失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 池田荘と「葛巻」

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第47号(旧豊田町の地名研究 一)

池田荘と「葛巻」 ── 地名に残る中世の荘園

荘園の痕跡を地名から読む

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市(旧豊田町)

要旨

旧豊田町の小立野・西之島に残る小地名「葛巻」は、地名資料の摘要において中世荘園・池田荘および京都松尾大社の古文書と結びつけて記録されている。本稿は、この小さな地名を入口に、天竜川左岸に展開した松尾大社領・池田荘の記憶をたどる。史料で確認できることとして、池田荘が1171年(承安元年)の立券文によって12世紀前期に姿をあらわすこと、その惣田数が385町余に及んだと伝わることを押さえ、他方で、葛巻の正確な範囲、荘域の中心、現在の地割と中世荘園境界の一対一の対応は確定しがたい問題として区別する。とりわけ地名比定という方法そのものが抱える陥穽に留意し、地名由来も荘域も断定を避けて諸説を対等に併記する。天竜川の河道が東から西へ移動し、荘域が両岸にまたがっていった経緯を踏まえれば、動く土地の上で地名を荘園史へ接続する作業は慎重な手続きを要する。本稿は葛巻を荘園を証する一点ではなく、池田荘を考えるための入口として位置づける立場をとる。

キーワード:池田荘/葛巻/松尾大社領/中世荘園/地名比定/立券文書/天竜川左岸

1. 問題設定 ── 地名から荘園へ、その方法上の陥穽

旧豊田町の地名を丹念に読んでいると、日々の生活圏のただなかに、思いがけず中世の名が顔をのぞかせることがある。「葛巻」もその一つである。『ふるさと 豊田町地名地図』では、小立野・西之島の地名として確認され、その摘要には池田荘や松尾大社の古文書との関係が記されている1。ひと目では由来のわからないこの小さな名が、都の有力社の文書と結びつけられているという事実に、本稿は出発点を置く。

ただし、地名から荘園史をたどる作業には、あらかじめ断っておくべき方法上の陥穽がある。地名は、荘園の境界をそのまま保存した地図ではない。ある小地名が中世荘園の文書に見える名と一致するように読めたとしても、それが直ちにその土地の荘園への帰属を証明するわけではない。文字の一致は偶然でもありうるし、後世に付された名が古い名に似ることもある。地名比定とは、地図・古文書・現地の地形という複数の資料を照らし合わせ、確からしさを積み上げていく手続きであって、一点の名の一致で完結する作業ではない。

本稿がこの慎重さにこだわるのは、地名を扱う研究が陥りやすい二つの誤りを避けるためである。第一は、名の類似だけを頼りに荘域や由来を断定してしまう誤り。第二は、逆に、確証がないことを理由に、地名が保存してきた記憶の価値そのものを切り捨ててしまう誤りである。葛巻という名は、池田荘の帰属を決定づける証拠にはならないが、地域が何を記憶として書き留めてきたかを示す手がかりにはなりうる。証拠にならないことと、意味がないこととは、別の事柄である。

そこで本稿では、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないための枠組みをあらかじめ設けておく。史料によって確認できる事柄を史実として、根拠はあるが未確定の事柄を推定として、地域に語り継がれてきた事柄を伝承として、それぞれ語の水準で書き分ける。さらに、「未確認」──管見の限り一次史料に突き当たっていない状態──と、「記載なし」──史料に現に記述が存在しない状態──を区別する。この二つを混同すると、まだ探しきれていないだけの事柄を、初めから存在しなかったかのように扱う誤りに陥る。

以下ではまず、史料で確認できる池田荘の輪郭を立券と規模の面から押さえ(第2節)、その荘園が京都松尾大社の社領として語られてきた文脈を確認する(第3節)。続いて葛巻という地名の由来をめぐる複数の読みを対等に並べ(第4節)、地名比定という方法の限界を整理する(第5節)。そのうえで、天竜川の河道変遷が荘域に与えた影響(第6節)と、渡し・宿としての池田の重層(第7節)を背景に置き、結論として葛巻を荘園史の入口として読み直す立場を示す(第8節)。地名という小さな入口から、中世の土地支配という大きな主題へ、断定を急がずに近づいていきたい。

