磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第39号(中泉・国府台の古墳研究 一)
土器塚古墳「丸山」 ── 国府台に残る円墳を読む
中泉・国府台の古墳と古代の記憶
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市中泉・国府台に残る土器塚古墳は、直径36m・高さ5mの円墳で、地域では古くから「丸山」と呼び習わされ、平成14年(2002年)に静岡県の史跡に指定された。本稿は、平成12年度(2000年度)の発掘調査で明らかにされた墳丘構造・周濠・埋葬施設・出土品を一次的な根拠とし、そこから引き出しうる事柄と、そこを超えて推定・伝承の層に属する事柄とを、語の水準で腑分けして読み直すことを課題とする。墳丘の三分の一を地山の削り出し、三分の二を盛り土で築く工法や、管玉とよろいの破片という副葬品の内容は史実として確認できる一方、「5世紀後半」という年代はよろいの形状からの推定であり、被葬者を戒成皇子とする言い伝えは地域の伝承にとどまる。本稿はこれらを混同せず、北西約600mの京見塚古墳と結ぶ有力氏族墓域説の射程を検討したうえで、この円墳を国府台という古代遠江の中心地の記憶のなかへ位置づけ直す。
キーワード:土器塚古墳/丸山/円墳/国府台・中泉/京見塚古墳/戒成皇子伝説/短甲
1. 問題設定 ── 一基の円墳を「読む」とはどういうことか
磐田市中泉、国府台と呼ばれる一帯の市街地のなかに、直径36m・高さ5mの円い塚が残っている。土器塚古墳、地域の呼び名では「丸山」である1。前方後円墳のような明快な輪郭をもたないため、通りがかりの目には自然の丘とも見分けがつきにくい。しかし平成12年度の発掘調査は、この塚が周濠をめぐらせ、内部に埋葬施設をもつ、意図して築かれた墳墓であることを確かめた。指定文化財の一覧では一行で済む対象だが、その一行の背後には、築造の工法、副葬された品、年代の推定、語り継がれた伝承、近隣の古墳群との関係といった、いくつもの異なる水準の情報が折り重なっている。
本稿の目的は、この一基の円墳を「読む」ことにある。読むとは、単に規模と指定年月日を書き写すことではない。発掘調査によって史料的に確認できる事柄と、そこから推し量られる事柄と、地域で語り継がれてきた事柄とを、それぞれ別の層のものとして区別し、どこまでが確かで、どこからが推定や伝承に移るのかを、読者が自分で見きわめられる形に整えることである。古墳という対象は、文字史料の乏しい時代の産物であるだけに、この腑分けの作業がとりわけ要る。
そこで本稿は、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないために、四つの層を用意する。第一に史実、すなわち発掘調査の記録や指定情報など、資料によって確認できる事柄。第二に推定、根拠はあるが確定していない事柄。第三に伝承、地域で語り継がれてきた事柄。そして第四に、いずれの層にも属さない未確認、すなわち管見の限り根拠となる資料に突き当たっていない事柄である。土器塚古墳の場合、規模や構造は史実の層に、「5世紀後半」という年代は推定の層に、戒成皇子伝説は伝承の層に、そして被葬者の実像は未確認の領域に、それぞれ位置づけられる。
この作業は、素材とする一般向け解説の記述を否定するものではない。むしろ、そこで「史実と伝承を分けて読む」と述べられた方針を、郷土史研究の水準でより厳密に押し進める試みである。以下ではまず指定情報で確認できる範囲を確定し、続いて発掘調査の成果、年代の推定、被葬者と伝承、近隣古墳群との関係を順に検討し、最後に国府台という場所の意味へと視野を広げる。なお本稿は既刊の銚子塚古墳論および遠江国府と府八幡宮論と対をなす、中泉・磐田原の古代を扱う一連の論考の一つである。
2. 指定情報で確認できること ── 規模・区分・沿革
