失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 磐田用水の歩み ── 台地を潤した水利の歴史

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第58号(磐田用水研究 一)

磐田用水の歩み ── 台地を潤した水利の歴史

天竜川の水を引く事業と地域社会

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市向陽

要旨

磐田用水は、天竜川の水を磐田原台地の農地へ導くために営まれてきた水利の総体である。本稿は、その歩みを社山疏水の構想、昭和期の幹線改良、天竜川下流農業水利事業、東部土地改良区による管理という四つの段階に腑分けし、史実・通説・推定・伝承の確度層と史料批判の観点から検討する。天保2年〔1831年〕ごろに犬塚祐一郎が抱いたとされる社山疏水の構想は、約半世紀を経た明治16年〔1883年〕ごろに地域の運動へと移り、昭和4年〔1929年〕の幹線改良事業計画の県議会採択、昭和19年〔1944年〕7月25日の初通水、昭和25年〔1950年〕の東部土地改良区認可を経て、平成5年度の水管理システム導入に至る。ただし主資料である設立50周年記念誌『磐田用水の歩み』は顕彰的性格をあわせもつため、本稿は人物の功績にとどまらず、構想・事業費・受益面積・通水・管理組織という確認可能な項目に分けて読む。用水史を施設の建設史としてではなく、天竜川の水をだれがどこで取り、どの地域へ分け、だれが維持するかをめぐる合意と負担の歴史として記述する立場をとる。

キーワード:磐田用水/磐田原台地/社山疏水/犬塚祐一郎/天竜川/土地改良区/史料批判

1. 問題設定 ── 台地と水のあいだの懸隔

磐田原台地の周囲には、天竜川という大河が流れている。水量に乏しい土地ではない。それにもかかわらず、台地の上に暮らす人々は、長く水の不足に悩まされてきた。川がすぐ近くを流れていることと、その水を農地へ安定して届けられることとは、まったく別の事柄だからである1。台地は周囲の低地よりも高い。低いところを流れる川の水は、放っておいて田へ上がってはこない。水位、取水口の位置、導水路の勾配、分水の順序、そして維持管理の費用と労力がそろって初めて、田は田として成り立つ。

本稿が磐田用水を主題に選ぶのは、この「近くに水があるのに水が足りない」という逆説のなかに、地域史のひとつの核心が隠れているからである。磐田用水の歩みは、単に水路という施設を造った歴史ではない。水を得るために、だれが費用を負担し、どの経路を通し、どの村がどれだけの水を受け取るのかを、幾度も調整しながら暮らしの基盤を築いてきた歴史である。施設は合意の結晶であり、合意は台地に生きる人々の必要から生まれた。用水を読むとは、その必要と合意の積み重なりを読むことにほかならない。

もっとも、こうした水利の歩みを跡づけようとすると、たちまち資料の性格という問題に突き当たる。磐田用水に関する記述の中心にあるのは、磐田用水東部土地改良区が設立50周年を機に刊行した記念誌『磐田用水の歩み』である。これは事業の歩みを丹念にまとめた貴重な資料であるが、同時に、事業を成し遂げた人々を顕彰する目的をあわせもつ。顕彰の書は、功績を強調し、困難の克服を物語として整える傾向をもつ。したがって記された年代や人物の事績を、そのまま無批判に受け取ることはできない。史実として確認できる事柄と、記念誌が伝える事績と、後世に整えられた物語とを、確度の層に分けて読む手続きが要る。

そこで本稿では、あらかじめ四つの確度の層を定義しておく。第一に史実、すなわち文書・記録によって確認できる事柄。第二に通説、広く受け入れられているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域や関係者のあいだで語り継がれてきた事柄である。用水史は治水史や人物史と隣り合っており、記念誌の記述にはこの四層が入り混じっている。以下では、これらを語の水準で書き分けながら、層をまたいだ断定を避けることを基本の姿勢とする。