葛巻 小地名・伝承 小立野・西之島 現地の地割・推定 池田荘 荘域・文書 松尾大社 権門・史実 地名から荘園への読みの階層 左へ行くほど確度は下がる。矢印は「証明」ではなく「手がかりの連鎖」を示す。 名の一致だけで右端(史実)へ一足飛びに接続してはならない。
図1 地名から荘園への読みの階層。小地名(左・伝承)から権門(右・史実)へ向かうほど資料の確度は上がるが、逆に各段階の対応づけは推定を含む。本稿は各段階の確度を保ったまま接続を検討する。

2. 史料が伝える池田荘 ── 立券と規模

葛巻の検討に入る前に、その名が結びつけられている池田荘そのものの輪郭を、史料で確認できる範囲において確定しておきたい。池田荘は、遠江国豊田郡──古くは磐田郡域とも語られる──に存在したと伝えられる中世の荘園である。荘園とは、貴族・寺社・有力者などが権利を有した土地のまとまりで、年貢や産物の徴収、支配権の重なりを通じて中世社会を支えた制度であった。在地の開発者が、税の負担を逃れ、あるいは権利を守るために、都の有力な社寺へ土地を寄せる。そうした寄進の積み重ねが各地に荘園を生んでおり、池田荘もまた、こうした寄進地系の荘園として語られてきた。

寄進地系という性格は、葛巻の読みにも遠く関わってくる。寄進地系の荘園は、もともと在地で開発された田畠のまとまりを母体とし、それが権門への寄進を通じて一つの荘園へと束ねられていったものである。とすれば、荘園の内部には、寄進以前の開発単位や耕地の呼び名が、小地名として温存されている可能性がある。葛巻のような小地名が、荘園全体の名よりも古い在地の記憶を留めているのか、それとも荘園成立後に付されたのかは、名の姿だけからは判じがたい。ここでも、荘園という大きな枠の古さと、その内部の小地名の古さとを、短絡的に等号で結ばない慎重さが要る。なお、豊田郡と磐田郡という郡名の揺れそのものも、郡域が時代とともに動いたことの反映であり、土地の帰属を語る際の座標系が固定されていなかったことを物語る。

歴史地名資料や百科事典の解説によれば、池田荘は1171年(承安元年)の立券文によって、おおむね12世紀前期に成立したと伝えられる2。立券とは、土地の四至(範囲)や田畠の面積を確定し、荘園として正式に立てる手続きをいう。したがって池田荘は、源平の争乱や鎌倉幕府の成立に先立つ平安時代の末に、すでに文書の上で姿をあらわしていた土地だったことになる。立券という語がすでに示すように、この荘園の輪郭は、地形や集落の実態としてよりも、まず文書のなかで線を引かれる形で確定された。この点は、後に地名から荘域を復元しようとするとき、常に念頭に置くべき前提となる。

池田荘について注目されるのは、その規模が比較的具体的な数字で伝えられている点である。立券のころの惣田数(田の総面積)は385町4反余、畠は164町3反余といった数値が記録されていたと伝わる3。1町はおよそ1ヘクタール前後にあたるとされるから、田畠を合わせれば相当な広がりをもつ荘園だったことになる。研究のなかには、その範囲を天竜川下流域のおよそ20平方キロメートルに見積もる見方もある。もっとも、これらの数値は中世の文書に基づく古い記録であり、現在の正確な面積や境界をそのまま示すものではない。当時の「町」「反」の換算には幅があり、田畠のうちどれだけが実際に耕作されていたかも一様ではなかった。ここで受け取っておくべきは、精密な面積ではなく、池田荘が一村にとどまらない広域の荘園として認識されていたという規模感である。