検討に入る前に、公式の指定情報によって確認できる範囲を確定しておく。土器塚古墳は、静岡県指定の史跡である。指定年月日は2002年(平成14年)12月10日、種別は史跡、所在地は磐田市中泉・国府台とされる2。規模は直径36m・高さ5mの円墳で、幅7m・深さ1mの周濠が墳丘の周囲をめぐる。所有・管理は磐田市で、これは2002年5月に古墳が市へ寄贈されたことによる。これらは磐田市教育委員会文化財課が発行する現地案内パンフレットおよび磐田市公式情報に依拠しており、いずれも史実の層に属する事柄として扱ってよい。これらの数値は現地の測量と発掘の記録に裏づけられたものであり、本稿の議論全体の土台となる。
ここで留意したいのは、指定情報が語る事柄の性格である。県指定・史跡という区分は、この古墳が学術的・歴史的に保存すべき価値をもつと行政的に評価されたことを示すが、それ自体は築造年代や被葬者を確定する史料ではない。指定は、あくまで発掘調査の成果を踏まえた保護措置の記録であって、古墳そのものの由来を証言するものではない。したがって指定年月日(2002年12月10日)と、古墳の築造年代(後述する5世紀後半という推定)とは、時間の水準がまったく異なる。前者は現代の行政行為の年、後者は古墳が造られたと推し量られる年である。両者を同じ「年」として並べると、確度の腑分けが崩れる。
寄贈と指定の経緯も、この古墳の近年の歩みを知るうえで意味をもつ。市街地に残る古墳は、その所在地が私有地であることが少なくなく、開発と保存のあいだで存続が危ぶまれる場合がある。土器塚古墳が2002年に市へ寄贈され、同年末に県指定を受けたという流れは、この円墳が地権者と行政の判断によって保存の対象として選び取られた、その画期を記録している。丸山という通称が示すように、この塚は地域の景観のなかで長く親しまれてきたが、それが制度上の保護を得たのは比較的近年のことである。
もう一点、所在地の表記である「国府台」に触れておきたい。国府台は、遠江国府が置かれたと伝わる中泉一帯を指す地名であり、この地名そのものが古代の記憶を負っている。土器塚古墳の所在地が国府台であることは、後の第7節で論じるように、この円墳を古代遠江の中心地の歴史へ接続する手がかりとなる。ただし現段階では、それはあくまで所在地の名称という事実にとどめ、地名から築造の意味を直ちに引き出すことは慎む。地名の由来と古墳の築造年代とのあいだには、なお埋めるべき論証の距離がある。
3. 平成12年度発掘調査の成果 ── 墳丘・周濠・埋葬施設
土器塚古墳の実像を最もよく伝えるのは、2000年度(平成12年度)に実施された発掘調査の成果である3。この調査によって、墳丘の築造方法、周濠の規模、中央部の埋葬施設、そして副葬品の内容が明らかになった。以下ではその内容を、確認された事実として順に整理する。
まず墳丘の築造方法である。土器塚古墳の墳丘は、単純に土を盛り上げただけのものではない。下部の三分の一は、もとの地山を削り出して形づくられ、残る三分の二を盛り土で積み上げている。すなわち、自然の地形を土台として利用しつつ、上部を人為的に整形するという、手のかかった工法が採られている。さらに盛り土は一様ではなく、下部の薄い土層と、上部の黒みを帯びた土との二段で構成されていた。土質を変えながら層状に積み上げるこうした築造は、墳丘を安定させ、崩落を防ぐための技術的な配慮と解される。地山削り出しと盛り土の組み合わせ、層をなす盛り土という所見は、この円墳が相応の労力と技術をもって築かれたことを、直接に物語る。
こうした築造工程は、単なる土木の記録以上のことを語る。地山を削り、質の異なる土を選んで層状に積み上げるには、相応の人手と、作業を差配する者の存在が要る。墳丘そのものが、被葬者の集団が動員しえた労働力の大きさを、間接的に示す指標なのである。したがって、たとえ副葬品が限られていても、墳丘の規模と工法から、被葬者が地域社会において無視できない地位を占めた人物であったことは推し量れる。墳丘は、それ自体が一つの資料である。
