失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 森下・森本・立野 ──「森」と「立野」の地名を歩く

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第126号(旧豊田町地名研究)

森下・森本・立野 ──「森」と「立野」の地名を歩く

台地と平地の境が生んだ地名

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市豊田(旧豊田町)

要旨

旧豊田町の北寄り、台地の縁には、川や新田にちなむ水の地名とは異なり、森下・森本・立野といった森と野の名が残る。本稿は、この三つの地名を手がかりに、磐田原台地と太田川低地が接する境界の土地利用を、地名の型から読み解く。森は樹林であると同時に、鎮守の杜・寺の境内林・屋敷林・墓地や塚の周辺といった、信仰と境界と記憶の場を含みうる語である。立野は開けた野を指すとも、入会利用を禁じた原野を指すとも解しうる。本稿はいずれの由来も断定せず、地名の型が示す可能性と、一次史料による裏づけを要する部分とを腑分けし、「地名の型が示唆すること」と「その土地で実際に確かめられること」を区別する立場をとる。あわせて枇杷首・寺跡の地名にも触れ、礫を多く含む台地とシルトの低地という土質の違いが、水田の地名と森・野の地名を分けた過程を跡づける。地名の由来はいずれも一点に確定せず、諸説を対等に併記して確度の層とともに記述する。素材とした一般向け記事を、確度の層を明示して再構成した論考版である。

キーワード:旧豊田町/森下・森本/立野/磐田原台地/太田川低地/入会地/地名の確度層

1. 問題設定 ── なぜ森と野の名に注目するのか

旧豊田町の北寄り、台地の縁を歩くと、川沿いの低地とは手触りの違う地名に出会う。森下、森本、立野。堤や新田や島といった、水と開発にちなむ名ではなく、森と野の名である。天竜川左岸の平地には、水を引き、田を開き、土を盛ってきた営みを刻む地名が数多く残るが、それらとは別の語彙が、台地の裾のあたりに固まって伝わっている。本稿の出発点は、この語彙の違いそのものを研究対象とみなす点にある。

地名は、その土地がどう使われてきたかを、しばしば土地台帳よりも古い層で伝える。田に開かれる前の原野、社寺の周辺、屋敷地の一角、村と村の境。そうした暮らしの痕跡が、水の地名とは異なる語となって残ることがある。森下・森本・立野の三つは、いずれも磐田原台地の縁と太田川の低地が出会うあたりに位置しており、川の名でも新田の名でもない森と野の名がここに残ったことには、地形上の理由があると考えるのが自然である。

ただし、地名から土地の由来を読む作業には、独特の落とし穴がある。「森」とあれば鎮守の杜を、「野」とあれば入会の原野を、「寺」とあれば実在した寺院を、つい思い描いてしまう。だが同じ「森」でも、社寺とは関わりのない屋敷林や自然の林に由来することがあり、「寺」を含む地名が必ずしも現実の寺院を指すとはかぎらない。地名の型が示す可能性と、その土地で実際に確かめられる事実とは、別の水準の事柄である。本稿は、この二つを混同しないことを一貫した作法とする。

そこで本稿は、確度の層をあらかじめ区別しておく。第一に、史料や資料で確認できる史実。第二に、学界や地誌で広く受け入れられているが一点では確定しがたい通説。第三に、根拠はあるが未確定の推定。第四に、地域で語り継がれてきた伝承である。加えて、「管見の限り一次史料に突き当たっていない」という未確認の状態と、「史料に記載がない」という記載なしとを区別する。森下・森本・立野の由来の多くは、現時点では未確認の領域にとどまる。それを承知のうえで、地名の型が何を示しうるかを丁寧に腑分けするのが、本稿の課題である。

