失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 御厨と南御厨 ── 地名・水・道で分ける東部

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第104号(御厨地区研究 一)

御厨と南御厨 ── 地名・水・道で分ける東部

二つの地区を分けるもの、つなぐもの

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
御厨

要旨

磐田市東部の御厨と南御厨は、同じ「御厨」という地名の系統を分け持ちながら、駅周辺の台地縁と、南側に広がる太田川水系の低地・水田という、対照的な土地の相貌をもつ。本稿は二つの地区を単独の紹介対象としてではなく、地名・水・道・暮らしという同一の物差しで並置し、両者を分けるものと、つなぐものの双方を腑分けする。地形と水利という確実に言える土台を中心に据え、御厨という地名の制度的由来や成立年代、旧村・小字の範囲といった断定しがたい事項は、史実・推定・伝承の層を語の水準で区別して扱う。分析の結果、二つの地区は地形によって分けられ、地名・道・用排水の仕組みによってつながれているという構図が浮かぶ。御厨圏とは、台地と低地が役割を分け合いながら一つの生活圏を形づくってきた地域であり、比較という方法をとることで初めて、その骨格が立体的に像を結ぶ。あわせて、鎌田御厨に見える御厨制の記憶を、地名論の背景として位置づける。

キーワード:御厨/南御厨/磐田原台地/太田川水系/御厨制/水利共同体/生活圏

1. 問題設定 ── なぜ二つの地区を比較で読むのか

磐田市の東部に、御厨と南御厨という二つの地区がある。両者は「御厨」という同じ地名の系統を分け持ちながら、土地のなりたちは少しずつ異なる。北側は東海道本線の御厨駅を中心に、磐田原台地の東の縁と低地とが接する利便の地であり、南側は太田川水系の低地に水田と旧集落が広がる農の地である。本稿の出発点は、この二つの地区を別々に紹介するのではなく、比較という方法で並べてみる点にある。

単独で見ていたのでは、御厨は「駅のある便利な地区」、南御厨は「水田の広がる農村」という一面的な像にとどまりやすい。だが、同じ物差しを二つの地区にあてて並べると、それぞれを単体で眺めていたのでは気づきにくい磐田東部の骨格が浮かび上がる。何が両者を分け、何が両者をつないでいるのか──この問いに答えることが、本稿の課題である。

比較を始める前に、一つ前提を確認しておきたい。私たちが今「御厨地区」「南御厨地区」と呼ぶまとまりは、学校区・自治会・駅名・磐田物語上の地区分類といった複数の枠組みが折り重なって成立しているものである。これらは便宜的に引かれた線であって、近世以前の集落の生活圏や、明治の町村制以前の旧村の範囲と、そのまま一致するわけではない。地名の連続性を過大にも過小にも評価しないために、この点は初めにはっきりさせておく必要がある。

そこで本稿は、行政区分そのものではなく、地形・水利・道という土台のほうを物差しに据える。「なぜそこに集落ができたのか」という問いに答えるうえで、確実に言えることと、伝承・推定にとどまることとを分けて扱い、断定できないことは断定しない方針をとる。以下ではまず地名を、次いで地形と水、道、共同体を順に比較し、そのうえで史料批判を交えた総合的な比較へ進み、近代以降の変化を背景として押さえたうえで結論に至る。

比較という方法には、単独の記述にはない利点がある。二つの対象を同じ観点で並べると、片方にあって他方にない要素、逆に両方に共通する要素が、輪郭をもって立ち上がる。御厨だけを見ていると当たり前に思える台地縁の立地も、低地の南御厨と並べて初めて「水との距離が近い」という特徴として意識される。南御厨の水利への依存も、台地縁の御厨と対比して初めてその重さがわかる。差異は、比較の相手があってはじめて差異として現れるのである。本稿が二つの地区を一本の論考のなかで扱うのは、この相互照射の効果を得るためである。

なお、本稿で扱う事実の多くは、一般向け記事 u022 に基づいている。u022 では二つの地区の比較を平易に描いたが、本稿はそれを郷土史研究者向けに組み直し、各観点の確度を明示し、史料批判の手続きを加えた論考版である。したがって叙述の骨格は u022 と共有しつつ、断定を避ける語法と、未確認・推定・史実の腑分けを、より厳密に施している。

