磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第59号(豊田・加茂の民俗研究)
加茂大念仏 ── 盆の念仏行事と供養の記憶
太鼓踊り念仏にみる村の死者供養
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
加茂大念仏は、磐田市豊田の加茂に伝わる市指定無形民俗文化財であり、遠州一帯に広がる盆の念仏行事――遠州大念仏の系譜に属する死者供養の民俗芸能である。毎年8月9日、加茂の大円寺の施餓鬼会の夜から始まり、その年に初盆を迎えた家々を一軒ずつ廻って、鉦と笛・太鼓の調べに念仏を踊り、双盤と呼ばれる大鉦の響きで亡き人の霊を慰めると伝えられる。本稿は、この行事を単独の珍しい芸能としてではなく、盆の死者供養という枠組みと村落共同体の記憶のなかに置き直して読む。指定の事実、行事の次第、遠州大念仏の起源とされる三方原合戦・犀ヶ崖の供養伝承、匂坂西や七蔵新田など複数集落から加茂東のみへと縮小した継承の跡を、それぞれ史実・伝承・推定の層に腑分けし、確度の異なる情報を同一平面で混同しない姿勢を保つ。行事の起源年代を一点に確定するのではなく、村が死者をどう送り、その記憶をどう受け渡してきたかを記述することを本稿の課題とする。
キーワード:加茂大念仏/遠州大念仏/盆行事/死者供養/双盤/施餓鬼会/無形民俗文化財
1. 問題設定 ── 盆の念仏行事をどう読むか
加茂大念仏は、静岡県磐田市豊田の加茂に伝わる盆の念仏行事であり、平成30年(2018年)9月28日に市の無形民俗文化財に指定された1。毎年の盆に、鉦と笛・太鼓を打ち鳴らしながら念仏を踊り、その年に亡くなった人の初盆を弔う――この行事は、遠州一帯に広く分布する盆の念仏芸能、すなわち遠州大念仏の一つとして、加茂の集落に受け継がれてきた。
無形民俗文化財は、建物や古文書のように形をとどめる文化財とは、残り方の性格が根本的に異なる。所作、音、供え物、家や町内の役割、そして世代から世代への受け渡しによってしか残らない。したがって、行事名と指定年月日を記録するだけでは、その文化財を書き留めたことにはならない。どの集落で、どの寺や道筋と結びつき、どの季節に何を願って営まれてきたのか――その関係の総体を読まなければ、行事は理解できない。本稿の出発点は、この認識にある。
本稿が問おうとするのは、「加茂大念仏はいつ始まったのか」という起源の年代確定ではない。盆の念仏行事の多くは、近代的な年表のように「何年に創始された」と一点で押さえられるものではなく、村の暮らしと死者供養の営みのなかで、少しずつ形を整えながら伝えられてきた。起源を一点に決めようとすれば、確度の低い伝承を史実のように語るか、逆に価値ある伝えを根拠薄弱として切り捨てるか、いずれかの誤りに陥りやすい。本稿は、そのどちらの過ちも避けるために、行事にまつわる情報を確度の層ごとに腑分けし、村が死者をどう送ってきたかという営みそのものを記述の対象に据える。
この姿勢をとる理由は、加茂大念仏がまさに「死者を送る」ための行事だからである。祭礼のなかには豊作や無病息災を願うものが多いが、大念仏は初盆の家を廻り、その年の新しい死者を慰めることを直接の目的とする。行事の意味の核が死者供養にある以上、これを読むことは、村がどのように別れを受けとめ、悲しみを共同体の営みへと組織してきたかを読むことにほかならない。所作の様式や音の性格も、この供養という目的から逆算して理解する必要がある。
あらかじめ、本稿で用いる確度の層を定義しておく。第一に史実、すなわち公式の指定情報や調査報告といった資料によって確認できる事柄。第二に伝承、地域で語り継がれ、固有の一次史料による裏づけには乏しいが、行事の意味を長く支えてきた事柄。第三に推定、地形や周辺の行事、継承の実態から導かれるが、なお確認を要する事柄である。この三層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。行事の事実に関する記述は、一般読者向けの読みもの版加茂大念仏(t031)に忠実に拠りつつ、その根拠の確度を明示し直していく。
