磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第100号(豊田・台地地名研究)
富丘・東原 ── 台地に開けた「原」と「丘」のまち
地名が語る台地開発と近代の宅地化
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
旧豊田町の北部、磐田原台地の南東縁には、富丘・東原・高見丘という、低地の水田地名とは語彙を異にする地名が並ぶ。低地が島・堤外・新田・川原など水にまつわる名を負うのに対し、台地では原・丘・山・久保といった地形の高低と土地の開け方を主語とする名が目立つ。本稿は、この語彙の入れ替わりを手がかりに、水に乏しい磐田原台地の土地条件と、近代以降の宅地化の履歴を、地名の側から読み解く。「原」は田になる前の草地や畑、開発以前の広がりを、「丘」は台地上の高まりと乾いた土地利用を、「久保」は台地内部のくぼ地と水の集まりを指す語として整理する。ただし富丘の「富」の字や東原という名の具体的由来は、一次史料による確認を欠く推定の域にとどまることを明示する。史実・通説・推定・伝承の層を語の水準で区別しつつ、地名が土地利用の履歴を今に伝える手がかりであることを示す。
キーワード:磐田原台地/富丘/東原/台地地名/地名研究/宅地化/土地利用
1. 問題設定 ── 台地の地名はなぜ低地と異なるのか
旧豊田町を天竜川沿いの低地だけで見ると、地域の半分を見落とすことになる。町域の北側には、富丘・東原・高見丘のように、台地の高まりを感じさせる地名が並ぶ。そこでは、川ではなく、原・丘・山・久保といった言葉が土地を語っている。同じ町域でありながら、低地と台地とでは、地名に用いられる語彙そのものが入れ替わる。この語彙の交替こそ、本稿の出発点である。
低地の地名には、島・堤外・新田・川原といった、水に関わる名が多い。天竜川の氾濫原に開かれたこれらの土地では、川の流れ、堤防、新たに開いた田が、そのまま地名になった。これに対し台地の地名には、原・丘・山・久保といった、地形の高低や土地の開け方を示す名が目立つ。低地の地名が「水をどう扱うか」を主語とするのに対し、台地の地名は「水のない土地でどう生きるか」を主語としている。地名の語彙の差は、そのまま暮らし方の差でもある。
本稿が問うのは、この差をどう読むか、という方法の問題である。地名から土地の履歴を読むという作業には、つねに誘惑がつきまとう。字面から連想される物語を、そのまま土地の由来として断定してしまう誘惑である。「富丘」の二字から豊かな丘を、「東原」の二字から東に開けた原を思い描くのはたやすい。だが、その連想が史料によって裏づけられるのか、あくまで字面からの推測にとどまるのかは、峻別されなければならない。地名研究の要諦は、読みの豊かさと、根拠の厳密さとを、同時に手放さない点にある。
そこで本稿では、地名から引き出せる情報を、確度の層に腑分けしながら記述する。第一に史実、すなわち地形図・地質・文献など、検証可能な資料によって確認できる事柄。第二に通説、地名研究や地域史の蓄積のなかで広く受け入れられているが、個々の地名について一点で確定はできない事柄。第三に推定、地形や土地利用との対応から合理的に導けるが、なお確証を欠く事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた由来譚である。この四層を語の水準で書き分けることが、以下の記述の基本姿勢となる。
あわせて、二つの状態を区別しておきたい。ある地名の由来について「一次史料に突き当たっていない」という未確認の状態と、「史料を調べたが記載がない」という記載なしの状態は、同じではない。前者は今後の調査で解消しうる暫定的な保留であり、後者は史料の側の沈黙である。本稿が対象とする台地の地名の多くは、命名の時期や由来を直接記す史料を、筆者の管見の限りでは確認できていない。これは記載がないと断ずるのとは異なる、未確認の状態にとどまる。この区別を保ちながら、地名を土地利用の履歴へと結びつけていく。
2. 磐田原台地という土台 ── 地形と水条件
富丘・東原・高見丘の名を読むには、まずその下に横たわる磐田原台地の姿を押さえておく必要がある。磐田原は、天竜川の東岸に広がる洪積台地で、標高はおよそ10〜120メートル、東西約4キロ・南北約13キロにわたって細長く伸びている1。天竜川の西岸にある三方原台地と同じ時期に隆起して形成されたと考えられており、低地よりも一段高い、いわば「もう一つの磐田」を形づくっている。旧豊田町の北部は、この台地の南東縁にあたる。