北:御厨 ── 台地の縁と駅の地 御厨駅 旧集落・寺社 南:南御厨 ── 低地と水田の地 水田・用排水路 太田川水系へ 道・水・名でつながる
図1 御厨(北・台地縁と駅の地)と南御厨(南・低地と水田の地)を上下二層に置き、地形差と、両者をつなぐ道・水・地名の関係を象徴的に示した独自作成の模式図。縮尺・位置は概念的な表現であり、正確な地図ではない。

2. 地名 ── 御厨制の記憶と「南」という接頭辞

比較はまず地名から始める。「御厨」と「南御厨」は、明らかに同じ語幹を共有している。「御厨(みくりや)」は一般に、神社や朝廷へ供える食料を調える所領・地を指す古い語とされ1、中世には伊勢神宮などの神領として各地に置かれた御厨が知られる。磐田の御厨という地名が、そうした制度のどの段階に由来するのかを本稿で一点に断定することはしないが、少なくとも「古い由緒を含みうる地名」であることは押さえておきたい。

この御厨制の記憶を具体的にたどれる手がかりとして、御厨圏の内部には、伊勢神宮領であったと伝わる鎌田御厨がある。その来歴については本シリーズの鎌田御厨 ── 伊勢神宮領だった村の名残で扱ったが、そこで論じたとおり、御厨という地名は、神饌を貢進する所領という制度的性格を背後に負っている。御厨・南御厨という現在の地名圏は、この中世的な所領の記憶の上に、近世・近代の集落と生活圏が重なって成立したものと考えられる。

御厨制について、一般的な背景をもう少し補っておく。古代から中世にかけて、伊勢神宮や賀茂社などの有力な神社は、各地に神領を設け、そこから神饌や供祭料を貢進させた。こうした所領が御厨・御園と呼ばれ、その名が地名として今日まで残った例は、遠江に限らず各地に見られる。磐田の御厨がこの一般的な御厨の系譜に連なるかどうか、また連なるとすればどの神社のどの時期の所領であったかは、一次史料による裏づけを要する問題であり、本稿の範囲では確定できない。ただ、御厨という地名が単なる美称ではなく、貢進をともなう所領の記憶を負いうる語であることは、地名を読むうえで踏まえておきたい。

次に「南」という接頭辞に注目したい。南御厨の「南」は、御厨という大きな地名圏の南側に位置することを示す方角の接頭辞であり2、この命名そのものが、両地区がもともと一つの地名圏として認識されてきたことの証左である。つまり地名のレベルでは、二つの地区は「分かれているが、つながっている」関係を、名の内部にあらかじめ抱え込んでいる。

一方で、「南御厨」という独立した呼称がわざわざ立てられたという事実は、南側が単なる御厨の付属ではなく、それ自体として一定のまとまりを持つ生活単位だったことを示唆する。低地・水田・用排水という南側固有の環境が、独自の共同体運営を必要とし、それが地名の独立につながった可能性がある。地名の連続性(御厨)と独自性(南)は、矛盾ではなく、同じ地域の二つの側面として読むべきだろう。なお、御厨という語の正確な制度的由来や成立年代については、確実な一次史料による裏づけが必要であり、本稿では「古い由緒を含みうる」という慎重な言い方にとどめ、地名を手がかりに歴史を膨らませすぎないことを方針とする。

地名の連続性を強調しすぎることには、慎重でありたい。御厨と南御厨が同じ語幹を持つからといって、両者が歴史のすべての段階で一体だったと即断はできない。地名は継承される一方で、指し示す範囲が時代とともに伸縮する。近世の村、明治の町村、現在の地区という区分のそれぞれで、「御厨」の指す範囲は必ずしも同じではなかったはずである。連続する名の下で、指示対象は静かに変化してきた──この可能性を保留しておくことが、地名から歴史を読む際の節度である。