次に周濠である。墳丘の周囲には、幅7m・深さ1mの濠がめぐらされていた。周濠は、墳丘に用いる土を掘り出した跡であると同時に、墓域を外界から区切る境界としての意味をもつ。幅7mという規模は、直径36mの墳丘に見合ったもので、周濠を含めた古墳全体の占地は、墳丘の径をさらに上回る。深さ1mという値は現在残る墳丘の高さ5mに比べれば小さいが、掘削と盛り土が一体の作業として行われたことを思えば、周濠は墳丘を築いた物量の裏づけでもある。市街地のなかで現在目にできるのは墳丘部が中心だが、本来はこの周濠を含めた広がりをもって一つの墓域を構成していた点を、あわせて押さえておく必要がある。
そして中央部の埋葬施設である。墳丘の中央には、長さ7〜8m・幅1mほどの、東西方向に延びる埋葬施設が設けられていた。ここから副葬品として、管玉1点と、よろいの破片が出土している。この埋葬施設が東西方向を主軸とすることは、この時期・この地域の埋葬のあり方のなかで理解すべき所見であって、それ自体が被葬者の出自を告げるものではない。長さ7〜8mという規模も、棺を納める主体部として過大なものではなく、墳丘の径に照らして均衡のとれた大きさである。管玉は装身具であり、よろいは武具である。装身と武の双方に関わる品が副葬されていたことは、被葬者が一定の地位と武力に関わる性格をもった人物であったことをうかがわせる。ただし、出土した品の数はけっして多くない。管玉一点とよろいの破片という限られた副葬品から、被葬者の具体像を過度に膨らませることは慎むべきである。ここで確認できるのは、あくまで「装身具と武具を副葬する埋葬が行われた」という事実の範囲にとどまる。
4. 年代論 ── よろいの形状からの5世紀後半推定
土器塚古墳の築造年代は、古墳時代中期、5世紀後半と位置づけられている。しかしこの年代は、銘文や文字史料によって直接に確定されたものではなく、埋葬施設から出土したよろいの破片、その形状にもとづく推定である4。この点を明確にしておくことは、年代論の確度を正しく理解するうえで欠かせない。すなわち「5世紀後半」は史実の層ではなく、根拠をもった推定の層に属する。
古墳時代の武具、とりわけ甲冑(かっちゅう)は、形式が時期ごとに変化することが知られており、出土した破片の形状から製作・使用の時期を推し量る手がかりとなる。鉄製の短甲(たんこう)と呼ばれる胴を守るよろいは、板の綴じ方や形の変遷が編年研究のなかで整理されてきた。土器塚古墳の年代推定も、こうした甲冑編年の枠組みに、出土したよろいの破片を照らし合わせることで導かれたものと解される。したがってこの推定は、恣意的な当て推量ではなく、比較資料の蓄積に支えられた学術的な位置づけである。
ただし、破片からの年代推定には、性格上の限界も伴う。第一に、出土したのが完形ではなく破片であるため、形式の判定に幅が生じうる。第二に、副葬品の年代は、あくまで「その品が墓に納められた時期」を示すのであって、厳密には墳丘の築造年代と完全には一致しないことがある。副葬品が製作から副葬までに時間を経ている場合や、追葬が行われた場合には、両者にずれが生じる。もっとも土器塚古墳については、そうしたずれを疑わせる特段の所見は報告されておらず、よろいの形状が示す5世紀後半を、そのまま墳丘の築造時期とみなすことに、現状で大きな無理はない。本稿もこの推定を採る。
年代を5世紀後半とみることには、地域史のうえで意味がある。古墳時代中期は、畿内において巨大な前方後円墳が営まれた時期にあたり、地方でも各地に有力者の墳墓が築かれた。磐田原周辺では、前方後円墳である銚子塚古墳がこの時代の中心的な首長墓として知られる。土器塚古墳のような円墳は、そうした地域の墳墓の序列のなかで、前方後円墳を頂点とする階層のいずれかに位置づけられる。円墳は、前方後円墳のように墳形そのもので卓越を誇示する墳墓ではないが、直径36mという規模は、この時期の地域社会のなかではけっして小さくない。畿内の巨大古墳と直接に比べるのではなく、遠江という地域の墳墓の序列のなかで相対的に評価することが要る。円墳という墳形と直径36mという規模は、それ自体が被葬者のおよその位置を示唆する指標となる。この点は次節の被葬者論と、第6節の墓域論に引き継ぐ。
