磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第14号(見付・国府論 一)
淡海國玉神社 ── 遠江総社の成立と機能
「総社」という制度と見付の中心性
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市見付、旧見付学校の東どなりに鎮まる淡海國玉神社は、遠江国の総社である。本稿は、派手さのないこの一社が、なぜ「国の中心」を証す場所たりうるのかを、総社という古代の制度に即して検討する。まず史料で確認できる範囲を確定し、平安中期の『延喜式』神名帳への記載と、『日本三代実録』貞観7年(865年)条の淡海石井神への神階記事を史実の層として押さえる。そのうえで、国司の巡拝を一社に集約する総社の仕組み、主祭神・大国主命と相殿十五柱の構成、岩井原からの遷座伝承をめぐる論点を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして論じる。総社が置かれたことは近くに国府があったことを含意し、淡海國玉神社は国府・国分寺と一体の空間として見付の中心性を今に伝える。最後に、見付天神裸祭の渡御先という機能に触れ、制度としての総社が千年をこえて祭礼のなかに生き続けている事実を記述する。
キーワード:淡海國玉神社/遠江総社/総社制度/延喜式神名帳/淡海石井神/大国主命/見付天神裸祭渡御
1. 問題設定 ── 見過ごされる一社をどう読むか
旧見付学校の白い擬洋風校舎を訪れた者の多くは、その建物に目を奪われたまま帰っていく。校舎のすぐ東どなりに立つ鳥居に気づく人は少ない。淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)である。緑の芝がひろがる境内に褐色の社殿が建つばかりで、社頭に立っても、ここが遠江一国の信仰を束ねた社であるとは、にわかには見て取りにくい。だが、この静かな一社こそ、見付というまちの古さと格を、もっとも端的に証している。
本稿が問うのは、次の一点である。なぜ、これといった規模をもたないこの神社が、「見付は遠江国の中心であった」という命題を支える証拠になりうるのか。答えの鍵は、社殿の大きさや宝物の多寡ではなく、この社が担った「総社」という制度的な役割にある。総社とは何であり、それがなぜ見付に置かれたのか。この問いを解くことは、見付の中心性という主題を、感慨や伝承の水準から、制度史の水準へと引き上げる作業にほかならない。
もっとも、総社をめぐる叙述は、しばしば確度の異なる情報が一つの平面に混ぜ込まれたまま流通してきた。国史に載る神階記事のような堅い史実と、遷座の由来のように文献の裏づけを欠く伝えとが、区別されないまま並べられることがある。地域史の記述にとって大切なのは、正解を一つ選び出すことよりも、いま伝わっている情報が、どのような資料に立脚し、どの程度信頼できるのかを、読者が自分で判断できる材料として示すことである。そこで本稿では、扱う事柄を四つの確度層に腑分けする枠組みをあらかじめ設定しておく。
用いる四つの層は、次のとおりである。第一に史実、すなわち編纂物や文書など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く受け入れられているが史料の一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。あわせて、「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に存在が確認できない)とを区別する。層をまたいだ断定を避け、語の水準で確度を書き分けることが、以下の検討の基本姿勢となる。淡海國玉神社をめぐる情報は、この腑分けを施すと、驚くほど整理されて見えてくる。
本稿の構成をあらかじめ述べておく。第2節では史料で確認できる沿革を確定し、第3節で総社という制度の成り立ちを概観する。第4節では祭神の構成に、第5節では遷座の伝承に、それぞれ確度の腑分けを施す。第6節では総社を国府・国分寺とともに一つの空間構造のなかに置き、第7節で見付天神裸祭の渡御先という現在の機能に触れる。制度史・史料批判・地理・祭礼という複数の角度から一社を照らすことで、断片的な由緒の寄せ集めではなく、見付の中心性という一つの主題のもとに当社を読み直すことを目指す。規模の大きくない社ほど、その意味は制度の理解を経てはじめて立ち上がる。淡海國玉神社は、まさにそうした、読まれることを待つ社の典型なのである。