あわせて、本稿では「未確認」と「記載なし」を区別する。ある事業の起点や年代について、それを裏づける一次史料に管見の限り突き当たっていない状態を「未確認」と呼び、史料を博捜したうえでなお該当する記録が存在しないと判断できる状態を「記載なし」と呼ぶ。両者はしばしば混同されるが、意味はまったく異なる。未確認は今後の調査で史実へ格上げされうる余地を残すが、記載なしはその余地が乏しい。用水の起点をめぐる年代のように、記念誌にのみ伝えられ、それ以前の一次史料に届いていない事柄については、この区別を厳格に保つ必要がある。

以下ではまず、磐田用水という対象の全体像を四段階の見取り図として示す。続いて各段階を順に検討し、記念誌の史料批判と地理的背景の考察を経て、用水史をどのような歴史として書くべきかという方法上の結論に至る。話の運びは年代を追うが、目的は年表の再現ではなく、各段階がどの資料に支えられ、どの程度確からしいのかを腑分けすることにある。

天竜川(低地) 磐田原台地 水は自然には上がってこない 取水・導水の工夫が要る 近くに水があるのに水が足りない 台地と川面の高低差が、用水事業を必要とした根本の条件である。
図1 台地と川のあいだの懸隔。天竜川の水面は台地より低く、水を田へ上げるには取水・導水の施設と、それを支える合意が不可欠であった。

2. 磐田用水とは何か ── 四段階の見取り図

磐田用水とは、天竜川の水を農業用水として受け入れ、磐田市域の水田や農地へ届ける水利のまとまりを指す。名称だけを見ると単一の水路、あるいは一回の事業のように見えるが、実際には時代ごとに課題を変えながら重ねられてきた複数の段階の総体である。本稿では、記念誌『磐田用水の歩み』の整理にならい、これを四つの段階として読む。すなわち、社山疏水の構想、昭和期の幹線改良、天竜川下流農業水利事業、そして東部土地改良区による管理である。

第一の段階は、天竜川の水を台地へ導くという構想の誕生である。記念誌は、その起点を天保2年〔1831年〕ごろに犬塚祐一郎が抱いたとされる社山疏水の計画に置く。これは江戸後期にさかのぼる発想であり、実現までにはなお長い時間を要した。第二の段階は、昭和期の幹線改良である。昭和4年〔1929年〕に磐田用水幹線改良事業計画が県議会で採択され、近代的な幹線水路の整備が制度の裏づけを得た。この段階は、戦時下の突貫工事を経て昭和19年〔1944年〕7月25日の初通水に至る。

第三の段階は、戦後の天竜川下流農業水利事業である。船明ダムや河口頭首工の整備、幹線のパイプライン化などを通じて、取水と導水の安定化がはかられた。個々の水路の改良から、天竜川下流域を一体としてとらえる広域の水利事業へと、事業の枠組みそのものが大きくなった段階である。第四の段階は、これらの施設を日常的に使える状態へ保つ管理の制度化である。昭和25年〔1950年〕に磐田用水東部土地改良区が認可され、用水の維持管理を担う近代的な組織が成立した。さらに平成5年度には、国・県の補助によって水管理システムが導入され、広い用水区域を集中的に把握する段階へ進んだ。

この四段階を貫く視点をひとつ示しておきたい。用水の歴史の中心にあるのは、天竜川そのものではなく、天竜川の水をどの地点で取り、どの水路へ送り、どの地域へ分け、だれが維持するのかという制度の歴史である。水は自然に田へ届くのではない。取水口、隧道、幹線、分水工、支線、排水路、水管理施設、そして土地改良区の負担と合意が幾重にも重なって、はじめて地域の用水として機能する。四段階を「構想・改良・広域化・管理」と言い換えれば、これは同時に、水を得るための合意がしだいに広く、そして制度的に整えられていく過程でもある。

四段階という枠組みそのものについても、性格を明らかにしておく必要がある。この区分は記念誌の整理に由来するものであり、本稿もその有用性を認めて採用する。ただし段階の境目は、実際には截然と分かれていたわけではない。構想は改良の時期にも語り継がれ、改良は広域化の事業のなかへ受け継がれ、管理の組織はそれ以前の水利組合の営みを引き継いでいる。段階論は理解のための見取り図であって、現実の水利がその区切りどおりに進んだと考えるべきではない。以下では各段階を順に扱うが、段階間の連続と重なりにも留意しながら記述する。

