磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第56号(中世見付都市史研究 一)
戦国期の見付自治 ── 町人・桝座・大久保氏
中世都市見付の自治と支配の構造
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
戦国期の遠江見付は、東海道と水運の結節に人口と富を集めた在地の都市であり、そこでは町人が主体となって祭礼・課税・裁判を担う自治の営みが育っていた。本稿は『図説 磐田市史』の記述を事実関係の基礎に据え、淡海国玉神社の神主大久保氏を頂点とし、米屋・奈良屋ら有力者と12人の町役人が運営を分担した組織構造、年貢米の計量を掌握した桝座の経済的権能、そして天文10年〔1541年〕に今川義元が年貢の減額と代官不設置を認めたとされる経緯を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討する。あわせて、この自治を堺や京都の町衆自治に連なる自治都市として読むべきか、大名権力の統制下に置かれた限定的な自己運営とみるべきかという解釈上の対立を、それぞれの根拠と弱点とともに対等に併記する。結論として本稿は、見付の自治が交渉を通じて大名支配の内部に確保され、しかも文書として明確に記録された自律の領域であった点にこそ、この町の特質があるとする立場をとる。
キーワード:見付/中世都市/町衆自治/桝座/大久保氏/今川義元/史料批判
1. 問題設定 ── 地方中世都市の「自治」という問い
戦国時代の町と聞けば、大名や代官に一方的に治められる人々の姿を思い描きがちである。だが、商業と交通で栄えた町には、そこに住む有力な町人が自ら組織をつくり、祭礼を営み、課税を割り当て、争いを裁く仕組みが育っていた。これを町の自治という。和泉の堺、京都の町衆による自治は名高いが、同様の営みは大都市に限られたものではなかった。遠江の在地都市・見付にも、町人が主体となって町を動かし、その権利を戦国大名に認めさせた事例が伝わる。本稿はこの見付の自治を対象とし、それを構成した具体的な要素を一つずつ点検する。
ただし「自治」という語は、用い方を誤ると史実を歪める。近代の自治体や、西欧中世の自由都市を思わせるこの語を、そのまま戦国期の在地都市に当てはめてよいのか。見付の町人が獲得したものは、大名からの完全な独立だったのか、それとも支配秩序のなかで許された限定的な自己運営だったのか。この問いをあいまいにしたまま「自治都市・見付」と語れば、実態以上に自立した都市像を描くか、逆に町人の主体性を見落とすかのいずれかに傾く。本稿の課題は、見付の自治の性格を確度の層に分けて記述し、この語をどのような限定のもとで用いうるかを見定めることにある。
そこで、以下では四つの層を語の水準で区別する。史料によって確認できる事柄を史実、学界で広く支持されるが一点では確定できない事柄を通説、根拠はあるが未確定の事柄を推定、地域で語り継がれてきた事柄を伝承と呼ぶ。あわせて、「未確認」すなわち管見の限り一次史料に突き当たっていない状態と、「記載なし」すなわち史料に存在しないことが確かめられた状態とを区別する。見付の自治をめぐる記述の多くは、近世に編まれた由緒や後世の地誌を経由して伝わっており、この腑分けを欠くと、伝承を史実と取り違える誤りに陥りやすい。
見付の自治について現在まとまった記述を与えているのは、磐田市史編さん委員会が編んだ『図説 磐田市史』であり、その項目「見付の自治」は、町の運営組織・桝座・今川義元による承認を簡潔に描く1。本稿はこの記述を事実関係の基礎に据えつつ、そこで一括して語られている諸事実を、依拠する史料の性格に応じて層別に読み直す。あわせて既刊の論考、すなわち遠江支配の拠点をめぐる見付守護所の考察、および東海道の宿駅としての見付宿の考察と接続させ、守護所・宿場・自治という三つの見付像のあいだに、中世都市見付の像を位置づけたい。