御厨制 神饌を貢進する所領 御厨の地名圏 中世〜近世の集落 御厨(北) 台地縁・駅 南御厨(南) 低地・水田 地名の重なり ── 制度の記憶から二つの地区へ 制度的由来・成立年代は断定せず、伝承・推定として扱う。
図2 御厨制という制度の記憶の上に御厨の地名圏が成立し、そこから台地縁の御厨と低地の南御厨が分かれていく関係を象徴的に示した独自作成の模式図。年代・系譜を確定する図ではなく、層の関係を示す概念図である。

3. 地形と水 ── 台地縁と低地が分ける土地

二つの地区を最も明瞭に分けているのは、地形である。御厨側は、磐田原台地の東の縁(エッジ)と、その下に広がる低地とが接する位置にあたる3。台地の縁という地形は、わずかな高まりを持ちながら水にもアクセスしやすいという、集落立地として有利な条件を備えている。古い集落や寺社が台地の縁に沿って点在しやすいのは、この「高すぎず低すぎない」位置取りの利点による。

これに対して南御厨側は、太田川水系の低地に大きく依存する。標高が低く、水田が広がりやすい反面、水をどう引き、どう逃がすかという水利の管理が、暮らしそのものの前提になる。集落は、低地のなかでもわずかに高い微高地や、用排水路に近接した位置にまとまる傾向があると考えられる。水田の生産力という恵みと、低地ゆえの排水・浸水への備えという課題が、つねに背中合わせに存在してきた地域である。

低地の集落立地について、もう一歩踏み込んでおきたい。太田川水系の低地といっても、その内部は一様な平面ではない。かつての川の流れがつくった自然堤防や、周囲よりわずかに高い微高地が点在し、そうしたわずかな高まりが、水につかりにくい居住の適地となってきたと考えられる。水田は低い部分に広げ、住まいは相対的に高い部分に置くという使い分けが、低地の暮らしの知恵であった。この微高地と旧河道の分布を丹念に読むことは、南御厨の集落がなぜその位置にあるのかを理解する鍵になるが、その正確な復原は旧版地形図や治水地形分類図の照合を要し、本稿では方向性を示すにとどめる。

この地形差は、地表の高低という静的な違いにとどまらない。御厨側では「土地の縁に沿って人が住み、低地を田として使う」構図が、南御厨側では「低地全体を水田として活かし、その中の安全な場所に住む」構図が成立する。同じ磐田東部でありながら、人と土地と水の関係の組み立て方が異なるのである。水との距離が近いか遠いか、水を利用の対象として扱うか管理の対象として扱うか──この一点が、二つの地区の性格を根底で分けている。

ここで確度を腑分けしておく。御厨駅の所在、磐田原台地の東縁と太田川水系の低地が磐田東部の主要な地形であることは、地図類で確認できる一般的な事実である。一方、低地の微高地・用排水路への集落の寄り方は、地形から導かれる推定であって、確定した事実ではない。個々の集落の立地年代や、旧河道の正確な位置については、治水地形分類図や旧版地形図、現地調査による確認が必要であり、本稿では断定を避ける。

水害の記憶という点も見落とせない。低地は、豊かな水の恵みを受ける一方で、大雨や河川の増水のさいには水がたまりやすい。南御厨のような低地の集落が、用排水路の維持や堤の管理に共同で取り組んできた背景には、この水とのせめぎ合いがある。現在の浸水想定は磐田市のハザードマップで確認できるが、過去にどのような出水があり、集落がどう備えてきたかという歴史的な経緯は、地域の記憶として個別に掘り起こす必要がある。台地縁に立地する御厨側が相対的にこの負担を免れてきたことと対照すると、水との関係の違いが、暮らしの手間の違いとして現れていることがわかる。

磐田原台地(高) 台地の縁=御厨の集落・寺社が寄る 低地・水田=南御厨(低) 用排水路
図3 磐田原台地の縁から太田川水系の低地へ下る地形断面のイメージ。御厨の集落・寺社は台地の縁の高まりに寄り、南御厨の水田は低地に広がる。高低差と水の流れの方向を象徴的に示した独自作成の模式図で、実測の断面ではない。

