磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第95号(地域行政史研究 一)
磐田郡という広がり ── 旧磐田市の外側にあった村々
郡という枠組みと地域のまとまり
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
現在の磐田市の住所に「郡」の文字はない。しかし市が成立する以前、この地域は長く「磐田郡」という広域の枠組みのなかにあった。本稿は、この郡という単位を手がかりとし、旧磐田市の外側に広がっていた村々が郡という器のなかで市へまとまっていく過程を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして記述する。律令制の郡は郡家と郡司を備えた行政の単位であったが、中世・近世には地理的な呼称へと性格を変え、近代にふたたび行政の区画として整えられた。1889年の町村制で自然村が束ねられ、1896年の郡再編で旧磐田郡に山名・長上・豊田三郡の一部が統合されて新しい磐田郡が編成される。だが郡の自治体としての機能は大正期に廃止され、以後の郡は地理的区域の名にとどまった。昭和30年前後の編入合併により、向笠・御厨・大藤・長野・田原・於保などの村が磐田市へ加わっていく。本稿は郡域の変遷を史実に即して跡づけ、資料間で範囲記述に揺れのある点は推定として明示しつつ、旧村意識がなお地区名として残る実態を確認する。
キーワード:磐田郡/郡制/町村制/郡再編/編入合併/旧村意識/史料批判
1. 問題設定 ── 「郡」という単位をどう扱うか
磐田市の住所には、いま「郡」の文字は付かない。しかし市が成立する以前、この地域はずっと「磐田郡」という大きな枠組みのなかにあった。市の名も、もとをたどればこの郡の名に行き着く。にもかかわらず、郡は現在の生活のなかでほとんど意識されない単位となっている。本稿の出発点は、この見えにくくなった「郡」という広がりを、地域史の記述のうえでどう扱うべきかという問いにある。
郡を論じるうえでまず必要なのは、時代によって「郡」の中身が大きく異なる事実を押さえることである。古代律令制の郡と、近世の地理的呼称としての郡と、近代に自治体として整えられた郡とは、同じ文字を用いながら性格を異にする。これらを一つの「郡」として平板に語れば、古代の郡家をそのまま近代の郡役所へつなげるような誤解を招く。したがって本稿は、まず郡という単位の位置を階層のなかで確認し、次にその性格が時代ごとにどう変化したかを跡づける手順をとる。
本稿が採る記述の基準を、あらかじめ示しておきたい。素材とした一般向け記事「磐田郡という広がり」は、事実・解釈・推測の三つを語り分けて叙述している。本稿はこれを引き継ぎつつ、郷土史研究の水準に合わせて確度の層をより細かく設ける。すなわち、沿革資料や編纂物で確認できる事柄を史実、学界で広く受け入れられているが一点では確定しがたい事柄を通説、根拠はあるが未確定の事柄を推定、地域で語り継がれてきた事柄を伝承とし、この四層を語の水準で書き分ける。層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢である。
あわせて、「未確認」と「記載なし」を区別する。ある事柄について、管見の限り裏づけとなる史料に突き当たっていない状態を「未確認」と呼び、史料を博捜したうえでなお記述が存在しないと判断できる状態を「記載なし」と呼ぶ。郡域の細部のように資料間で記述が揺れる論点では、この区別を保つことがとりわけ重要となる。断定を急げば、確からしい推定を史実のように語り、あるいは確かな沿革を根拠薄弱として退ける誤りに陥りやすいからである。
以下ではまず、史料で確認できる古代・近世の磐田郡を押さえ、続いて1889年の町村制、1896年の郡再編、大正期の郡制廃止、昭和30年前後の編入合併を順に検討する。そのうえで郡域の縮小と旧村意識の残存を地理的背景として整理し、結論として、郡を「広がりの記憶」として読み直す立場を示す。行政区画の変遷史は無味乾燥に見えて、実のところ、村がどのように束ねられ、どのように市へ移っていったかという、土地のまとまりの履歴そのものである。
2. 史料に見える磐田郡 ── 古代の郡と近世の郡