本稿が依拠する主な資料は、豊田町郷土を研究する会と豊田町教育委員会が1992年に刊行した『ふるさと 豊田町地名地図』1、および旧豊田町の地名を扱った磐田物語の一連の記述である。これらは小字や土地利用の伝えを丹念に集めた貴重な資料だが、地名の由来を一つに確定するための一次史料ではない。以下では、まず旧豊田町という土地の成り立ちと地形を押さえ、続いて森・立野・枇杷首の各地名を検討し、地形と土地利用の対応を跡づけたうえで、地名を確度の層で残す方法へと議論を進める。

磐田原台地(礫質) 原・野・林が残りやすい 太田川低地(シルト・粘土) 早く水田に開かれる 森下・森本 立野 台地と低地の境 森・野の地名が残る台地の裾
図1 森下・森本・立野の位置関係の模式図。三つの地名は、礫を多く含む台地面と、川がもたらしたシルト・粘土の低地とが接する境界のあたりに位置する。図は概念を示すもので、実際の距離や方位を正確に表すものではない。

2. 旧豊田町の成り立ちと地形

森・野の地名を読む前に、その舞台である旧豊田町の輪郭を確認しておく。旧豊田町は、現在の磐田市の北東部にあたる。近代の村々を経て、1955年に富岡村と井通村が合併して豊田村となり、1973年に町制を施いて豊田町となった。さらに2005年、磐田市・竜洋町・福田町・豊岡村とともに新しい磐田市へと合併し、自治体としての豊田町は姿を消した2。面積はおよそ20平方キロメートルほどの小さな町であったが、その内部の地形は決して一様ではない。

町の骨格は、二つの地形からなる。南には太田川の低地が広がり、北から西にかけては磐田原台地の縁がせり上がる。磐田原台地は、天竜川と太田川の流れを分ける分水界にあたる高まりで、北側では段丘面の高度が130メートルほどに達し、南へ向かうにつれて次第に低くなり、やがて10メートルに満たない低地へとなだらかにつながっていく3。台地は礫を多く含む地層から成り、低地の側は川が運んだシルトや粘土の土でできている。土の質も、水の得やすさも、台地と低地とではまるで違っていた。

この地形の二重性は、旧豊田町の地名の全体像を理解するうえで欠かせない。天竜川左岸の低地に残る「島」のつく地名を扱った既刊の論考でも述べたように、川沿いの微高地には水と切り離せない暮らしの記憶が刻まれている4。それに対し、台地の縁には、水よりも森や野に関わる地名が残りやすい。旧豊田町の地名を通観した先の考察で示した見取り図に照らせば、森下・森本・立野は、低地の水の地名群と台地の森・野の地名群とがちょうど接する帯の上に並んでいることになる。

森下・森本・立野が、この台地と低地の境目あたりに位置していることは、おそらく偶然ではない。境界の土地には、両方の暮らしの記憶が折り重なって残る。低地寄りでは田をめぐる営みが、台地寄りでは森や野をめぐる営みが、それぞれ地名の素材となる。三つの地名を「境界の地名」として読むという本稿の枠組みは、この地形の観察から導かれたものである。地形を押さえたうえで地名に向かうと、語の型が示す可能性を、根拠のない連想と切り分けやすくなる。

なお、旧豊田町という区画そのものは、1955年以降の行政上の産物にすぎず、森下・森本・立野の地名はそれよりはるかに古い層に根ざしている。合併によって村の名が消え、町の名が生まれ、やがてその町の名も磐田市へと吸収されていくなかで、小字の地名は行政区画の変転を越えて土地に残り続けた。地名を読むとは、こうした行政の枠組みの下に沈んだ、より古い土地の記憶の層を掘り起こす作業でもある。だからこそ、いま用いられる住居表示や大字ではなく、小字のかたちで伝わる森下・森本・立野の名に、あえて目を向ける意味がある。

