万葉集の遠江歌と磐田 ──
桜井王の歌と「大の浦」の波
『万葉集』という書物と、東国のうた
『万葉集』は、七世紀後半から八世紀後半にかけての歌およそ4,500首を、二十巻に収めた日本最古の歌集である。天皇や貴族の歌だけでなく、防人(さきもり)として九州へ送られた東国の農民の歌、名も伝わらない人々の相聞(そうもん)や挽歌(ばんか)まで、身分と地域の幅の広さがこの歌集の際立った特徴である。編纂の最終段階に関わったのは歌人にして官人の大伴家持とされるが、その手は都の宮廷にとどまらず、越中や東国の風土にまで及んだ。遠く都を離れた地方を、当時の人々がどう見て、どう詠んだか ── その視線をたどれる同時代の史料は、じつはこの歌集をおいて多くない。
その東国のうたのなかに、遠江国を舞台とする歌が点々とまじっている。数は決して多くないが、地方の一国が『万葉集』にどう描かれたかを読むことは、文字記録の乏しい古代の磐田を考えるうえで、貴重な手がかりになる。
遠江の万葉歌 ── 三つの類型
『万葉集』のなかで遠江国にかかわる歌は、大きく三つの類型に分けられる。第一に、都から東国へ下る行幸(ぎょうこう)や旅の途上で、貴族や随行の官人が詠んだ歌。第二に、遠江の国司(国府の長官である守や、その下僚)として赴任した官人が、任地から都へ心を寄せて詠んだ歌。第三に、巻14にまとめられた「東歌(あずまうた)」、すなわち東国各地の民衆のあいだで口ずさまれていた歌を、編者が採録したものである。
この三つは、遠江を見る視線の高さがそれぞれ違う。行幸の歌は、通り過ぎる都人が車上から眺めた風景である。国司の歌は、数年の任期をこの地で過ごした赴任者が、都を恋いながら任地の景に託した心である。そして東歌は、この土地に生まれ、この土地で暮らした人々の生活そのものの声である。同じ遠江でも、旅人の目・赴任者の目・土地の人の目という三つの角度から照らされることで、奈良時代のこの国のかたちが、いくらか立体的に浮かび上がってくる。以下、磐田に最も縁の深い第二の類型 ── 遠江守桜井王の贈答歌から見ていく。
遠江守桜井王の歌 ── 国府から都への便り
磐田にとって最も縁の深い万葉歌は、巻8に載る次の一首である。詞書には「遠江守桜井王、天皇に奉る歌一首」とある。
思ふ心は聞こえ来ぬかも 遠江守桜井王(巻8・1614)
九月の初雁が使いとなって、あなたを思う私の心は届かないだろうか ── 遠い任地から、都の天皇へ送った便りの歌である。ここで「使」に選ばれた初雁(はつかり)は、秋に北から渡ってくる雁のことで、古来、手紙を運ぶ鳥として詩歌に繰り返し詠まれてきた。中国の故事に由来するこの雁書(がんしょ)の連想を踏まえ、桜井王は「せめてあの雁にでも、私の思いを都へ届けてほしい」と詠んだのである。任地の秋空を渡っていく雁の列に望郷を託す ── 遠く赴任した官人の心情を、これほど端的に伝える一首も少ない。
作者の桜井王(さくらいのおおきみ)は、天武天皇の系譜に連なる皇族で、川内王(かわちのおおきみ)の子と伝えられる。のちに臣籍に降って大原真人(おおはらのまひと)桜井と名のった。皇族が地方の国司を務めることは当時めずらしくなく、桜井王もその一人として遠江守に任じられた。府八幡宮の社伝は、桜井王が赴任にあたって国府の鎮守としてこの社を創建したと伝えている。遠江国府の所在地は別稿(遠江国府はどこにあったのか)で扱ったとおり現在の磐田市中心部と考えられており、この歌が事実として任地で詠まれたのであれば、磐田の国府の空の下で生まれた歌ということになる。ただし、社伝の創建譚も、歌が実際にどこで詠まれたかも、史料から確定できるものではない。確実に言えるのは、「遠江守桜井王」という肩書きを持つ人物の歌が『万葉集』に残り、その返歌を天皇が詠んだ、という一点である。
聖武天皇の返歌 ──「大の浦」の波