「磐田」という呼び名は、もともと市の名でも町の名でもなく、この郡の名であった。律令時代の遠江国には、敷智・浜名・長上・豊田・山名・磐田・周智・山香・引佐・麁玉といった郡が置かれ、そのひとつが磐田郡だったとされる1。国名の下に郡を置く体制は、8世紀の律令国家によって全国に敷かれたものであり、遠江国磐田郡もその一環として編成された。この段階の郡は、単なる地理的呼称ではなく、行政と徴税の実務を担う単位であった。
律令制の郡 ── 郡家と郡司を備えた行政単位
古代の郡には、郡家(ぐうけ、郡衙)と呼ばれる役所が置かれ、郡司が地域を治めた。遠江国の磐田郡は、国府・国分寺が営まれた一帯を含み、国の中心に近い有力な郡であったと考えられている。国府や国分寺の所在をめぐる論点は国府台と府八幡宮の考察に譲るが、行政区画としての磐田郡が古代遠江の枢要に位置したことは、遺跡・史料の双方から広く認められる通説である。
この古代の郡と、後にみる近代の磐田郡とは、名を同じくしながら性格を異にする。古代の郡は現実の統治機構を伴っていたのに対し、近代の郡は明治の地方制度のなかで新たに整えられた別個の枠組みである。両者を連続したものとして語ることはできない。この点を最初に確定しておくことが、以下の混同を避ける前提となる。
古代の郡は、長い年月のあいだに行政単位としての実態を薄れさせていった。中世から近世にかけて、「郡」はおもに地域を呼ぶ地理的な名として残る。江戸時代の村は郡ごとにまとめて把握され、郷帳や旧高旧領取調帳といった土地・貢租の帳簿でも、村はその所属郡とともに記録された。たとえば中泉はもともと豊田郡に、見付は磐田郡に属していた。近世に村がどの郡へ属したかを史料から復元する手続きについては、既刊の古地図に村の名を探すで具体的に論じている。
ここで一点、史料の性格を確認しておきたい。郷帳や旧高旧領取調帳は、村の所属郡と石高を知るうえで確度の高い史実の根拠となる。ただしこれらは貢租と土地の把握を目的とした帳簿であって、郡そのものが当時どの範囲を占め、どのような機能を担っていたかまでは直接語らない。近世の「郡」は行政権力の実体をほとんど伴わない地理的な区分であったから、そこから近代の郡役所のような統治機構を読み取ることはできない。史料が語りうるのは、あくまで「村がどの郡に属したか」という所属関係であって、「郡が何をしたか」ではない。この限界を踏まえておくことは、次章以下で近代の郡を扱う際の前提となる。
ここで、「磐田」という郡名のたどった行方にも触れておきたい。史実として、1940年に見付町・中泉町などが合併して「磐田町」と名のった。解釈になるが、この新しい町が郡名をそのまま採ったのは、合併した町がいずれも磐田郡に属していたことが大きい。古代以来の郡名が、近代に町の名となり、やがて1948年の市制施行で市の名へと受け継がれたのである。郡という広がりは、行政の器としては薄れながらも、「磐田市」という名の由来として今日まで生きている。地名の継承という一点において、郡は決して過去の区画ではない。旧磐田市がどのように村から町、町から市へと育ったかは旧磐田市の成り立ちの考察で詳しく跡づけたが、その市の名の淵源が郡名にあったことは、あらためて確認しておくに値する。
3. 1889年の町村制 ── 自然村が束ねられる
近代の郡を語る前に、その内側で起きた村の再編を押さえておかねばならない。1889年に施行された町村制である。郡という器のなかで市へまとまっていく村々の輪郭は、実はこのときに定まったからである。
町村制 ── 小さな村を合併して基礎自治体を編成する
町村制は1888年に公布され、翌1889年に施行された地方制度である2。それまで数多く存在した江戸以来の小さな村(自然村)を合併し、一定の規模をもつ「町」「村」を新たに編成した。この合併でできた町村が、近代の基礎的な自治体となった。町村制の眼目は、村を消すことにではなく、細分された自然村を行政に耐える単位へと束ねることにあった。
旧磐田市域でも、この町村制によって見附宿が見付町となり、豊田郡中泉町と山名郡二ノ宮村が合併して中泉町が生まれた。同じころ、市街地の外側でも多くの自然村がまとめられ、向笠村・御厨村・大藤村・長野村・田原村・於保村といった、後に磐田市へ編入される村々の輪郭が、このときに確定している。ここで束ねられた単位が、半世紀あまりのちに市へ編入されるときの「一区切り」となり、いまの「○○地区」へと受け継がれていく。