2. 史料で確認できること ── 指定の事実と行事の概要
検討に入る前に、公式の資料によって確認できる範囲を確定しておく。磐田市公式サイトの記載によれば、加茂大念仏は平成30年(2018年)9月28日に市指定無形民俗文化財となり、所在地は加茂(加茂東・大円寺)、保存団体は加茂大念仏保存会である。文化財名、指定区分、指定年月日、所在地、保存団体名は、いずれも公式情報に基づく史実として扱ってよい。ここまでは、行事の解釈の当否とは独立に、資料で裏づけられる事柄である。
行事の概要についても、公式サイトおよび磐田市教育委員会の調査報告に依拠して押さえられる範囲がある2。加茂大念仏は毎年8月9日、加茂の大円寺で営まれる施餓鬼会(せがきえ)の夜から始まり、その年に初盆を迎えた家々を一軒ずつ廻る民俗芸能であるとされる。鉦と笛・太鼓の調べに合わせて念仏が踊られ、大念仏で打ち鳴らされる大きな鉦「双盤(そうばん)」の、荘厳でありながら哀愁を帯びた響きが、亡き人の霊を慰めるにふさわしいものと伝えられている。行事は戦後に一度復興されたとされ、かつては加茂だけでなく、匂坂西や七蔵新田など豊田地区の複数の集落でも行われていたが、現在も継承が続いているのは加茂東のみであるという。
ここで、確認できる事柄の性格に一言しておきたい。指定の事実は行政文書に基づく史実であるが、それが保証するのは「この行事が現に伝わり、保存継承の必要が制度上認められた」という点であって、行事がいつどのように成立したかではない。無形民俗文化財の指定は、行事の現存と価値の公的な確認であり、起源の年代確定ではない。指定年月日を史実として記録しつつ、成立年代の問いはそれとは別の層に属する問題として切り分けておく必要がある。
もう一点、行事の概要を記す資料の性格も見ておく。施餓鬼会からの初盆廻り、双盤の響きといった記述は、公式サイトの説明や教育委員会の調査報告に拠るものである。これらは現に行われている行事の観察と聞き取りに基づく信頼度の高い記録であるが、行事の起源や、かつての広がりの詳細については、なお伝承・推定の領域に踏み込む部分が含まれる。したがって本稿では、現行の行事の姿を記述する部分と、起源や変遷を語る部分とで、依拠する資料の確度が異なることを、そのつど明示していく。
加えて、方法上の区別を一つ立てておきたい。加茂大念仏の成立年代を直接記した一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しないと断定できる(=記載がない)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、成立年代を裏づける一次史料に突き当たっていない(=未確認)」という状態である。行事が近代の記録に乏しいのは、村の内々の営みとして文字に残されにくかったためとも考えられるが、それ自体が別に検証を要する問いである。この「未確認」と「記載なし」の区別は、以下の検討でも一貫して保持する。
3. 遠州大念仏の起源伝承 ── 三方原合戦と犀ヶ崖の供養
戦没者供養に始まるとされる遠州大念仏の起こり
伝承の骨子。加茂大念仏が連なる遠州大念仏全体の起源については、次のような伝承が広く知られている。元亀3年(1572年)の三方原合戦で、徳川家康は生涯唯一とも言われる敗戦を喫し、多くの将兵が命を落としたとされる。その2年後にあたる天正2年(1574年)、家康が了傳(りょうでん)という念仏僧を招き、犀ヶ崖(さいががけ、現在の浜松市)で戦没者の霊を弔ったのが、遠州大念仏の始まりと伝えられている3。夜な夜な響くとされた戦没者の呻き声や、疫病・害虫の発生といった災厄も、この供養が始まった理由として語られてきたという。
この伝承の説明力。戦没者供養を起点とするこの伝承は、遠州大念仏がなぜ「死者を慰める」性格を強くもつのかを、一つの物語として説明する。無縁の死者、非業の死を遂げた者の霊を鎮めるという主題は、盆の念仏行事が初盆の家を廻って新しい死者を弔う所作と響き合い、行事全体を鎮魂の営みとして意味づける枠組みを与える。加茂大念仏の双盤の、哀愁を帯びた響きが「亡き人の霊を慰めるにふさわしい」と語られる感覚も、この鎮魂という核と地続きである。