台地の最大の特徴は、水の得にくさにある。地下水面が深い位置にあるため、井戸を掘っても容易には水に届かず、用水を引く工夫も難しかった。そのため磐田原は、低地に比べて開発・開拓の遅れた土地として知られてきた。現在は磐田用水などの整備によって農業が営まれているが、近代以前の台地上は、水を多く必要としない畑作や、雑木林、草地が大きな面積を占めていたとみられる。茶・葉タバコ・サツマイモといった、乾いた台地に向く作物の栽培がさかんであったことも、こうした土地条件と無縁ではない。
前近代の台地における水の確保は、もっぱら溜め池と深井戸に頼るものであった。雨水は台地の表面をとどまることなく地中深くへ吸い込まれ、谷筋を伝って低地へと流れ去る。地表に川を欠く台地では、人びとは窪地に池を穿ち、あるいは深い井戸を掘って、限られた水を蓄え、分け合ってきた。畑の作物に茶や葉タバコ、サツマイモが選ばれたのも、これらが多量の灌漑を必要とせず、乾いた台地の条件に適していたからである。土地の名に「原」や「畑」の記憶が濃く残るのは、こうした水に乏しい前近代の暮らしが長く続いたことの反映でもある。
ここで、地形・地質に関わる記述と、地名の由来に関わる記述とを、資料の性格の違いから区別しておきたい。台地の標高や規模、地下水面が深いという事実、開発が遅れたという歴史は、地形図・地質・土地利用統計といった検証可能な資料に裏づけられる史実ないし通説の層に属する。三方原台地と同時期の隆起という理解も、地質学の蓄積に支えられた通説である。これに対し、個々の地名がいつ、どのような由来で名づけられたかは、多くの場合これらの資料からは直接に導けない。土台となる地形の理解は堅い足場の上に立つが、その上に載る地名の由来は、しばしば推定の域を出ないのである。
とはいえ、地形の理解が地名の読みを支える関係は確かにある。水に乏しいという台地の条件は、そこに置かれた地名の意味を方向づける。低地であれば「田」や「川」に関わる名が生まれやすいのに対し、水を欠く台地では、田になる前の状態、すなわち原や畑、あるいは地形そのものの高低が名づけの対象となりやすい。地名の語彙が地形条件に規定されるという関係は、個別の由来が未確認であっても、語彙の傾向としては十分に読み取れる。本稿が個々の地名の断定を避けつつ、なお台地地名を一つの群として論じられるのは、この語彙と地形の対応が確かだからである。
つまり、台地に並ぶ「原」や「丘」の地名は、単なる景観の描写ではなく、水に乏しい土地をどう使ってきたかという暮らしの履歴をも背負っている。低地の水田地名が「水をどう扱うか」を語るのに対し、台地の地名は「水のない土地でどう生きるか」を語る。旧豊田町は、この二つの土地条件を一つの町域のうちに併せもつ。低地と台地、性格の異なる二つの世界が接する縁に、富丘・東原はある。
3. 「原」の地名 ── 東原を読む
広く開けた台地の平坦地を名づける「原」
語の含意。東原の「原」は、広く開けた土地を思わせる語である。原は、田ではない。水田にする前の草地、畑、台地上の開けた空間、あるいは開発以前の広がりを指すことがある。地形の高低を細かく刻む低地の地名に対し、「原」は土地のまとまりや広がりそのものを名づける言葉であり、いかにも台地らしい命名だといえる。水を欠く台地では、湿田を開くよりも、まず草地や畑として利用される段階が長く続いた。「原」の一字は、その段階の土地の姿を映している。
「原」という語の広がり。「原」は、磐田原台地の名そのものにも含まれる、この地域を代表する地形語である。台地全体を「磐田原」と呼び、その一角を「東原」と呼ぶ。大小の入れ子をなして「原」の字が重なるこの様子は、台地という土地のまとまりが、人びとにまず「原」として認識されてきたことを物語る。低地であれば個々の田や島が細かく名を得るのに対し、台地では広い一続きの空間が、まとまりとして「原」の名を負う。地名の単位の取り方そのものに、低地と台地の土地感覚の違いが表れている。
東原という名の読み。東原という地名は、字面からは二通りに読める。東側に開けた原、と読むこともできるし、地域のなかで東に位置する原、と読むこともできる。どちらの読みも地形と矛盾しないが、いずれが本来の由来であるかを決める史料に、筆者はまだ突き当たっていない。ここで断定を急げば、字面からの連想を由来として固定してしまう誤りに陥る。東原の具体的な由来は、今後の確認を要する推定の域を出ないものとして扱う2。
近代開発による変容。原の地名は、近代以降の開発によって大きく姿を変えることが多い。かつて見渡すかぎりの草地や畑だった場所も、道路が通り、住宅が建ち、工場や学校が置かれると、原野の面影は急速に薄れていく。水害を受けにくく、まとまった平坦地を確保しやすい台地は、宅地や産業用地として格好の場所であり、こうした転換は磐田原台地のあちこちで進んできた。それでも、開発で景観が一変したあとにも、地名のなかには開発以前の土地の姿がひそかに残る。「原」の一字は、住宅地の表札の上で、かつての広がりを今に伝える小さな手がかりである。