この束ねの実態を具体的に見ておきたい。たとえば向笠村は笠梅・篠原・向笠西などの旧村を、長野村は長須賀・鮫島・草崎などの旧村を、それぞれ一つの自治体としてまとめたものである。編入後の地区名が複数の大字を抱えているのは、この町村制段階の合成をそのまま引き継いでいるためである。台地の縁に沿って旧村が並ぶ地形的な条件が、こうした束ね方の背景にあったことは、匂坂・寺谷・岩田の地形読みで論じたとおりである。
町村制を「村を消した制度」と受け取るのは正確でない。むしろ「村を束ねた制度」と見るのが実態に近い、と本稿は解釈する。旧来の自然村は、合併後も大字として名を残し、氏神の祭祀圏や寄り合いの単位として存続した。行政の枠が町村へ引き上げられても、生活実感のうえでの「村」は、より小さな旧村のまま生きつづけた。この二重構造――行政村と生活村の重なり――が、後年の編入合併を経てもなお旧村意識が地区名として残る理由の一つである。町村制は、近代の郡と現在の地区とをつなぐ結び目に位置している。
もう一点、町村制と郡との関係を確認しておきたい。町村制で編成された町村は、いずれかの郡に属する形で位置づけられた。すなわち、村を束ねる町村制と、町村を束ねる郡制とは、同じ明治の地方制度改革のなかで前後して整えられた二段の仕組みである。1889年に基礎の町村が定まり、その七年後の1896年に、それらを束ねる上位の器として郡が組み替えられた。この順序を踏まえると、郡再編は町村制の延長線上にあり、村・町・郡という階層を下から順に固めていく過程の一環だったことが見えてくる。基礎の単位を先に固め、しかるのちに上位の枠を整えるという手順は、近代の地方制度に共通する組み立て方であった。
4. 1896年の郡再編 ── 新しい磐田郡の編成
町村制から七年後、郡そのものの大きな組み替えが行われた。これが現在につながる「磐田郡」を生んだ画期である。近代の郡は、この再編を経てはじめて、市街地とその外側の農村部とを一つの行政のまとまりとして結ぶ枠組みとなった。
郡制と郡の再編 ── 小郡を統合して行政単位に整える
郡制は1890年に公布された、郡を地方自治体として位置づける法律である。郡会・郡参事会などの議決機関と、郡長を長とする郡役所を置き、郡を一つの行政単位として運営した。その施行に先立ち、規模の小さい郡を統合する郡の再編(廃置)が各地で行われた。静岡県では1896年4月1日に郡の再編が実施され、遠江地方の小さな郡が統合されている3。
このとき、旧来の磐田郡に、山名郡・長上郡・豊田郡の一部が合わせられて、新しい「磐田郡」が編成された。再編にともない、中泉町の所属も豊田郡から磐田郡へと移っている。もとから磐田郡であった見付と、もと豊田郡であった中泉とが、同じ郡のなかに収まったのは、この1896年のことであった。市街地の見付・中泉と、その外側に広がる農村部とが、はじめて一つの郡という器のもとに束ねられたのである。
ここで史料批判上の留意を加えておかねばならない。旧来の四つの郡が、そっくりそのまま新・磐田郡へ入ったわけではない。山名・長上・豊田の各郡は、それぞれ一部が磐田郡へ、残りは周智郡・浜名郡など別の郡へ振り分けられている。どの町村がどちらへ移ったかという境界の細部は、資料によって範囲の記述に揺れがあり、町村ごとの所属を一つずつ確かめる必要がある。本稿はこの点を、確定した史実としてではなく、なお検証を要する推定として扱う。ここで留意すべきは、これが「記載なし」ではなく「未確認」だという点である。町村単位の所属を記した沿革資料は存在するはずであり、突き合わせの作業を尽くせば境界は確定へ近づく。現段階で断定を控えるのは、その突合を筆者がなお終えていないためにすぎない。
| もとの郡 | よみ | おおよその範囲・特徴 | 再編後の扱い | 史料批判上の留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 磐田郡 | いわたぐん | 見付・国府一帯。国府・国分寺を含む古代以来の中心。 | 新郡名の母体となる。 | 古代の磐田郡と近代の磐田郡は範囲・性格を異にする。 |
| 山名郡 | やまなぐん | 二ノ宮・福田方面など。 | 一部の村が磐田郡へ。 | 残余の帰属先は町村単位で要確認。 |
| 長上郡 | ながのかみぐん | 天竜川西寄りの一帯。 | 一部の村が磐田郡へ。 | 浜名郡等への振り分けと重なり、境界記述に揺れ。 |
| 豊田郡(一部) | とよだぐん | 中泉・豊田方面。中泉町を含む。 | 中泉町を含む一部が磐田郡へ。 | 全域移管ではない。残余は周智郡等へ。 |