1955富岡村+井通村→ 豊田村 1973町制施行→ 豊田町 20054市町村と合併→ 新・磐田市 旧豊田町の沿革
図2 旧豊田町の沿革年表。1955年の富岡村・井通村の合併に始まり、1973年の町制施行を経て、2005年に磐田市へ合併するまでの流れを示す。森下・森本・立野の地名は、この行政区画の変遷を越えて土地に残ってきた。

3. 「森」の地名 ── 森下・森本を読む

森下・森本という地名は、どちらも「森」を中心とした位置関係を示しているように読める。森の下、森の本。つまり、かつて人びとが共有していた目印としての森があり、その周囲に土地の名が付けられた、という筋立てを想定させる。森下は森の下手を、森本は森の根元や中心側を思わせる名であり、二つが近くに並んで残っていること自体が、一つの森を軸として周囲の土地が呼び分けられていった名残ではないか、と考えさせる。

ここで注意しておきたいのは、「森」が単なる樹木の集まりを指すとはかぎらない、という点である。地域社会において、森はしばしば信仰・境界・記憶の場であった。神社の鎮守の杜、寺の境内林、屋敷の周りの屋敷林、古い墓地や塚の周辺。これらはいずれも、木立というより、そこに人の営みや畏れが結びついた場所である。森下・森本の名も、そうした意味を帯びた古い目印の存在を考えさせる。とりわけ平坦な低地や、見渡すかぎりの台地面では、ひとかたまりの森は遠くからもよく見えた。そのような森は、田の境を示す目印になり、村と村のあいだの境の役割を担い、ときには天候や方角を読むための基準点にもなったと考えられる。地名としての「森」は、こうした共有された目印が、いつしか土地そのものの呼び名へと移っていった痕跡だと読むことができる。

もっとも、その森が具体的にどの社寺や林を指したのかは、現在の地形からは断定しにくい。鎮守の杜であった可能性もあれば、有力な家の屋敷林であった可能性もあり、あるいは信仰とは無関係の自然の林であったかもしれない。もし一本の森が鎮守の杜であったなら、その近くには参道や石塔、講の集まる堂があったかもしれないが、それを裏づける具体的な材料は、現時点ではそろっていない。ここで述べられるのは、あくまで「森」という語の型が示唆する可能性の幅であって、森下・森本の森がそのいずれであったかを確定することではない。この点は、地元の土地台帳や社寺の記録によって、なお確かめられるべき未確認の領域にとどまる。

森下と森本が近接して残っている点も、この読みを補強する。仮に二つの名がまったく無関係であれば、似た語を冠する地名が隣り合う必然はない。森の下手を森下、森の根元側を森本と呼び分けたと考えれば、二つの名が対をなして残った理由が無理なく説明できる。もっとも、この対応関係もまた、現時点では地名の型から導かれる推定にとどまり、両者が同一の森を指したことを直接に裏づける史料は確認できていない。地名の配置が語る蓋然性と、史料が保証する事実とを、ここでも切り分けておく必要がある。

それでも、森の名が土地に残ったという事実そのものには意味がある。近代の耕地整理や宅地化を経て、目印であった森の多くはすでに失われた。にもかかわらず地名が残ったということは、その森が、単なる景物ではなく、共同体にとって長く参照され続けた基準点であったことを物語る。建物や木立が早くに失われても、土地の名と、わずかな高まりや残った木立が、その場所の由緒を静かに語り続けることがある。森下・森本は、まさにそうした「失われた目印の記憶」を保存した地名として読むことができる。

共有の目印 樹林そのもの自然林・雑木林 鎮守の杜神社・寺の境内林 屋敷林有力な家の周り 墓地・塚の周辺古い信仰の場 「森」という語が含みうる意味の幅
図3 「森」の意味の広がり。地名の「森」は、自然の樹林だけでなく、鎮守の杜・屋敷林・墓地や塚の周辺といった、信仰や境界と結びついた場を指しうる。森下・森本の森がそのいずれであったかは、現時点では確定できない。