見付を取り上げる意味は、単に一つの町の来歴を記すことにとどまらない。中世都市の自治といえば、教科書ではもっぱら堺や京都が語られ、地方の町は大名支配の受け身の対象として背景に退けられがちである。だが、同じような町の力が地方にも息づいていたとすれば、その事例を丹念にたどることは、中世都市像の一面的な描き方を問い直すことにつながる。遠州の見付は、その問い直しのための具体的な足がかりとなる。地方の一都市の自治が、どこまで史料によって裏づけられ、どこからが後世の伝えなのか――それを見極める作業そのものに、地域史を書くうえでの方法的な意味がある。本稿が確度の層の腑分けにこだわるのは、この方法的な関心と不可分である。
2. 都市見付の成立 ── 史料と考古が描く町
自治の検討に入る前に、それを可能にした土台、すなわち見付が「都市」と呼びうる規模へ成長していた事実を押さえておく。『図説 磐田市史』は、室町期の見付を「都市」と呼べるほど大きくなった町として描く。街道沿いの一集落ではなく、恒常的な人口と商いを抱えた町へと成熟していたという理解である。この都市化こそが、町人が自らの手で町を運営する自治の前提であった。逆にいえば、自治は都市化の結果として初めて可能になったのであり、両者は切り離せない。
その人口集積を物証の面から支えるのが、町の西北のはずれで見つかった一の谷中世墳墓群である。中世の長い期間にわたって営まれた数多くの墓が確認されており、それだけ多くの人々が世代を重ねてこの地に暮らしていたことを物語る2。墓域の具体的な規模や墓の種別については別稿に譲るが、長期にわたり墓が累積したという事実そのものが、見付が一時的な宿ではなく定住人口を抱えた町であったことを裏づける。人が集まり住み続ける場所には市が立ち、商いが根づき、やがて町の組織が育つ。墳墓群は、その組織を担った人々の厚い層を、地下から証言している。
見付の都市化を促したもう一つの要因は、その地理的位置である。東海道が東西に貫き、南北の道が交わり、大田川・原野谷川の水系と今之浦を介した水運が接続する結節点に、見付は位置していた。人と物資が集まる場に宿と市場が育ち、それを扱う商人が力を蓄える。後述するように、米屋・奈良屋といった屋号をもつ商人が町の運営に名を連ねたことは、見付の富が街道と水運の物流に支えられていたことを示す。交通の要衝であることと、自治を営みうる経済力を備えることとは、この町にあっては同じ事柄の表と裏であった。
ここで史料の性格に一言しておきたい。都市見付の像を伝える『図説 磐田市史』は、一次史料そのものではなく、市史編纂の過程で諸史料を総合した二次的な叙述である。したがって本稿がそこから引く事実は、その多くが編纂物を介した通説の水準にあり、個々の事柄について一次史料まで遡って確かめる作業は、なお課題として残る。都市の規模や人口、商業の実態を数量的に裏づける同時代史料は、管見の限り十分には確認できていない。この「未確認」を、都市化という事実そのものの否定と混同してはならない。編纂物が語る都市見付の像は、現時点では通説として受け入れつつ、その細部を一次史料へ差し戻す手続きを、以下の各論でも保ち続ける。
3. 自治の担い手 ── 大久保氏・町役人・祭礼運営
都市見付の運営は、どのような人々の手で担われたのか。『図説 磐田市史』によれば、淡海国玉神社の神主である大久保氏がまとめ役となり、その下に12人の町役人が置かれた。さらに米屋と奈良屋の二人が、他の役人を束ねる有力者として立った。彼らは祭礼の運営、税の徴収、町内の裁判までを担ったとされる3。ここで注目すべきは、見付の自治が抽象的な理念としてではなく、共同の祭りと日々の秩序維持という具体的な営みから組み立てられていた点である。
