失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 磐田駅に残る旧中泉駅の記憶

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第87号(中泉駅史研究 一)

磐田駅に残る旧中泉駅の記憶 ── 駅舎・ホーム・跨線橋を読む

駅そのものの歴史と鉄道遺構 ── 四代の駅舎・跨線橋鋳鉄柱・1番線の史料批判

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉

要旨

現在のJR磐田駅は、1889年(明治22年)4月16日に東海道線の中泉駅として開業し、1942年(昭和17年)10月10日に磐田駅へ改称された駅である。駅の立地論、駅前商業史、貨物・軌道の記憶はすでに別稿で論じられているため、本稿は対象を「駅そのもの」に限定し、四代の駅舎・保存される跨線橋の鋳鉄柱・通常旅客使用を外れた1番線という三つの物証から、駅の内部に残る旧中泉駅の時間を読む。方法として、開業年・改称年のように公的記録で確認できる事柄を史実、四代の駅舎区分や部材の来歴のように提供資料が体系化した記述を整理(通説相当)、銘文が示す製造年を推定として腑分けし、成立年代を直接記す一次史料に突き当たっていない事柄を「未確認」として保持する。近代の駅は伝承の層が薄く、物としての証拠が前面に出る対象であり、本稿は駅史を単一の年表へ還元せず、駅舎・部材・ホームに堆積した確度の異なる時間を分離して記述する立場をとる。

キーワード:磐田駅/旧中泉駅/四代の駅舎/跨線橋鋳鉄柱/橋上駅舎/1番線/駅構内の変遷

1. 問題設定 ── なぜ「駅そのもの」を分けて読むのか

磐田駅を主題とする記述は、これまで大きく三つの筋道に沿って書かれてきた。第一は、なぜ古代以来の中心地である見付ではなく中泉に駅が置かれたのかという立地の問題である。第二は、駅前通り・商店街・ジュビロード・天平のまちへと続く駅前市街地の変化である。第三は、中泉軌道・光明電気鉄道・貨物側線のように、駅から外へ伸びていった鉄道と物流の記憶である。いずれも磐田の近代を考えるうえで欠かせない主題であり、それぞれ稿を分けて論じられてきた。

これに対して本稿が扱うのは、そのどれでもない。立地は駅の「外」に、駅前は駅の「前」に、鉄道網は駅の「先」に広がる主題であるのに対し、開業以来の駅舎の代替わり、構内に残る部材、ホームの使われ方は、いずれも駅の「内」に属する。駅の外・前・先が地域史の側から駅を照らすのに対し、駅そのものは、いま現地に立つ建物と部材とホームという物証によって、みずからの歴史を語る。本稿は、この駅の内側に残る旧中泉駅の記憶を、独立した対象として取り出して読むことを課題とする。立地論は鉄道忌避伝説を検証した別稿に、駅前の近代商業は駅前・中泉の近代商業を扱った別稿に、貨物・専用線は磐田駅貨物・工場引込線・専売公社側線の記事にそれぞれ譲り、ここでは重複を避けて駅舎・跨線橋柱・ホームに焦点を絞る。

本稿が事実の基盤とするのは、提供資料「磐田駅と旧中泉駅の調査」である。これは駅史を通観するために編まれた二次的な整理資料であり、その内部で「JR東海 磐田駅」関連資料、「駅舎随録 磐田駅」、「懐かしい駅の風景」といった先行の記録類を参照している1。したがって本稿の記述は、この整理資料を経由して各種の駅史資料に遡る構造をもつ。二次資料を出発点とする以上、そこに記された事柄をそのまま史実として扱うことはできず、どの情報がどの程度の確からしさをもつのかを、一つずつ腑分けしておく必要がある。