この歌に対して、聖武天皇が答えた歌が続けて収められている。
ゆたけく君を思ふこのころ 聖武天皇(巻8・1615)
大の浦の長い浜辺に寄せる波のように、ゆったりと豊かにあなたを思っている ── 天皇が臣下の便りに応えた、おおらかな返歌である。相聞歌(そうもんか、思いを交わす歌)では、寄せては返す波はしばしば絶えることのない思慕のたとえに用いられる。桜井王が「初雁の使にも届かないか」と控えめに問うたのに対し、聖武天皇は「大の浦に寄せる波のように豊かにあなたを思っている」と、ゆたかな海の景で応えた。臣下の遠慮がちな望郷を、君主が海のおおらかさで包み返すという、贈答の呼吸が見事である。
この返歌に詠まれた「大の浦(おほのうら)」は、古来、遠江国の海辺の地名と注されてきたが、正確な所在は未詳とされてきた。そして磐田には、まさにこの名を持つ入り江の記憶がある。古墳と川・海・道や兜塚古墳で扱ったとおり、古代の磐田原台地の東から南にかけては「大の浦(大之浦)」と呼ばれる広大な入り江・潟湖が広がっていたと考えられており、この入り江を万葉の「大の浦」にあてる見方がある。歌の言葉と土地の名が響き合うこの一致は、はたして偶然なのか、それとも根拠のあることなのか。次に、学説を整理してみたい。
学説の整理 ──「大の浦」はどこか
説A:所在未詳(注釈書の通説的な扱い)
古典の注釈書の多くは、「大の浦」を遠江国の海岸の名としつつ、具体的な比定地は未詳とする立場をとる。この立場では、天皇は必ずしも遠江の実景を見て詠んだのではなく、遠江守という相手の任地にちなむ「海辺の景」を、歌枕(うたまくら、和歌の題材となる地名)として借りたにすぎない、と考える。返歌に地名を詠み込むこと自体が相聞の作法であり、その地名が実在の一地点を正確に指すとは限らない ── 無理な比定を避けるこの読みは、実証を重んじる立場として手堅い。
説B:磐田の入り江「大之浦」説
一方、磐田市域には近世まで「大之浦」の地名や伝承が残り、古代には磐田原台地の東から南にかけて、今之浦・太田川下流の低地に大きな入り江・潟湖が広がっていたことが、地形と考古の両面から推定されている。遠江守が赴任した国府はまさにこの入り江を望む台地の縁にあった。とすれば、天皇が遠江守への返歌に、その任地からよく見える入り江の名を選んで詠み込んだ、と考えるのは自然である ── というのがこの説の骨子である。歌の贈答という文脈と、国府と入り江が近接するという地理が、きれいに整合する点に魅力がある。弱点は、奈良時代の「大の浦」という名を直接記した同時代の史料がなく、近世まで下る地名からの遡及にとどまる点である。
本稿の立場
現時点で比定を確定できる材料はない。本稿は、注釈書の「所在未詳」という慎重な扱いを前提として尊重しつつ、磐田の入り江の記憶と結びつける説Bを、土地の歴史を考えるうえで魅力ある仮説として併記する立場をとる。断定はしない。ただ、国府に赴任した遠江守と、その任地を望む入り江と、天皇の返歌の波 ── この三つが一つの風景のなかに収まりうることは、書き留めておく価値がある。
引馬野はどこか ── もう一つの所在論争
遠江の万葉歌といえば、もう一つ有名な所在論争がある。巻1に載る長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の一首である。
衣にほはせ旅のしるしに 長忌寸奥麻呂(巻1・57)
これは、大宝2年(702年)の持統太上天皇による三河行幸に従った際の歌とされる。榛原(はりはら)とは、ハンノキ(榛)の木立のことで、その実や樹皮は当時、衣を染める染料に使われた。「引馬野に色づく榛の原に分け入って、衣を染めなさい、旅の記念に」── 秋の野の色を旅の思い出として衣にうつす、明るく華やかな一首である。