社山疏水 構想(天保〜明治) 幹線改良 昭和の制度化 下流水利事業 戦後の広域化 土地改良区 管理の制度 磐田用水の四段階 ── 構想から管理へ 段階の境目は截然とは分かれず、前の段階の営みが次の段階へ引き継がれていく。
図2 四段階の見取り図。構想・改良・広域化・管理という区分は理解のための枠組みであり、現実の水利は段階を越えて連続していた。

3. 第一段階:社山疏水の構想(天保から明治へ)

第一段階・構想/記念誌の伝える起点

天竜川の水を台地へ導くという発想の誕生

構想の骨子。記念誌『磐田用水の歩み』は、磐田用水の起点を、天保2年〔1831年〕ごろに犬塚祐一郎が抱いたとされる社山疏水の構想に置く2。社山疏水とは、天竜川の水を磐田原台地へ導くために掘削・開削される水路の構想であり、社山・向笠・岩田方面の地形を起点とする発想であったと伝えられる。江戸後期にひとりの人物が抱いたこの発想が、後年の用水事業の源流として語られてきた。

構想から運動へ。構想はただちに実現したわけではない。記念誌によれば、犬塚の発想から約半世紀を経た明治16年〔1883年〕ごろになって、実現へ向けた準備がようやく進みはじめる。ここで注目すべきは、天保の一個人の願いが、明治に至って地域の運動へと性格を変えている点である。疏水は、水を通す施設であると同時に、地域を結ぶ制度でもある。だれが費用を負担するのか、どの経路を通すのか、どの村がどれだけの水を得るのか──こうした調整がなければ、水路は地図の上の一本の線にとどまる。構想が運動へ移るとは、この調整を担う人と仕組みが立ち上がることを意味した。

確度の腑分け。ここで確度の層を明示しておく必要がある。天保2年という年紀は、記念誌が伝える起点であって、それ自体を裏づける同時代の一次史料に本稿は突き当たっていない。したがってこの年代は、史実として確定するのではなく、記念誌に伝えられた伝承ないし推定の層に置いて扱う。犬塚祐一郎という人物の実在と、その水利への関与そのものは通説として受け入れてよいが、構想の正確な年次を一点で断ずることには慎重でありたい。半世紀という時間の隔たりは、天保の構想と明治の準備とが、直接に連続する一つの計画であったのか、それとも後年に系譜として結び合わされたものであったのかという問いをも残す。

顕彰の書としての注意。記念誌が起点を江戸後期にまでさかのぼらせるとき、そこには事業の由緒を古く、そして一人の先覚者の慧眼に帰そうとする顕彰的な志向がはたらいている可能性がある。これは記念誌の価値を減じるものではないが、年代を読むうえでの留保としては欠かせない。天保の構想を史実として動かしがたい起点とみるのではなく、明治以降に本格化する水利運動が、みずからの由緒として天保の発想を選び取り、語り継いできた──そのように読むほうが、資料の性格に忠実であろう。天竜川の治水に生涯を捧げた金原明善のように、水にまつわる事業はしばしば一人の人物の物語として語られるが、その物語の背後にある地域の必要と合意を読み落としてはならない。

本稿の評価:社山疏水の構想は、磐田用水の発想的な起点として尊重すべきである。ただし天保2年という年紀は記念誌の伝える起点であり、史実として確定はできない。構想を年代決定の根拠に用いるのではなく、台地の人々が天竜川の水を引くという発想をいつから自らの由緒としてきたかを示す資料として読むべきである。
天保2年〔1831〕 犬塚祐一郎の構想(伝) 明治16年〔1883〕 実現へ向けた準備 約半世紀の隔たり 構想から運動へ ── 埋めるべき半世紀 両者が一つの連続した計画か、後年に結ばれた系譜かは、なお検討を要する。
図3 社山疏水構想の時間軸。天保の発想(橙・伝承)と明治の準備(青)のあいだには約半世紀の隔たりがあり、両者の連続性そのものが検討課題として残る。

4. 第二段階:幹線改良事業(昭和の制度化と初通水)