運営の中心に祭礼が置かれたことには理由がある。大きな祭りを執り行うには、多くの人手と費用、そして緻密な段取りが欠かせない。誰がどの役を担い、費用をどう出し合い、当日どう進めるか――その一切を町ぐるみで決めて実行する過程が、町の結束を鍛え、共同で物事を運営する力を養った。祭りをまとめられる組織は、税の割り当ても、争いの裁定も担いうる。すなわち、祭礼の運営組織が、そのまま町の行政組織へと育っていったと考えられる。神を祀る営みと町を治める営みとが分かちがたく結びついていたところに、中世の町の特質があった。
淡海国玉神社の神主・大久保氏が町のまとめ役を務めたことは、この祭礼と行政の一体性を象徴する。信仰の中心にある人物が、同時に運営の中心にも立つという構造は、聖なる権威が世俗の秩序を裏づける仕組みとして働いた。もっとも、こうした神主主導の運営は見付だけの例外ではなく、神事の共同運営から町の自治が育つのは中世都市に広く見られる現象である。見付の事例が貴重なのは、この一般的な構造が、後述するように文書によって跡づけられる点にある。なお大久保氏は近世以降も淡海国玉神社の神官を代々勤め、その旧蔵資料は今川氏の発給文書を含む厖大な記録として伝わっている4。この大久保家資料は、神主家が町の運営に関与した実態を今後さらに跡づけるための、第一級の手がかりである。
ただし「12人の町役人」という具体的な人数や、米屋・奈良屋という屋号が、いつの時点の編成を指すのかは、慎重に扱う必要がある。町の運営組織は固定的なものではなく、時期によって顔ぶれや役の構成が変動したはずである。『図説 磐田市史』の叙述はこれを一つの完成した体制として描くが、この組織像がどの時点の史料に基づくのかを一次史料の水準で確定する作業は、なお残されている。したがって本稿は、この組織構造を戦国期見付の運営の骨格を示す通説として扱い、細部の年代的な確定は留保する。組織の存在それ自体は確からしいが、その厳密な編成年代は現時点では未確認である、というのが正確な言い方になる。
4. 桝座と計量の権 ── 経済的自治の核
見付の自治を経済の面から支えたのが桝座である。桝座とは、年貢米を量る桝を扱う組織を指す。桝は、米や穀物の量をはかる基準の道具であり、年貢の徴収も商いの取引も、すべてこの桝ではかった量にもとづいて決まった。もし町ごと、商人ごとにばらばらの桝が用いられれば、量をごまかす者が現れ、取引はたちまち混乱する。公認された正しい桝を一手に管理する桝座の役割は、経済の秩序そのものを支える重い権限であった。祭礼が町の結束を育てたとすれば、桝座は町の富を制度として掌握する仕組みであったといえる。
あわせて、桝座が「座」と呼ばれる点にも注意を払っておきたい。座は、中世において特定の商工業者が結んだ同業の組織であり、多くは寺社や権門の保護のもとで営業や販売の権利を独占した。見付の桝座もまた、計量という営みを独占的に担うことで、他者の参入を排し、町の経済秩序を安定させる働きをもったと考えられる。独占はしばしば弊害を伴うが、こと度量衡の統一に関しては、むしろ一元的な管理こそが取引の信頼を支える。桝座が担ったのは、この意味での公的な独占であり、それを町人の側が握っていたことに、見付の自治の経済的な深さがあらわれている。
『図説 磐田市史』は、この桝座の権限が徳川家康の朱印状によって確認されたと読む。朱印状は、桝の規格、宿の取り方、座役などに関わる権限を認めたものと解されている。ここで留意すべきは、家康の朱印状という文書が近世初頭のものである点である。すなわち桝座の権限が文書として明確に裏づけられるのは、今川氏に代わって徳川氏が遠江を治める段階においてであって、その文書が桝座そのものの成立時期を直接に記すわけではない。桝座が戦国期にすでに機能していたことは、後述する天文年間の自治の実態から推定できるが、その起点を一次史料で確定するには至っていない。ここでも成立年代は未確認の層にとどまる。
資料が伝えるところでは、この桝座は遠江国において見付と引間の二つの町だけに認められていたという5。引間は後に浜松と呼ばれることになる交通の要地であり、遠江の物流を分けあう二つの拠点に計量の権が集中していたことになる。桝を握る者が経済を握る――計量の統一を担う桝座が遠江でこの二町に限られていたという事実は、見付が国内の物資集散において占めた地位の高さを、何より雄弁に物語る。町人が桝座を通じて計量の権を握っていたことは、彼らの経済的な力の大きさの、動かぬ表れであった。