資料的裏づけと限界。三方原合戦そのものは史料で確認できる史実であるが、了傳を招いての犀ヶ崖供養が遠州大念仏の直接の起源であるという筋立ては、地域に広く語られてきた伝承の層に属する。これを加茂大念仏固有の史実として扱うことはできない。まして、犀ヶ崖の供養から加茂の行事までを一本の系譜で直接に結ぶ一次史料は、本稿の範囲では確認できない。天正2年という年紀は、遠州の盆の念仏が戦没者供養という意味を帯びていく画期を象徴的に語ったものと解するのが穏当であり、これを加茂大念仏の創始年として読むことはできない。
系譜としての枠組み。それでもこの伝承は、加茂大念仏を孤立した一集落の行事としてではなく、遠州一帯に広がる盆の念仏行事の系譜のなかに位置づける手がかりとなる。盆の夜に「念仏組」と呼ばれる一団が、初盆の家の庭先で鉦・笛・太鼓を打ち鳴らし、念仏を唱えるという遠州一帯の盆行事の枠組みは、加茂大念仏にもそのまま受け継がれていると考えられる5。豊田に隣接する豊岡でも同系の行事が伝わっており、豊岡の遠州大念仏と加茂大念仏は、同じ系譜のなかで比較して読むことができる。
4. 所作を読む ── 施餓鬼会・初盆廻り・双盤の響き
加茂大念仏の所作は、施餓鬼会に始まり、初盆の家々を廻り、双盤と鉦・笛・太鼓の響きによって死者を慰めるという、一続きの流れとして理解できる。ここでは、公式サイトと調査報告に記された行事の姿を、供養の営みとしての意味の連関に沿って読み直す。
まず、行事が大円寺の施餓鬼会の夜から始まる点に注目したい。施餓鬼会は、無縁の死者や餓鬼道に堕ちた霊に施しを与えて救う仏事であり、盆に営まれることが多い。加茂大念仏がこの施餓鬼会を起点とすることは、行事が寺の仏事と分かちがたく結びつき、無縁の死者をも含めて弔うという性格をもつことを示している。寺で営まれる公的な供養から、家々を廻る私的な初盆の供養へと、行事が段階的に展開していく構造がここにある。
次に、初盆を迎えた家々を一軒ずつ廻るという所作である。これは、その年に新しく生じた死を、村の共同の営みとして受けとめる形式にほかならない。遺された家が単独で悲しみを抱えるのではなく、念仏組が庭先に立ち、鉦・笛・太鼓と念仏をもって死者を送る。廻るという所作そのものが、死を個々の家の私事にとどめず、集落全体で分かち合う仕組みとして機能してきた。初盆廻りは、村がその年の死者を一人ずつ確かめ、送り届けていく営みである。
そして、双盤の響きである。双盤と呼ばれる大きな鉦は、大念仏を特徴づける鳴り物であり、その荘厳でありながら哀愁を帯びた音が、亡き人の霊を慰めるにふさわしいものと伝えられている。音は無形民俗文化財の中核をなす要素であり、双盤の響きは、文字や図では残しがたい行事の情動的な核を担う。鉦と笛・太鼓の調べに合わせて踊られる念仏踊りは、悲しみを様式のある身体の所作へと組織し、共同体が別れを受けとめる形式を与えるものといえる。
この所作を実際に担うのは、念仏組と呼ばれる集落の一団である。無形民俗文化財が、建物や古文書と違って所作と音によってしか残らない以上、行事を支えるのは、鉦や笛・太鼓を打ち、念仏を唱え、初盆の家々を廻る人々そのものである。双盤という大きな鉦をはじめとする鳴り物を維持し、打ち方や踊りの手順を年長者から若い世代へ受け渡していく――この世代間の継承の営みがなければ、行事は一年で途絶える。加茂大念仏を読むとは、その所作を演じる担い手の存在と、彼らが毎年くり返してきた準備と稽古の蓄積を、あわせて読むことでもある。所作の様式は、担い手の身体を通じてのみ次の世代へ渡っていく。
これら三つの局面――施餓鬼会による無縁の死者の救済、初盆廻りによる新しい死者の供養、双盤と念仏踊りによる情動の様式化――は、いずれも「死者を送る」という一つの目的のもとに連関している。加茂大念仏を読むとは、この連関を、珍しい芸能としてではなく、村が別れを受けとめるための一続きの手続きとして読むことである。行事の所作を孤立して観察するのではなく、供養という目的から所作の順序と意味を理解することが求められる。