4. 「立野」の地名 ── 野をめぐる諸説

立野は、森下・森本とは別の系統に属する、野の地名である。低地の水田地名とは違う土地感覚をもつ名であり、その由来については複数の読みが並び立つ。ここでは代表的な三つの読みを、いずれも断定せずに併記し、それぞれの根拠と弱点を対等に検討する。

読み①・地形と土地利用

「開けた野」を指すとする読み

読みの骨子。立野を、野が立つ、あるいは開けた野を示す地名として読む見方である。台地の縁や微高地にある野は、低地の田とは違う使われ方をした。草を刈り、薪を取り、畑に充て、ときに家畜を放し、道の余白として用いる。野は、村の暮らしを支える半ば共有的な空間であった可能性がある。

根拠と弱点。この読みは、立野が台地の縁という、田にしにくい土地に位置するという地形的事実と整合する。台地の礫質の土は水を引きにくく、水田より原野や畑に向いていたから、「野」の名が残るのは無理がない。一方で、「立」の一字が具体的に何を意味するかは、この読みだけでは説明しきれない。開けた野であることと、なぜ「立」を冠するのかとのあいだには、なお説明の飛躍が残る。

読み②・制度史

「入会を禁じた原野」を指すとする読み

読みの骨子。一般に「立野」という語には、農民の自由な入会利用を禁じた原野を指す用法があると説明される5。すなわち、採草地や狩猟地、あるいは造林に適した土地として、領主の直轄に置かれた野である。各地の立野の地名には、そうした共有地・管理地としての野の記憶を背景にもつものが少なくないという。

根拠と弱点。この読みは、辞書的な語義に裏づけられており、他地域の立野の事例とも呼応する点で、説明力の幅が広い。ただし、旧豊田町の立野がこの意味に直接つながるかどうかは、地元の土地台帳や古文書による裏づけを要し、ここで断定することはできない。語としての一般的な意味と、この土地の立野の実態とを、性急に等号で結ぶことは避けねばならない。辞書的語義は仮説の出発点にはなるが、それ自体はこの土地の史実を保証しない。

このほか、「立」を地形の高まりや境界、目立つ場所を示す語とみる読みもありうる。台地の縁という、周囲から一段高く目立つ場所に付いた名として立野を捉える見方である。いずれの読みをとるにせよ、立野の名が具体的に何を指すかは慎重な確認が必要だが、少なくともこの名が、低地の水田地名とは異なる土地の論理のうえに立っていることは確かである。台地の縁に「野」の名が残るという事実そのものが、低地の水田とは別の使われ方をした土地が確かにあったことを示している。草を刈り、薪を取り、ときに畑や放牧に充てる、そうした半ば共有的な野の存在は、近世の村々にとって珍しいものではなかった。

本稿の立場:三つの読みはいずれも決め手を欠き、現時点で一つに確定することはできない。本稿は、立野を「台地の縁に残る、低地の水田とは別の論理で使われた野の地名」として位置づけ、その具体的な意味の確定は、地元の土地台帳・古文書による裏づけを待つ未確認の課題として残す立場をとる。
「立野」の三つの読み ── いずれも未確定 開けた野 草刈り・薪取り 畑・放牧の空間 △「立」の説明が残る 入会を禁じた原野 採草・狩猟・造林 領主の直轄地 △当地への適用は要確認 高まり・境界 目立つ場所を示す 台地の縁の地形 △傍証にとどまる
図4 「立野」の三つの読みの腑分け。開けた野とする読み、入会を禁じた原野とする読み、地形の高まりや境界とする読みを並置した。いずれも決め手を欠き、当地への適用には土地台帳・古文書による裏づけを要する。