5. 被葬者論と戒成皇子伝説 ── 史実と伝承の腑分け
古墳を前にして最も問われやすいのは、「誰が葬られたのか」である。しかし土器塚古墳の被葬者は、発掘調査によって特定されてはいない。管玉とよろいの破片という副葬品は、被葬者のおよその性格を推し量る手がかりにはなるが、名や出自を告げるものではない。被葬者の実像は、現状では未確認の領域にとどまる。ここを出発点として、地域に伝わる被葬者をめぐる言い伝えを、伝承の層として慎重に扱いたい。
戒成(海上)皇子をめぐる言い伝え
言い伝えの骨子。中泉には、この古墳をめぐって戒成皇子(かいじょうおうじ)、あるいは海上皇子(うながみのおうじ)にまつわる伝承が伝わる。桓武天皇の第四皇子・海上王とする語り、あるいは大山守皇子(おおやまもりのみこ)・津布良古王(つぶらこおう)にまつわる言い伝えなど、複数の筋がある。地域に残る土方家の系図にも、これに関わる記載があるとされる5。丸山という円墳に、高貴な人物の墓という物語が重ねられてきたのである。
伝承の性格。まず確認すべきは、この言い伝えが発掘調査によって裏づけられた史実ではないという点である。桓武天皇は8世紀後半から9世紀初頭の天皇であり、その皇子を被葬者とすれば、5世紀後半という年代推定とは三百年以上の隔たりが生じる。すなわち、よろいの形状が示す築造年代と、皇子伝説が想定する時代とは、そもそも整合しない。この不整合こそ、伝説を史実として読むことができない端的な理由である。戒成皇子伝説は、古墳の年代を証言するものではなく、後世の人々がこの塚に与えた意味づけとして読むべきである。
なぜ皇子が語られたか。それでも、なぜ高貴な人物の墓という物語がこの塚に結びついたのかは、それ自体が地域史の問いとなる。国府台という、古代遠江の中心地を思わせる地名を負う場所に残る円墳は、由緒ある人物の墓であってほしいという後世の期待を引き寄せやすい。系図への記載は、その物語が家の由緒と結びつき、文字の形をとって伝えられてきたことを示す。伝承は史実の劣位に置かれるべきものではなく、地域が自らの過去に何を見いだそうとしたかを読み取る、独立した対象である。
被葬者論の到達点を整理すれば、次のようになる。副葬品から言えるのは、装身具と武具を伴う埋葬が行われたという事実の範囲にとどまる。円墳という墳形と直径36mという規模から、被葬者が地域社会において一定の地位を占めた人物であったと推し量ることはできる。しかしそれが誰であったかは特定されておらず、皇子伝説はその空白を埋める史実的な根拠を提供しない。被葬者の位置づけは、むしろ次節で扱う近隣古墳群との関係のなかで、集団としての墓域の一員として考えるほうが、確度の高い議論に接近できる。なお、こうした慎重さは伝説を軽んじることを意味しない。伝説を史実の代用品として消費してしまえば、伝説それ自体がもつ、地域の自己認識の記録としての価値がかえって見失われる。史実の空白は空白として残し、伝説は伝説として別に読む――この二重の手続きこそが、双方を正当に扱う道である。
6. 京見塚古墳と有力氏族の墓域 ── 土師氏説の射程
土器塚古墳を一基のみで論じると、被葬者論は未確認の壁に突き当たる。しかし視野を近隣に広げると、議論はより確度の高い水準へ移りうる。土器塚古墳の北西約600mには、京見塚古墳がある。両古墳をあわせて、磐田市南西部に勢力をもった有力氏族の古墳群を構成していたと考えられている。単独の墓ではなく、複数の墳墓からなる墓域の一員として土器塚古墳を捉え直すことが、この節の課題である。
個々の被葬者を特定できなくとも、近接して営まれた複数の古墳が、一つの集団の墓域を形づくっていたと考えることには、方法上の利点がある。墓域という単位は、個人ではなく、世代を重ねて地域を治めた集団の存在を示す。600mという距離は、別々の集団の墓域と見るには近く、同一の集団が営んだ墓域の広がりと見るのが自然である。土器塚古墳の円墳という墳形も、こうした墓域のなかでの被葬者の位置──前方後円墳の被葬者に次ぐ、あるいはそれと世代を異にする有力者──を推し量る手がかりとなる。周辺には京見塚史跡公園として整備された一帯のほか、観音山古墳、兜塚古墳も所在し、この地域が古墳時代を通じて有力者の墳墓を営みつづけた場であったことを示している。複数の古墳が時期を違えながらこの一帯に営まれたとすれば、それは単発の埋葬ではなく、世代を継いで地域を治めた集団が墓域を守り継いだことを意味する。土器塚古墳の被葬者も、そうした継続する集団の一員として位置づけるのが穏当である。