郡役所が置かれた場所にも一言しておきたい。史実として、磐田郡の郡役所は、宿場の見付ではなく、行政の中心であった中泉に置かれた。古代・近世を通じて地域の中心だった見付に対し、近代の行政と鉄道の拠点となったのは中泉である。中泉は江戸期に天領を治めた代官所の系譜をひき、その行政の町としての性格を近代にも引き継いでいた。郡役所が中泉に置かれたことは、こうした近世からの連続を象徴している、と本稿は解釈する。もっとも、立地選定の理由を直接記す一次史料は本稿の範囲では未確認であり、断定はしない。
郡役所の立地は、地域の重心がどこにあったかを映す指標でもある。解釈になるが、古代・近世に地域の中心だった見付と、近代の行政拠点となった中泉とが、郡という一つの器のなかで役割を分け持ったことは、この地域の歴史の重層性をよく示している。見付は矢奈比賣神社と国府の記憶を、中泉は代官所と鉄道の近代を、それぞれ背負っていた。1896年の郡再編は、性格を異にする二つの中心を同じ枠に収めた出来事でもあった。二つの中心が一つの郡へ束ねられたことは、後年、両者を核とする市域が形づくられていく素地ともなった。
郡という枠組みが整ったことの含意は小さくない。それまで宿場や代官所と直接の上下関係をもたなかった向笠・御厨・長野といった村々が、磐田郡という共通の器に入ったことで、はじめて「同じ地域」として括られた。郡は、ばらばらだった村々を広域のまとまりへと結ぶ、最初の枠組みだったのである。のちの市への編入を準備する素地が、この段階で用意されたと見ることができる。旧磐田市の成り立ちそのものを扱った旧磐田市の成り立ちの考察と併せ読めば、郡が「市の外郭」として果たした役割がより鮮明になる。
5. 郡制の廃止 ── 郡が行政の器でなくなる
こうして整えられた近代の郡だが、その自治体としての歴史は長くは続かなかった。郡制は、施行からわずか三十年ほどで、行政の実体を失っていく。
史実として、郡制は1921年に廃止が決まり、1923年に郡会などの郡の自治体としての機能が廃止された。さらに1926年には郡役所も廃止され、郡長の職もなくなった4。これ以降、郡は役所も議会も持たない、単なる「地理的な区域の名」となる。郡内に住む人々にとって、郡は徴税や条例の主体ではなくなり、住所の一部として「○○郡△△村」と書かれるだけの呼称に変わった。
近代の郡が短命に終わった背景には、府県と市町村という二層の行政が整うにつれ、その中間に置かれた郡の存在意義が薄れていった事情がある、と本稿は解釈する。中間区画としての郡は、府県と町村の連絡・監督を担う役割を期待されたが、交通と通信が発達すると、府県が町村を直接に扱う体制で不都合が少なくなった。郡制の廃止は、こうした行政の合理化のなかで進んだ全国的な動きであり、磐田郡もその一環として自治体の地位を失った。ここで注意すべきは、郡役所が廃止されても「磐田郡」という名そのものは消えなかった点である。器の中身は失われたが、器の名は住所のなかに残った。
この段階を経て、磐田郡は二重の意味で「見えにくい広がり」となっていく。解釈になるが、その理由は二つある。一つは、郡そのものが行政の器でなくなったこと。もう一つは、後述するように、その器のなかから磐田市が独立し、さらに周囲の村を次々と編入して、郡の範囲を内側から削っていったことである。行政機能の喪失と領域の縮小という二つの動きが重なったことで、郡はしだいに地図のうえの淡い区分へと退いていった。次章では、その後者の動き――村が市へ移っていく編入合併――を追う。
6. 昭和の編入合併 ── 郡の村が市に入る
1948年に磐田市が成立したあとも、市の周囲にはなお磐田郡の村々が残っていた。それらが市へ加わるのが、昭和30年前後の編入合併である。この動きによって、「磐田郡○○村」だった土地が次々と「磐田市○○」へと変わっていく。
編入合併 ── 市が隣接の村を取り込む
編入合併とは、既存の市町村が隣接する別の市町村を取り込む形の合併である。取り込む側――この場合は磐田市――はそのまま存続し、取り込まれる側の村は消滅して市の一部となる。対等の立場で新しい自治体をつくる新設合併とは区別される。昭和30年前後に全国で進んだ市町村合併、いわゆる昭和の大合併の多くは、この編入の形をとった。
史実として、1955年から1957年にかけて、大藤村・向笠村・御厨村・南御厨村・長野村・岩田村・田原村、そして於保村の一部が、磐田市へ順次編入された5。郡部の村が市域へ取り込まれるたびに、磐田郡はその範囲を狭めていった。市の拡大と郡の縮小は、同じ一つの過程の表と裏である。