4. 道 ── 鉄道・旧道・幹線が動かした重心

地形が土地の素地を決めるとすれば、道はその上で人と物の流れをつくり、地区の重心を動かしてきた。御厨側の決定的な要素は、東海道本線の御厨駅である4。駅という近代の交通結節点は、台地の縁という古くからの立地条件の上に新しい重心を加え、駅周辺に住宅地と生活サービスを集める力を持つ。御厨が「古い名を抱きながら、いまも変わり続ける」地域だと言えるのは、この駅の存在が大きい。

一方、南御厨側は、鉄道駅から相対的に距離があり、旧来の道と幹線道路、そして農道・水路沿いの動線が生活の骨格をなしてきた。車社会の進展は、低地農村の利便性を一定程度引き上げたが、それは「駅を中心に人が集まる」御厨側の変化とは性格が異なる。南御厨では、道路は田を結び、集落と農地を結ぶ役割を強く保ち続けた。道が果たす機能そのものが、二つの地区で違うのである。

ただし、道は二つの地区を分けるだけのものではない。むしろ、御厨と南御厨を結ぶ南北の道や、共有された幹線は、両地区を一つの生活圏としてつなぐ役割を果たしてきた。買い物、通学、農作業、寄合といった日々の往来は、行政の境界を意識せずに地区をまたいで続けられてきたと考えられる。道は、分けるものであると同時に、つなぐものでもある。ここに、比較を通じてはじめて見えてくる両義性がある。

道の観点からもう一点、近世以来の街道との関係を押さえておきたい。磐田の東部は、東海道の宿場町である見付・中泉の生活圏と、地続きの関係にあった。御厨・南御厨の人々にとって、街道筋の宿場は物資と情報の集まる場であり、そこへ通じる道は生活の動脈であった。近代に鉄道が敷かれ御厨駅が置かれると、この街道中心の動線の上に、駅を核とする新しい動線が重ねられた。南御厨側では、街道や在来の道が編む生活圏の形が相対的に長く残った。道の履歴を重ねて読むと、御厨圏の交通が、街道・鉄道・自動車という複数の層の積み重ねであることが見えてくる。

近代の鉄道と近世以来の旧道とを重ねて見ると、御厨圏の重心が時代とともに移動してきたことがわかる。かつては台地の縁の旧道沿いに集落と寺社が連なっていたが、近代に駅が置かれると、人の流れと新しい住宅地が駅の側へ引き寄せられていく。南御厨側では、その重心移動が相対的にゆるやかで、旧道・農道が編む生活圏の形が長く保たれた。同じ地名圏のなかで、変化の速い北と、変化のゆるやかな南という、時間の流れ方の違いが生まれているのである。

重心の移動は、地区の中心がどこにあるかという住民の感覚にも影響する。駅ができる前、御厨圏の日常の中心は、寺社や旧道沿いの集落にあった。駅が置かれ、その周囲に店や住宅が集まると、人の意識のなかの中心もまた駅の側へと移っていく。南御厨側では、そうした中心の移動が緩やかで、古くからの集落と農地が生活の中心であり続けた。同じ地名圏のなかで、どこを「まち」の中心と感じるかが、北と南で少しずつ異なっているのである。

御厨 ── 駅中心の動線 御厨駅 南御厨 ── 農道網の動線 田と集落を結ぶ格子状の動線
図4 交通動線の対比。御厨側は駅を中心に放射状に人が集まる構図、南御厨側は田と集落を結ぶ格子状の農道網が骨格をなす構図を、独自作成の模式図として象徴的に示したもの。実際の道路網の形状を写したものではない。

5. 共同体 ── 寺社・小字・水利がつくるまとまり

集落のまとまりを読むうえで、寺社・小字・墓地の配置は重要な手がかりになる。一般に、神社や寺、堂宇、地蔵、墓地は、集落の核として、あるいは道しるべや共同体の祈りの場として、人が住む場所と密接に結びついて配置される。御厨側では、台地の縁に沿って古い集落と寺社が点在しやすく、近代以降の駅周辺開発の層がその上に重なる構図が想定される。古い祈りの場と新しい市街地が同居しているのである。