4. 「丘」の地名 ── 富丘・高見丘を読む
台地の高まりと乾いた土地利用を映す「丘」
語の含意。富丘は、字面から見ても豊かな丘を思わせる名である。現在は磐田市富丘として町名に用いられ、旧豊田町の北部、磐田原台地の縁に位置している。「丘」という語は、台地上の高まりを名づけるとともに、そこでの土地利用のあり方をも映している。低地の水田地帯と比べ、台地上は水に乏しく、畑作・茶・雑木林といった、別の土地利用が広がりやすかった。丘の土地は、洪水には比較的強い一方、水を得るには工夫が要る。雨水は地中に深く吸い込まれ、谷筋へ流れ去ってしまう。だからこそ、人びとは溜め池や深井戸に頼り、限られた水を分け合いながら畑を耕してきたと考えられる。
「富」の字をめぐって。問題は「富」の字である。豊かな丘という連想はたやすいが、この字がいつ、どのような願いを込めて選ばれたのかは、慎重に確かめなければならない。近代以降の命名や、表記の変更という可能性も考える必要がある。瑞祥をこめた好字が近代の町名整理の際に選ばれた例は各地に見られ、富丘の「富」もそうした後世の選字である可能性を排除できない。したがって「富」の字から古い豊穣の由来を読み取ることには、慎重でありたい。字の由来は未確認とし、確たる史料に基づかない断定は控える3。ただし「丘」という語が地域のイメージを形づくっていること自体は確かである。
高見丘という名。富丘と並んで、台地の縁には高見丘の名がある。見晴らしや高まりを感じさせる名であり、台地の縁がもつ視界の広さと関係づけて読みたい。台地の縁に立てば、低地の水田や集落を一望できる。「高見」という語は、そうした眺望の経験を名に留めたものと解しうる。もっともこれも、地形と語の対応から導かれる推定であって、由来を直接記す史料を確認したわけではない。「丘」「高見」といった語が、台地の高みという地形条件のもとで選ばれやすかった、という語彙の傾向として押さえておく。
「丘」の語がつくる地域像。富丘・高見丘のように「丘」を冠する地名が一帯に集まると、それは個々の地点の名であることを超えて、台地の縁という地域全体のイメージを形づくる。低地の「島」や「新田」が点在する氾濫原の風景に対し、「丘」の連なりは、見晴らしのきく高台の連なりという像を結ぶ。地名は一つひとつが土地を指すと同時に、いくつかが集まって地域の性格を描き出す。富丘・東原・高見丘という三つの名が並ぶことによって、旧豊田町北部は、水の低地とは異なる「台地のまち」としての輪郭を得ているのである。
5. 「久保」と台地内部の微地形
台地の地名を「高み」だけで読むと、もう一つの重要な語を取り落とす。「久保」である。久保は、台地の表面にできた浅いくぼ地や、谷状の地形を指すことがある。まわりより一段低いぶん、水や湿り気が集まりやすい場所であったと考えられる。乾いた台地の上で、わずかに水の恵みを得られる窪地は、人の営みにとって貴重な土地だったはずである。丘や原の高みと、久保の低み──台地の内側にも、こうした小さな高低の物語が畳み込まれている。
この「久保」の存在は、台地を平坦一様の土地とみなす見方を戒める。磐田原台地は、遠目には平らな高まりに見えるが、その内部には浅い谷や窪地が刻まれ、微妙な起伏を抱えている。台地上でどこに人が住み、どこを畑とし、どこに水を求めたかは、この微地形と深く関わっていたと推測される。高みの畑と、窪地の水場とを組み合わせて土地を使う営みが、「丘」と「久保」という対の地名を生んだと読むことができる。地名は、大づかみな地形分類だけでなく、こうした台地内部の細やかな高低差をも記録している。
「久保」の対極には「山」の語がある。台地の地名に現れる「山」は、必ずしも険しい高山を指すのではなく、台地上のひときわ高い部分や、雑木林におおわれた高地を指すことが多い。平地に乏しい山国の感覚とは異なり、低地から見上げる台地の高まりが、そのまま「山」と呼ばれたと考えられる。丘・原・山が高みを、久保が低みを名づけるという対応をふまえれば、台地の地名群は、内部の微妙な高低を四つほどの語で描き分ける、一種の地形の言語であったといえる。個々の「山」がどの高まりを指すかは現地の照合を要するが、語の役割は分布のうえで明瞭に読み取れる。
ここで、低地の地名との対比をあらためて整理しておきたい。低地には、島・堤外・新田・川原といった水に関わる地名が多い。天竜川の氾濫原に開かれたこれらの土地では、川の流れや堤防、新たに開いた田が、そのまま地名になった。低地の「島」は、氾濫原のなかのわずかな微高地、すなわち水に囲まれた乾いた土地を指す。興味深いのは、低地では「わずかに高い土地」が、台地では「わずかに低い土地」が、それぞれ人の営みの拠点として名づけられている点である。求められる価値が正反対であるからこそ、名づけの対象も反転する。