第二段階・制度化/記録の確度が高まる段階

近代的な幹線水路の整備と戦時下の突貫工事

制度の裏づけ。明治期に進んだ準備は、昭和に入って制度としての形を整える。昭和4年〔1929年〕、磐田用水幹線改良事業計画が県議会で採択された3。県議会の採択という手続きは、用水の整備が個々の村や有志の営みを超えて、公的な事業として位置づけられたことを意味する。近代的な幹線水路の整備が、行政と制度の裏づけを得たのがこの段階である。ここで整えられた幹線は、水を広域へ運ぶ主要な水路であり、末端の田へ直接入る支線とは役割を異にする。幹線が骨格として通ることで、はじめて広い地域への安定した分水が構想可能になった。

戦時下の通水。幹線改良の事業は、やがて戦時下の困難な状況のなかで進められることになる。記念誌は、昭和19年〔1944年〕7月25日の午前10時に通水したと記録する4。この年月日、そして午前10時という時刻の具体性は、記念誌の記述のなかでもとりわけ確度が高いと考えられる部類に属する。日時が刻まれて伝えられているのは、通水がそれだけ強く記憶された到達点であったことの証左である。戦時下の資材や労力の逼迫のなかでの突貫工事を経て、ようやく水が幹線を通ったこの日は、台地の農地にとって画期となった。

年代記述の確度。第一段階の天保の構想と、この第二段階の昭和の事績とでは、記録の確度に明らかな差がある。前者が同時代史料に届かない伝承の層にあるのに対し、後者は県議会の議事という公的手続きや、関係者の記憶に支えられた具体的な日時をともなう。用水史を読むうえでは、この確度の勾配を意識することが欠かせない。同じ記念誌に並記された年代であっても、その一つひとつが立脚する資料の層は一様ではない。近い過去の事績ほど記録は厚く、遠い過去の起点ほど記録は薄くなる──この当然の勾配を無視して、すべての年代を等しく史実として扱うと、用水史の像はかえって歪む。

突貫工事の意味。戦時下に通水を急いだ背景には、食糧増産という切迫した要請があったと考えるのが自然である。ただし本稿の主資料の範囲では、増産の要請と通水との具体的な因果を一次史料で跡づけるには至っていない。したがってこの点は、時代状況から導かれる推定として提示するにとどめる。いずれにせよ、平時であれば数年をかけたであろう工事を、資材の乏しい戦時下に急いで仕上げたという事実は、台地の水不足がそれだけ深刻であり、水を得ることが地域にとって切実な課題でありつづけたことを物語る。施設は、こうした切実さの上に築かれた。

本稿の評価:幹線改良事業は、磐田用水が公的制度の裏づけを得て近代的な水路へと整えられた段階である。昭和4年の県議会採択と昭和19年の初通水は、記念誌の記述のなかでも確度の高い事績として扱ってよい。ただし戦時下に通水を急いだ背景については、時代状況からの推定にとどめる。
昭和4年〔1929〕 幹線改良事業 県議会採択 昭和19年〔1944〕 7月25日午前10時 初通水 戦時下の突貫工事 制度化から初通水へ ── 確度の高い事績 日時まで刻まれて伝わる初通水は、記念誌のなかでも記録の厚い到達点である。
図4 幹線改良の年表。昭和4年の県議会採択(青)から昭和19年の初通水(赤)まで、この段階の年代は公的手続きと具体的日時に支えられ、確度が高い。

5. 第三・四段階:広域水利事業と土地改良区

幹線改良によって用水の骨格が整うと、事業の枠組みはさらに大きくなる。戦後に展開した天竜川下流農業水利事業は、個々の水路の改良から、天竜川下流域を一体としてとらえる広域の事業へと視野を広げた。船明ダムの整備は上流側での流量の調節を可能にし、河口頭首工は取水の地点を安定させ、幹線のパイプライン化は導水の途中で失われる水を減らした。これらの施設整備によって、取水と導水の安定化がはかられ、天候や河川の状態に左右されにくい水利へと近づいた。個別の村が個別の取水口で水を奪い合う段階から、下流域全体で水を計画的に配分する段階への移行である。