そこで本稿では、駅そのものに関わる情報を四つの確度の層に分けて扱う。第一に史実、すなわち鉄道事業者の公的記録や自治体史などによって確認できる事柄。第二に整理、提供資料が先行記録を体系化して示した記述で、広く受け入れられているが一点の一次史料で確定はできない、通説に相当する層。第三に推定、銘や物証から根拠をもって導かれるが、なお確定を要する事柄。第四に、成立年代や経緯を直接記す一次史料に本稿の調査範囲では突き当たっていない未確認の事柄である。ここで一点、方法上の性格を述べておきたい。近代の鉄道駅は、祭礼や社寺のように長大な伝承をまとう対象ではなく、記録と物証が前面に出る対象である。伝説・口碑の層が薄いぶん、史実と整理と推定の境界を精密に引くこと、そして「未確認」と「記載がない」ことを取り違えないことが、駅史を読む作業の中心を占める。

以下ではまず、開業と改称という公的記録で確認できる骨格を押さえ(第2節)、続いて四代の駅舎(第3節)、跨線橋の鋳鉄柱(第4節)、1番線(第5節)という三つの物証を順に検討する。そのうえで三者を比較して資料の層を可視化し(第6節)、中泉という選地と駅の広がりを地理的背景として位置づけ(第7節)、駅史を重層的に記述する立場を結論として示す(第8節)。物証の一つひとつは派手な物語を語らない。しかし、それらを確度の層とともに書き留めることで、駅が単なる交通施設ではなく、時間を蓄えた場所であることが見えてくるはずである。

駅の「内」を読む ── 本稿の対象 駅そのもの 駅舎・部材・ホーム 立地(外) なぜ中泉か 駅前(前) 近代商業 鉄道網(先) 軌道・貨物側線 外・前・先は別稿に譲り、本稿は中央の「内」=駅そのものの物証を読む。
図1 駅を読む視座の配置。立地(外)・駅前(前)・鉄道網(先)はそれぞれ別稿の主題であり、本稿は中央の「駅そのもの」に残る物証に対象を限定する。

2. 中泉駅として始まった駅 ── 開業と改称の史実

物証の検討に入る前に、公的記録で確認できる骨格を確定しておく。現在の磐田駅は、1889年(明治22年)4月16日、東海道線の静岡・浜松間開通に合わせて中泉駅として開業した2。駅名が示すとおり、当初これは中泉の駅であり、古代以来の宿場である見付の名を冠した駅ではなかった。なぜ見付ではなく中泉が選ばれたのかという問いは、駅の立地をめぐる独立した論点であって、鉄道忌避伝説の当否とも関わるため、本稿では立ち入らず別稿に委ねる。ここで確認しておきたいのは、開業の時点で駅名が「中泉」であったという一点である。この駅名は、駅が地域史のなかにどう位置づけられたかを示す最初の証言であり、後に改称されることによって、かえって旧称の記憶を駅に刻み込むことになる。

その後、1940年(昭和15年)に見付町・中泉町・西貝村・天竜村が合併して磐田町が成立し、旧町村の枠を越えた新しい行政単位が生まれた。これを受けて1942年(昭和17年)10月10日、中泉駅は磐田駅へ改称される。改称は単なる呼称の変更ではない。それは、駅が旧中泉一町の玄関口から、合併によって生まれた磐田全体の玄関口へと位置づけ直されたことを示す出来事である。開業から改称までのおよそ半世紀、この駅は「中泉駅」として地域に記憶され、以後は「磐田駅」として現在に至る。旧称と現称のあいだにある五十三年余りの時間こそ、本稿の言う「旧中泉駅の記憶」が宿る時間の幅にほかならない。

ここで、開業年・改称年という情報の性格を明示しておきたい。鉄道の開業日や駅名改称日は、鉄道事業者の公的記録や自治体史に基づいて確認できる事柄であり、本稿はこれを史実の層に置く。提供資料もこれらの年月日を先行記録から引いており、複数の資料が一致して伝える点で、確度は高い。他方、後の各節で扱う駅舎の代替わりの時期区分、跨線橋柱の来歴、ホームの使われ方の変化は、同じ提供資料に依拠しながらも、資料の性格や確度がそれぞれ異なる。同一の資料に載っているからといって、すべての情報を同じ確からしさで扱ってよいわけではない。開業と改称の骨格を史実として固めたうえで、そこに掛かる肉づけの部分を、層ごとに慎重に評価していくのが本稿の手順である。