低地では水をどう避け、どう引くかが課題だった。台地では水をどう得るか、乾いた土地をどう使うかが課題だった。旧豊田町の地名は、この二つの課題を一つの町域のうちに抱えている。低地と台地、二つの異なる土地条件を併せもつことこそ、この地域の地名を読む面白さでもある。低地の「島」と台地の「久保」を並べて読むとき、地名が単なる呼び名ではなく、土地条件への応答の記録であることが、いっそう鮮明になる。旧豊田町の地名については、本論考シリーズ第93号「旧豊田町の地名」でも、天竜川左岸の開発と信仰の観点から論じた。あわせて参照されたい。
6. 地名要素の比較と方法上の留意
ここまで見てきた台地の地名要素を、確度の層とあわせて一覧にまとめておく5。以下の表は、各地名を土地条件・土地利用の履歴・確度の層・史料批判上の留意点において対等の粒度で並べ、どこまでが検証可能な事実で、どこからが推定にとどまるのかを可視化することを目的とする。特定の地名の読みを優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。
| 地名 | 語の要素 | 土地条件と利用の履歴 | 確度の層 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 富丘 | 丘 | 台地上の高まり。畑作・茶・雑木林など乾いた土地の利用。現在は新興住宅地。 | 地形=史実/由来=未確認 | 「富」の字は近代の好字選択の可能性があり、古い由来の断定は不可。 |
| 東原 | 原 | 田になる前の草地・畑・開けた台地の平坦地。近代開発で景観が一変。 | 地形=史実/由来=推定 | 「東に開けた原」とも「東に位置する原」とも読め、由来は一点に定まらない。 |
| 高見丘 | 丘・高見 | 台地の縁の高まり。眺望の広さと結びつく。宅地化が進む。 | 地形=史実/由来=推定 | 眺望との対応は合理的だが、由来を記す史料は未確認。 |
| 久保 | 久保 | 台地内部のくぼ地・谷状地形。水や湿り気が集まる貴重な土地。 | 地形=通説/個別地=推定 | 台地内部の微地形を示す語だが、具体的な比定は現地確認を要する。 |
この比較から見えてくるのは、台地の地名について「地形の理解」と「由来の理解」とが、異なる確度の層に属するという事実である。標高や微地形、乾いた台地という土地条件は、地形図や土地利用の資料によって検証できる。これらは堅い足場の上に立つ。これに対し、個々の地名がいつ、どのような由来で名づけられたかは、多くの場合、直接の史料を欠く。地形は史実の層で語れても、由来は推定ないし未確認の層にとどまる。この二層を混同し、地形の確かさを由来の確かさへとすべり込ませることが、地名研究にもっとも起こりやすい誤りである。
史料批判の観点からは、地名の字面がもつ喚起力そのものに注意が要る。「富」の字は豊かさを、「丘」の字は高みを、「原」の字は広がりを、読む者の心にただちに呼び起こす。この喚起力は、地名を魅力的な読み物にする一方で、字面からの連想を由来と取り違える危険をも招く。とりわけ好字は、近代の町名整理の過程で選び直された可能性がつきまとうため、字面の古さと命名の古さとを、そのまま同一視することはできない。地名を史料として扱うには、字が喚起する物語と、字が実際に負う来歴とを、意識的に切り分ける手続きが欠かせない。
もっとも、由来が未確認であることは、地名の価値を減じるものではない。地形と語彙の対応、すなわち「台地には原・丘・久保が、低地には島・堤外・新田が現れる」という傾向は、個別の由来が不明であっても、群としての地名から確かに読み取れる。地名研究は、一つひとつの由来を確定する作業であると同時に、地名の分布が土地条件とどう対応するかを読む作業でもある。後者の読みは、由来の未確認をもってしても損なわれない。本稿が個々の断定を避けつつ、なお台地地名を意味あるまとまりとして論じられるのは、この分布の水準での読みが成り立つからである。
7. 台地開発と近代の宅地化 ── 地名が残すもの
富丘・東原のような台地の土地は、近代以降、道路や宅地、工業用地として利用されやすくなった。水害を受けにくく、比較的まとまった土地を確保しやすいからである。かつて水の得にくさゆえに開発が遅れていた台地は、上水道や用水、自動車交通の発達によって、その弱点をむしろ強みへと転じていった。広く平らで地盤の安定した土地は、新しい住宅地や学校、工場を迎え入れるのに適していた。かつての原や畑が、現代の住宅地や施設に変わっていく流れは、磐田原台地の全体に共通する4。