編入された旧村と、それが現在どの地区にあたるかを対応させたのが表2である。ここで確認できるのは、旧村名の多くが、そのまま「○○地区」あるいは大字として住所に残っている事実である。町村制段階で束ねられた自然村――向笠村における笠梅・篠原、長野村における長須賀・鮫島――も、大字名として今日まで受け継がれている。行政上の村は消えても、地名の層は幾重にも残った。
| 編入された旧村 | よみ | 現在のおもな地区 | 現在に残る主な地名(例) |
|---|---|---|---|
| 大藤村 | おおふじむら | 大藤地区 | 大久保・藤上原・平松 |
| 向笠村 | むかさむら | 向笠地区 | 笠梅・篠原・向笠西・向笠竹之内・向笠新屋 |
| 御厨村 | みくりやむら | 御厨地区 | 鎌田・新貝・稗原・東貝塚・大立野 |
| 南御厨村 | みなみみくりやむら | 南御厨地区 | 新出・東新町・東新屋・東脇・和口 |
| 長野村 | ながのむら | 長野地区 | 長須賀・鮫島・草崎・小島・真光寺・前野 |
| 岩田村 | いわたむら | 岩田地区 | 匂坂上・匂坂中・匂坂新・寺谷 |
| 田原村 | たはらむら | 田原地区 | 玉越・西島・彦島・三ケ野・明ケ島 |
| 於保村(一部) | おぼむら | 於保地区 | 大和田・下大之郷・浜部 |
解釈になるが、編入された村々は、市街地の見付・中泉から見れば「外側」に位置する農村だった。しかし、それぞれが固有の歴史を抱えている。御厨には鎌田神明宮、向笠には行興寺の藤、岩田には台地のへりに刻まれた条里や匂坂の地割がある。御厨という地名そのものが伊勢神宮領の名残であることは、既刊の考察でも扱った主題である。市に編入されても、これらの村の記憶は地名のなかに残り続けている。編入合併は行政の統合であって、地域の記憶の消去ではなかった。
昭和30年前後の編入は、磐田だけの現象ではなかった。この時期、全国で市町村数を大幅に減らす合併が国の方針として進められ、いわゆる昭和の大合併と呼ばれる。小規模な町村を統合して行政・財政の基盤を強めようとするこの動きのなかで、磐田市もまた周囲の村を取り込んでいった。解釈になるが、郡部の村がこの時期に相次いで市へ移ったのは、個々の村の事情もさることながら、こうした全国的な合併政策の後押しがあったためと見るのが妥当である。郡という枠組みは、この大合併の波のなかで、内側から急速に中身を失っていった。市の側から見れば拡大であり、郡の側から見れば解体であるこの過程は、同じ一つの出来事の両面にほかならない。
ここで、編入という手続きの性質を史料批判の観点から補っておきたい。編入年次そのものは、県の市町村合併に関する沿革資料や市の沿革で確認できる史実である。ただし、於保村のように「一部」が編入された事例では、村域のどこまでが磐田市へ、残りがどこへ移ったかという細部に、なお確認を要する余地が残る。ここでも「未確認」と「記載なし」を区別しておく。分村・分割編入の記録は沿革資料に断片的に残されており、突き合わせを尽くせば村域の帰属は確定へ近づく。現段階で細部を断定しないのは、その突合が未了だからにすぎない。
7. 背景としての地理 ── 郡域の縮小と旧村意識
個々の編入を跡づけたうえで、なお視野に入れておくべきは、郡域そのものの変遷という地理的背景である。磐田郡は、村が市になるたびに範囲を失っていく性質をもつ。市の拡大は、そのまま郡の縮小として現れる。
史実として、2005年の合併で竜洋町・福田町・豊田町・豊岡村が新・磐田市に加わり、旧磐田郡に属していた町村の大部分が市域に入った。これにより磐田郡の範囲は大きく縮んでいる。現在も磐田郡の名は残り、郡内には町村が所在しているが、その範囲はかつてと比べて非常に狭い。郡は町村が市に変わるたびに範囲を失うため、磐田郡もまた、磐田市・袋井市などの拡大とともに縮小してきた。これは推測の域を出ないが、今後さらに合併が進めば、磐田郡という呼称は地図のうえからほとんど見えなくなっていく可能性がある。