5. 広がりと縮小 ── 匂坂西・七蔵新田から加茂東へ
加茂大念仏を読むうえで見落とせないのが、この行事がかつてより広い範囲で営まれ、現在は加茂東のみに残るという継承の跡である。公式の説明によれば、かつては加茂だけでなく、匂坂西(さぎさかにし)や七蔵新田(しちぞうしんでん)など豊田地区の複数の集落でも大念仏が行われていたが、現在も継承が続いているのは加茂東のみになっているという4。行事はまた、戦後に一度復興されたとも伝えられる。
この「広がりと縮小」の跡は、豊田地区における盆行事・念仏講の変遷そのものを映している。かつて複数の集落で並行して営まれていた盆の念仏が、担い手の減少や社会の変化のなかで一つまた一つと途絶え、加茂東に残った――この過程は、加茂大念仏だけの事情ではなく、遠州一帯の盆の念仏行事が近代以降にたどった道筋の、一つの縮図として読むことができる。行事が「戦後に一度復興された」という伝えも、いったん途絶えかけた営みを村が意識的に立て直した経緯を示唆しており、継承が自然に続いたのではなく、担い手の意志によって支えられてきたことをうかがわせる。
ただし、加茂とほかの集落(匂坂西・七蔵新田など)との継承関係の詳細は、なお推定の域を出ない。かつてこれらの集落で行われていた大念仏が、加茂のものと同一の系統に属していたのか、それぞれ独立に成立して後に同じ遠州大念仏の枠組みへ括られたのか、あるいは相互に影響し合っていたのか――その異同の判定には、各集落の念仏講に関する史料や聞き取りの蓄積が要る。本稿の範囲では、これらの集落間の関係を確定する一次史料には突き当たっていない。したがってここでは、複数集落での並行と加茂東への収斂という大きな流れを記録しつつ、その内部の系統関係は今後の資料確認に委ねる。
広がりと縮小の跡は、盆行事を支えてきた社会そのものの変化とも切り離せない。かつて豊田地区の各集落には、盆の念仏を営む念仏講や、それに準じる村の組織があったと考えられる。田畑と川に沿って点在する集落が、それぞれ自前の念仏組を抱え、初盆の家を廻っていた光景は、農村共同体が死者供養を共同の務めとして担っていた時代の姿である。近代以降、人の移動が増え、集落の結びつきが緩むなかで、こうした念仏講の多くは維持が難しくなった。加茂東に行事が残ったこと、そして戦後に一度立て直されたことは、この地区の共同体が、縮小の圧力のもとでもなお死者供養の営みを手放さなかった一つの結果として読むことができる。
この縮小の跡を記録すること自体に、無形民俗文化財ならではの意味がある。形のある文化財であれば、失われたものは物として残らないが、無形の行事の場合、かつてどこで営まれ、どのように途絶えたかという記憶もまた、たどるべき対象である。匂坂西や七蔵新田でかつて大念仏が営まれていたという伝えは、現在は行事として残っていなくとも、その集落が死者をどう送ってきたかの記憶として、なお意味をもつ。加茂東に残る行事は、失われた分をも背負って、豊田の盆の念仏の記憶を代表しているといえる。
6. 確度の腑分け ── 史実・伝承・推定
ここまで見てきた諸要素は、しばしば一続きの「加茂大念仏の由来」として語られる。しかし各要素は、依拠する資料の性格が根本的に異なる。指定の事実は公式情報に、行事の概要は公式サイトと調査報告に、遠州大念仏の起源は地域伝承に、集落間の継承関係は今後の資料確認を要する推定に、それぞれ基盤を置く。資料の層が異なる事柄を同一平面で並べ、すべてを等しく確からしい史実であるかのように語るのは、方法として適切でない。以下の比較表は、各要素を確度の層・内容・依拠する資料・留意点において対等の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。
| 要素 | 確度の層 | 主な内容 | 依拠する資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 市指定・指定年月日 | 史実 | 平成30年(2018年)9月28日に市指定無形民俗文化財となる。 | 磐田市公式サイト、指定文化財一覧。 | 指定は行事の現存と価値の確認であり、成立年代の確定ではない。 |