2. 史料で確認できる淡海國玉神社の沿革
総社としての意味を論じる前に、まず史料によって確認できる範囲を確定しておきたい。淡海國玉神社の創建がいつなのかは、はっきりしない。社の来歴を年単位で示す確実な記録は、本稿の調査範囲では確認できない。しかし、この社が平安期にはすでに国に認められた古社であったことは、二つの手がかりから言える。
第一の手がかりは、平安中期に編まれた『延喜式』の神名帳である。全国の官社を国郡別に列挙したこの帳簿に、遠江国の式内社として当社に比定される社名が挙がる。神名帳に載ることは、その社が平安中期の段階で国家の祭祀体系のなかに位置づけられていたことを意味する。ここまでは、国家的な編纂物に基づく史実として扱ってよい1。第二の手がかりは、正史『日本三代実録』である。貞観7年(865年)条に、遠江国の「淡海石井神」が神階を授けられたとする記事があり、この神を淡海國玉神社にあてる見方が広く行われてきた。神階の授与は、律令国家が有力な神を序列づけて把握しようとした神祇統制の記録であり、当社の神が九世紀後半には国家の視野に入る存在であったことを示す。
ただし、ここで一つ区別を立てておかねばならない。『日本三代実録』に記されているのは「淡海石井神」という神名であって、「淡海國玉神社」という社名そのものではない。この神を当社に比定することは、地名や神名の一致に基づく通説ないし推定の層に属し5、正史がその同一性を明言しているわけではない。したがって、865年という年紀は当社の存在を直接に証する史実というより、当社に比定される神が同年に神階を受けた、という限定つきの事実として扱うのが穏当である。この慎重さは、後段で遷座伝承を検討する際にも一貫して保持する。
史料の性格にも触れておきたい。『延喜式』神名帳は官社の一覧であって、個々の社の由緒や祭祀の内容を記述する性格の帳簿ではない。『日本三代実録』もまた国家の編纂物であり、神階記事は神を序列づける行政の記録である。すなわち、これらの古代史料から引き出せるのは、あくまで「社の格」であって、「社の来歴」や「祭礼の形」ではない。創建の事情や遷座の経緯を古代史料に求めても、そこには記載がない。この「記載がない」ことは、そうした事実が存在しなかったことを意味せず、また当社の古さを損なうものでもない。古代の帳簿と正史が語る範囲の限界を踏まえたうえで、その外側にある伝えを別の層として扱うことが求められる。
付言すれば、古代史料に創建や遷座の記載がないことは、当社に限った事情ではない。神名帳や正史は神の格と国家との関係を記す帳簿・記録であって、個々の社が自らの来歴を語る性格の文献ではないからである。社の由緒は、多くの場合、中世以降に社家や周辺の人々の手でまとめられ、伝えられてきた。したがって、古代史料の沈黙をもって当社の来歴を疑うのは筋違いであり、逆に、後世の由緒をそのまま古代の事実として遡らせるのも慎むべきである。両者のあいだの空白を、埋めたことにせず空白のまま示すこと。それが、確度の層を区別する作法の実際的な帰結である。
3. 「総社」という制度 ── 国司巡拝の集約
淡海國玉神社を「ただ古い神社」ではなく「遠江国の総社」たらしめているのは、総社という制度である。この制度の成り立ちを押さえておくと、なぜ当社が見付の中心性を証す存在となるのかが見えてくる。
奈良から平安にかけて、都から諸国へ派遣された国司には、赴任した国の主だった神社を巡拝する務めがあったとされる。国内の神々を敬い、その加護のもとに国を治めるという建前が、律令制下の地方統治には織り込まれていた。しかし、一国のうちには数多くの社が散在し、遠江のように国域の広い国では、それらを一つひとつ回ることは容易でない。そこで、国府の近くに国内の主要な神々をまとめて勧請した社を設け、そこに参ることで国じゅうの社を巡拝したのと同じとみなす仕組みが生まれた。これが総社である2。いわば、国内の神々を一か所に集約した窓口であり、行政の便宜と信仰とが結びついて成立した装置であった。