5. 枇杷首・寺跡 ── 地名の型と慎重さ

森・立野のほかにも、この一帯には型として興味深い地名が伝わる。その一つが枇杷首である。枇杷首のように身体部位を含むような地名は、地形のくびれや端を示す場合がある。首は、細く狭まった部分をたとえる語として、各地の地名に用いられてきた。台地から低地へ移り変わる縁には、尾根が細く落ち込む箇所や、谷が入り込んでくびれをつくる箇所があり、そうした地形が「首」の名を呼び寄せたと考えることもできる。ただし、枇杷首の由来がまさにそうであったかどうかは、なお要確認である。身体部位を含む地名が必ず地形のくびれを指すとはかぎらず、別の由来をもつ場合もあるからである。

もう一つ、地名と信仰の結びつきを考えさせるのが、寺跡に関わる地名である。旧豊田町の地名資料には、寺跡や堂に関わる摘要が見える地域がある。寺がなくなっても、寺前、寺屋敷、堂といった名は残る。建物は失われても、地名はその場所がかつて特別な意味をもっていたことを伝える。森下・森本・立野を歩くときも、神社や寺、墓地、古い道の位置をあわせて見ると、地名が地形だけでなく信仰の記憶とも結びついていることが見えてくる。

とはいえ、地名から信仰や寺跡を読むときには、いっそうの慎重さが要る。同じ「森」でも、社寺とは関係のない屋敷林や自然林に由来することがあり、「寺」を含む地名が必ずしも実在した寺院を指すとはかぎらない。地名は、後世の人びとの連想や、字面の類似によって、本来の由来から離れた説明を与えられることもある。森下・森本・立野についても、現時点で具体的な寺社の所在を断定できる材料はそろっていない。ここで述べられるのは、あくまで地名の型が示唆する可能性であって、確かめるべきことはこれからである。台地に開けた「原」と「丘」の地名を扱った論考でも指摘したとおり、台地上の地名は、地形と土地利用と信仰の三つが重なり合う場に生まれるため、一つの要因だけで由来を説明しようとすると、かえって実像を見誤りやすい。

この慎重さは、地名研究の禁欲的な作法として、本稿の全体を貫くものである。枇杷首を地形のくびれと断ずることも、寺跡の地名から実在の寺院を復元することも、それを裏づける資料がそろわないかぎり、可能性の提示にとどめる。地名は魅力的な手がかりであるが、手がかりは証拠ではない。手がかりの豊かさに引きずられて結論を先取りしないことが、地名から土地の歴史を読むうえでの要諦である。

6. 台地と低地の境 ── 地形が分けた土地利用

ここまで見てきた森・野・首の地名は、いずれも台地と低地が出会う場所に集まっている。この節では、その地形的背景を整理し、なぜ水の地名と森・野の地名が地域内で棲み分けたのかを跡づける。旧豊田町を地形の側から見ると、その骨格は、南の太田川低地と、北西にせり上がる磐田原台地の二つでできている。前述のとおり、台地は礫を多く含む地層から成り、低地は川がもたらしたシルトや粘土の土でできている。土の質も、水の得やすさも、台地と低地とではまるで違っていた。

この違いが、土地の使い方と地名のあり方を分けたと考えられる。水を引きやすい低地は、早くから水田として開かれ、その営みは堤・新田・島といった水の地名を残した。一方、水を引きにくい台地の縁では、田にしにくい原や野、林がそのまま残されやすく、人びとはそこを採草や薪取り、畑として使った。結果として、川沿いの低地では堤外・新田・島といった水に関わる地名が目立ち、台地の縁では森・野・山・原・久保のような地名が増える。これは、それぞれの土地の使い方が違っていたことの、地名の側からの反映にほかならない。

森下・森本・立野が、ちょうどこの台地と低地の境目あたりに位置していることは、偶然ではないだろう。境界の土地には、両方の暮らしの記憶が折り重なって残る。低地寄りには水と田の記憶が、台地寄りには森と野の記憶が寄せてくる、その二つの潮目のうえに、これらの地名は並んでいる。次の表は、本稿で扱った四つの地名を、想定される由来・確度の層・史料批判上の留意点において、対等の粒度で並べたものである。特定の地名を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。