| 行事の概要 | 史実に近い記録 | 8月9日、大円寺の施餓鬼会から初盆の家々を廻る。双盤・鉦・笛・太鼓。 | 公式サイト、磐田市教育委員会の調査報告。 | 現行の観察・聞き取りに基づく。古い形との異同は別問題。 |
| 遠州大念仏の起源 | 伝承 | 三方原合戦(1572年)の戦没者を了傳が犀ヶ崖で弔ったのが起こりとされる。 | 遠州一帯に広く語られる起源伝承。 | 加茂大念仏固有の史料による裏づけはない。創始年には用いない。 |
| 集落間の広がり | 推定 | かつて匂坂西・七蔵新田等でも営まれ、現在は加茂東のみに残る。 | 公式の説明、地域の伝え。 | 集落間の系統関係は未確認。今後の資料確認を要する。 |
この整理から見えてくるのは、加茂大念仏をめぐる情報が、単一の確度に還元できない複数の層から成り立っているという事実である。指定の事実は行政文書で確認できる史実であり、行事の概要は現行の観察に基づく信頼度の高い記録である。一方、遠州大念仏の起源とされる犀ヶ崖の供養は、加茂固有の史料をもたない伝承であり、集落間の継承関係はなお推定にとどまる。これらを一つの「由来」として平板に語れば、確度の異なる情報が混ざり合い、後から資料で検証し直すことが困難になる。
史料批判の観点からは、いずれの要素についても「加茂大念仏そのものの成立年代を直接記す一次史料は未確認である」という同一の限界が課される。この限界は、行事の価値を損なうものではない。無形民俗文化財の価値は、古い年代を証明できるかどうかにあるのではなく、村が死者供養の営みを現に受け継いできたという事実にある。したがって本稿は、成立年代を確定できないことをもって行事の意義を減じることはせず、確度の層を保ったまま、確認できる事柄と伝承・推定の事柄とを書き分けることに徹する。
この作法は、郷土史の記述一般に通じる。地域の行事を書くとき、私たちはしばしば「本当はいつ、どのように始まったのか」という問いに引き寄せられ、伝承のなかから一つの起源を選び取ろうとする。しかしその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、検証の余地を塞いでしまう。素材とした読みもの版が「公式情報を事実情報、地域伝承を伝承、地形・道からの読みを独自考察として分けて扱った」と明記していたのは、まさにこの混同を避けるための手続きであった。本稿は、その腑分けを研究者向けにさらに徹底し、後の資料確認で更新できる形に整えることを企図している。
7. 背景としての地理 ── 天竜川沿いの豊田と盆の民俗
確度の腑分けを経たうえで、なお視野に入れておくべきは、加茂大念仏が営まれてきた土地の性格である。加茂は豊田地区に属し、天竜川沿いに開けた集落である。豊田の天竜川沿いの集落、豊岡の山麓と川筋の集落、掛塚の湊町では、それぞれ祭礼や年中行事の成り立ちが異なる。行事は、集落の道、寺や神社、家並み、田畑、川との関係のなかで続いてきたのであって、土地の性格を抜きに行事だけを取り出しても、その全体像はつかめない。
加茂大念仏が大円寺の施餓鬼会を起点とし、集落の家々を廻る形式をとることは、この行事が村落共同体の空間と分かちがたく結びついていることを示す。念仏組が廻る道筋、初盆の家の分布、寺と集落の位置関係は、いずれも行事の実際の姿を規定する要素である。無形民俗文化財の記録で大切なのは、行事当日の所作だけを見るのではなく、準備、担い手、道具、音、巡行路、集落の境界を一体として見ることである。加茂大念仏も、加茂という集落の空間のなかに置き直してはじめて、なぜこの場所でこの行事が続いてきたのかが見えてくる。
盆の民俗という広い枠組みのなかで見れば、加茂大念仏は、死者を迎え、慰め、送るという盆の一連の営みの、地域固有の表現でもある。盆は、亡き人が家に還り、また送られる季節であり、その営みは全国に共通する。しかし、その共通の枠組みが、どの寺のどの仏事と結びつき、どの鳴り物でどう演じられ、どの集落の道を廻るかは、土地ごとに異なる。加茂大念仏における双盤の響き、施餓鬼会からの初盆廻りという形は、遠州の、豊田の、加茂の盆がとった固有の形にほかならない。豊田地区の民俗を読むことは、こうした固有の形の集積を読むことである。