もう一点、方法上の区別を述べておく。駅名が「中泉」から「磐田」へ変わったことは記録で確認できる史実であるが、その改称が地域の人々にどう受け止められ、日常の呼び名がいつ入れ替わったのかを直接記す一次史料には、本稿の範囲では突き当たっていない。これは「そうした受け止めが記録に存在しないと断定できる」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、その機微を伝える一次史料を確認していない」という未確認の状態である。改称という制度上の事実と、その社会的な受容という別の水準の事柄を混同しないことは、以下で物証を読むうえでも一貫して保つべき姿勢である。

駅そのものの沿革 ── 開業から現在まで 1889中泉駅開業 1915二代目駅舎 1942磐田駅へ改称 1957三代目駅舎 1986鋳鉄柱退役 2000橋上駅舎 2014-1番線退役 ■ 史実(開業・改称) ■ 整理(駅舎・構造) ■ 物証の退役 開業年・改称年は公的記録による史実、駅舎区分・部材の来歴は提供資料の整理に依拠する。
図2 駅の沿革年表。青は開業・改称という史実、橙は駅舎・構造に関わる提供資料の整理、赤は跨線橋柱・1番線という物証が実用から退いた時期を示す。

3. 四代の駅舎という年輪

提供資料は、磐田駅の駅舎を大きく四代に分けて整理している。初代は1889年(明治22年)の開業時の駅舎、二代目は1915年(大正4年)の駅舎、三代目は1957年(昭和32年)の鉄筋コンクリート造駅舎、四代目は2000年(平成12年)の橋上駅舎である3。この四代という区分は、提供資料が先行の駅史記録を体系化して示したものであり、本稿はこれを整理の層に置く。個々の建て替え年が公文書の一点で確定できるかどうかは資料によって差があるが、四代の骨格そのものは複数の駅史資料が共有する見取り図として扱ってよい。

重要なのは、この代替わりが単なる建物の更新ではなく、駅が置かれた時代の変化を刻んだ年輪だという点である。初代駅舎は、鉄道が中泉に入った最初の姿を示す。木造の小さな停車場であったと考えられるが、その具体的な意匠を伝える確実な図面や写真に本稿の範囲で突き当たっているわけではなく、細部はなお未確認にとどまる。二代目駅舎は、開業から四半世紀を経て駅の利用が増え、跨線橋をはじめとする構内設備が整えられていく段階に対応する。後述する鋳鉄柱は、まさにこの二代目の時期に関わる部材である。

三代目駅舎は、1957年(昭和32年)の鉄筋コンクリート造への改築である。木造から不燃の躯体へという転換は、戦後の駅前整備と都市化の時代を背景にもつ。この時期、駅前では商業の集積が進み、駅は旅客の玄関口としての性格を強めていった。木造の駅舎が火災や老朽化と隣り合わせであったのに対し、鉄筋コンクリート造への切り替えは、駅を長期にわたって都市の基盤設備として維持していくという発想の転換をも含んでいた。駅前商業の展開そのものは別稿で論じた駅前・中泉の近代商業の主題であるため、ここでは深入りしないが、三代目駅舎の躯体が鉄筋コンクリートで築かれたこと自体が、駅とその周辺が近代都市の設備として整えられていった時代の指標になっている。

そして四代目が、2000年(平成12年)の橋上駅舎である。線路の上部に駅舎機能を置き、北口と南口を結ぶこの構造は、駅を単なる乗降の場から、市街地の南北を接続する交通結節点へと変えた。橋上化は、地平にあった駅舎が担ってきた「表と裏」の関係を組み替える改築であり、駅の外部との関わり方を大きく変えるものである。四代の駅舎を順に並べると、木造の停車場から構内設備を備えた駅へ、さらに不燃の駅舎へ、そして南北を貫く橋上駅舎へという流れが浮かび上がる。それは、磐田の近代都市化の各段階が、駅舎という一点に積み重なって記録された年輪だと言ってよい。