表1 森下・森本・立野・枇杷首の地名の比較 ── 想定される由来・確度の層・留意点
地名語の型想定される由来確度の層留意点(史料批判)
森下森+位置目印となる森の下手を示す位置関係の名。鎮守の杜・屋敷林との関係も想定される。推定・未確認森が具体的にどの社寺・林かは現地形から断定できない。
森本森+位置森の根元・中心側を示す名。古い集落の目印としての森を想像させる。推定・未確認森下と対になる名だが、対応関係を裏づける史料は未確認。
立野立+野開けた野、または入会を禁じた原野、あるいは高まり・境界を示す名。推定・未確認三つの読みが並立。当地への適用は土地台帳・古文書の裏づけを要する。
枇杷首身体部位(首)地形のくびれや端を示す可能性。台地から低地への移り目の地形か。推定・未確認身体部位の地名が必ず地形のくびれを指すとはかぎらない。要確認。

この表から浮かび上がるのは、四つの地名がいずれも「推定・未確認」の層にとどまっているという事実である。これは、資料が乏しいことの表れであると同時に、地名研究がしばしば直面する状態そのものでもある。地名は土地に残るが、その由来を一点で確定する文書は、多くの場合すでに失われているか、もともと作られなかった。だからこそ、確度の層を明示したうえで、地名の型が示す可能性を丁寧に提示することに意味がある。断定できないことを、無知としてではなく、確度の腑分けとして記述するのが、本稿の立場である。

付け加えれば、こうした土地利用の棲み分けは、固定したものではなかった。近世から近代にかけて、新田開発や耕地整理が進むと、台地寄りの野や林にも次第に鍬が入り、水の便が改善された低地では水田化がいっそう進んだ。地名が土地利用の古い層を伝える一方で、土地そのものは絶えず作り変えられてきたのである。森下・森本・立野の名が、いまや宅地や畑や道路の下に埋もれた古い景観を指しているのだとすれば、その名と現況との落差こそが、地名を過去の記録として読む値打ちを高めている。地名は、現在の景観を説明する道具ではなく、失われた景観を証言する資料として読むべきものである。

磐田原台地 約130m 礫を多く含む地層 森・野・原・林 太田川低地 10m未満 シルト・粘土 境=森下・森本・立野 台地と低地の断面 ── 土質と標高が土地利用を分ける
図5 台地と低地の断面模式図。標高が高く礫を多く含む台地面には森・野・原・林の地名が、標高の低いシルト・粘土の低地には水と田の地名が残りやすい。森下・森本・立野は、その境の帯に位置する。高度・傾斜は概念的に示したもので実測値ではない。

7. 地名の層をどう読むか ── 方法上の覚え書き

ここまでの検討は、個々の地名の由来を確定することを目的としてこなかった。むしろ、確定できないという事実そのものを、どのように記述するかに力点を置いてきた。この節では、その方法上の含意を整理しておきたい。地名研究において厄介なのは、地名が魅力的な物語を呼び寄せやすいという性質である。森とあれば鎮守の杜を、立野とあれば領主の禁じた原野を、枇杷首とあれば地形のくびれを、私たちはつい断定的に語りたくなる。だが、その断定の多くは、地名の型が示す可能性を、あたかも確認された史実であるかのように語ることによって成り立っている。

本稿が一貫して区別してきたのは、「地名の型が示唆すること」と「その土地で実際に確かめられること」である。前者は、語の一般的な意味や、他地域の類例から導かれる可能性の幅であり、後者は、土地台帳・古文書・社寺の記録・発掘の成果といった、その土地に固有の資料によって裏づけられる事実である。両者はしばしば混同されるが、地名から土地の歴史を読むうえでは、この区別を保つことが決定的に重要になる。可能性を可能性として、事実を事実として、それぞれの層に置いたまま記述することが、後世の調べものに耐える記録をつくる。