同じ加茂の地には、賀茂神社の特殊神饌という別の指定文化財も伝わる。賀茂神社特殊神饌が神への供饌をめぐる行事であるのに対し、加茂大念仏は死者への供養をめぐる行事であり、両者は「供える」という所作を共有しながら、その向かう先を異にする。一つの集落が、神への供饌と死者への供養という二つの営みを併せもってきたこと自体、加茂という土地の信仰の厚みを物語る。行事を一つずつ孤立させず、同じ土地に重なる複数の営みとして読むとき、村の暮らしと信仰の全体が像を結び始める。死者供養という主題は、遠江の霊場信仰とも通じており、既刊の遠江四十九薬師霊場を扱った論考と併せて読むと、この地域が死と救済をめぐる信仰をいかに厚く積み重ねてきたかが見えてくる。
この土地の性格を踏まえると、加茂大念仏を訪ねる際の作法も見えてくる。無形民俗文化財は、行事当日の数時間だけを見ても全体像をつかみにくい。普段の寺や集落の道、川や田畑の位置、家々の分布を先に見ておくと、なぜこの場所でこの行事が続いてきたのかが理解しやすくなる。そして何より、見学や撮影は、保存団体、寺、町内、地域住民のルールを優先しなければならない。行事を記録することは、担い手の負担を増やすことではなく、村が守ってきた供養の秩序を尊重しながら、その記憶を次の世代へ受け渡すことでなければならない。行事を珍しい見世物として消費するのではなく、死者を送る村の営みとして敬意をもって向き合う姿勢が、記録する側にも求められる。
8. 結論 ── 村の死者供養の記憶をどう残すか
本稿は、加茂大念仏を、遠州大念仏の系譜と盆の死者供養という枠組みのなかに置き直し、行事にまつわる情報を史実・伝承・推定の三層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。加茂大念仏が市指定無形民俗文化財であること、8月9日に大円寺の施餓鬼会から初盆の家々を廻り、双盤の響きで死者を慰めることは、公式情報と調査報告に基づいて確認できる。一方、遠州大念仏の起源とされる三方原合戦・犀ヶ崖の供養は伝承であり、かつて匂坂西や七蔵新田で営まれ加茂東のみに残ったという継承の跡は、なお推定を含む。行事そのものの成立年代を直接記す一次史料は、本稿の範囲では未確認である。
これらを一つの「由来」として平板に語る誘惑は強い。しかし確度の異なる情報を一元化することは、行事が抱えてきた記憶の層を切り捨てることにほかならない。戦没者供養の伝承、施餓鬼会と初盆廻りの所作、双盤の響き、複数集落での並行と加茂東への収斂――これらが折り重なって、加茂大念仏という現在の行事を形づくってきた。起源が一点に定まらないことは、この行事の弱みではなく、村が長い時間をかけて死者供養の営みを受け継いできたことの証左である。
したがって本稿の立場は明確である。無形民俗文化財の記録は、「いつ始まったか」を確定する作業から、「村が死者をどう送り、その記憶をどう受け渡してきたか」を記述する作業へと組み替えられるべきである。史実・伝承・推定を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承を史実の劣位に置かず、推定を確定した史実と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、加茂大念仏という行事を、後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、加茂大念仏そのものの成立年代と、戦後の復興の具体的な経緯については、集落の念仏講に関する近代の記録や担い手への聞き取りを積み重ねることで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、匂坂西・七蔵新田など途絶えた集落の大念仏と加茂のものとの系統関係は、各集落の伝承を系統的に比較することで、豊田地区の盆の念仏の広がりをより精確に描きうる。