この墓域の主体について、遠江国の国造(くにのみやつこ)を務めた土師氏(はじうじ)の一族が、この一帯に墓域を営んだとする見方がある。土師氏は、埴輪や葬送に関わる技術者集団に淵源をもつとされる氏族で、各地で古墳の造営に関与したことが知られる。遠江国造を土師氏系とみる説と結びつけると、磐田市南西部の古墳群を土師氏一族の墓域とする理解が導かれる。この見方は、地域の有力者を古代の氏族系譜のなかに位置づける魅力をもつ。
ただし本稿は、この土師氏説を確定説としては採らない。国造の系譜や氏族の比定は、後世の系図や文献に依拠する部分が大きく、考古学的な出土遺物から直接に氏族名を読み取ることは困難だからである。土師氏説は、墓域の主体を考えるうえで有力な作業仮説ではあるが、それを裏づける一次史料の水準は、墳丘構造や副葬品ほどには堅固でない。したがって本稿の立場は、「磐田市南西部に有力氏族の墓域が営まれた」という点までを確度の高い理解とし、その主体を土師氏と特定することは、なお検討を要する推定の層にとどめる、というものである。以下の表に、これまで検討した各要素の確度を一覧しておく。
| 要素 | 内容 | 根拠 | 確度の層 | 留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 規模・墳形 | 直径36m・高さ5mの円墳、周濠 幅7m・深さ1m | 発掘調査・指定情報 | 史実 | 周濠を含めた占地は墳丘径を上回る。 |
| 墳丘構造 | 下部1/3を地山削り出し、上部2/3を二段の盛り土 | 平成12年度発掘調査 | 史実 | 層をなす盛り土は安定化の技術と解される。 |
| 埋葬・副葬 | 東西方向 長さ7〜8m・幅1mの埋葬施設、管玉1点・よろいの破片 | 平成12年度発掘調査 | 史実 | 副葬品は限られ、被葬者像を過度に膨らませない。 |
| 築造年代 | 5世紀後半(古墳時代中期) | よろいの形状(甲冑編年) | 推定 | 破片からの推定ゆえ形式判定に幅がある。 |
| 墓域・氏族 | 京見塚古墳と一体の有力氏族墓域、土師氏一族説 | 近接関係・国造系譜の議論 | 推定 | 墓域は確度が高いが、氏族比定は仮説にとどまる。 |
| 被葬者 | 戒成(海上)皇子とする言い伝え | 地域の口碑・土方家系図 | 伝承 | 年代が桓武朝と不整合。実像は未確認。 |
7. 国府台という場 ── 古代の中心地における位置づけ
ここまで土器塚古墳そのものを内側から読んできたが、最後にこの円墳を、それが立つ場所の歴史のなかへ置き直したい。土器塚古墳の所在地は、中泉の国府台である。国府台とは、遠江国府が置かれたと伝わる一帯を指す地名であり、この名そのものが、この土地が古代遠江の政治的・宗教的な中心地であった記憶を負っている。もっとも、遠江国府の所在をめぐっては複数の説があり、その具体的な位置が一点に確定しているとは言い難い。国府所在の問題は既刊の遠江国府と府八幡宮論で扱ったため本稿では立ち入らないが、少なくとも国府台という地名が、中泉一帯を国府に関わる場として記憶してきたことは押さえておいてよい。
ただし、ここで時間の層を慎重に分けておく必要がある。土器塚古墳が築かれたのは古墳時代中期、5世紀後半と推定される。一方、遠江国府が置かれたのは、律令制のもとでの古代、すなわち7世紀後半以降のことである。両者のあいだには、二百年から三百年ほどの隔たりがある。したがって、土器塚古墳を「国府の時代の墓」と直ちに結びつけることはできない。古墳が先にあり、国府はその後にこの地へ置かれた、という時間の順序を取り違えてはならない。