あわせて、「未確認」と「記載なし」の区別も保っておきたい。森下・森本の森がどの社寺を指したか、立野がいずれの意味の野であったか、枇杷首の首が何を指したか、これらはいずれも本稿の調査範囲では未確認である。しかしそれは、「そのような事実が存在しなかった」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、それを裏づける資料に突き当たっていない」という状態である。資料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした記録が作られなかったのかは、それ自体が別個に検証を要する問いである。この禁欲的な区別を欠くと、資料の不在が、たやすく事実の不在へとすり替えられてしまう。

この作法は、旧豊田町の他の地名を読むときにも、そのまま応用できる。低地の「島」の地名を扱った論考では、微高地に生きた村の暮らしを、水の記憶として読んだ。本稿は、その対をなす台地の縁の森・野の記憶を扱った。低地の水の地名と、台地の森・野の地名、この二つをあわせて読むことで、旧豊田町という土地が、単なる低地の町ではなく、台地と低地の両方を抱えた地域であったことが見えてくる。地名は、その土地の厚みを、確度の層を保ったまま伝える資料なのである。

地名を確度の層で読むこの姿勢は、郷土史の記述一般にも通じる。土地の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられ、複数の伝えのなかから一つの正解を選び取ろうとする。だがその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった読みを切り捨てることにつながりやすい。森・野・首の地名について本稿がとった腑分けは、そうした性急な一元化を避け、それぞれの読みを、それが属する層のなかで正当に評価するための手続きにほかならない。次の図は、水の地名と森・野の地名という二つの語彙が、地域のなかでどのように分かれ、その境で森下・森本・立野がどこに立つのかを、あらためて一枚に整理したものである。

二つの地名語彙と、その境に立つ三つの名 低地・水の地名 新田 水を治め土を盛る営み 台地・森野の地名 森 野 山 原 久保 田になりにくい土地の姿 境の帯 森下・森本 立野 両方の語彙が寄せてくる帯の上に、境界の地名が並ぶ。
図6 地名語彙の対比。低地には堤・新田・島など水と開発の地名が、台地には森・野・山・原・久保など田になりにくい土地の地名が残る。森下・森本・立野は、この二つの語彙が接する境の帯に位置し、いずれの記憶にも半ば属している。

8. 結論 ── 境界の地名を確度の層で残す

本稿は、旧豊田町の森下・森本・立野という三つの地名を軸に、枇杷首・寺跡の地名も視野に入れながら、台地と低地が接する境界の土地利用を、地名の型から読み解いてきた。得られた見取り図は次のとおりである。森下・森本は、目印となった森を軸にした位置関係の名であり、その森は樹林であると同時に、鎮守の杜・屋敷林・墓地や塚の周辺といった信仰と境界の場を含みうる。立野は、低地の水田とは別の論理で使われた野の地名であり、開けた野とも、入会を禁じた原野とも、地形の高まりとも読みうる。枇杷首は、地形のくびれや端を示す可能性をもつ。だがそのいずれについても、由来を一点で確定する資料は、本稿の範囲では未確認である。

この「確定できなさ」を、本稿は欠陥としてではなく、記述すべき対象として扱った。地名は土地に残るが、その由来を一つに定める文書は、多くの場合すでに失われている。だからこそ、地名の型が示す可能性と、土地に固有の資料で確かめられる事実とを腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別し、可能性を史実と偽らないことが、地名研究の禁欲的な作法として要請される。森・野・首の地名を、確度の層を保ったまま書き留めること、それが本稿の目的であった。