ただし、駅舎は建て替えられるたびに前代の姿を地上から消していく宿命をもつ。初代・二代目の木造駅舎はすでに現存せず、その姿は写真や記録を通してしか知りえない。だからこそ、建て替えを免れて残った構造部材の存在が、駅史にとって特別な意味をもつことになる。次節では、その数少ない残存物証である跨線橋の鋳鉄柱を取り上げる。

四代の駅舎という年輪 初代 1889 開業 木造停車場 二代目 1915 改築 構内設備拡充 三代目 1957 改築 鉄筋コンクリート 四代目 2000 改築 橋上駅舎 木造停車場から橋上駅舎へ。橙は木造期、青は不燃・橋上期。前二代は現存しない。
図3 四代の駅舎の変遷。橙の初代・二代目(木造)はすでに現存せず、青の三代目・四代目が戦後以降の駅を担った。駅舎の代替わりは近代都市化の年輪をなす。

4. 跨線橋の鋳鉄柱 ── 残された物証

四代の駅舎のうち初代・二代目が現存しないなかで、駅の古い時代を物として今に伝える数少ない証拠が、駅に保存・展示されている跨線橋の鋳鉄柱である。提供資料は、この鋳鉄柱を1915年(大正4年)の二代目駅舎およびその跨線橋に関わる部材として整理し、1986年(昭和61年)まで使われたと説明している4。跨線橋とは、線路をまたいでホームや駅舎を結ぶ橋であり、その支柱として据えられた鋳鉄の柱が、七十年余りにわたって駅構内で役目を果たし続けたことになる。

この鋳鉄柱には、鉄道院時代の製造を示す銘が刻まれているとされる。提供資料では、1911年(明治44年)に川崎造船所兵庫分工場鉄道部で製造されたことを伝える内容として紹介されている。ここで銘文そのものを長く引き写すことはしないが、製造年である1911年と、部材が跨線橋として据えられた二代目駅舎期の1915年とのあいだに数年の隔たりがあることには、留意しておきたい。製造から据付までに時間差があるのは、規格化された鉄道部材が製造・在庫・転用という過程を経て各駅へ配される当時の事情を考えれば、それ自体は不自然ではない。銘に示された1911年という製造年は、物証そのものに刻まれた情報であるという点で確度が高く、本稿はこれを推定ではなく物的証拠に基づく年代として重く扱う。ただし、その柱が最初からこの中泉駅の跨線橋のために造られたのか、他所を経てここへ据えられたのかまでは、銘だけからは判じがたく、この点は未確認にとどめる。

物証としての鋳鉄柱の価値は、駅舎が建て替えのたびに姿を消しやすいという、前節で述べた事情と表裏をなす。図面や写真は、それ自体が失われれば古い駅の姿を伝えられなくなるが、構造部材が現物として残れば、建物の年代や構内の使われ方を、抽象的な年表の一行としてではなく、手で触れられる物としてたどることができる。銘に刻まれた製造所の名は、当時の鉄道部材がどこで造られ、どのような技術的系譜のうえに据えられたのかを、直接に指し示す。鋳鉄という素材そのものも、鋼材が普及する以前の鉄道構造物のあり方を伝える手がかりであり、規格化された部材が全国の駅へ配されていった近代鉄道の生産と流通の一端を、一本の柱が今に留めている。旧中泉駅の記憶は、駅名や写真だけでなく、こうした一本の鉄柱にも確かに宿っている。

もっとも、この鋳鉄柱をいつ、どのような経緯で保存・展示の対象へ移したのかについては、提供資料の記述からは細部まで跡づけられない。1986年(昭和61年)まで実用に供され、その後に記憶の対象へと位置づけ直されたという大枠は整理として受け取れるが、退役から保存展示に至る具体的な過程を記す一次記録には、本稿の範囲では突き当たっていない。実用品が記念物へと性格を変える、その転換の瞬間を精確に記述することは、今後の課題として残る。

5. 1番線が語る駅構内の余白

三つめの物証は、建物でも部材でもなく、ホームの使われ方である。提供資料が整理する現在の磐田駅は、2面3線の構造をもつ駅として説明されている。そのうち1番線は、2014年以降、通常の旅客列車が発着しない状態になっているとされる5。日々の利用者から見れば、主に使われるのは2番線・3番線であり、1番線はやや見えにくい存在である。しかし、この通常旅客使用から外れたホームは、駅の歴史を読むうえでかえって手がかりになる。