それでも、この場所が古墳時代から古代へと連続して地域の中心でありつづけた可能性を考えることには意味がある。5世紀後半に有力者の墓域が営まれた土地に、後の時代、国府という律令国家の地方拠点が置かれた。この重なりを偶然とみるか、それとも古墳時代以来の地域的な優位が国府設置の背景にあったとみるかは、慎重な検討を要する問いである。本稿はこれを断定しないが、有力氏族の墓域と、後の国府の所在地とが、国府台という同じ場所に重なるという事実は、記録しておくに値する。有力者の墓域が営まれた土地は、その後も人と物の集まる要地でありつづけることが多い。水利や交通の条件、周囲の土地との関係といった、墓域の立地を規定した地理的条件は、後に国府の立地を考える際にも働いたはずである。土器塚古墳は、その連続と断絶の両方を考えるための、一つの定点となる。
まち歩きの視点からも、この円墳は国府台という場所を読む手がかりになる。市街地のなかに残る丸山の高まりと、北西約600mの京見塚古墳との位置関係を意識して歩けば、磐田市南西部に広がっていた古墳群の姿が、現在の街並みの下から立ち上がってくる。京見塚史跡公園、観音山古墳、兜塚古墳をめぐる文化財めぐりのコースも設けられており、これらを結んで歩くことは、指定文化財の一行を、地域の歴史の連続した像へと組み替える営みでもある。なお、古墳は磐田市が所有・管理しているが、周辺には民有地も含まれるため、見学にあたっては公開された範囲を優先し、私有地への立ち入りは避ける配慮が求められる。
最後に、これまで確度の層ごとに分けて論じてきた各要素を、一つの見取り図として重ね合わせておきたい。史実として確認できる墳丘・周濠・副葬品、推定として位置づけられる年代と墓域・氏族、伝承として伝えられる皇子の言い伝え──これらは互いに矛盾するのではなく、それぞれ異なる仕方で、この一基の円墳の意味を証言している。次の図は、その重なりを示したものである。
8. 結論 ── 一基の円墳から地域史を読み直す
本稿は、中泉・国府台に残る土器塚古墳「丸山」を、平成12年度の発掘調査を一次的な根拠として読み直し、そこから引き出しうる事柄を史実・推定・伝承・未確認の層に腑分けして検討した。得られた見取り図はこうである。直径36m・高さ5mの円墳という規模、地山削り出しと二段の盛り土からなる墳丘構造、周濠、東西方向の埋葬施設、管玉とよろいの破片という副葬品は、発掘調査によって確認できる史実である。「5世紀後半」という年代は、よろいの形状からの確度の高い推定であり、京見塚古墳と結ぶ有力氏族の墓域も、近接関係を根拠とする推定として支持できる。一方、その墓域の主体を土師氏とする氏族比定は、なお仮説の域にとどまる。そして被葬者を戒成皇子とする言い伝えは、年代の不整合ゆえに史実たりえず、地域が塚に与えた意味づけとしての伝承の層に置かれる。被葬者の実像は、現状では未確認である。
この腑分けが示すのは、一基の円墳をめぐる記述が、けっして一様な確かさをもつわけではないという事実である。同じ「丸山」について語られることのうち、あるものは発掘の記録に支えられ、あるものは編年の推定に立ち、あるものは家の系図に伝えられてきた。それらを同じ平面に並べて一つの物語に均してしまえば、確かなものは水増しされ、確かでないものは切り捨てられる。本稿が四つの層を保ちつづけたのは、この二つの過ちをともに避けるためである。史実は史実として、推定は推定として、伝承は伝承として、それぞれの位置を保ったまま書き留める──これが、文字史料の乏しい古墳という対象を、後世の調べものに耐える形で残す方途だと考える。
そのうえで、本稿が残した課題を明記しておきたい。第一に、京見塚古墳・観音山古墳・兜塚古墳を含む磐田市南西部の古墳群を、墳形・規模・副葬品の面から系統的に比較すれば、墓域内での土器塚古墳の位置と、被葬者集団の階層構造をより精確に描きうる。第二に、土師氏を墓域の主体とする説は、遠江国造の系譜論と考古資料とを突き合わせることで、推定から通説へと押し上げうる余地がある。第三に、5世紀後半の墓域と、二〜三百年後にこの国府台へ置かれた遠江国府との連続・断絶の問題は、地域の中心がなぜこの場所でありつづけたのかという、より大きな主題へ通じている。いずれも、本稿が設定した確度の層を保ちながら、未確認を推定へ、推定を史実へと一歩ずつ押し上げていく作業に属する。一基の円墳を丁寧に読むことは、その先にある中泉・国府台の古代史全体を読み直すための、確かな足がかりとなるはずである。