したがって本稿の立場は明確である。地名から土地の歴史を読む作業は、「唯一の由来を言い当てる作業」から「地名の型が示す可能性を、確度の層とともに記述する作業」へと組み替えられるべきである。森下・森本・立野は、磐田原台地の礫と太田川低地のシルトという土質の違いが生んだ、境界の地名である。低地の水の地名だけでも、台地の森・野の地名だけでもなく、その両方をあわせて読むことで、豊田地区の土地の厚みが見えてくる。水の記憶と、森と野の記憶を、それぞれの確度の層のまま残していくこと、その地道な手続きの先にこそ、この土地が歩んできた歴史の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、森下・森本の森が指した具体的な社寺・林については、地元の土地台帳や社寺の記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、立野の三つの読みのいずれが当地に妥当するかは、近世の古文書や入会をめぐる村の記録によって、なお検証されうる。第三に、枇杷首をはじめとする型として興味深い地名は、現地の地形の精査とあわせて読むことで、地形と地名の対応をより精確に描きうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の層の枠組みのなかで、推定を通説へ、未確認を史実へと押し上げていく作業に属する。旧豊田町の地名がなお多くの未確認を抱えていること、それ自体が、この土地の歴史がまだ書き尽くされていないことの証左である。

本稿の舞台である旧豊田町の台地の縁には、森や野の名とともに受け継がれてきた古い家や土地が今も残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集)豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会、1992年。小字や土地利用の伝えを集めた地誌資料であり、地名の由来を一点に確定する一次史料ではない。
  2. 豊田村・豊田町の沿革(1955年の富岡村・井通村の合併、1973年の町制施行、2005年の磐田市への合併)による。自治体沿革・地理の概要はフリー百科事典ウィキペディア「豊田町(静岡県)」ほかを参照。
  3. 磐田原台地が天竜川と太田川の分水界にあたること、北側の段丘面高度が130メートルほどで南へ低下し10メートル未満の低地へつながること、台地が礫質・低地がシルトや粘土であることは、磐田市の景観計画・景観形成ガイドラインほか市公開資料に基づく。
  4. 天竜川左岸低地の「島」のつく地名と微高地の暮らしについては、大石浩之の磐田論考 第118号「弥藤太島・気子島」を参照。
  5. 「立野」を農民の自由な入会利用を禁じた原野(採草地・狩猟地、あるいは造林に適した土地として領主の直轄に置かれた野)とする語義は、『精選版 日本国語大辞典』ほか(コトバンク所収)による一般的な説明であり、旧豊田町の立野への直接の適用は土地台帳・古文書による裏づけを要する。

付記:本稿は一般読者向け記事 t014 の内容を、郷土史研究者向けに確度の層を明示して再構成した論考版である。地名の型が示唆する可能性(推定)と、一次史料による裏づけを要する部分(未確認)とを語の水準で区別し、断定を避けた。

参考文献・参考資料

  • 『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集)豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会、1992年。
  • 磐田物語 t014「森下・森本・立野 ──『森』と『立野』の地名を歩く」 https://iwata-monogatari.net/t014.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 t006「旧豊田町の地名と、土地の記憶 ──『豊田町地名地図』を歩く」 https://iwata-monogatari.net/t006.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c009「磐田の地名をたどる ── 国府・街道・水・信仰が残した土地の記憶」 https://iwata-monogatari.net/c009.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 「立野」項『精選版 日本国語大辞典』ほか(コトバンク所収) https://kotobank.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市『景観計画・景観形成ガイドライン』ほか、磐田原台地と太田川低地の地形に関する市公開資料 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 「豊田町(静岡県)」沿革・地理、フリー百科事典ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 旧豊田町の寺社・小字・土地利用に関する郷土史資料。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 大石浩之「旧豊田町の地名 ── 土地の記憶を読む」大石浩之の磐田論考 第93号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/093/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「富丘・東原 台地に開けた『原』と『丘』のまち」大石浩之の磐田論考 第100号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/100/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「弥藤太島・気子島 ──『島』のつく地名と低地の暮らし」大石浩之の磐田論考 第118号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/118/ (最終閲覧:2026年7月25日)。