桝座の存在は、見付の自治が単なる祭礼運営や町内の裁判にとどまらず、経済の根幹にまで及んでいたことを示す。結束と富、その両輪がそろってはじめて、町は大名と対等に近い交渉のできる実力を備える。次節で見る天文10年の年貢減額要求は、まさにこの経済的な裏づけを抜きにしては理解できない。計量という一見地味な実務の掌握が、町の政治的な交渉力へと転化していく――桝座は、見付の自治が経済と政治の両面で組み立てられていたことを示す、要の制度であった。
5. 天文10年の承認 ── 今川義元との交渉
見付の自治を最も鮮明に示すのが、天文10年〔1541年〕の出来事である。『図説 磐田市史』によれば、この年、見付の町人と百姓は、従来納めていた年貢100貫文を50貫文余へと減らすこと、そして町に代官を置かないことを求めた。これに対し今川義元は、彼らの抵抗を警戒し、見付の自治を正式に認めたとされる。年貢をおよそ半分にまで減らし、しかも代官を置かない――大名が町に直接役人を送り込まないと約束したことは、戦国大名と在地の町との関係を考えるうえで見逃せない事実である。
今川義元は、駿河・遠江・三河にまたがる支配を築いた東海の大大名である。その義元が町人の求めに応じた背景には、力ずくで押さえつけるよりも、町の自治を認めて協力を引き出すほうが得策だという判断があったと考えられる。町の側にも、大名と交渉できるだけの結束と実力があった。年貢を100貫文から50貫文余へと引き下げさせたという事実は、町がそれだけ強い交渉力を持っていたことを推測させる。一方的に治められるだけの存在ではない在地都市の姿が、ここにうかがえる。大名の力が絶対とされた戦国の世にあって、町が団結してここまでの条件を引き出したことは、決して小さな事柄ではない。
もっとも、この経緯にはいくつか慎重に扱うべき点がある。第一に、100貫文・50貫文余という額が、見付の負担する年貢全体を指すのか、特定の名目に限られるのかは、叙述からは判然としない。貫文で示される戦国期の年貢額は、貫高制のもとでの換算値であり、実際の米量や町の総負担にそのまま等しいとは限らない。第二に、「代官を置かない」という承認が、恒久的な特権として与えられたのか、その時々の情勢に応じた一時的な措置であったのかも、断定はできない。これらを裏づける今川氏の発給文書そのものに本稿が直接あたれていない以上、経緯の骨格は通説として受け入れつつ、額や条件の細部は推定にとどめるほかない。
それでも、この承認の性格については一点、明確にしておくべきことがある。それは、これが完全な独立ではなかったという点である。見付の町人が獲得したのは、あくまで今川氏の支配秩序の内側における一定の自己運営権であって、大名の領国支配そのものを否定するものではなかった。義元が「認めた」という言い方自体が、承認する権威が大名の側にあったことを含意している。見付の自治は、大名権力の外に築かれた独立の共同体ではなく、大名権力との交渉を通じて、その内部に確保された自律の領域として理解すべきである。この理解が、次節で扱う二つの解釈を橋渡しする鍵となる。
6. 見付自治の性格をめぐる二つの読み方
前節までに見た組織・桝座・年貢減額という諸事実を、どのような都市像へまとめあげるか。ここで解釈は分かれる。見付の自治を、堺や京都の町衆自治に連なる自立した都市共同体の営みとして高く読む立場と、あくまで戦国大名の統制の内に置かれた限定的な自己運営とみる立場である。両者は同じ史実を共有しながら、その重心の置き方を異にする。以下、二つの読み方を、それぞれの根拠と弱点とともに対等に並べる。
堺・京都の町衆自治に連なる在地都市とみる
