失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 遠江国司の人々
中泉 | 古代・国府

遠江国司の人々 ──
磐田の国府に赴任した官人たち

遠江国府が磐田に置かれていた数百年のあいだ、都からこの土地へ、何十人もの国司が赴任してきた。名を残した者はわずかだが、そのなかには万葉集に歌を残した皇族や、勅撰和歌集の撰者となる歌人もいた。国司という「制度」と、そこに生きた「人」の側から、国府のまち磐田を眺め直す。

国司とはどんな役人か ── 守・介・掾・目

律令制のもとで、諸国には中央から派遣される国司が置かれた。国司は一人ではなく、長官の守(かみ)、次官の介(すけ)、判官の掾(じょう)、主典の目(さかん)という四等官(しとうかん)で構成される役人団である。守が最終的な責任を負い、介がこれを補佐し、掾が実務を差配し、目が文書の作成と保管を担う ── いわば一国を運営する小さな政府だった。彼らは国府の役所(国庁)に出仕し、徴税、戸籍の管理、裁判、治安・軍事、駅制の維持、そして国分寺の造営・維持といった、国の行政のほぼ全てを担った。

遠江は、律令の格付けで「上国(じょうこく)」に位置づけられた、規模の大きな国である。それだけに、遠江守は都の官人にとって、そこそこの実入りが見込める望ましい任地だった。任期はおおむね4年から6年で、任期を終えれば都へ帰る。交替の際には、後任者が前任者の在任中の帳簿を点検し、引き継ぎの完了を証する「解由状(げゆじょう)」を発行した。この監査を専門に扱う勘解由使(かげゆし)という役所まで都に置かれたことは、国司の統治がいかに帳簿と数字で管理されていたかを物語る。つまり国司とは、磐田に骨を埋める土着の支配者ではなく、数年間だけこの土地を預かり、その成績を都で査定される、任期付きのキャリア官僚だったのである。

遠江国 国司の四等官(しとうかん) 守(かみ) 長官・一国の責任者 介(すけ) 次官・補佐 掾(じょう) 判官・実務の差配 目(さかん) 主典・文書の作成保管
図1 国司の四等官制。守を頂点に、一国を運営する小さな政府が国府に置かれた。

歌を残した遠江守 ── 桜井王

名の残る遠江国司のなかで最も古い部類に属し、磐田との縁も深いのが、奈良時代の桜井王(さくらいのおおきみ)である。天武天皇の系譜に連なる皇族で、天平年間に遠江守を務めた。別稿(万葉集の遠江歌と磐田)で扱ったとおり、任地から聖武天皇へ「九月のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも」という歌を奉り、天皇から「大の浦のその長浜に寄する波」の返歌を得たことが『万葉集』巻8に残る。また府八幡宮の社伝は、桜井王が国府赴任の際に国府の鎮守として同宮を創建したと伝えている(社伝であり、史実としての確定はできない)。歌と社伝の両方に名をとどめる、遠江国司の象徴的な存在である。桜井王はのちに臣籍降下して大原真人(おおはらのまひと)桜井と名のった。皇族が地方の国司を務めることは奈良時代にはめずらしくなく、有力な王が上国の守に任じられて統治の実務を経験することは、朝廷の人材運用の一つのかたちだった。都の血を引く貴人が、遠く離れた遠江の国庁で帳簿に向かい、任地の秋空に望郷の歌を詠んだ ── その姿を思い描けることこそ、桜井王の贈答歌が磐田に残してくれた最大の贈り物である。

国司の一年 ── 税・裁き・祭り

赴任した国司の仕事は、多岐にわたった。中心はやはり徴税である。国司は国内の田地を把握し、収穫の一部を租(そ)として徴し、都へ納める調(ちょう)・庸(よう)を村々から集め、その年の収支を「正税帳(しょうぜいちょう)」などの帳簿にまとめて中央へ報告した。数字が合わなければ、任期の終わりに責任を問われる。国司にとって帳簿は、自らの官人としての成績表そのものだった。

徴税だけではない。国内で起きる争いを裁き、盗賊や災害に備え、街道の駅(うまや)を維持し、都から下る官人や使者をもてなす。そして忘れてならないのが、祭りである。国司は任国の神々を祀ることを重要な職務とし、赴任するとまず国内の主要な神社を巡って幣帛(へいはく)を捧げた。延喜式内社で扱ったように、やがて巡拝を効率化するため、国府の近くに国内の神々をまとめて祀る「総社(そうじゃ)」が設けられる。磐田の淡海国玉神社が遠江の総社となったのも、この国司の祭祀の必要から生まれた仕組みである。税と裁きと祭り ── 国司は、一国の政治・司法・宗教を一手に預かる存在だった。

国司が来なくなる ── 遥任と在庁官人の時代

平安時代も中期に入ると、国司制度は大きく姿を変える。律令の理想では四等官がそろって任地に赴くはずだったが、しだいに守だけが強大な権限と収入を握り、そのうえで肝心の守が任地に下らず、都にいたまま収入だけを得る「遥任(ようにん)」が広がった。遥任の守は、代理人として目代(もくだい)を現地へ送り、国府の実務は地元の有力者から登用された「在庁官人(ざいちょうかんじん)」と呼ばれる役人たちが担うようになる。