かつての駅は、旅客の乗降だけでなく、貨物の授受、側線への出入り、列車の折り返しや待避といった複数の機能を同時に担っていた。中泉駅・磐田駅も例外ではなく、貨物や専用線が構内から外へと伸び、駅は広い構内をもって多様な役割を果たしていた。その貨物・工場引込線・専売公社側線の記憶は別の記事で詳しく扱われているため本稿では立ち入らないが、そうした機能が縮小し、駅が旅客中心の姿へと収斂していく過程で、かつて必要とされた線路やホームが、日常の運用から外れていった。1番線が通常旅客使用を外れているという現在の状態は、この収斂の帰結を示す指標として読むことができる。

言い換えれば、1番線は「使われていない線」ではなく、駅がより広い構内機能を抱えていた時代の余白である。余白とは、かつてそこに何かが書き込まれていたことを示す空白であり、駅構内の余白もまた、過去の機能がそこにあったことを物語る。現在の旅客駅としての姿だけを見れば1番線は不要な設備に映るかもしれないが、駅史の視点から見れば、それは駅が経てきた時間の厚みを、構内の空間そのものによって証言している。物証を建物や部材に限らず、ホームの配置や使われ方にまで広げることで、駅は一層豊かに読めるようになる。

ここでも確度の腑分けを保っておきたい。2面3線という構造も、1番線が2014年以降通常旅客使用を外れているという記述も、提供資料の整理に依拠するものである。現地の観察やダイヤの実態と照らして裏づけを厚くする余地はあるが、少なくとも現時点の駅構内の姿を伝える記述として、本稿はこれを受け取る。そして、なぜ2014年という時点がこの変化の画期となったのか、その運用上の経緯を直接記す資料には突き当たっておらず、この点は未確認として残す。

2面3線と1番線 ── 駅構内の余白 島式ホーム(2番線・3番線側) 1番線 2014年以降 通常旅客列車が発着しない 2番線 3番線 ホーム・駅本屋側
図4 駅構内のホーム配置(模式)。青の2番線・3番線が通常旅客用、赤の破線が2014年以降通常旅客使用を外れた1番線。使われないホームは、広い構内機能をもった時代の余白として読める。

6. 三つの物証の比較と史料批判

ここまで、四代の駅舎、跨線橋の鋳鉄柱、1番線という三つの物証を順に見てきた。これらはしばしば同じ「磐田駅の歴史」として一括りに語られるが、証拠としての性格は互いに大きく異なる。駅舎は建て替えられて多くが失われた記録上の物証であり、鋳鉄柱は建て替えを免れて現存する物的証拠であり、1番線は空間の使われ方に残る痕跡である。残り方も、確度も、語りうる範囲もそれぞれ違う三者を、同じ平面で優劣づけるのは適切でない。以下の比較表は、三つの物証を、残存の状態・確度の層・語りうる内容・史料批判上の留意点という同じ観点で並べ、それぞれが駅史のどの部分をどこまで証言できるのかを可視化することを目的とする。

表1 磐田駅(旧中泉駅)に残る三つの物証の比較 ── 残存状態・確度の層・語りうる内容・史料批判上の留意点
物証残存の状態確度の層語りうる内容留意点(史料批判)
四代の駅舎初代・二代目は現存せず、三代目以降の記録が主。整理(区分)/未確認(初代の細部)木造から橋上駅舎への都市化の年輪。四代区分は提供資料の体系化。各改築年の一次的裏づけは資料差がある。
跨線橋鋳鉄柱現物が保存・展示され現存。推定を超える物的証拠(銘)/未確認(据付経緯)1911年製造・1986年まで使用という部材の来歴。製造年は銘に基づき確度が高いが、初出設置か転用かは銘だけでは判じがたい。
1番線(ホーム)現存するが通常旅客使用を外れる。整理(現状記述)/未確認(変化の経緯)広い構内機能をもった時代の余白。2面3線・2014年以降の状態は提供資料による。画期の運用上の理由は未確認。