立場の骨子。この立場は、町人が主体となって祭礼・課税・裁判を担い、桝座を通じて経済を掌握し、大名に年貢減額と代官不設置を認めさせた点を重視する。京都や堺のような大都市を除けば、地方の中世都市が自治権を文書の形で残した例は珍しい。見付はその稀な事例であり、都市の自治は決して大都市の専有物ではなかったことを示すと読む。
根拠と説明力。この読み方の強みは、権利が今川義元の承認と徳川家康の朱印状という文書に裏づけられている点にある。慣行としての自治は各地にありえても、それが文書として残る例は限られる。見付はその限られた例に属し、町人の主体性が制度として結実していたと解しうる。
大名支配の内に置かれた限定的自己運営とみる
立場の骨子。この立場は、義元が自治を「認めた」という構図そのものに注目する。承認の権威が大名の側にある以上、見付の自治は大名の領国支配を前提とし、その統制のもとで許された自己運営にすぎないと読む。年貢の減額も、抵抗を警戒した義元の政治的判断の産物であって、町の独立を意味しない。
根拠と説明力。桝座の権限が最終的に家康の朱印状によって確認されたことも、この読み方を支える。町の権利は、それを保証する大名の文書に依存していた。大名が交替すれば、権利はあらためて新たな支配者の承認を要した。自治は大名権力と切り離された既得権ではなく、支配秩序に組み込まれた一要素だったとみる。
| 視角 | 重心の置き方 | 主な根拠 | 弱点(史料批判) | 資料の層 |
|---|---|---|---|---|
| 自治都市論 | 町人の主体性と自治権の文書化を重視する。 | 祭礼・課税・裁判の掌握、桝座、年貢減額、代官不設置の承認。 | 自立の程度を測る数量的な一次史料が乏しい。 | 通説・推定 |
| 大名権力論 | 承認の権威が大名側にある構図を重視する。 | 義元が「認めた」形式、家康朱印状による権限確認。 | 大名に譲歩を迫った町人の主体性を説明しきれない。 | 通説・推定 |
本稿の立場は、次の一文に集約される。見付の自治は、大名権力の外に築かれた独立都市ではなく、大名との交渉を通じてその内部に確保され、しかも文書として明確に記録された自律の領域であった。二つの読み方は、実のところ排他的ではない。町人の主体性――読み方①が重視するもの――は、大名支配という枠――読み方②が重視するもの――の内側でこそ発揮されたのであり、両者を優劣で対立させるより、交渉によって権利が文書化されたというその一点に、見付の特質を見いだすほうが史実に忠実である。地方の在地都市が、その自律を口約束ではなく文書として残しえた稀有さこそが、他の多くの町の自治が慣行のまま消えていったなかで、見付を際立たせている。
ここで想起しておきたいのは、中世都市の自治をめぐる議論が、堺や京都を対象として長く積み重ねられてきた点である。かつては、これらの都市を大名権力から自立した「自由都市」として高く評価する見方が有力であったが、後の研究はむしろ、こうした都市が守護や戦国大名の支配秩序と深く結びついていた側面を明らかにしてきた。自立を強調する見方と、支配との連続を強調する見方の対抗は、そのまま見付をめぐる二つの読み方に重なる。大都市の研究で鍛えられたこの枠組みを地方都市の事例に適用するとき、見付が示すのは、自立か従属かという二者択一ではなく、交渉のなかで両者が絡みあう関係の具体相である。見付という小さな事例は、大都市の自治論が立ててきた問いを、別の規模で検証する場ともなりうる。
7. 背景としての地理と担い手
二つの読み方のいずれをとるにせよ、見付の自治を成り立たせた現実的な母体は、この町の地理と担い手にあった。前述のとおり見付は、東西の東海道、南北の道、そして水運の交わる結節に位置する。人馬と荷物が集まり、宿と市場が育ち、支配者もまた町の協力なしには徴税や交通の維持を果たせなかった。経済力と地の利が、そのまま大名との交渉における切り札となった。自治は理念として上から与えられたのではなく、町自身の実力によって獲得されたものであった。