南御厨側では、低地の微高地や用排水路に近い位置に集落がまとまり、それに対応して寺社・墓地が配置されてきたと考えられる。水田地帯の共同体は、用水の配分や排水、出水時の対応といった、水をめぐる共同作業を通じて結束を保つ性格が強い5。寺社や小字は、そうした水利共同体の単位を映し出している可能性がある。北の御厨が信仰と交通を核に結束したとすれば、南の南御厨は水利を核に結束したと、対照的に読むことができる。

小字(こあざ)の地名も、共同体を読む手がかりになる。田・堤・島・崎・谷といった地形由来の小字は、その土地がかつてどのような場所であったかを、名のかたちで今に伝える。低地に「島」のつく小字があれば、それは周囲より高い微高地であった可能性を示し、集落や墓地の立地とも呼応することが多い。御厨・南御厨の小字を丹念に集め、地形と照らし合わせる作業は、寺社の配置とあわせて、旧集落のまとまりを復原する有力な方法である。ただし個々の小字の範囲や由来には異説もあり、本稿ではその可能性を指摘するにとどめ、確定的な列挙は控える。

この対照は、共同体の成り立ちの違いとして理解できる。台地縁の御厨では、寺社と旧道と、のちに加わる駅とが人を集める核となり、南御厨では、水を分かち合う仕組みそのものが人を結ぶ核となった。祈りの場を中心に集まる共同体と、水の管理を中心に集まる共同体という違いが、同じ御厨圏の内部に併存しているのである。

ただし、個々の寺社の祭礼名・創建年代・文化財指定の有無、小字の正確な範囲といった具体的な事実については、公的資料や地域史資料による確認が必要であり、本稿ではこれらを安易に列挙することは避ける。重要なのは固有名詞の数ではなく、「寺社や墓地の配置が、どこに人が住み、どんな共同体を営んでいたかを語る」という読み方そのものである。水利共同体と寺社配置の対応関係は、地形からの推定として記しており、確定した事実ではない点も明記しておきたい。

墓地の位置もまた、集落の歴史を映す。人は住む場所の近くに、しかし日常の生活空間とは区切られた場所に、死者を葬る。低地では、水につかりにくい微高地が墓地に選ばれることもあったと考えられ、その位置は集落の立地とゆるやかに対応する。御厨側では、台地の縁や斜面が墓地に用いられた例もあろう。こうした死者の場の配置は、生者の共同体の輪郭を、別の角度から浮かび上がらせる。

6. 比較と史料批判 ── 分けるものとつなぐものの腑分け

ここまで地名・地形・水・道・共同体の各観点から見てきた違いと共通点を、一つの表に整理する。下表は確実に言える土台(地形・水・道の性格)を中心にまとめ、断定できない事項は「〜の傾向」「〜と考えられる」という慎重な書き方にとどめている。比較の目的は、どちらの地区が優れているかを競わせることではなく、二つの地区を同じ粒度で並べることで、分けるものとつなぐものを同時に視野に収めることにある。

表1 御厨と南御厨の比較マトリクス ── 地名・地形・水・道・共同体・将来課題と、両者をつなぐもの
観点御厨(北側)南御厨(南側)確度
地名「御厨」という古い由緒を含みうる地名の本体。御厨圏の南に立つ独自呼称。連続性と独自性を併せ持つ。伝承・推定
地形磐田原台地の東縁と低地が接する位置。微高地に立地。太田川水系の低地が主体。標高が低く水田が広がる。史実(地図)
水との関係台地縁ゆえ水にも近く、極端な水管理依存は相対的に小。用水を引き排水を逃がす水利が暮らしの前提となる。推定
道・交通東海道本線・御厨駅が近代以降の新しい重心。旧道・幹線・農道が骨格。駅からは相対的に距離。史実(地図)
土地利用の重心駅周辺の住宅地化・生活サービス集積が進みやすい。水田・農地が広く、農村景観を保ちやすい。推定
共同体の核台地縁の旧集落・寺社の上に近代市街が重なる。微高地の集落と水利共同体が結束の単位となる傾向。推定
主な将来課題開発の陰で旧集落・小字・寺社の記憶が薄れる可能性。農地維持・空き家・低地の水害備え・記憶継承。推定
つなぐもの「御厨」という地名/南北を結ぶ道/共有してきた用排水の仕組み/通学・買い物・農作業の日常の往来。推定