この比較から見えてくるのは、三つの物証が競合するのではなく、駅史の異なる部分をそれぞれ照らしているという事実である。駅舎は駅の「時代区分」を、鋳鉄柱は駅の「部材の来歴」を、1番線は駅の「空間の使われ方」を語る。一つの物証で駅の歴史の全体を覆おうとすれば、他が語りうる部分が視野から抜け落ちる。四代の駅舎だけを見れば構内設備の細部は見えず、鋳鉄柱だけを見れば駅全体の空間構成は見えず、1番線だけを見れば建物の変遷は見えない。三者を並べて初めて、駅そのものの歴史が立体的に像を結ぶ。

史料批判の観点からは、三つの物証に共通する限界と、それぞれに固有の限界とを区別しておく必要がある。共通するのは、本稿の記述の多くが提供資料という二次的な整理を経由している点である。提供資料は駅史を通観するうえで有用だが、そこに引かれた個々の年代や事実は、元の一次記録に遡って点検してはじめて確度が定まる。他方、固有の限界は物証ごとに異なる。駅舎については初代の意匠が未確認であること、鋳鉄柱については据付の経緯が銘だけでは判じがたいこと、1番線については変化の画期の理由が未確認であること――これらは同じ「未確認」でも、埋めるために必要な資料が別々である。ある物証で確認できないことを、別の物証の確からしさで補ったつもりになるのは、史料批判として避けねばならない。

この整理の作業は、駅史に限らず地域史一般に通じる含意をもつ。近代の施設を語るとき、私たちは記録と物証が豊富にあるぶん、それらを一続きの年表へと均してしまいがちである。しかし、開業日のように記録で確定できる史実と、駅舎区分のように資料が体系化した整理と、銘のように物に刻まれた証拠と、経緯が追えない未確認の空白とは、確度の水準がまったく異なる。これらを語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、後世の調べものに耐える記述を残す条件である。物証が豊富であることは、かえって確度の腑分けを怠らせる誘惑にもなりうる。近代の駅史においてこそ、この禁欲的な手続きは要る。

駅史における確度の四段階 史実 公的記録で確認 開業・改称 整理 資料が体系化 四代の駅舎区分 物的証拠 銘に刻まれる 鋳鉄柱の製造年 未確認 一次史料に未到達 据付・退役の経緯 「未確認」は「記載がない」と同じではない。突き当たっていない、という状態を保つ。
図5 駅史における確度の四段階。開業・改称は史実、四代の駅舎区分は整理、鋳鉄柱の製造年は物に刻まれた証拠、据付や退役の経緯は未確認。層を混同しないことが記述の前提となる。

7. 背景としての地理 ── 中泉という選地と駅の広がり

三つの物証を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、駅が置かれた場所そのものの地理である。現在の磐田駅が中泉駅として始まったこと、すなわち見付ではなく中泉に駅が置かれたことは、駅の内側に残る物証を読むときにも背景として効いてくる。駅舎も、跨線橋も、ホームも、中泉という土地の条件のうえに据えられたからである。中泉が選地となった経緯は鉄道忌避伝説を検証した別稿立地を論じた記事に譲るが、東海道線の広域ルート、磐田原台地と低地の地形、天竜川橋梁との取り合いといった条件が重なって、駅は中泉に据えられた。駅そのものの歴史は、この選地の帰結として始まっている。

中泉に駅が置かれたことは、駅の構内が担うべき機能の広がりとも関わっていた。駅は開業当初から、旅客の乗降だけでなく、周辺の産業や物流を受けとめる拠点として構内を広げていく。前節で触れた1番線の余白も、貨物や側線が構内から外へ伸びていた時代の名残であり、その意味で、駅の内側の物証は、駅の外側へ伸びた鉄道網の記憶と地続きである。駅北に残る赤煉瓦や御林の記憶、中泉軌道や光明電気鉄道といった駅から伸びた鉄道の系譜は中泉駅北の歴史地層を扱った記事にゆだねるが、駅そのものを読むことは、こうした駅の周辺へと開かれていく読みの起点でもある。