この転換は、台地の価値づけが近代を境に反転したことを意味する。前近代においては、水の得にくさが台地の最大の弱点であり、それゆえ開発は低地に後れをとった。ところが近代の技術は、上水道と自動車という二つの手段によって、水の乏しさと交通の不便という台地の弱点をともに解消した。すると今度は、洪水を受けにくく、まとまった平坦地を確保しやすいという台地の長所が前面に出てくる。同じ土地条件が、時代によって弱点とも長所とも評価される。この評価の反転こそ、台地開発の近代史を貫く筋である。
ただし、この反転は一様に進んだわけではない。台地の縁に近く、交通の便に恵まれた一帯から宅地化が進む一方で、台地の内部や奥まった区画には、なお畑地や樹園地が残り、茶畑の緑を見ることもある。開発の波は台地の地形と交通条件に沿って選択的に及び、同じ台地のうちにも、新しい住宅地と旧来の農地とが斑をなして併存する。地名は、この不均一な変化のなかで、開発の及んだ場所にも及ばなかった場所にも等しく残り、かつての土地利用を静かに指し示している。低地の新田地名が水の履歴を伝えるように、台地の原・丘の地名は、乾いた高みの土地と向き合ってきた歳月を伝えている。
その結果、富丘や高見丘といった「丘」を冠する一帯は、いまでは新興住宅地としての顔をもつようになった。区画の整った街路に新しい家並みが続く風景からは、ここがかつて水に乏しい原野や畑地であったことは、にわかには想像しにくい。開発は景観を根底から書き換える。原の広がりも、畑の乾いた土も、雑木林の緑も、宅地化のなかで姿を消していく。そうして景観が一変したあとに、なお土地の履歴を伝えるのが、ほかならぬ地名である。「原」の一字、「丘」の一字が、開発以前の土地の姿を、住宅地の只中に留めている。
ここに、地名を記録することの意味がある。景観は開発によって失われるが、地名は、それが使われ続けるかぎり、土地の来歴を運び続ける。富丘・東原の名は、旧豊田町が川の低地だけではなく、台地を含む複合的な地域であったこと、そして人びとが乾いた高みの土地と長く向き合ってきたことを、静かに伝えている。現在の風景だけからはわからない土地の履歴を、地名から思い起こすこと──それは、台地に暮らしを刻んできた人びとの営みを、次の世代へ手渡す一つの方途である。
8. 結論 ── 地名研究の到達点として
本稿は、旧豊田町北部の富丘・東原・高見丘という台地の地名を対象に、「原」「丘」「久保」という語彙を低地の水田地名と対比し、水に乏しい磐田原台地の土地条件と近代以降の宅地化の履歴を、地名の側から読み解いた。得られた見取り図は次のとおりである。台地の標高・微地形・水条件は、地形図や土地利用の資料に裏づけられる史実ないし通説の層に立つ。これに対し、富丘の「富」の字や東原の由来といった個別の命名事情は、直接の史料を欠く推定ないし未確認の層にとどまる。地形の確かさを由来の確かさへとすべり込ませないこと──これが、台地地名を読むうえでの方法上の要点であった。
この見取り図は、本論考シリーズが積み重ねてきた地名研究の延長線上にある。第100号という節目にあたり、これまでの到達点を振り返っておきたい。第55号「磐田の地名をたどる」では、磐田全域の地名を地形・信仰・開発という三つの層の重なりとして読む枠組みを示した。第93号「旧豊田町の地名」では、天竜川左岸の低地に焦点を当て、新田開発と信仰が地名に刻んだ層位を論じた。そして第89号「匂坂・寺谷・岩田」では、磐田原台地の縁に並ぶ村々の立地を、地形の読みから跡づけた。本稿は、これらの成果を承けて、台地そのものの地名を正面から扱うものである。
これらの論考を貫くのは、一つの方法的態度である。すなわち、地名から土地の履歴を読むにあたって、確度の異なる情報を同じ平面に混在させず、史実・通説・推定・伝承の層に腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別する、という態度である。地名は、字面の喚起力ゆえに、しばしば安易な由来譚を招き寄せる。その誘惑を退け、検証できることと推測にとどまることとを律儀に書き分けること。この禁欲的な手続きこそ、地名を後世の調べものに耐える形で残す方途であると、本シリーズは一貫して考えてきた。地名研究の到達点とは、多くの由来を確定したことではなく、むしろ「どこまでが確かで、どこからが推定か」を明示する作法を鍛えてきたことにある。