この規模感は、葛巻の位置づけに直接かかわる。385町余の田を擁する荘園のなかで、葛巻はごく一点の小地名にすぎない。広い荘域のなかのどこに位置し、どのような役割を担った土地だったのかは、地名の名からだけでは決められない。史実として言えるのは、池田荘が12世紀後半に文書上で立てられた広域の荘園であったことまでであり、その内部の小地名がいつ、どのように付されたのかは、別に検証を要する問いである。神社沿革の古さが祭礼形式の古さを保証しないのと同じ理屈で、荘園全体の古さは、その内部の個々の地名の古さを直ちには保証しない。

1171立券文 12世紀後半松尾大社領 中世河道西遷・両岸化 近世東海道池田宿 1992地名地図 ■ 荘園(田385町余・畠164町余) ■ 交通の地・近代の記録 池田荘の沿革 ── 荘園から渡し場・地名資料へ 立券は文書上の確定であり、荘域の実態や小地名の成立時期を一点で示すものではない。
図2 池田荘の沿革年表。緑は荘園としての史実(立券・田数)、橙は河道変遷、赤は近世の交通、青は近代の地名資料を示す。荘園の成立年代と、内部の小地名の成立時期は別の層にある。

3. 松尾大社領という視点 ── 都の社と遠江の田畠

歴史地名資料や郷土資料では、池田荘は京都の松尾大社(松尾神社)の社領として語られる4。松尾大社は山城国葛野郡、現在の京都市西京区嵐山に鎮座する古代以来の有力社であり、秦氏の氏神を起源とすると伝えられ、酒造の神・水の神としての信仰でも広く知られる。その社領が、はるか東国・遠江の天竜川下流域にまで及んでいた。この関係は、現在の地域感覚だけで土地を見ていては見落としやすい事柄である。

もっとも、遠江の天竜川左岸にある土地が京都の社領と結びつくのは、けっして例外ではない。中世の社寺は、各地に散在する荘園からの年貢によって祭祀や経営を支えており、遠隔地の荘園を数多く抱えていた。都の権門にとって、遠国の田畠は、直接に足を運んで支配する土地というより、年貢という形で価値が届けられる権利の対象であった。池田荘もまた、都の社のための年貢を生み出す土地として、文書の網の目に組み込まれていたのである。葛巻のような小地名が松尾大社の古文書に関係づけられるのも、こうした年貢と権利の記録のなかに、土地の名が書きとめられていったからにほかならない。

松尾大社が水の神・酒造の神として信仰されてきた社であることと、その社領が天竜川という大河の下流域に置かれたこととを、安易に因果で結ぶことはできない。都の権門が遠国の荘園を得る経緯は、寄進の縁や政治的な結びつきによることが多く、神格の性格が立地を選ばせたと考えるのは行き過ぎである。とはいえ、暴れ川として知られた天竜川の左岸に、水をつかさどる社の名の記憶が重なっているという符合は、土地の来歴を想像するうえで心に留めておいてよい。あくまで象徴的な符合であって、史料に基づく因果ではないことを断ったうえで、記録しておく。

ここで留意しておきたいのは、「松尾大社領」という語が、一枚岩の支配を意味するわけではない点である。中世の荘園では、本家・領家・預所・下司といった重層する権利が一つの土地の上に積み重なり、都の権門が名目上の領主であっても、現地の経営は在地の有力者が担うことが多かった。したがって池田荘を松尾大社領と呼ぶとき、それは所有の実態というより、権利の系譜の一端を指している。都の社と遠江の田畠を結ぶ糸は、単純な一本の線ではなく、複数の権利が重なり合った束として想像するのが実態に近い。

この視点は、葛巻を読むうえでも意味をもつ。もし葛巻が松尾大社関係の文書に見える地であるなら、それはこの小地名が、都の社の年貢台帳や相論の記録といった、権利をめぐる文書の圏内にあったことを推測させる。ただし、その文書に葛巻の名がどのような文脈で現れるのか、どの権利層に属する記録なのかは、原文書に即して確認すべき事柄であり、本稿の調査範囲ではその原文書に直接は突き当たっていない。ここでは、地名資料の摘要が葛巻を松尾大社文書と結びつけている事実を出発点とし、その結びつきの具体相の解明を今後の課題として明示するにとどめる。