天神信仰を核とする祭礼、共同体の記憶、計量と徴税の実務――これらを一つの町の営みへ束ねたのは、街道と水運に生きる商人・百姓の共同体であった。米屋・奈良屋に代表される有力商人が運営の中枢を占めたことは、見付の自治が商業の富に支えられていたことを裏づける。町の鎮守への寄進、祭礼組織の編成、渡御路や市の維持といった営みは、いずれも宿場的な社会構造と不可分であった。観念の水準で語られる自治が、毎年くり返し実際の営みとして演じられ伝えられたのは、この担い手の共同体があったからにほかならない。
見付の担い手が宿場的な共同体であったことは、自治の性格を考えるうえでも示唆に富む。純然たる商業都市であれば、町人の利害は商いへ一元化されやすいが、街道の宿と在地の百姓を抱える見付では、運送・宿泊・農業・商業といった複数の生業が一つの町に折り重なっていた。天文10年の要求が町人と百姓の連名で示されたと伝わるのも、この複合的な社会構成を反映している。異なる生業の者たちが、年貢の減額という共通の利害のもとで結束しえたところに、見付の自治の底力があった。単一の階層の運動ではなく、生業を異にする複数の層が一つの要求へまとまりえたことこそ、この町の結束の強さを示している。
この戦国期に培われた町人の自治の気風は、一時代限りのものではなかった。近世に入り、見付が東海道の宿場町として栄えると、町の運営を町人自身が担う伝統は、形を変えながら受け継がれていく。守護所が置かれた中世の政治的拠点としての見付、宿駅として賑わった近世の見付、そして本稿が扱った町人自治の見付――これらは別々の見付ではなく、一つの町が時代ごとに見せた異なる相である。地域の歴史をさかのぼると、近世の宿場運営や祭礼の共同運営の源が、戦国という時代にまでまっすぐ届いていることに気づかされる。守護・宿・自治という三つの視点は、いずれもこの一つの町の厚みを別々の角度から照らしている。
8. 結論 ── 「自治」の語をどう用いるか
本稿は、戦国期見付の自治を、組織・桝座・年貢減額という三つの要素に分けて検討し、その性格を確度の層に腑分けした。得られた見取り図は次のとおりである。見付が「都市」と呼びうる規模へ成長し、町人が祭礼・課税・裁判を担い、桝座が計量を掌握し、天文10年〔1541年〕に今川義元が年貢減額と代官不設置を認めたという骨格は、『図説 磐田市史』の叙述に基づく通説として受け入れられる。一方、年貢額の性格、組織編成の年代、桝座の成立時期といった細部は、一次史料に直接あたれていない以上、推定と未確認の層にとどまる。この骨格と細部の区別を保つことが、見付の自治を過大にも過小にも描かないための前提である。
冒頭に立てた「自治」という語の問いには、こう答えたい。見付の自治は、西欧中世の自由都市や近代の自治体を思わせる完全な自立ではない。それは大名権力との交渉のなかで、その支配秩序の内側に確保された限定的な自律であった。だが、この限定を理由に町人の主体性を割り引く必要はない。大名に譲歩を迫り、権利を文書として残させた交渉力そのものが、在地都市の力の証しだからである。したがって「自治」の語は、この「交渉によって獲得され、文書化された自律」という限定を付して用いるべきである。限定を欠いたまま「自治都市」と呼べば、実態を離れた自立像を描くことになる。
見付の自治が後世に伝わったのは、それが慣行のまま消えず、今川義元の承認や徳川家康の朱印状という文書に刻まれたからである。多くの町では、自治的な慣行があっても、それが文書化されず、今日まで伝わることは少ない。文書は口約束と違い、後の世まで権利を証明し続ける。見付の町人が自らの権利を文書という形で確保しようとし、それが今日まで伝わったこと――それは、堺や京都といった名だたる自治都市の系譜に、遠州の在地都市がひそかに連なっていたことの、確かな証しである。地方の一都市の自治が、これほどはっきりと文書に刻まれて残った稀有さこそ、中世の見付という町の力を物語る。