この縮小の過程を、三つの区別に整理しておきたい。史実にあたるのは、1896年の郡再編で新・磐田郡が編成されたこと、1923〜26年に郡が自治体でなくなったこと、1955〜57年および2005年の編入・合併で旧村・旧町村が市へ入ったことである。これらは沿革資料で確認できる。解釈にあたるのは、郡役所が中泉に置かれた意味や、市の拡大が郡を内側から削ったという見立てである。これらは史実にもとづく筆者の読みであって、史料が直接語るものではない。そして推定にあたるのは、旧四郡の境界が町村ごとにどう振り分けられたかの細部や、郡名が将来どこまで残るかである。これらはなお検証を要する。
この三区別を保つことには、実務上の理由もある。郡域や旧村界を調べようとする者は、しばしば一枚の完成した地図を求めるが、境界の史料はもともと町村ごとの断片として残されている。国土地理院の旧版地形図には編入前の「磐田郡○○村」の表記が残り、旧高帳や戸別明細図には村ごとの字が記される。これらを一つずつ重ね合わせて、はじめて郡域の輪郭がおぼろげに浮かぶ。史料を突き合わせて村を復元する具体的な手順は古地図に村の名を探す考察で論じたとおりである。完成図がないことを欠落とみなすのではなく、断片を突き合わせる作業そのものを記述の方法とすること――それが、確度の層を保ちながら郡という広がりを描く道である。
それでも、郡という広がりは完全に消えたわけではない。編入から半世紀以上が過ぎても、大藤・向笠・御厨・長野・田原・於保といった旧村の名は「地区」として人々の意識に残っている。地縁や寄り合い、土地への愛着の単位として、旧村意識はいまも土地に根を張っている。行政の区画としての郡は薄れても、その内側で束ねられた村のまとまりは、地区という形で生きつづけているのである。解釈になるが、郡という広域の枠組みが果たした最大の役割は、ばらばらの村を「同じ地域」として括り、後の市への統合を準備したことにあった。郡は、市という現在の姿へ至る途中の器だったと言える。
古い家の相続や空き家の管理を考えるとき、登記の字名や地区のまとまりに、この旧村の輪郭が顔を出すことがある。大字として残る旧村名は、単なる地図上の記号ではなく、土地の来歴と所有の履歴が刻まれた層である。行政区画の変遷史が、抽象的な制度の話にとどまらず、いま目の前の土地の帰属や境界に直結しているのは、このためである。郡から市へという広がりの履歴は、現在の暮らしの土台の下に、なお静かに横たわっている。
8. 結論 ── 郡を「広がりの記憶」として読む
本稿は、「磐田郡」という広域の枠組みを手がかりに、郡という単位と地域のまとまりの歴史を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。「磐田」はもともと古代律令制の郡の名であり、その郡は国府・国分寺を含む遠江の枢要に位置した。だが古代の郡と近代の郡とは性格を異にし、両者を連続したものとして語ることはできない。近世の郡は地理的な呼称にとどまり、近代に入って1889年の町村制で自然村が束ねられ、1896年の郡再編で新しい磐田郡が編成された。その郡も大正期には自治体の地位を失い、昭和30年前後および2005年の編入・合併を経て、範囲を大きく縮めていった。
この過程を通じて一貫していたのは、郡が「村を束ね、市へ渡していく器」として機能した点である。ばらばらだった向笠・御厨・長野などの村は、磐田郡という共通の枠に入ることで「同じ地域」として括られ、やがて市へと統合された。郡は、市という現在の姿へ至る途中の器であった。行政区画としての郡が薄れたいまも、その内側で束ねられた村のまとまりは、地区名として、大字として、そして旧村意識として土地に残っている。
したがって本稿の立場は明確である。郡の歴史は、単なる行政区画の変遷として読むのではなく、村がどのように束ねられ、どのように市へ移っていったかという「広がりの記憶」として読み直されるべきである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、資料間で揺れる境界の細部を史実と偽らない。この禁欲的な手続きを保ったうえで、郡という見えにくくなった単位を、地域のまとまりの履歴として書き留めておくこと――それが本稿の課題であった。