松尾大社 山城国葛野郡 都の権門 池田荘 遠江国豊田郡 天竜川左岸 年貢・産物 社の祭祀・経営を支える権利 都の社と遠江の田畠を結ぶ糸
図3 松尾大社と池田荘の関係。都の社は遠隔地の荘園からの年貢によって経営を支えた。この関係は所有の実態というより、重層する権利の系譜として理解される。

4. 「葛巻」の由来 ── 三つの読みの併置

葛巻という地名は、ひと目で由来のわかる名ではない。地名の由来を考えるとき、私たちは往々にして一つのもっともらしい解釈に飛びつきたくなるが、地名由来の推定こそ、根拠の乏しい断定が横行しやすい領域である。ここでは、葛巻という名について考えうる複数の読みを、優劣をつけずに対等に並べておく。いずれも決め手を欠く推定であり、確定した由来ではないことを、はじめに断っておきたい。

読み①・植物由来

植物の「葛(くず)」に由来するとみる読み

読みの骨子。「葛」は、山野に広く繁茂するつる性の植物クズを指す。葛の茂る土地、あるいは葛を採取・利用した土地に由来する地名は各地に見られ、葛巻もそうした植生に基づく名だとする読みである。「巻」を、つるが巻きつくさまや、地形の巻き込みと重ねて解する余地もある。

この読みの強みと弱み。植物由来の地名は普遍的で、字面とも整合しやすい。一方で、葛は多くの土地に生えるありふれた植物であるため、なぜこの一点だけが葛巻と呼ばれたのかを説明しにくい。字面の自然さは、かえって後世の当て字による説明を招きやすく、古い呼称を保存しているかどうかの判断を難しくする。

読み②・地形由来

地形の「巻き込み」に由来するとみる読み

読みの骨子。「巻」を、川や道が湾曲して巻き込む地形、あるいは微高地が低地を抱え込むような地割と結びつけて読む解釈である。天竜川左岸は、河道の蛇行と微高地の分布が複雑に入り組む土地であり、そうした地形の特徴が地名として刻まれたとみる。

この読みの強みと弱み。小立野・西之島という周辺地名が、いずれも台地と低地、微高地と川の関係を意識させる名であることは、地形由来説と整合的である。ただし、「巻」を地形語として読む根拠は、この地に即した地形分類の裏づけを欠いており、一般論としての推測の域を出ない。現地の微地形を精査したうえでの検証が要る。

読み③・人名/耕地名由来

人名・屋号・耕地名に由来するとみる読み

読みの骨子。中世から近世にかけての小地名には、開発者や領有者の名、屋号、あるいは耕地の呼び名に由来するものが少なくない。葛巻もまた、特定の人・家・耕地に結びついた呼称が定着したものだとする読みである。荘園の年貢台帳や検注帳には、耕地ごとに人名を冠した名が並ぶことが多い。

この読みの強みと弱み。荘園文書との結びつきを重視するなら、この読みは池田荘の内部構造と最もよく接続する。名主・作人の名が耕地名として残る例は普遍的だからである。弱みは、それを裏づける具体的な人名・屋号を、現時点で史料上に特定できていない点にある。この読みは、原文書の精査によってのみ検証可能となる。

以上の三つの読みは、いずれも決定的な根拠を欠き、互いを排除するものでもない。地名の由来は、植生・地形・人事の複数の契機が折り重なって定着することも珍しくなく、単一の起源に還元できるとは限らない。次の比較表は、三つの読みを性格・根拠・留意点において対等の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。特定の読みを優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえた。