これは磐田の歴史にとって、静かだが決定的な転換だった。国司は「赴任してくる都人」から「都にいる名義上の長官」へと変わり、遠江の国府は、中央から派遣される貴族と、この土地に根を張った実務家とが層をなす役所になっていった。そして、この在庁官人の層のなかから、やがて所領と武力を蓄え、中世の武士へと成長していく家々が現れる。見付の守護所遠江今川氏につながる中世の武家社会は、この国司制度の変質がならした土壌の上に芽生えたのである。制度が形を変えるとき、権力の重心は都から土地の側へと、少しずつ移っていった。

確認できること・できないこと
国司の四等官制、任期、遥任・目代・在庁官人という制度の変遷は、律令制・王朝国家に関する概説で広く確認できる。桜井王の遠江守在任と万葉集の贈答歌は原典で確認できる。一方、遠江国司の完全な歴代一覧を示せる史料は限られ、個々の国司が実際に磐田へ赴任したか(遥任だったか)は、多くの場合確認できない。本稿で挙げた人物も、名の伝わる一部の例にすぎず、大半の遠江守・介・掾・目は、名も事績も記録に残らないまま歴史に埋もれている。

歌人国司・藤原俊成

平安時代の末には、日本の和歌史に大きな名を残す人物が遠江守の官歴を持っている。藤原俊成(ふじわらのとしなり、1114〜1204)である。後白河法皇の命で勅撰和歌集『千載和歌集』を撰び、「幽玄(ゆうげん)」の美を説いた歌壇の重鎮であり、新古今和歌集を代表する歌人・藤原定家の父でもある。この大歌人が、加賀守や三河守などとともに遠江守を歴任したことが記録に残る。

ただし、この時代の国守は遥任が通例であり、俊成が実際に磐田の国府の土を踏んだかどうかは確認できない。おそらくは都にいたまま遠江の収入を得ていたと見るのが自然だろう。それでも、「遠江守藤原俊成」という官名が現実に存在したことは、桜井王の時代から四百年を経てなお、遠江という国が都の一流貴族の官歴を飾るにふさわしい価値ある任国であり続けたことを示している。奈良の皇族歌人に始まり、平安末の勅撰集撰者に至るまで、遠江守の座には和歌史に名を刻む人物が繰り返し就いた ── 磐田の国府は、歌人たちの官歴のなかに、確かな一行を残しているのである。

奈良時代 守が実際に赴任 桜井王 平安中期 遥任・目代の時代 在庁官人が実務 平安末期 平家の知行国 藤原俊成・平重盛一族 中世 守護・武士へ 権力の重心は、都から来る国司から、土地に根ざす在庁官人・武士へと移っていった
図2 遠江国司制度の変遷。実赴任から遥任へ、そして権力は土地の側の武士へと移っていく。

平氏の時代、そして国司の終焉へ

平安末期、遠江の国司の地位は平家一門の手に渡る。別稿(平氏と遠江国司)で扱ったとおり、平重盛の一族が遠江守を占め、遠江は平家の東国支配の足がかりとなった。源平争乱と鎌倉幕府の成立を経ると、国の実権は守護・地頭へと移り、国司は名目だけの官職として形骸化していく。遠江の政治の中心も、見付の守護所や、のちの中泉代官所へと引き継がれ、「国司の国府」は歴史の役目を終えた。国庁の建物はいつしか失われ、国司の名も大半は忘れられた。それでも「国府」という言葉だけは、国府台(こうのだい)という地名として、また「府」を名のる土地の記憶として、いまも磐田に残り続けている。制度が滅びても地名が生き延びるのは、この土地に確かに国の役所があったことの、消えない証しである。

記録に名の残る遠江国司の例

人物時代知られていること
桜井王(大原桜井)奈良時代・天平年間天武系皇族。万葉集巻8に聖武天皇との贈答歌。府八幡宮創建の社伝
藤原俊成平安末期『千載和歌集』撰者。遠江守を歴任(遥任の可能性が高い)
平重盛の一族平安末期平家の知行国として遠江守を占める(c100参照)
(多数の無名の国司)奈良〜平安史料に断片的に見えるのみ。多くは名も伝わらない

数年だけの支配者たちが残したもの

国司たちは数年で都へ帰っていく存在だった。彼らにとって遠江は、生涯の一時期を過ごす任地の一つにすぎず、任期を終えれば次の官職を求めて都へ戻っていった。しかし、その一時的な存在が残したものは、意外なほど根深い。彼らが運営した国府と国分寺の伽藍は磐田の土地に礎石を残し、彼らが祭った鎮守は府八幡宮淡海国玉神社の杜として続き、彼らが詠んだ歌は『万葉集』のなかで今も読まれている。そして、彼らが遥任するようになったことで力をつけた在庁官人たちが、次の時代の主役 ── 武士へと育っていった。

定住しなかった人々の営みが、かえって千年を超える記憶としてこの町に堆積している。国府台(こうのだい)という地名の三文字に足を止め、そこにかつて都から来た守や介や目が机を並べ、税を計り、神を祀り、望郷の歌を詠んでいたことを思い出すとき、磐田の古代は、制度の話ではなく、生きた人々の話として立ち上がってくる。国司という存在のいちばんの面白さは、そこにある。

主な参考資料

個々の国司の赴任実態(実赴任か遥任か)は多くの場合確認できず、本文中で確認できる点とできない点を区別して記している。

あわせて読みたい

← トップへ戻る 関連記事 ── 万葉集の遠江歌と磐田 →

この地域の家・土地・空き家について

古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。