この広域化と並行して、施設を日常的に使える状態へ保つ管理の制度も整えられた。昭和25年〔1950年〕11月27日、磐田用水東部土地改良区が認可される5。土地改良区とは、水路・農地・排水施設などを維持管理する組織であり、用水を日常的に使える状態へ保つ制度的な担い手である。それ以前にも水利組合による維持の営みはあったが、土地改良区の成立は、その営みが法的な裏づけをもつ近代的な制度へと移行したことを意味する。水を得ることは、施設を造って終わりではない。土砂の堆積、漏水、堰や分水工の傷み、干ばつや豪雨への対応が絶えず続く。用水は完成した瞬間から劣化がはじまり、維持管理の責任を引き受ける組織がなければ、やがて水は流れなくなる。

管理の制度化は、さらに技術の面でも進む。平成5年度には、国・県の補助によって水管理システムが導入された。これは広い用水区域の状況を把握しやすくする管理設備であり、遠隔・集中的に水の動きを見て調整する段階への到達を示す。天保の構想から数えれば、一個人の発想としてはじまった用水が、160年余りを経て、区域全体を集中管理する技術の段階に至ったことになる。構想・改良・広域化・管理という四段階は、この一点においてひとつの到達を見る。

もっとも、これら第三・四段階についても、確度の腑分けは怠れない。船明ダムや河口頭首工、パイプライン化といった施設整備の事実そのものは、事業記録や現地の施設によって確認できる史実の層に近い。他方で、それぞれの施設が用水の安定にどれだけ寄与したかという定量的な評価は、受益面積や通水量といった数値を精査しなければ確定できず、本稿はその作業にまで踏み込んではいない。したがって「安定化がはかられた」という記述は、施設整備という史実に立脚しつつも、その効果の程度については通説ないし推定の水準にとどまることを断っておく。管理組織の認可年月日のように公的手続きに支えられた事柄と、事業の効果のように評価を要する事柄とは、同じ段階のなかでも確度が異なる。

また、土地改良区という制度そのものの含意にも一言しておきたい。この組織は、受益者である農家が費用と労力を負担しあって用水を維持する仕組みである。すなわち、水を得た者が水を守る責任を引き受けるという原則が、制度として明文化されている。天竜川の水を台地へ引くという構想が、最終的に受益者負担による維持管理の制度に着地したことは、用水史が施設の歴史であると同時に、負担と合意をめぐる社会の歴史であったことを、制度の側から裏づけている。磐田用水の総論が四段階を「構想・改良・広域化・管理」と整理するとき、その最後に管理が置かれるのは、水利が結局のところ、維持しつづける意志と負担なしには成り立たないという事実を映している。

6. 史料批判 ── 記念誌『磐田用水の歩み』をどう読むか

ここまで四段階を追ってきたが、その記述の多くは、主資料である設立50周年記念誌『磐田用水の歩み』に依拠している。この一点に、用水史の記述がかかえる方法上の課題が集約されている。記念誌は、事業の歩みを丹念にまとめた第一級の資料である。同時にそれは、設立50周年を機に刊行された顕彰の書でもある。顕彰の書には固有の傾向がある。功績を強調し、困難を克服の物語として整え、事業の由緒をできるだけ古く、そして先覚者の慧眼に帰そうとする。これらの傾向は、記述の価値を損なうものではないが、年代や事績をそのまま史実として受け取ることへの留保を要求する。

そこで本稿が採ったのは、記念誌の記述を、確認可能な項目に分けて読むという手続きである。人物の功績をそのまま称えるのではなく、構想・事業費・受益面積・通水・管理組織といった、検証しうる項目ごとに情報を分解し、それぞれがどの資料層に立脚するかを見定める。この分解によって、同じ記念誌に並記された年代であっても、天保の構想のように一次史料に届かない伝承の層にあるものと、昭和19年の初通水のように具体的日時をともなう確度の高いものとが、明確に区別されて見えてくる。以下の表は、四段階の各項目を、年代・主な動き・確度の層・史料批判上の留意点という同一の粒度で並べ、確度の勾配を可視化することを目的とする。