表1 「葛巻」の由来をめぐる三つの読みの比較 ── 性格・根拠・史料批判上の留意点
読み由来の性格主な内容依拠する発想留意点(史料批判)
植物由来植生語葛の茂る/利用した土地に由来するとみる。各地に分布する植物由来地名の類型。葛は普遍的で、なぜこの一点かを説明しにくい。当て字の可能性を排せない。
地形由来地形語川・道・地割の「巻き込み」に由来するとみる。周辺の小立野・西之島との地形的整合。「巻」を地形語とする根拠は現地の微地形精査を要し、一般論の域を出ない。
人名・耕地名由来人事語開発者・屋号・耕地名に由来するとみる。荘園検注帳に人名を冠した耕地名が並ぶ実態。池田荘との接続は良いが、裏づける具体的人名を史料上に特定できていない。

重要なのは、地名資料の摘要が、この名を池田荘・松尾大社の文書と結びつけている点である。由来そのものは未確定でも、葛巻という名が中世の土地支配の記録と接点をもつと地名資料が記録していること自体は、確認できる事実である。地名は、しばしば行政の大きな名前よりも長く残る。村名が変わり、町名が変わっても、小字や通称地名は、田畑の呼び名、家々の記憶、古い書付のなかで生き延びる。葛巻もまた、そうした小さな名の一つとして、中世の土地支配の影を今に伝えているのかもしれない。

5. 地名比定の方法と限界

ここで、地名比定という作業そのものの方法と限界を、正面から整理しておきたい。地名比定とは、文献に現れる地名を、現在のどの土地に当てるかを推定する作業である。中世荘園の研究において、これは荘域を復元するための基礎作業であると同時に、最も慎重を要する手続きでもある。名の一致は魅力的な手がかりだが、それ自体は証明ではない。同名異地、異名同地、後世の改称、当て字による表記の変化といった要因が、名と土地の対応を絶えず攪乱するからである。

比定の確からしさは、複数の独立した手がかりが同じ結論を指すときに高まる。文献上の名、現地に残る小字、地形の特徴、隣接地名との位置関係、条里の坪並みといった手がかりが、互いに矛盾なく一点を指すなら、比定の確度は上がる。逆に、名の一致という一つの手がかりだけに頼るなら、それは仮説の提示にとどまる。荘域の復元を、微高地の分布や条里の遺構から試みる研究があるのは、名の一致だけでは荘域を確定できないという、この方法上の自覚に基づく。天竜川左岸の村々の成り立ちを扱った既刊論考でも、地名と地形を重ねて読む作業の難しさに触れた。

葛巻の場合、現時点で確度をもって言えるのは、この名が地名資料に小立野・西之島の地名として記録され、その摘要が池田荘・松尾大社文書との関係を記していることまでである。葛巻の正確な範囲、荘域のなかでの位置、現在の地割との一対一の対応は、いずれも今後の確認課題に属する。ここで「未確認」と「記載なし」の区別が生きてくる。葛巻の範囲を確定する史料に本稿が突き当たっていないことは、そのような史料が存在しないことを意味しない。原文書の精査、現地の小字の悉皆調査、地形図との照合を経て、はじめて未確認は推定へ、推定は確度の高い比定へと進みうる。

比定の作業では、地名の表記の変化にも注意を払わねばならない。中世から近世を経て近代の地籍に至るまで、同じ土地の名が、写しの過程で字を替え、音を近い別字に置き換えられていくことは珍しくない。「葛」「巻」という字面も、もとの音や意味をどこまで忠実に伝えているかは保証の限りではなく、当て字を経た後の姿である可能性を排除できない。したがって、現在の表記から由来を推し量る作業は、表記の変遷史をたどる作業と切り離せない。古い書付における表記、近世検地帳での呼称、近代地籍図での字名を突き合わせ、名がどのように書き継がれてきたかを跡づけてはじめて、由来をめぐる議論は地に足のついたものになる。本稿が由来を三つの読みの併置にとどめたのも、この表記の変遷史をまだ追い切れていないことの反映である。