総社という制度が全国で整えられていく時期については、律令国家の地方支配がなお強く働いた古代というより、その体制がゆるみはじめる平安後期に本格化したとみる見方が有力である。国司が任国へ実際に下って統治にあたる体制と、総社への参拝を国内巡拝の代替とする発想とは、地方支配のあり方の変化と連動していた。したがって、総社の成立を一つの年に固定することはできず、当社がいつ総社としての性格を帯びたのかもまた、直接に記す史料を欠く。この点は推定の層にとどめざるをえない。それでも、総社という制度そのものが国府の存在を前提とする以上、当社が総社であったという事実は、その近くに遠江国府があったことを強く含意する。制度の論理が、地理の推論を導くのである。
ここで確認しておきたいのは、総社が単なる神社の一つではなく、国という統治単位を宗教の側から束ねる要の施設であった、という点である。国内の神々を一社に集めるという発想は、散在する信仰を国家の秩序のなかに位置づけ直す営みであり、その中心が置かれた土地は、おのずと国の中枢としての性格を帯びる。淡海國玉神社が見付にあること、それ自体が、見付という土地が遠江国の政治・信仰の中心であったことの、静かではあるが揺るがぬ証左となる。次章以下では、この総社としての性格が、当社の祭神の構成や祭礼の形にどのように刻まれているかを見ていく。
なお、総社は遠江に限らず諸国に置かれた。国ごとに一宮・二宮といった社格の序列が整えられていくのと並行して、国内の神々を国府の近くに束ねる総社が営まれたのである。ただし、その設けられ方や祀られる神の数は国によって一様ではなく、遠江総社としての当社の姿を、他国の総社の一般論からそのまま復元することはできない。一般的な制度の枠組みを参照しつつも、当社固有の由緒に即して読むという姿勢が求められる。総社という語が指し示すのは、統一された一つの型ではなく、各国の事情に応じて多様に実現した制度の総称である。したがって、当社を総社として論じるということは、全国に共通する制度の説明に遠江の個別事情をあてはめる作業であると同時に、当社の由緒がその一般論からどこで離れるのかを見きわめる作業でもある。
4. 主祭神と相殿 ── 大国主命・十五柱・狛兎
総社としての性格は、当社の祭神の構成にそのまま表れている。主祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)で、縁結びの神として知られる3。そして、この主祭神のほかに、相殿として遠江各地の社から迎えた十五柱の神々が祀られると伝えられる。国じゅうの神を一堂に集めるという総社の理念が、祭神の顔ぶれに具体化されているのである。総社の本質は、この「多くの神を一社に相殿として並べる」構成にこそある。
もっとも、相殿の神々の数や顔ぶれについては、由緒書や社伝に依拠する部分が大きく、その一柱ごとの選定がいつ、どのような基準で定まったのかを記す一次史料は、本稿の範囲では確認できない。十五柱という数それ自体は当社の由緒に伝わるものであり、これを伝承ないし社伝の層に置いて扱うのが妥当である。ただ、数の確定に立ち入らずとも、複数の神を相殿に併せ祀るという構成そのものが、当社の総社としての機能を体現していることは動かない。個々の神名の詮索よりも、この構成の意味を読むことのほうが、総社の理解には資する。
祭神に関連して、当社を特徴づけるのが「狛兎(こまうさぎ)」の存在である。社頭を守る石像が、通例の狛犬ではなく兎の姿をとる。大国主命と兎といえば、『古事記』に見える因幡の白兎の説話が想起される。傷ついた白兎を大国主命が救ったというこの神話にちなんで、まるい目の石の兎が参道に据えられていると解される。狛兎の造立年代や由来を記す確実な記録には本稿では突き当たっていないため、その成立事情は未確認としておくが、主祭神の神格と兎の像とが説話の水準で結ばれていることは明らかである。古社の静けさのなかにこうした造形が置かれていること自体が、当社が縁結びの神をまつる社として親しまれてきた一面をよく伝えている。
ここで注意したいのは、大国主命という主祭神と、総社という機能との関係である。総社の主祭神が国土経営の神である大国主命であることは、国内の神々を統べる社の性格と響き合う。国づくりの神を中心に据え、その周囲に国内諸社の神を相殿として配するという構図は、遠江という一国の信仰を一社に凝縮しようとした古代の発想を、祭神の配置として翻訳したものと読むことができる。祭神の構成は、単なる信仰対象の列挙ではなく、総社が国をどのように束ねようとしたかを示す縮図なのである。