表の右端に付した確度の欄は、各行の情報がどの層に属するかを一目で示すために設けた。地形と交通の骨格は地図で確認できる史実の層に置き、それ以外の多くは推定または伝承の層に置いてある。この欄を設けることで、比較表が確実な事実の一覧であるかのように読まれることを防ぎ、どこまでが確かで、どこからが解釈なのかを、読者が自分で見分けられるようにした。比較を精密にすることと、確度を正直に開示することは、両立させるべき二つの要請である。

あわせて、比較の限界も述べておく。二つの地区を同じ観点で並べる方法は、共通の物差しに乗る要素を鮮明にする一方で、物差しに乗りにくい個別の事情──ある集落だけに伝わる由緒や、特定の家の歴史──を取りこぼしやすい。比較で描けるのは地域の骨格であって、そこに肉づけされた個々の暮らしの細部までではない。骨格を押さえたうえで、個別の記憶を別途ていねいに拾っていく作業が、比較のあとに続けられるべきである。

この比較から見えてくるのは、二つの地区が対立しているというより、それぞれが磐田東部の異なる側面を担っているという事実である。地形は二つの地区を分け、名と水と道は二つの地区をつなぐ。御厨は台地の縁と駅を重心に持つ利便の地であり、南御厨は低地と水田を基盤とする農の地であって、両者は「御厨」という地名、南北を結ぶ道、共有してきた水の仕組みによって、行政の境界を越えて一つの生活圏を形づくってきた。

史料批判の観点からは、いずれの観点についても確度の水準を明示しておく必要がある。御厨駅の所在や、台地縁と低地という地形の骨格は、地図で確認できる史実の層に属する。これに対し、御厨という地名の制度的由来、南御厨の旧村・大字・小字の正確な範囲、寺社配置と水利共同体の対応関係は、いずれも本稿では断定していない。ここで「未確認」と「記載なし」を区別しておきたい。地名の由来や集落の立地年代について、管見の限り一次史料に突き当たっていないという状態は「未確認」であって、「史料に記載がない」と断ずることとは異なる。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのかは、それ自体が別に検証を要する問いである。

この腑分けの作業は、地域史の記述にとって一定の含意をもつ。二つの地区を比較するとき、私たちはしばしば片方を基準にしてもう一方を測り、差異を優劣に読み替えてしまいやすい。だが、確度の異なる情報を同じ平面に並べ、断定できることと推定にとどまることとを語の水準で分けておけば、比較は優劣の判定ではなく、地域の骨格を立体的に描く手続きになる。御厨と南御厨を並べて読むことの意義は、まさにこの点にある。

分けるもの と つなぐもの 分けるもの 地形(台地縁/低地) 水との距離 重心(駅/農地) 将来課題の方向 つなぐもの 「御厨」の地名 南北を結ぶ道 用排水の仕組み 日常の往来
図5 御厨と南御厨を分けるもの(地形・水との距離・重心・課題の方向)と、つなぐもの(地名・道・用排水・日常の往来)を対照させた独自作成の整理図。両者が同一地域の二つの側面であることを示す概念図である。

7. 近代以降 ── 発展の要因と弱くなりうる場所

近代以降の歩みを、発展要因と将来弱くなりうる要因の両面から並べて考えたい。御厨側の発展を支えてきたのは、何よりも交通利便性である。鉄道駅と幹線道路、台地縁という安定した地形、そして磐田市東部の拠点性が重なり、住宅地化と生活サービスの集積を後押ししてきた。発展の論理は明快で、人が集まりやすい条件が揃っている。その一方で、駅周辺の開発が進むほど、その足元にあった旧集落・小字・寺社の記憶は見えにくくなる。新しい街路や住宅が古い土地の輪郭を覆い、地名の由来や旧道の意味が、住む人の日常から遠ざかっていく。利便性の向上と地域記憶の希薄化は、御厨側ではコインの裏表として現れうる。