この禁欲的な手続きは、遠回りに見えて、実は地名の価値を守る道でもある。名の一致だけで荘域を塗り分けてしまえば、後の検証に耐えない断定が独り歩きし、かえって地名という資料の信頼を損なう。逆に、確度の層を保ったまま「ここまでは言える、ここからは未確認である」と腑分けして書き留めておけば、その記述は後続の調査の土台となる。地名比定において大切なのは、正解を急いで一つ選ぶことよりも、いま言えることの範囲を正確に画定し、次の調査に手がかりを引き渡すことである。

名の一致のみ 仮説の提示(未確認) +地形・隣接地名 推定へ +条里・原文書 確度の高い比定へ 地名比定の確度 ── 手がかりを重ねる 独立した手がかりが同じ一点を指すほど確度は高まる。名の一致だけでは仮説にとどまる。
図4 地名比定の確度の段階。名の一致は出発点にすぎず、地形・隣接地名・条里・原文書という独立した手がかりを重ねることで、はじめて確度の高い比定に近づく。

6. 動く川と荘域 ── 河道変遷と境界相論

池田荘を現在の地図にそのまま塗り分けることに慎重でありたい理由は、地名比定一般の難しさに加えて、この土地に固有の事情があるからである。天竜川左岸は、河道の変化、堤の築造、新田開発、村境の変更を繰り返してきた地域である。中世の地名と近代の小字、現在の町名を単純に重ねると、かえって誤解を生む。土地そのものが動いてきた場所で、動かない境界線を前提とする議論は成り立ちにくい。

このことは、池田荘そのものの歴史にもあらわれている。歴史地名資料によれば、池田荘ははじめ天竜川を東の境としていたが、河道がしだいに西へ移っていったため、のちには川の両岸にまたがる荘園になっていったと伝えられる5。川が動けば、田畠も村も、そして荘園の境も動く。境界をめぐっては、隣り合う荘園や御厨とのあいだに相論(争い)が生じたことも記録されている。境の争いが起きるということは、裏を返せば、動く土地の上で人々がそれでも境を定め、年貢を計り、書付に残そうとしたということでもある。その営みの跡が、池田荘という名に折りたたまれている。

荘域が河道の移動とともに変化したという事実は、葛巻の比定にも直接に影響する。ある小地名が荘域の内にあったか外にあったかは、どの時点の荘域を基準にするかによって変わりうる。立券当初の東境を基準とするのと、両岸化した後の荘域を基準とするのとでは、同じ土地の帰属が異なって見えることもある。したがって、葛巻を池田荘の一部と読むにしても、それが「いつの池田荘」なのかを問わないまま断じることはできない。荘域が時間とともに変化する以上、地名の帰属もまた、時間軸を明示して論じる必要がある。

だからこそ、地名を読むときには「この名が、どの時代の、どの資料に、どの範囲で現れるのか」を切り分ける必要がある。葛巻は中世荘園を証明する決定的な一点ではなく、池田荘を考えるための入口である。入口であるからこそ、地図・古文書・現地の地形を重ね、時間軸を意識しながら、慎重に追っていく価値がある。動く川の上に築かれた荘園の記憶を、動かない一枚の地図に押し込めることを避けるのが、この土地の地名を読む作法である。

河道の西遷と荘域の両岸化 立券当初 池田荘 川=東境 河道西遷の後 左岸 右岸 川が荘域内を通る
図5 河道変遷と荘域。立券当初は天竜川を東境としていた池田荘が、河道の西遷により両岸にまたがっていったと伝わる。荘域が動くため、小地名の帰属も基準時点によって変わりうる。

7. 背景としての地理と交通 ── 渡し・宿・都への糸

池田荘を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、池田という地が担ってきた交通の役割である。池田の名は、天竜川の渡し場として近世以降によく知られる。中世から続いた東海道の池田宿は、川越えの拠点としてにぎわい、遊女の伝承を生んだことでも知られる。しかしその前段階として、池田周辺が中世の荘園名として記録されていたことは見落とせない。池田は、江戸時代の東海道の渡し場である以前に、都の権門と結びついた土地だった可能性をもつ。渡し場としての池田と、荘園としての池田は、時代を異にしながら同じ地に重なっている。