この縮図を成り立たせているのが、遠隔の社から神霊を迎える勧請の手続きである。国内各地の主要な神を国府近くの一社へ勧請し、一つの社殿のうちに並べて祀ることで、参拝者は移動することなく国じゅうの神と向き合うことができた。こうした勧請と合祀の積み重ねが、総社という施設の実体をかたちづくっている。したがって当社の祭神の顔ぶれは、遠江という国の神々の分布を一社のうちに写し取ったものとして読むべきものであり、個々の神名の異同よりも、この写し取りの構造にこそ総社の本質が宿る。相殿という形式は、神々を序列づけて優劣を競わせるためのものではなく、国内の信仰をひとつの場に共存させるための装置であった。その意味で、当社の祭神構成は、遠江という一国の信仰の多様さを、失わせることなく一社へ束ねようとした古代人の工夫の跡だといえる。
5. 遷座伝承をめぐる論点
当社の来歴のうち、確度の腑分けがとりわけ問われるのが、遷座をめぐる伝えである。もともと岩井原(いわいばら)という場所に鎮座していたものが、いつのころか現在の見付の地へ遷ってきた、と伝えられる。しかし、その遷座の時期や事情を具体的に記す文献は残っていない。ここでは、この遷座伝承をどの層に位置づけるべきかを、いくつかの論点に分けて検討する。
岩井原からの遷座という伝え
伝えの骨子。当社の旧鎮座地を岩井原とし、後年に現在地へ遷ったとする社伝的な伝えが行われてきた。この伝え自体は地域に定着しており、当社の来歴を語るうえでしばしば言及される。ただし、遷座の年代や、遷座を促した事情を記す一次史料は、本稿の調査範囲では確認できない。すなわち、遷座伝承は伝承の層に属し、これを史実として年代づけることはできない。
地名との関わり。この伝えを興味深くしているのは、『日本三代実録』に見える神名が「淡海石井神」であり、旧鎮座地とされる地名が「岩井原」である、という符合である。「石井」と「岩井」はいずれも「いわい」と読みうる。神名に含まれる地名要素と旧地名との一致を、遷座伝承の傍証とみることは可能である。もっとも、これは地名と神名の音の一致に基づく推論であって、遷座の史実を直接に証するものではない。
淡海石井神=当社の比定をどう扱うか
比定の妥当性。『日本三代実録』の淡海石井神を当社にあてる見方は、社名・地名の対応から広く受け入れられており、通説の位置にある。この比定を認めれば、当社が九世紀後半には国家に把握される神格であったことになり、遷座前の姿を岩井原に想定する余地も生まれる。
慎重論の根拠。他方、正史が記すのはあくまで神名であって社名ではなく、比定は後世の解釈に依る。石井・岩井の一致も、地名としてありふれた要素であり、決定的な証拠とまでは言い難い。したがって、比定を前提に遷座の史実を積み上げる推論は、通説の上に伝承を重ねる形になり、確度が段階的に薄まっていく点に注意を要する。
この論点整理から得られる教訓は、単純だが重要である。すなわち、堅い史実(延喜式・神階記事)と、その周囲に堆積した伝え(遷座・旧地名)とを、同じ確からしさで語ってはならない、ということである。両者を混同すれば、音の一致という細い糸が、いつのまにか遷座の史実という太い断定へとすり替わってしまう。確度の層を保ったまま伝えを扱うことは、伝承の価値を否定することではない。むしろ、それがどの層の証言であるかを見きわめたうえで、正当に位置づけるための手続きなのである。
遷座伝承をめぐるもう一つの留意点は、旧鎮座地とされる岩井原を、今日のどの地点にあてるかという問題である。地名は時代とともに範囲や表記を変えるため、伝承に現れる岩井原の同定は、それ自体が別個の検証を要する問いである。旧地の同定を確定しないまま遷座の経路を線として描くことは、伝承の上にさらに推測を重ねることになりかねない。本稿は、遷座の事実性そのものを否定も肯定もせず、これを検証可能な問いのかたちに保つことにとどめる。伝えを性急に地図の上へ落とし込まず、確度の層を保ったまま次代の調査へ手渡すこと──それが、ここでの慎重さの意味である。石井と岩井の音の一致は魅力的な手がかりではあるが、手がかりを結論と取り違えないことが、史料批判の初歩にして要諦である。
6. 総社・国府・国分寺 ── 見付の中心性の空間構造
総社が国府の存在を前提とする以上、淡海國玉神社の所在は、見付周辺に遠江国府があったことを含意する。そして見付・中泉のあたりには、総社だけでなく、遠江国分寺跡や府八幡宮といった古代の中枢施設が集まっている。これらは互いに無関係に点在するのではなく、遠江国の政治と信仰の中心が置かれた土地の名残として、一つの空間構造をなしている。