この背景を実際に支えたのは、駅を日々使い、駅前を形づくってきた中泉と磐田の人々である。駅舎が四代にわたって建て替えられ、跨線橋が架けられ、ホームが増減してきたのは、駅を必要とし利用する共同体があったからにほかならない。開業時に中泉の駅として迎えられ、合併を経て磐田全体の駅として位置づけ直され、橋上駅舎となって南北をつなぐ現在に至るまで、駅は地域の暮らしの変化を受けとめながら姿を変えてきた。建て替えや改良のたびに、前代の駅を知る人々の記憶と、新しい駅を使い始める人々の日常とが入れ替わり、駅そのものが世代を継いで受け渡されてきた。物証としての駅舎・部材・ホームは、いずれもこの担い手の営みが残した痕跡である。

それゆえ、駅そのものの歴史は、駅の内側だけで完結するものではない。中泉という選地から説き起こせば見付と中泉の関係に至り、駅前を歩けば近代商業と再開発の歴史に至り、構内の余白をたどれば貨物と軌道の記憶に至る。駅は、近世の中泉、近代の駅前、現代の市街地を接続する読み取りの結び目である。四代の駅舎・跨線橋鋳鉄柱・1番線という三つの物証は、その結び目の内側に沈められた、旧中泉駅の時間の断片なのである。

中泉という選地と駅の広がり 駅そのもの 中泉に立地 見付 選地の対 駅前 近代商業 駅北 軌道・御林 構内の先 貨物・側線
図6 駅を結び目とする地理的関係。中泉という選地に据えられた駅そのものは、見付との対、駅前の商業、駅北の軌道、構内から伸びた貨物側線という周辺の記憶へと開かれていく。

8. 結論 ── 駅史から重層性の記述へ

本稿は、現在のJR磐田駅を対象に、立地論・駅前商業史・鉄道網の記憶から切り離して、駅そのものに残る旧中泉駅の記憶を、四代の駅舎・跨線橋鋳鉄柱・1番線という三つの物証から読んできた。得られた見取り図は次のとおりである。駅が1889年に中泉駅として開業し、1942年に磐田駅へ改称されたことは公的記録による史実である。他方、四代の駅舎区分は提供資料が体系化した整理であり、1911年製造・1986年まで使用という鋳鉄柱の来歴は物に刻まれた証拠に基づき、2面3線のうち1番線が2014年以降通常旅客使用を外れているという記述は現状の整理にとどまる。そして、初代駅舎の意匠、鋳鉄柱の据付経緯、1番線の変化の画期の理由は、いずれも本稿の範囲では未確認である。

これだけの情報がそろうと、それらを一続きの年表へと均し、「磐田駅の歴史」として一様に語りたくなる。しかし、確度の異なる情報を同じ平面へ押し込むことは、記録で確定できる史実と、資料が体系化した整理と、追いきれない未確認の空白とを取り違える危うさをはらむ。開業日を史実として、駅舎区分を整理として、銘の製造年を物的証拠として、経緯の追えない部分を未確認として、それぞれの位置を保ったまま書き留めること――この禁欲的な手続きこそが、近代の駅史を後世の調べものに耐える形で残す方途である。物証が豊富な近代の対象においてこそ、確度の腑分けは怠られやすく、それゆえ意識的に守られねばならない。

したがって本稿の立場は明確である。駅史の記述は、「一本の年表を完成させる作業」から、「物証ごとの確度の層を分離し、それぞれが語りうる範囲を見定める作業」へと組み替えられるべきである。駅舎は時代区分を、鋳鉄柱は部材の来歴を、1番線は空間の使われ方を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの物証も単独では駅の歴史の全体を語れず、また全体を語れないことをもって、その物証の価値を否定することもできない。三者を並置し、確度の層を明示したうえで読むこと――そこにこそ、駅そのものを歴史の資料として扱う道がある。