表1 磐田用水 四段階の比較 ── 年代・動き・確度の層・史料批判上の留意点
段階年代主な動き確度の層留意点(史料批判)
社山疏水の構想天保2年〔1831年〕ごろ犬塚祐一郎が天竜川の水を台地へ導く社山疏水を構想したとされる。伝承・推定記念誌の伝える起点。同時代の一次史料に未確認。由緒を古くする顕彰的志向に留意。
実現への準備明治16年〔1883年〕ごろ構想から約半世紀後、実現へ向けた準備が地域の運動として進む。通説天保の構想との連続性そのものが検討課題。個人の願いから地域運動への移行。
幹線改良事業昭和4年〔1929年〕磐田用水幹線改良事業計画が県議会で採択される。史実に近い県議会の議事という公的手続きに支えられ、確度が高い。
初通水昭和19年〔1944年〕7月25日午前10時に通水したと記録される。戦時下の突貫工事の到達点。史実に近い具体的日時をともない記録が厚い。増産要請との因果は推定にとどまる。
東部土地改良区昭和25年〔1950年〕11月27日磐田用水東部土地改良区が認可され、管理組織が制度化する。史実に近い認可という公的手続きによる。以前の水利組合の営みを引き継ぐ。
水管理システム平成5年度国・県補助により、区域を集中管理する水管理システムを導入。史実に近い施設整備は確認できるが、効果の程度の評価は数値の精査を要する。

この表から浮かび上がるのは、確度の勾配である。近い過去の事績ほど記録は厚く、公的手続きや具体的日時に支えられて史実に近い層にある。遠い過去の起点ほど記録は薄く、記念誌の伝承や後年の推定に頼らざるをえない。用水史を書くとは、この勾配を平らにならすことではなく、勾配をそのまま示すことである。すべての年代を等しく確定した史実として並べてしまえば、天保の構想も昭和の通水も同じ重みをもつかに見えてしまい、資料の実態から離れる。逆に、確度の低い起点を切り捨ててしまえば、台地の人々が長く抱いてきた発想の系譜が見えなくなる。求められるのは、各項目をそれが属する層のなかで正当に評価することである。

この史料批判の作業は、用水史に限らず、水利史一般に通じる含意をもつ。水利の歴史は、ともすれば「だれが偉かったか」という人物顕彰の物語に回収されやすい。犬塚祐一郎の先見、事業を推進した人々の労苦──こうした人物の事績は確かに記録に値する。だが水利史でほんとうに問うべきは、どの土地が水を必要とし、どの施設が水を動かし、どの組織が費用と維持を担ったかである。人物史・農業史・土木史・制度史を切り分けて読むこと。功績の称揚と、施設と負担の記録とを別の水準で扱うこと。記念誌のような顕彰の書を主資料とするときにこそ、この切り分けは欠かせない。

本稿が扱う磐田用水の系譜には、天竜川をめぐる別の主題も接している。用水の総論が指摘するように、水利史は治水史と隣り合う。天竜川の水を引いて田を潤す用水の営みと、天竜川の氾濫を防いで暮らしを守る治水の営みとは、同じ川に向き合う裏表の関係にある。また、水を得て新たに開かれた田は、しばしば「新田」と名のつく地名として土地に刻まれた。用水史は、治水史とも新田開発史とも地続きであり、それぞれの主題を照らし合わせることで、天竜川と磐田原台地の関係の全体像が像を結んでいく。

頭首工取水 幹線導水 分水工分配 支線・水田受益 排水路排水 土地改良区による維持管理(負担と合意) 水利の系統 ── 取水から排水、そして管理へ 施設の連鎖全体を、受益者負担の管理組織が下支えする。
図5 水利の系統。頭首工での取水から幹線・分水・支線・排水までの施設の連鎖を、土地改良区による維持管理が下支えする。水利は施設と負担の総体である。

7. 背景としての地理 ── 向陽・御厨・福田と水の行方

磐田用水は広域の水利であるが、その歩みを地域に即して読むと、水がどこから入り、どの農地へ届き、どの地域が維持に関わったかという地理の筋道が見えてくる。磐田物語の地域分類において、磐田用水が向陽・御厨・福田にまたがって置かれているのは、行政区域の線引きによるのではなく、まさにこの水の行方に即した整理だからである。三つの地域は、それぞれ用水史のなかで異なる位置を占める。