古代の国には、政庁である国府、国家仏教の拠点である国分寺・国分尼寺、そして本稿が論じる総社が、いずれも国府周辺にまとまって設けられるのが通例であった。遠江国分寺跡の広大な芝地は、国家が地方に営んだ寺院の規模を今に伝え、府八幡宮は「国府の八幡」を名のる社として国府との近接を示す。この府八幡宮と国府の関係については、本論考シリーズの遠江国府と府八幡宮 ──「国府」を名のる土地の千三百年で詳しく論じた。総社・国分寺・府八幡宮という三点を結んで眺めたとき、見付・中泉の一帯が遠江国の中枢であったことが、はじめて立体的に浮かび上がる。
古代の地方統治において、国府とその周辺の施設群は、政治・宗教・教育の機能を一つの地域に束ねていた。政庁で国務を執り、国分寺で鎮護国家の法会を営み、総社で国内の神々を祀るという営みは、いずれも国という単位を統べるための装置であった。これらが近接して配置されたのは偶然ではなく、統治の中心を一地域に集中させる古代国家の設計に由来する。したがって、見付・中泉に総社・国分寺・府八幡宮が集まっているという事実は、この一帯がかつて遠江国の統治機能を担った中枢域であったことを、施設の配置そのものによって物語っている。個々の建物は失われ、あるいは跡地となっても、その配置が描く見取り図は、土地の履歴として今なお読み取ることができる。
もっとも、遠江国府の正確な所在については、なお論点が残る。国府が見付周辺に置かれたとする見方は有力であるが、その具体的な位置をめぐっては複数の説があり、一点に確定しているとは言い難い。総社の存在は国府の近接を強く含意するものの、それ自体が国府の位置を座標として指し示すわけではない。したがって、総社・国府・国分寺の空間的なまとまりは、個々の施設の厳密な位置関係としてではなく、この一帯が国の中枢機能を担った地域であった、という面としての中心性の水準で捉えるのが穏当である。以下の表に、当社をめぐる主要な情報を確度の層ごとに整理しておく。
| 事項 | 確度の層 | 内容 | 依拠する資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 式内社としての格 | 史実 | 平安中期に国家の祭祀体系に位置づけられた古社。 | 『延喜式』神名帳 遠江国条。 | 官社一覧であり、由緒・祭礼の内容は記さない。 |
| 淡海石井神への神階 | 史実(比定は通説) | 865年に淡海石井神が神階を授かる。当社に比定。 | 『日本三代実録』貞観7年条。 | 記されるのは神名であり社名ではない。比定は解釈。 |
| 総社としての性格 | 通説・推定 | 国内諸神を集約し、国司巡拝を代替した遠江総社。 | 総社制度に関する研究、当社由緒。 | 総社化の年代を記す一次史料は未確認。 |
| 主祭神・相殿十五柱 | 伝承・社伝 | 大国主命を主祭神とし十五柱を相殿に祀る。 | 当社由緒書、社伝。 | 相殿の選定基準・年代を示す一次史料は未確認。 |
| 岩井原からの遷座 | 伝承 | 旧鎮座地を岩井原とし現在地へ遷ったと伝える。 | 社伝、地域の伝え。 | 遷座の年代・事情を記す文献はなく、石井/岩井の符合は傍証にとどまる。 |
| 裸祭の渡御先 | 史実(現行祭礼) | 見付天神の祭神が秋季に当社へ渡御する。 | 見付天神裸祭の次第、重要無形民俗文化財指定。 | 渡御形式の成立年代を記す古記録は未確認。 |
この表から読み取れるのは、当社をめぐる情報が、堅い史実から社伝的な伝承まで、確度の異なる複数の層にまたがって分布している、という事実である。式内社としての格や神階記事は史実の層に置けるが、総社化の時期、相殿の構成、遷座の経緯は、いずれも一次史料を欠き、通説・推定・伝承の層にとどまる。重要なのは、これらを同一平面に均してしまわず、それぞれの層のなかで正当に評価することである。堅い層が薄いからといって当社の意義が減じるわけではなく、むしろ、確度の異なる伝えがこれほど厚く堆積していること自体が、当社が長く地域の信仰の要であり続けた証左といえる。
7. 渡御先としての機能 ── 生きた総社
総社は古代の制度に発する施設であるが、淡海國玉神社の特筆すべき点は、その制度的な役割が、現在の祭礼のなかに生き続けていることにある。毎年秋、見付天神こと矢奈比賣神社の祭神が、当社まで渡御する神事が営まれる。これが国の重要無形民俗文化財に指定されている見付天神裸祭であり、腰蓑をまとった裸衆が夜のまちを進み、氏神を総社へと送り届ける4。総社である淡海國玉神社は、この祭礼の、いわば目的地にあたる。