最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、富丘・東原・高見丘の具体的な命名時期と由来については、旧豊田町の近世・近代の土地台帳や字限図、町名整理の記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、台地内部の「久保」の具体的な比定は、現地の微地形と小字の照合という地道な作業を要する。第三に、台地と低地の地名の分布を地図上に重ね合わせる作業は、本稿が語彙の対比として論じた事柄を、空間的な分布として確かめる次の段階に属する。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業である。地名を安易に読み解く誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、富丘・東原という台地のまちが背負ってきた土地の履歴が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 磐田原台地の標高(およそ10〜120メートル)、規模(東西約4キロ・南北約13キロ)、三方原台地と同時期の隆起、地下水面が深く開発が遅れたことについては、素材記事 t015 および「磐田原」に関する公開資料による。数値は概数として示す。↩
- 東原の「東」を、東側に開けたと解するか、地域内で東に位置すると解するかについては、由来を直接記す史料を筆者は確認できていない。本稿ではいずれとも断定せず推定にとどめる。↩
- 富丘の「富」の字の選定時期・由来は未確認である。近代の町名整理の際に瑞祥の好字が選ばれた可能性を排除できず、字面の古さを命名の古さと同一視することはできない。↩
- 台地の開発が上水道・用水・自動車交通の発達によって進んだこと、富丘・高見丘が新興住宅地化したことについては、素材記事 t015 および旧豊田町の土地利用に関する公開資料による。↩
- 台地・丘陵地に関わる地名要素(原・丘・山・久保)の整理は、『ふるさと 豊田町地名地図』(1992年)に載る旧豊田町の地名を基礎資料とし、これに地形との対応の観点を加えて再構成したものである。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 t015「富丘・東原 ── 台地に開けた『原』と『丘』のまち」の内容を、郷土史研究者向けに確度の層を明示して再構成した論考版である。地形・地質に関わる記述を史実ないし通説、個別地名の由来に関わる記述を推定ないし未確認として区別し、字面の喚起力に引きずられた断定を避けた。
参考文献・参考資料
- 豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会編『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集)豊田町教育委員会、1992年。
- 磐田市誌編さん委員会編『磐田市誌』(磐田市、該当章)。
- 豊田町誌編さん委員会編『豊田町誌』(豊田町、該当章)。
- 『静岡県の地名』(日本歴史地名大系 第22巻)平凡社、該当項。
- 『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店、該当項。
- 磐田用水東部土地改良区ほか、磐田用水に関する公開資料。
- 国土地理院 地形図・土地条件図(磐田原台地および旧豊田町北部の範囲) https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 「磐田原」フリー百科事典ウィキペディア日本語版(台地の標高・規模・地下水と開発の遅れに関する記述を参照) https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 t015「富丘・東原 ── 台地に開けた『原』と『丘』のまち」 https://iwata-monogatari.net/t015 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第55号「磐田の地名をたどる ── 地名が語る土地の履歴」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/055/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第93号「旧豊田町の地名 ── 土地の記憶を読む」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/093/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第89号「匂坂・寺谷・岩田 ── 台地のへりに並ぶ村々の地形読み」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/089/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 t006「旧豊田町の地名と、土地の記憶 ── 『豊田町地名地図』を歩く」 https://iwata-monogatari.net/t006.html (最終閲覧:2026年7月25日)。