まず向陽である。社山疏水の構想が、社山・向笠・岩田方面の地形を起点とすることは先に触れた。向陽は、取水と台地、そして社山の記憶を担う地域であり、天竜川の水を台地へ導き入れる入口にあたる。用水の発想がこの地形から生まれたことは、向陽が磐田用水の理解に欠かせない起点であることを意味する。台地の縁で水をどう受け、どう持ち上げるかという最初の難題は、この地域の地形と不可分であった。

次に御厨である。幹線改良によって整えられた骨格のなかで、寺谷用水や社山幹線は、御厨をはじめとする東部地域へ水を送る役割を担った。御厨は、台地へ入った幹線の水を受け止める受け皿として位置づけられる。幹線という骨格が通ることで、東部地域は安定した分水の対象となり、水田の維持や農作業の段取りが川と幹線のリズムに結びついていった。幹線の水が御厨へ入る流れは、用水が個別の取水から広域の分配へ移行したことを、地域の側から具体的に示している。

そして福田である。福田は、幹線から分けられた水が向かう下流側にあたり、分水の行き先として、また下流の水田として用水史に登場する。上流で取り入れられ、幹線を通り、分水工で系統ごとに分けられた水が、最終的にどの田へ届くのか。その末端に福田がある。水利において、分水は公平性と優先順位が絶えず問題になる領域である。限られた水をどの地域へどれだけ分けるかという調整は、上流と下流のあいだに緊張を生みやすい。福田が下流側に位置することは、この地域が分水の調整の帰結を受け止める側にあったことを意味する。

向陽の取水、御厨の受け皿、福田の分水の行き先──この三者を貫いて見ると、磐田用水が一本の水路名ではなく、天竜川の水をどう受け、どう分け、どう守ってきたかという地域の共同作業の記録であることが、地理の上でも確かめられる。用水は、台地の縁から下流の田まで、いくつもの地域を水の流れで結んだ。その結びつきは、水を分かちあうことの困難と、それでもなお分かちあわねばならなかった必要とを、同時に地図の上に刻んでいる。地理的背景を押さえることは、四段階の制度史に、それが実際に営まれた土地の手ざわりを与える。

天竜川 水源 向陽 取水・社山 御厨 幹線の受け皿 福田 下流・分水の先 水の行方 ── 向陽・御厨・福田 正確な水路位置を示す地図ではなく、地域間の水の流れの関係を模式化したものである。
図6 水の行方の模式図。向陽の取水・社山、御厨の幹線の受け皿、福田の下流・分水の先という三者の位置関係を示す。地域分類は行政区域ではなく水の流れに即している。

8. 結論 ── 施設史から水をめぐる合意の歴史へ

本稿は、磐田用水の歩みを、社山疏水の構想・幹線改良・広域水利事業・土地改良区の管理という四段階に腑分けし、史実・通説・推定・伝承の確度層と史料批判の観点から検討した。得られた見取り図は次のとおりである。天保2年〔1831年〕ごろの社山疏水の構想は、記念誌が伝える起点であって同時代の一次史料には未確認であり、伝承ないし推定の層に置くべきものである。これに対し、昭和4年〔1929年〕の幹線改良事業の県議会採択、昭和19年〔1944年〕7月25日の初通水、昭和25年〔1950年〕の東部土地改良区の認可は、公的手続きや具体的日時に支えられ、史実に近い確度をもつ。近い過去ほど記録は厚く、遠い過去の起点ほど記録は薄いという確度の勾配を、平らにならさずそのまま示すことが、用水史の記述には求められる。

この検討から導かれる本稿の立場は明確である。磐田用水の歴史は、施設を造った土木の歴史として書かれるべきではなく、天竜川の水をだれがどこで取り、どの地域へ分け、だれが維持するかをめぐる合意と負担の歴史として書かれるべきである。頭首工・幹線・分水工・支線・排水路という施設の連鎖は、それ自体が目的なのではなく、水を必要とする土地と、水を守る責任を引き受ける人々とを結ぶための手段であった。土地改良区という受益者負担の制度に用水が最終的に着地したことは、この見方を制度の側から裏づけている。水を得た者が水を守る──この原則こそ、四段階の全体が向かってきた着地点である。