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を記す。第一に、今川氏および徳川氏の発給文書そのものにあたり、年貢額・代官不設置・桝座の権限を一次史料の水準で確かめること。第二に、大久保家旧蔵資料の目録を手がかりに、神主家が町の運営に関与した実態を跡づけること。第三に、見付の自治を、遠江の他の在地都市や、堺・京都の町衆自治と系統的に比較する作業である。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく手続きに属する。「自分たちの町は自分たちで動かす」という誇りが、どこまで史料によって裏づけられるのか――その地道な検証の先にこそ、中世都市見付の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 見付の自治に関する事実関係は、磐田市史編さん委員会編『図説 磐田市史』(磐田市、1995年)項目20「見付の自治」(冊子39〜40頁)に依拠する。同書は諸史料を総合した二次的叙述であり、本稿はその記述を通説の水準として扱う。↩
- 一の谷中世墳墓群の墓の種別・基数など具体的な規模は、発掘調査報告および磐田物語の関連記事に譲る。本稿では、長期にわたる墓域の累積を、見付が定住人口を抱えた町であったことの物証として位置づけるにとどめる。↩
- 大久保氏を頂点とし、米屋・奈良屋と12人の町役人が祭礼・徴税・裁判を担ったとする組織像は前掲『図説 磐田市史』による。編成の年代を特定する一次史料は本稿では未確認である。↩
- 大久保家は淡海国玉神社の神官を代々勤めた家であり、その旧蔵資料には今川義元・氏真の発給文書を含む中世以来の記録が伝わるとされる。資料の全体像は目録の整備を待って検討すべき課題である。↩
- 桝座が遠江で見付と引間の二町に限られていたとする点も前掲『図説 磐田市史』による。徳川家康の朱印状は近世初頭の文書であり、桝座の成立年代そのものを直接には記さない。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 m131「戦国期の見付自治 ── 町人・桝座・大久保氏」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、天文10年〔1541年〕の年貢減額・代官不設置および組織像を『図説 磐田市史』に基づく通説として扱い、年貢額の性格や桝座・組織の成立年代を推定・未確認の層に置いた。
参考文献・参考資料
- 磐田市史編さん委員会編『図説 磐田市史』磐田市、1995年(項目20「見付の自治」、冊子39〜40頁)。
- 磐田市史編さん委員会編『磐田市史』通史編、磐田市。
- 磐田市教育委員会編『一の谷中世墳墓群遺跡』発掘調査報告書、磐田市。
- 大久保家旧蔵文書(見付・淡海国玉神社神主家伝来、磐田市寄贈資料)。
- 今川義元・氏真発給文書(見付関係)。
- 徳川家康朱印状(見付桝座関係)。
- 豊田武『増訂 中世日本商業史の研究』岩波書店、1952年。
- 網野善彦『日本中世都市の世界』筑摩書房、1996年。
- 静岡県編『静岡県史』通史編2(中世)、静岡県、1997年。
- 淡海国玉神社由緒書。
- 磐田市公式サイト「見付のあゆみ・文化財」の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m131「戦国期の見付自治 ── 町人・桝座・大久保氏」 https://iwata-monogatari.net/m131 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「見付守護所 ── 遠江守護支配の拠点をめぐって」『大石浩之の磐田論考』第2号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/002/ (最終閲覧:2026年7月25日)。