南御厨側の発展は、低地の水田という生産基盤と、それを支える水利共同体の持続によって担われてきた。広い農地と農村景観は、それ自体が地域の価値であり、静かな住環境としての魅力にもつながる。だが、担い手の高齢化や人口減少が続くなら、農地の維持が難しくなり、耕作されない土地や空き家・相続未整理地が増える可能性がある。低地であることは、平時の生産力であると同時に、出水時には水害への備えを求める条件でもある。発展の要因も弱くなりうる場所も、二つの地区で性格が異なるのである。

こうした変化の速い地域ほど、土地の記憶は失われやすい。開発や宅地化の層が幾重にも重なった地域について、本シリーズでは西貝塚から安久路・城之崎へ ── 田園から市街へ変わった地域で論じたが、そこで見たとおり、田園から市街へと相貌を変えていく過程では、旧集落・小字・寺社の記憶が急速に背景へ退いていく。御厨側の駅周辺開発は、これと同じ力学の上にある。南御厨側は変化がゆるやかな分、記憶が保たれやすい一方で、担い手の減少という別の形で継承の課題を抱える。

強調しておきたいのは、これらが衰退の予言ではないということである。むしろ、静かな住宅地、広い農地景観、そして古い地名の記憶といったものの価値は、これからの時代にかえって高まりうる。条件次第で、御厨と南御厨はそれぞれの強みを活かしながら、磐田東部の暮らしを支え続けることができる。鍵になるのは、土地と水と道のなりたちを記録し、次の世代へ手渡す営みが続くかどうかである。誰がどこに住み、どの田をどう守り、どの道を通ってきたのか──そうした記憶は、相続や空き家の整理が後回しになるうちに、静かに失われていきやすい。

南御厨の低地農村が抱える課題は、農地の維持だけにとどまらない。担い手の高齢化が進むと、田を継ぐ者がいないまま相続が重なり、名義が複雑になった土地や、管理されない空き家が増えていく。低地は平時には豊かな生産の場であるが、こうした土地が放置されると、出水時の管理の担い手を欠くという問題にもつながりうる。御厨側でも、駅周辺の便利さの陰で、旧集落の古い家が世代交代のなかで空き家になっていく現象は避けがたい。地区の性格は異なっても、土地と家の記憶をどう次へ渡すかという課題は、二つの地区に共通して重くのしかかっている。

御厨圏の土地・記憶 この条件が続くなら 開発・耕作放棄・空き家増 記録・手当てがなされるなら 地名・農地・防災の継承 記憶が断たれる方向 価値が高まる方向 条件で分かれる将来 ── 衰退の予言ではなく
図6 御厨と南御厨の将来を、条件によって二方向に読む独自作成の模式図。開発・耕作放棄が進む方向と、記録・手当てによって価値が高まる方向とを対置し、将来が条件依存であることを象徴的に示した概念図である。

8. 結論 ── 御厨圏という一つの生活圏

御厨と南御厨を同じ物差しで並べてみると、二つの地区は「地形によって分けられ、名と水と道によってつながれている」という構図が見えてくる。北の御厨は台地の縁と駅を重心に持つ利便の地、南の南御厨は低地と水田を基盤とする農の地であり、それぞれが磐田東部の異なる価値を担っている。しかし両者は、「御厨」という地名、南北を結ぶ道、共有してきた水の仕組みによって、行政の境界を越えて一つの生活圏を形づくってきた。分けるものと、つなぐものは、別々に存在するのではなく、同じ地域の表と裏として結びついている。

本稿が依拠した資料の性格も、あらためて確認しておきたい。地形と交通については地図類という比較的安定した史実に立脚できたが、地名の由来・旧村の範囲・寺社と水利の対応といった、地域の内側の歴史については、公的資料や地域史資料、そして現地での聞き取りによる継続的な確認を要する部分が多く残る。比較という枠組みは、そうした未確認の事項を無理に埋めるためのものではない。むしろ、確かな土台の上に二つの地区を並べ、埋まっていない部分を埋まっていないものとして正確に示すことで、今後どこを調べればよいかを明らかにする。御厨と南御厨の比較は、結論であると同時に、これからの調査のための地図でもある。