あわせて、主資料の性格についての結論も述べておきたい。設立50周年記念誌『磐田用水の歩み』は、用水史を知るうえで欠かせない第一級の資料であると同時に、顕彰の書でもある。顕彰の書を主資料とするときは、功績の称揚と、施設・負担・年代の記録とを別の水準で読み分けねばならない。人物史・農業史・土木史・制度史を切り分け、それぞれの記述がどの資料層に立脚するかを見定めること。この禁欲的な手続きを経てはじめて、記念誌は顕彰の物語から、後世の調べものに耐える史料へと読み替えられる。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を記しておく。第一に、天保の構想と明治の準備との連続性については、江戸後期の地方文書や、犬塚祐一郎に関わる同時代史料を博捜することで、未確認の状態を史実へ一歩近づけられる余地がある。第二に、幹線改良や広域水利事業が受益面積や通水量にどれだけの効果をもたらしたかは、事業記録の数値を精査することで、通説や推定を通説から史実へ押し上げうる。第三に、磐田用水の営みと天竜川の治水史、そして新田開発史との関係は、同じ川に向き合う三つの主題として、照らし合わせて論じられるべきである。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。天竜川の水を台地へ引くという発想が、二世紀近い時間をかけて制度と技術の段階に至った道のりを、確度の層を保ったまま丹念にたどりつづけること──その先にこそ、磐田用水という営みが台地に刻んできた記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。社山疏水の構想の詳細、幹線改良事業の実態、そして土地改良区の管理の展開については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿が扱った向陽・御厨・福田をはじめ、磐田用水が潤してきた土地には、水とともに受け継がれてきた古い家や田畑が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 磐田原台地は周囲の低地より高く、台地上は水利に乏しい。天竜川が近接しながらも農地への安定した導水が困難であったことは、用水事業を必要とした根本の地理的条件である。
  2. 天保2年〔1831年〕ごろの犬塚祐一郎による社山疏水の構想は、設立50周年記念誌『磐田用水の歩み』が伝える起点である。同時代の一次史料による裏づけは本稿の範囲では未確認であり、伝承ないし推定の層として扱う。
  3. 昭和4年〔1929年〕の磐田用水幹線改良事業計画の県議会採択による。県議会の議事という公的手続きに支えられ、記念誌の記述のなかでも確度が高い。
  4. 記念誌は、昭和19年〔1944年〕7月25日午前10時の通水を記録する。具体的日時をともなう点で記録が厚い。戦時下の食糧増産要請と通水との具体的因果は、本稿の範囲では推定にとどまる。
  5. 昭和25年〔1950年〕11月27日の磐田用水東部土地改良区の認可、および平成5年度の水管理システム導入による。いずれも公的手続き・事業記録に支えられるが、施設の効果の程度の評価は数値の精査を要する。

付記:本稿は一般読者向け記事 c028「磐田用水の歩み」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、天保2年の構想を伝承・推定、昭和4年の採択・昭和19年の初通水・昭和25年の改良区認可を史実に近い層として扱った。

参考文献・参考資料

  • 磐田用水東部土地改良区『磐田用水の歩み』(設立50周年記念誌)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 磐田市『磐田市史』資料編(近世・近代の水利関係史料)。
  • 旧向笠村・旧御厨村・旧福田町ほか関係町村の町村史・地誌。
  • 静岡県『静岡県史』通史編(農業・水利に関する章)。
  • 天竜川下流農業水利事業(船明ダム・河口頭首工・幹線パイプライン化)関係事業資料。
  • 寺谷用水に関する地域史・水利史資料。
  • 農林水産省 土地改良法および土地改良区制度に関する解説資料。
  • 磐田用水の取水・幹線・分水施設に関する現地案内・碑文。
  • 磐田用水東部土地改良区 公式ウェブサイト (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 農林水産省ウェブサイト 土地改良制度の項 https://www.maff.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c028「磐田用水の歩み ── 天竜川の水が変えた農地と暮らし」 https://iwata-monogatari.net/c028.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「金原明善 天竜川と向き合った治水の生涯」大石浩之の磐田論考 第34号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/034/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「『新田』と名のつく土地 ── 江戸の開発が刻んだ地名」大石浩之の磐田論考 第33号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/033/ (最終閲覧:2026年7月25日)。