第三に、遠州大念仏という系譜のなかで、豊岡の遠州大念仏と加茂大念仏がどのような異同をもつかは、所作・鳴り物・巡行の比較を通じて検討されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した三層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を確かな記録へと押し上げていく作業に属する。起源を一つに決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと――その地道な手続きの先にこそ、加茂大念仏という行事が担ってきた、村の死者供養の記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 加茂大念仏は平成30年(2018年)9月28日に磐田市の無形民俗文化財に指定された。所在地は加茂(加茂東・大円寺)、保存団体は加茂大念仏保存会。指定情報は磐田市公式「無形民俗文化財」該当ページによる。↩
- 行事の概要(8月9日・大円寺の施餓鬼会からの初盆廻り、双盤の響き、鉦・笛・太鼓による念仏踊り)は、磐田市公式サイトおよび磐田市教育委員会の調査報告『磐田の大念仏』(2021年)による。↩
- 元亀3年(1572年)の三方原合戦、天正2年(1574年)の了傳による犀ヶ崖供養を遠州大念仏の起源とする筋立ては、遠州一帯に広く語られる地域伝承であり、加茂大念仏固有の一次史料による裏づけをもたない。↩
- かつて匂坂西・七蔵新田など豊田地区の複数集落でも大念仏が営まれ、現在は加茂東のみに継承が続くこと、および戦後に一度復興されたことは、磐田市公式サイトおよび地域の伝えによる。集落間の系統関係は未確認とする。↩
- 盆に念仏組が初盆の家の庭先で鉦・笛・太鼓を打ち鳴らし念仏を唱えるという遠州一帯の盆行事の枠組みについては、一般読者向け読みもの t031 および遠州大念仏に関する諸資料を参照。↩
付記:本稿は一般読者向け読みもの t031 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・伝承・推定)を語の水準で区別し、2018年の市指定および行事の概要を史実に近い記録、三方原合戦・犀ヶ崖の供養を伝承、集落間の継承関係を推定として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田市『磐田の大念仏 ── 豊岡の遠州大念仏・加茂大念仏調査報告』磐田市教育委員会、2021年。
- 磐田市文化財保存活用地域計画。
- 『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 大円寺(加茂東)由緒・施餓鬼会に関する寺伝。
- 加茂大念仏保存会 関係資料。
- 遠州大念仏に関する郷土史資料(三方原合戦・犀ヶ崖供養・了傳の伝承を含む)。
- 『徳川実紀』ほか三方原合戦に関する史料(合戦の史実部分について)。
- 民俗学における盆行事・念仏踊り・双盤に関する概説。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 磐田市公式ウェブサイト「無形民俗文化財」加茂大念仏の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/sports_midokoro/c003.html/bunkazainitsuite/1002041.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」無形民俗文化財の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 t031「加茂大念仏」 https://iwata-monogatari.net/t031 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 c021「磐田市の指定文化財一覧」 https://iwata-monogatari.net/c021.html (最終閲覧:2026年7月25日)。