注
- 土器塚古墳(通称「丸山」)の規模・所在・伝承の概要は、磐田物語の一般向け解説 n025 に基づく。本稿は同記事の「史実と伝承を分けて読む」方針を、郷土史研究の水準で厳密化する試みである。↩
- 指定区分(静岡県指定・史跡)、指定年月日(2002年〔平成14年〕12月10日)、所在地、所有・管理者(磐田市。2002年5月寄贈)は、磐田市教育委員会文化財課発行の現地案内パンフレットおよび磐田市公式情報による。↩
- 墳丘構造(下部1/3の地山削り出し、上部2/3の二段の盛り土)、周濠(幅7m・深さ1m)、埋葬施設(東西方向 長さ7〜8m・幅1m)、副葬品(管玉1点・よろいの破片)は、2000年度(平成12年度)の発掘調査の成果による。↩
- 「5世紀後半(古墳時代中期)」という築造年代は、出土したよろいの破片の形状にもとづく推定であり、銘文等による直接の確定ではない。甲冑の形式変遷(編年)を比較基準とする位置づけである。↩
- 戒成(海上)皇子伝説、土方家系図への記載、京見塚古墳との一体の墓域、遠江国造・土師氏一族の墓域とする見方、および所在地「国府台」の性格については n025 および関連する磐田市の文化財資料による。氏族比定は推定、皇子伝説は伝承として扱う。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n025 の内容を、郷土史研究者向けに確度の層の観点から再構成した論考版である。規模・構造・出土品・指定年月日等の発掘調査に基づく情報を史実、よろいの形状からの年代を推定、戒成皇子伝説を伝承、被葬者の実像を未確認として、語の水準で書き分けた。
参考文献・参考資料
- 磐田市教育委員会文化財課『土器塚古墳』現地案内パンフレット(協力:原秀三郎氏〔静岡大学名誉教授〕・京見塚自治会、令和7年〔2025年〕1月改定)。
- 磐田市公式ウェブサイト「県指定文化財」土器塚古墳の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 n025「土器塚古墳 ── 中泉・国府台に残る直径36mの円墳、通称『丸山』」 https://iwata-monogatari.net/n025 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「磐田市の指定文化財一覧」c021 https://iwata-monogatari.net/c021.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 n019「国府台と府八幡宮 ──『国府』を名のる土地の千三百年」 https://iwata-monogatari.net/n019.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「遠江国府と府八幡宮 ──『国府』を名のる土地の千三百年」『大石浩之の磐田論考』第6号、磐田物語、2026年。
- 大石浩之「銚子塚古墳 ── 遠江を治めた王の墓」『大石浩之の磐田論考』第11号、磐田物語、2026年。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、古墳時代の章)。
- 京見塚古墳・京見塚史跡公園 現地説明資料(磐田市)。
- 観音山古墳・兜塚古墳 関連文化財資料(磐田市)。
- 甲冑(短甲・挂甲)の形式編年に関する古墳時代考古学の一般的研究。
- 遠江国造および土師氏に関する古代氏族系譜の研究。
- 土方家系図(中泉、戒成皇子伝説に関わる記載を含むとされる)。