最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、初代・二代目駅舎の意匠については、当時の図面・写真・地元記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、跨線橋鋳鉄柱の据付と退役の経緯は、鉄道事業者側の工事記録や部材台帳に遡ることで、初出設置か転用かの判定を含めて精確に描きうる。第三に、1番線が通常旅客使用を外れた2014年という画期の運用上の理由は、ダイヤ改正や構内改良の記録と突き合わせて検証されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を史実へ、整理を裏づけの厚い記述へと押し上げていく作業に属する。駅を一枚の年表へ均す誘惑を退け、確度の層を保ったまま物証を積み上げていくこと――その地道な手続きの先にこそ、中泉駅として始まり磐田駅となった現在の駅に沈む、旧中泉駅の時間の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿の舞台である中泉には、駅とともに歩んできた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 本稿の事実的基盤は提供資料「磐田駅と旧中泉駅の調査」である。同資料は駅史を通観するために編まれた二次的整理であり、「JR東海 磐田駅」関連資料、「駅舎随録 磐田駅」、「懐かしい駅の風景」等の先行記録を参照している。二次資料である以上、記載事項は元の一次記録に遡って確度を点検する必要がある。
  2. 中泉駅の開業を1889年(明治22年)4月16日、東海道線静岡・浜松間開通に合わせたものとする点、および1942年(昭和17年)10月10日の磐田駅への改称は、鉄道事業者の公的記録および自治体史に基づく史実として扱う。1940年(昭和15年)の見付町・中泉町・西貝村・天竜村の合併による磐田町成立が改称の前提をなす。
  3. 四代の駅舎区分(初代=1889年、二代目=1915年〔大正4年〕、三代目=1957年〔昭和32年〕鉄筋コンクリート造、四代目=2000年〔平成12年〕橋上駅舎)は提供資料の整理による。各改築年の一次的裏づけの厚みは資料により差があり、本稿は骨格を整理の層として受け取る。
  4. 跨線橋鋳鉄柱について、提供資料は1915年(大正4年)の二代目駅舎・跨線橋に関わる部材とし、1986年(昭和61年)まで使用されたと整理する。また銘により1911年(明治44年)に川崎造船所兵庫分工場鉄道部で製造されたことを伝える内容として紹介する。製造年は物に刻まれた証拠として扱うが、初出設置か転用かは銘のみからは判じがたい。
  5. 現在の磐田駅を2面3線とし、そのうち1番線が2014年以降通常の旅客列車の発着しない状態にあるとする記述は提供資料の整理による。当該画期の運用上の理由を直接記す一次資料には本稿の範囲で突き当たっていない。

付記:本稿は一般読者向け記事 n070「磐田駅に残る旧中泉駅の記憶」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・整理・物的証拠・未確認)を語の水準で区別し、開業年・改称年を史実、四代の駅舎区分および1番線の現状を提供資料の整理、鋳鉄柱の製造年を物に刻まれた証拠として扱った。

参考文献・参考資料

  • 提供資料「磐田駅と旧中泉駅の調査」(本稿の事実的基盤)。
  • 「JR東海 磐田駅」関連資料(提供資料の参照先)。
  • 「駅舎随録 磐田駅」(提供資料の参照先)。
  • 「懐かしい駅の風景」関連資料(提供資料の参照先)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、鉄道・交通の該当章)。
  • 静岡県編『静岡県史』通史編 近代(静岡県、鉄道敷設の該当章)。
  • 鉄道省編『鉄道停車場一覧』(該当年版、中泉駅・磐田駅の項)。
  • 日本国有鉄道『東海道本線建設史』関連資料(静岡・浜松間の該当章)。
  • 川崎造船所(現・川崎重工業)社史関連資料(兵庫分工場鉄道部の項)。
  • 佐口行正氏所蔵 中泉駅・磐田駅関連史料。
  • 東海旅客鉄道株式会社 公式サイト 駅情報「磐田駅」 https://railway.jr-central.co.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n070「磐田駅に残る旧中泉駅の記憶 ── 駅舎・ホーム・跨線橋柱から読む駅そのものの歴史」 https://iwata-monogatari.net/n070 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第18号「なぜ見付ではなく中泉に駅ができたのか ── 鉄道忌避伝説を検証する」/第48号「磐田駅前・中泉の近代商業」。