渡しと荘園は、無関係な二つの顔ではない。川を越える交通の要衝であったことは、この地が年貢や産物の輸送路の結節点でもあったことを推測させる。都の社へ向かう年貢が、どの道を通り、どの川を越えて運ばれたのかを考えれば、渡しの地であることと荘園の地であることは、交通と経済の面で分かちがたく結びつく。池田の渡しと渡船制度を論じた既刊論考で扱った近世の渡船の営みは、この中世以来の交通の記憶の上に重なっている。

都の社へ納められる年貢が、実際にどのような経路で運ばれたのかを具体的に記す史料に、本稿は突き当たっていない。しかし一般に、遠国の荘園から都へ向かう年貢は、陸路と水路を継ぎながら運ばれ、河口の湊で積み替えられて海路へ乗るのが常であった。天竜川の下流域に位置する池田荘の年貢もまた、川の水運と河口の湊、そして海路を介して都へ届けられたと考えるのが、地理に照らして無理のない推測である。渡し場としての池田は、人と物とが川を越えて行き交う結節点であり、その機能は年貢の輸送とも重なっていたとみてよい。荘園を、田畠の広がりとしてだけでなく、都と遠江を結ぶ物流の一環として捉え直すとき、池田という地が担った交通の役割は、荘園の存立そのものを支える条件として立ちあらわれる。

池田の重層は、人の記憶の層としても厚い。池田に生きた熊野御前の伝説のように、この地は文学や伝承のなかにもたびたび登場してきた。荘園としての池田、渡し場としての池田、伝説の舞台としての池田──これらは同じ地に堆積した別々の意味の層である。葛巻という小地名を池田荘の入口として読むことは、この重層した池田の記憶のなかに、中世の土地支配という一つの層を確かに位置づけ直す作業でもある。

現地を歩くなら、まず池田の渡しの記憶を確認し、そこから小立野・西之島方面へ視線を移したい。川に近い低地、微妙に高い土地、古くからの道筋、用水や堤の痕跡。中世荘園の範囲は目に見えないが、土地の高低と水の向きは、今も歩くことで感じられる。池田荘を単独で見るのではなく、渡し・宿・都への年貢路という交通の脈絡のなかに置くとき、葛巻という小さな名は、都と遠江を結んだ見えない糸の、結び目の一つとして像を結びはじめる。

同じ地に堆積する池田の三つの層 池田 同一の地 荘園 松尾大社領 渡し・宿 東海道池田宿 伝説
図6 池田に堆積する三つの層。荘園・渡し場・伝説は、時代を異にしながら同じ地に重なる。葛巻を荘園の入口として読むことは、この重層のなかに中世の土地支配の層を位置づける作業である。

8. 結論 ── 地名を荘園史の入口として読む

本稿は、旧豊田町の小地名「葛巻」を入口に、松尾大社領・池田荘の記憶をたどってきた。得られた見取り図は次のとおりである。史料で確認できることとして、池田荘が1171年(承安元年)の立券文によって12世紀前期に文書上へあらわれ、惣田数385町余の広域の荘園として記録され、京都松尾大社の社領として語られてきたことがある。他方で、葛巻の正確な範囲、荘域のなかでの位置、地名由来、現在の地割との一対一の対応は、いずれも未確認の領域にとどまる。この史実と未確認の腑分けを保つことが、本稿の一貫した姿勢であった。

葛巻の由来については、植物・地形・人事という三つの読みを対等に併置し、いずれも決め手を欠く推定であることを確認した。地名由来を一つに決めたい誘惑を退け、複数の契機が折り重なって名が定着した可能性を残しておくことは、地名研究の禁欲的な作法である。同様に、荘域についても、天竜川の河道が東境から西へ移り、荘域が両岸にまたがっていった経緯を踏まえれば、小地名の帰属を単一の地図に固定して論じることはできない。動く土地の上の荘園を、動かない境界線で塗り分けることを避けるのが、この地の地名を読む前提となる。