最後に、本稿が扱いきれなかった課題を明記しておく。第一に、1896年の郡再編における町村単位の帰属は、県・市の沿革資料と旧高帳・戸別明細図などを突き合わせることで、未確認の状態を史実へ押し上げられる余地がある。第二に、於保村のような分割編入の細部は、分村・分割の記録を系統的に追うことで村域の帰属を確定しうる。第三に、郡役所の立地選定や郡会の運営実態については、郡制期の行政文書を博捜する必要がある。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、推定を通説へ、未確認を史実へと押し上げていく作業に属する。郡という広がりを一枚の地図に確定する誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと――その地道な手続きの先にこそ、磐田郡という器の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。境界の確定と分村の細部については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 律令時代の遠江国に置かれた郡については、『延喜式』神名帳の遠江国条、および角川『日本地名大辞典22 静岡県』の各郡項による。郡名の表記・数え方には資料により若干の異同がある。↩
- 町村制は1888年(明治21年)に公布され、1889年(明治22年)に施行された。施行日・合併の細目は府県ごとに差がある。↩
- 静岡県における郡の廃置は1896年(明治29年)4月1日に実施された。新・磐田郡に統合された各郡の範囲は資料間で記述に揺れがあり、町村単位の帰属は個別に確認を要する。↩
- 郡制は1921年(大正10年)に廃止が決定し、1923年(大正12年)に郡会等の機能が廃止、1926年(大正15年)に郡役所が廃止された。↩
- 1955〜57年(昭和30〜32年)の磐田市への編入、および2005年(平成17年)の合併の年次は、静岡県の市町村合併に関する沿革資料および磐田市の沿革による。於保村は一部編入である。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 c010「磐田郡という広がり」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、1889年の町村制・1896年の郡再編・1923〜26年の郡制廃止・1955〜57年の編入を史実、郡再編の境界の細部および郡名の将来を推定として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田市編『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 静岡県編『静岡県史』通史編・資料編(静岡県、近代の地方制度に関する章)。
- 静岡県の市町村合併に関する沿革資料(明治29年の郡廃置、昭和30年前後の編入合併の年次)。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典22 静岡県』角川書店、1982年。
- 『日本歴史地名大系 静岡県の地名』平凡社。
- 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
- 旧高旧領取調帳(遠江国分)。
- コトバンク「郡」「郡制」「町村制」「昭和の大合併」各項 https://kotobank.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市公式ウェブサイト「市のあゆみ・沿革」 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 国土地理院 旧版地形図(編入前の「磐田郡○○村」表記の確認に用いた) https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 c010「磐田郡という広がり ── 旧磐田市の外側にあった村々」 https://iwata-monogatari.net/c010.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「旧磐田市の成り立ち」大石浩之の磐田論考 第75号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/075/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「古地図に村の名を探す」大石浩之の磐田論考 第70号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/070/ (最終閲覧:2026年7月25日)。