本稿は、確実に言える地形・水・道の土台を中心に据え、由来や年代など断定できない事項は伝承・推定として分けて扱った。区分の由来については、御厨制の記憶という中世的な背景を史料に照らせる範囲で押さえつつ、地名の制度的由来や南御厨の成立年代は「未確認」として断定を避けた。固有名詞を盛るのではなく、土地のなりたちから論じる姿勢を貫いたつもりである。単独で紹介していたのでは一面的な像にとどまる二つの地区が、比較という方法をとることで初めて、互いを照らし合い、磐田東部という一つの地域の骨格として立体的に浮かび上がる。御厨圏とは、古い名と新しい暮らしが折り重なり、台地と低地が役割を分け合いながらつながってきた地域である。その重なりを記録し、次の世代へ手渡していくことが、本稿の最終的な願いである。地名の制度的由来の解明、旧村・小字の範囲の確定、寺社と水利共同体の対応関係の検証は、いずれも今後の課題として、稿を改めて論じたい。

本稿の主題である御厨・南御厨には、地名の記憶とともに受け継がれてきた古い家や土地、そして低地の農地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 「御厨(みくりや)」は一般に、神社や朝廷へ供える食料を調える所領・地を指す古い語とされる。中世には伊勢神宮などの神領として各地に御厨が置かれた。磐田の御厨がどの制度・段階に由来するかは本稿では断定せず、「古い由緒を含みうる地名」として扱う。
  2. 南御厨の「南」を御厨地名圏の南側を示す方角接頭辞とみる読みは、語誌的な解釈にもとづく推定であり、成立年代を確定する一次史料に裏づけられたものではない。
  3. 磐田原台地の東縁と太田川水系の低地が磐田東部の主要な地形をなすことは、地理院地図・治水地形分類図等で確認できる一般的事実である。
  4. 御厨駅は東海道本線の駅であり、磐田市東部の新しい交通結節点である。所在・接続は地理院地図等で確認できる一般的事実であるが、駅開業が地区の重心に与えた影響の評価は本稿の解釈による。
  5. 低地の水田地帯における水利共同体の結束は民俗一般に広く知られるが、南御厨の寺社配置と水利共同体の具体的な対応関係は、地形からの推定であって確定した事実ではない。低地の浸水想定は磐田市ハザードマップによる。

付記:本稿は一般読者向け記事 u022「御厨と南御厨を分けるもの、つなぐもの」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、御厨駅の所在・地形の骨格を史実、地名の制度的由来・成立年代を未確認、寺社と水利共同体の対応を推定として扱った。

参考文献・参考資料

  • 国土地理院「地理院地図(電子国土Web)」 https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。台地縁・低地・微高地・旧河道の確認に用いた。
  • 国土地理院「治水地形分類図」 https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/fca.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 埼玉大学教育学部谷謙二研究室「今昔マップ on the web」 https://ktgis.net/kjmapw/ (最終閲覧:2026年7月25日)。明治期以降の集落位置・道路・田畑の変化比較に用いた。
  • 磐田市「磐田市ハザードマップ(洪水・内水)」 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。低地の浸水想定・水害リスクの確認。
  • 磐田市「都市計画図・用途地域」(御厨駅周辺の土地利用の確認)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編・資料編(該当章、御厨・南御厨の旧村と地名)。
  • 磐田市統計書・国勢調査、総務省統計局「e-Stat」 https://www.e-stat.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。人口・世帯・高齢化・農地転用の傾向。
  • 磐田市文化財・埋蔵文化財関係資料、地域史資料(寺社・旧村・小字の確認)。
  • 大石浩之「鎌田御厨 ── 伊勢神宮領だった村の名残 ── 御厨制と中世遠江の荘園景観」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第28号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/028/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「西貝塚から安久路・城之崎へ ── 田園から市街へ変わった地域」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第94号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/094/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語「御厨地区総論」 https://iwata-monogatari.net/u020.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語「南御厨地区総論」 https://iwata-monogatari.net/u021.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 u022「御厨と南御厨を分けるもの、つなぐもの ── 地名・水・道・暮らしの比較史」 https://iwata-monogatari.net/u022.html (最終閲覧:2026年7月25日)。本稿の一般向け記事版。