氏神が総社へ渡るというこの形式は、単なる神輿の巡行ではなく、地域の神が国という一段大きな秩序のなかへ位置づけ直される所作として読むことができる。見付天神裸祭そのものの起源や所作をめぐる議論は、本論考シリーズの見付天神裸祭 起源三説の学史的検討で詳しく扱ったが、そこでも総社渡御は、裸祭を一町内の祭礼にとどめず遠江国府祭の記憶へ接続する手がかりとして位置づけられた。総社という制度が失われて久しい今日にあっても、氏神が総社へ向かうという祭礼の形式は、国を一社に束ねた古代の発想を、身体の所作として保存し続けているのである。
ふだんは静かなこの境内が、祭りの夜には松明と人いきれに包まれる。総社という古代の制度から生まれた社が、千年をこえてなお、まちの祭礼の中心であり続けている。この事実は、制度が文献のなかの死語となるのではなく、祭礼という反復される営みのなかに生きて残りうることを示している。なお、当社の御朱印は隣接する見付天神で記帳されると伝えられ、二つの社は、年に一度の渡御においても、日々の参拝においても、深く結びついている。総社と天神という二社の関係は、制度と信仰が土地のうえで具体的にどう絡み合ってきたかを示す好個の事例である。
祭礼を通じた二社の結びつきは、制度が行政上の意味を失ったのちも、土地の記憶がいかに保たれるかを示している。総社という語は、律令制の解体とともに実務上の役割を薄れさせていったが、氏神が総社へ渡るという祭礼の形式は、その意味を所作のうちに畳み込んだまま伝えられた。人々が総社の由来を逐一意識せずとも、渡御という反復が制度の記憶を運び続ける。文献が伝えるのは制度の輪郭であり、祭礼が伝えるのはその身体的な実感である。両者が併存することで、当社の総社としての性格は、抽象的な知識にとどまらず、毎年更新される経験として地域に根づいてきた。制度が生きているとは、条文が有効であることではなく、それがくり返される所作のうちに宿り続けていることを指すのである。
この「生きた総社」という視点は、当社を過去の遺構としてではなく、現在も機能する祭祀の場として捉え直させる。式内社としての格や神階記事は、たしかに当社の古さを証す史実である。しかし、当社の総社としての意味を今日にまで伝えているのは、文献ではなく、毎年くり返される渡御そのものである。制度の記憶は、記録の保存によってだけでなく、祭礼の反復によっても手渡される。淡海國玉神社は、その二重の伝達経路を併せもつ稀有な社なのである。
8. 結論 ── 制度の記憶を読むということ
本稿は、遠江国総社・淡海國玉神社を主題に、なぜこの静かな一社が見付の中心性を証しうるのかを、総社という制度に即して検討した。得られた見取り図は次のとおりである。当社が式内社であること、および当社に比定される淡海石井神が865年に神階を受けたことは、国家の編纂物に基づく史実の層に置ける。他方、総社化の時期、相殿十五柱の構成、岩井原からの遷座といった来歴は、いずれも一次史料を欠き、通説・推定・伝承の層にとどまる。この確度の分布を混同せず、それぞれの層のなかで正当に位置づけることが、当社を読む前提であった。
そのうえで本稿が示したのは、当社の意義が社殿の規模や宝物の多寡ではなく、総社という制度的役割に存する、という点である。国内の神々を一社に集約し、国司の巡拝を代替するというこの制度は、国府の存在を前提とし、その中心が置かれた土地に否応なく中枢としての性格を与える。淡海國玉神社が見付にあるという事実そのものが、見付・中泉の一帯が遠江国の政治と信仰の中心であったことを、静かに、しかし揺るぎなく証している。総社・国府・国分寺・府八幡宮を結んで眺めたとき、この一帯の面としての中心性が立ち上がる。
この二重の伝達という視点は、地域史の記録という営みにも一つの示唆を与える。文献に残らなかったことは、必ずしも失われたことを意味しない。祭礼や地名、社の配置といった、文字以外のかたちで土地に刻まれた記憶は、読み取る目さえあれば、なお多くを語る。淡海國玉神社を前にして問われているのは、社殿の古さを年代で言い当てることではなく、この社が担った制度の意味を、いまの景観のうちから読み起こす力である。その力を次の世代へ手渡すことこそ、足もとの歴史を記録する意義だと考える。