したがって本稿の立場は明確である。葛巻は、池田荘への帰属を証明する決定的な一点ではなく、池田荘という中世荘園を考えるための入口である。地名比定という方法に即して言えば、名の一致は仮説の出発点にすぎず、地形・隣接地名・条里・原文書という独立した手がかりを重ねてはじめて、確度の高い比定に近づく。葛巻をめぐる本稿の記述は、その手がかりを重ねる作業の、最初の一歩に位置づけられる。「ここまでは言える、ここからは未確認である」という腑分けを保った記述こそが、後続の調査に引き渡せる土台となる。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、葛巻の名が松尾大社関係の原文書のどこに、どのような文脈で現れるのかは、原文書に即した精査を要する。第二に、葛巻の範囲と荘域内の位置は、現地の小字の悉皆調査と地形図との照合によって、未確認から推定へと前進させうる。第三に、荘域の復元は、微高地の分布や条里の坪並みといった地形・遺構の側からの検討と併せて進められるべきである。地名という小さな入口から、中世の土地支配という大きな主題へ。名の一致に飛びつく誘惑を退け、確度の層を保ったまま手がかりを積み上げていく地道な手続きの先にこそ、池田荘という荘園が抱えてきた記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。荘域の条里制復元と立券文書の内実については、稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である旧豊田町・天竜川左岸の地には、荘園や渡しの記憶とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集、豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会、1992年)に、小立野・西之島の地名として「葛巻」が確認され、その摘要に池田荘・松尾大社の古文書との関係が示される。
  2. 池田荘の1171年(承安元年)立券および12世紀前期の成立は、『日本歴史地名大系』およびコトバンク所収の百科事典解説による。立券は文書上の確定であり、荘域の実態や小地名の成立時期を一点で保証するものではない。
  3. 惣田数385町4反余・畠164町3反余の数値、および範囲を天竜川下流域の約20平方キロメートルに見積もる見方は、歴史地名資料・研究による。中世文書に基づく数値であり、現在の面積・境界をそのまま示すものではない。
  4. 池田荘を京都松尾大社(松尾神社)の社領とする記述は、歴史地名資料・郷土資料による。「社領」は所有の実態というより重層する権利の系譜を指す点に留意を要する。
  5. 池田荘がはじめ天竜川を東の境とし、河道の西遷によりのちに両岸にまたがっていったこと、隣接する荘園・御厨との境界相論が生じたことは、歴史地名資料による。

付記:本稿は一般読者向け記事 t009 の内容を、郷土史研究者向けに地名比定の方法と史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)と、「未確認」(一次史料に未到達)と「記載なし」(史料に不在)の区別を語の水準で保った。1171年の立券・田数畠数を史料に基づく事柄として、葛巻の範囲・由来を未確認・推定の事柄として扱った。

参考文献・参考資料

  • 『ふるさと 豊田町地名地図』(郷土研究資料 第10集)豊田町郷土を研究する会・豊田町教育委員会、1992年。
  • 「池田荘」(遠江国)『日本歴史地名大系』平凡社。
  • コトバンク所収の百科事典解説「池田荘」(遠江国) https://kotobank.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 千年村プロジェクト「遠江国磐田郡池田庄(荘園)」 https://mille-vill.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 松尾大社 社務所『松尾大社由緒』。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、中世の章)。
  • 竜洋町誌編さん委員会『竜洋町史』(該当章)。
  • 網野善彦『日本中世の百姓と職能民』ほか荘園制に関する概説。
  • 荘園の立券・四至・検注に関する中世史概説(荘園制史の各論)。
  • 遠江国における条里制・微高地分布に関する研究。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 磐田物語 t009「池田荘と『葛巻』 ── 地名に残る中世の荘園」 https://iwata-monogatari.net/t009 (最終閲覧:2026年7月25日)。