この歌の「引馬野」については、二つの説が古くから対立してきた。一つは、行幸先である三河国内、現在の愛知県豊川市御津(みと)付近とする三河説。もう一つは、遠江の引馬(ひくま)、すなわち現在の浜松・三方原方面とする遠江(浜松)説である。浜松説に立てば、のちに徳川家康が本拠とした引馬(曳馬)の地が、はるか万葉の昔から歌に詠まれていたことになり、地元にとっては魅力的な読みである。しかし、この歌が詠まれた行幸の目的地はあくまで三河であり、行程上、三河国内の地とみるほうが素直だとして、近年は三河御津説が有力とされることが多い。磐田の側からいえば、引馬野は市域の話ではないが、遠江の万葉歌の所在論争として無視できない一首である。ここでも、断定よりも両説の併記が誠実な扱いであろう。
東歌の遠江 ── 歌の地理は西に偏る
巻14の東歌には、遠江国の歌として「遠江引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし」など、浜名湖周辺の地名を詠んだ歌が残る。「みをつくし(澪標)」は、船の通り道を示すために水中に立てた杭のことで、浜名湖の入り江の水運の風景がしのばれる。また麁玉(あらたま)の地名も、天竜川下流西岸の麁玉郡(現在の浜松市浜名区方面)にかかわるとされる。
ここで一つの偏りに気づく。遠江の万葉歌の舞台は、引馬野・引佐細江・麁玉と、いずれも浜名湖・天竜川西岸の側に集まっているのである。国府の置かれた磐田側の地名を確実に詠んだ歌は、「大の浦」を磐田にあてる説をとらないかぎり、ほとんど見あたらない。行政の中心である国府と、歌に詠まれる景勝の地とが、必ずしも一致しなかったことになる。都の人々の歌ごころを誘ったのは、役所の建ち並ぶ国府の実務的な風景よりも、浜名湖の入り江の水面や、街道沿いの野辺を染める草木の色だったのかもしれない。次の図に、遠江の主な万葉歌の舞台を地理の上に置いてみる。
遠江関連の主な万葉歌
| 歌 | 作者・巻 | ゆかりの地(諸説含む) |
|---|---|---|
| 九月のその初雁の使にも… | 遠江守桜井王(巻8・1614) | 遠江国府(磐田)からの奉呈歌 |
| 大の浦のその長浜に寄する波… | 聖武天皇(巻8・1615) | 遠江の海辺。所在未詳。磐田の大之浦説あり |
| 引馬野ににほふ榛原… | 長忌寸奥麻呂(巻1・57) | 三河御津説・浜松(引馬)説が対立 |
| 遠江引佐細江のみをつくし… | 東歌(巻14) | 浜名湖・引佐細江 |
巻8の桜井王の歌と聖武天皇の返歌、巻1の引馬野の歌、巻14の東歌が『万葉集』に収められていることは原典で確認できる。一方、「大の浦」「引馬野」の所在はいずれも確定しておらず、本文では各説を併記した。桜井王が府八幡宮を創建したという話は社伝(伝承)であり、史実として確定しているわけではない。
国府のまちに、歌を重ねて歩く
万葉集のなかの遠江は、決して華やかな歌枕の国ではない。しかし、遠江守が初雁に託した望郷と、天皇が波にたとえた返信の贈答は、奈良の都と磐田の国府とが、歌で結ばれていたことを確かに伝えている。国府台の府八幡宮の杜を歩くとき、この二首を思い出せば、千三百年前の九月の空を渡る雁の列が、少しだけ近くに感じられるはずである。
主な参考資料
- 『万葉集』巻1・57、巻8・1614〜1615、巻14(東歌)
- 「千人万首 聖武天皇」(asahi-net)、「歌語り風土記 桜井王」(大の浦の注)
- Wikipedia「三方原」、浜松市「浜松市の歴史的風致形成の背景」(引馬野の所在)
- 磐田物語「府八幡宮と遠江国府の記憶」「遠江国府はどこにあったのか」「古墳と川・海・道」「兜塚古墳」
「大の浦」「引馬野」の比定はいずれも確定しておらず、本文中で各説を対等に併記している。
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