したがって本稿の立場は明確である。淡海國玉神社は、過去の遺構としてではなく、制度の記憶を二重の経路で伝える生きた場として読まれるべきである。一つは、延喜式や正史といった文献による記録の経路。いま一つは、見付天神裸祭の渡御という、毎年反復される祭礼の経路である。制度が文献のなかで死語となってもなお、氏神が総社へ向かう所作は、国を一社に束ねた古代の発想を身体のうちに保存し続けている。建物の大きさではなく、そこにこめられた制度の意味を読み取ること──それが、足もとの歴史を見つめ直すという営みの核心である。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、当社の総社化の時期については、中世・近世の地方文書や社伝を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させうる余地がある。第二に、淡海石井神の比定と岩井原遷座の伝えは、遠江の他の式内社の比定作業と照らし合わせることで、確度をより精確に評価できる。第三に、総社渡御の形式と遠江国府祭との接続は、国府の所在論と併せて検討されるべき主題であり、この点は既刊の国府論と本稿とを架橋する続編の課題としたい。いずれも、確度の層を保ったまま資料を積み上げ、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。その手続きの先にこそ、淡海國玉神社という総社が担ってきた記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条による。神名帳は官社の一覧であり、社の格を示す史実として扱う。当社の比定については各種神社研究資料を参照。↩
- 総社の成立と機能については、国司の任国巡拝を国府近くの一社への参拝に集約する制度として一般に説明される。制度化の時期を平安後期とみる見方が有力である。↩
- 主祭神を大国主命とし、相殿に遠江各地の十五柱を祀るとするのは当社由緒による。相殿の構成年代を記す一次史料は本稿では未確認である。↩
- 見付天神裸祭は国の重要無形民俗文化財に指定されている。指定名称・指定年については文化庁「国指定文化財等データベース」を参照。渡御先が当社である点は祭礼の次第による。↩
- 『日本三代実録』貞観7年(865年)条の「淡海石井神」を当社にあてる比定は、社名・地名の対応に基づく通説であり、正史が社名の同一性を明言するものではない。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 m019「淡海國玉神社と、遠江の神々が集うまち」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、延喜式神名帳の記載および865年の神階記事を史実、岩井原遷座および相殿十五柱を伝承・社伝として扱った。
参考文献・参考資料
- 『日本三代実録』貞観7年(865年)条。
- 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
- 淡海國玉神社(遠江国総社)由緒書・公式資料。
- 矢奈比賣神社(見付天神)公式資料。
- 見付天神裸祭保存会 公式資料。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 磐田市教育委員会編『遠江国分寺跡』関係報告(見付・中泉の古代遺跡について)。
- 総社研究に関する各種神社史・地方史料(国司巡拝と総社制度について)。
- 磐田市観光協会ほか地域資料(狛兎・総社の由緒について)。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」重要無形民俗文化財の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m019「淡海國玉神社と、遠江の神々が集うまち」 https://iwata-monogatari.net/m019 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第6号「遠江国府と府八幡宮 ──『国府』を名のる土地の千三百年」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/006/ (最終閲覧:2026年7月25日)。