライブインシアター、そして郊外型シネコンという順に移り変わり、その各段階が、人の移動手段と町の中心の変化に対応していた。見付から中泉へ、そして郊外のららぽーとへという重心の移動は、映画館という一群の建物の分布に、くっきりと刻まれている。
この視座は、本シリーズですでに扱った消えた娯楽施設と地続きである。閉鎖したボウリング場も閉鎖した市民プールも、高度成長期から昭和後期に隆盛し、生活様式と町の形の変化のなかで街なかから退いていった点で、旧映画館と共通の型を示す。娯楽施設は、その時代の余暇のかたちと、人が集う場所の所在とを同時に記録する。それらが消えたあとに残る跡地は、なにも語らないように見えて、いつどこに人の熱が集まっていたかという情報を、立地というかたちで保存している。消えた娯楽施設を並べて読むことは、戦後磐田の暮らしの変化を、一つの筋として描き直す作業にほかならない。
旧映画館の跡地には、いま住宅・公園・会館・コンビニエンスストア・バスの車庫などがある。そこを歩いても、かつての客席や映写室は見えない。けれども、地名・町内・寺院・商店街・駅前の道筋を重ねて読むと、人が集まっていた場所の輪郭が浮かび上がる。天井に商店の広告が描かれた芝居小屋、弁士が語り楽団が音を添えた無声映画の館、公開放送が行われた駅前の劇場、車に乗ったまま見上げた屋外スクリーン──それぞれの時代の娯楽の姿が、立地の記録を通して像を結ぶ。映画館は、娯楽の施設であると同時に、町の熱が集まる場所であった。
こうした立地の記憶は、放っておけば失われていく。館を実際に知る世代は年々減り、跡地の現況も再開発のたびに塗り替えられる。住宅地図や広告といった同時代資料も、意識して集めなければ散逸する。旧映画館の分布を記録に残すことは、いつどこに人の熱が集まっていたかという、跡地からは読み取りにくい情報を、いまのうちに書き留めておく作業である。建物が消えたあとに残るのは土地とその記憶であり、それを次の調べものに耐える形で伝えることに、地域史を書く意味の一つがある。本稿が館名の一覧や年代の詮索にとどまらず、立地と盛衰の型を析出しようとしたのも、断片的な記憶を後世が扱える構造へと編み直しておくためであった。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、個々の館の開館・閉館年や座席数には資料間の揺れが残り、住宅地図・新聞広告・興行記録・電話帳といった同時代資料の博捜によって、未確認の事項を史実へと押し上げていく余地がある。第二に、掛塚・福田・豊浜など周辺町場の館については記録が特に乏しく、聞き取りを含む調査の蓄積が求められる。第三に、消えた娯楽施設という視座は、映画館・ボウリング場・プールにとどまらず、寄席・遊技場・貸本屋などにも広げうる。これらの施設の立地と盛衰を横断的に重ね合わせることで、戦後磐田の余暇と町の変化の全体像が、より精密に描けるはずである。その作業は、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 館名・所在地・開館閉館時期には資料間で揺れが残る。本稿は素材記事 c090 およびその典拠である調査報告に基づき、断定できない事項は「頃」「とみられる」「伝わる」として扱った。↩
- 中活劇場の1927年(昭和2年)調査における活動弁士4名・洋楽手4名・売店員1名、年間入場者数5万9,196人という数値は、素材記事 c090 が引く調査報告による。無声映画期の興行実態を示す同時代の数値記録として扱う。↩
- 三ヶ野の日活ドライブインシアターは1969年(昭和44年)12月開館、150台収容、1973年(昭和48年)6月閉鎖と伝わる。屋外上映の制約とテレビ普及が短命の背景とされる。↩
- テレビ本放送の開始は1953年(昭和28年)、1959年(昭和34年)の皇太子御成婚パレード中継が受像機普及の画期とされる。全国的な事象であり、映画館衰退の需要側の背景として位置づける。↩
- ららぽーと磐田のTOHOシネマズは2009年(平成21年)7月開館。中活劇場閉館(1983年頃)以来続いた市内映画館の空白期を、郊外型シネコンというかたちで埋めた。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 c090「磐田市の旧映画館を歩く」の内容を、郷土史研究者向けに立地と盛衰の型として再構成した論考版である。館ごとの年代・規模には資料間の揺れがあるため、確認できる事項と伝えられる事項とを区別し、「未確認」と「記載なし」を混同しない姿勢をとった。
参考文献・参考資料
- 磐田物語 c090「磐田市の旧映画館を歩く ── 見付・中泉から郊外型シネコンまで」 https://iwata-monogatari.net/c090 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 提供資料「磐田市における映画館の歴史的変遷と地域社会の変容に関する調査報告書」。
- 「消えた映画館の記憶」磐田市・静岡県の映画館に関する記録。
- 秋鹿邸/中泉公園に関する地域資料。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 磐田市施設ガイド「見付交流センター」「中泉グリーンパーク」ほか。
- 東海道本線 中泉駅(現・磐田駅)開業に関する鉄道資料。
- 日本映画製作者連盟「日本映画産業統計」 https://www.eiren.org/toukei/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- TOHOシネマズ ららぽーと磐田 施設紹介および関連公開情報 https://www.tohotheater.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 c027「映像に残る磐田 ── 映画『お別れの歌』と磐田の風景」 https://iwata-monogatari.net/c027 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第110号「磐田の閉鎖したボウリング場」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/110/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第102号「磐田市の閉鎖プールを読む」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/102/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 佐口行正氏所蔵 地域史料(映画館関係の広告・写真等)。