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磐田物語見付地区 / 見付宿

見付・中世〜幕末 | 東海道二十八番目の宿場

見付宿 ── 東海道二十八番、様々な人と物が行き交った宿場町

見付は、東海道五十三次のうち江戸から数えて二十八番目、遠江国の中心地として栄えた宿場である。中世には今川氏の支配拠点となり、徳川の世になると伝馬朱印状によって宿駅としての役割を与えられた。大名行列や御蔭参り、飢饉や地震、らくだの見世物まで、見付宿を行き交った人と物の記録を、磐田市歴史文書館の企画展資料から整理する。

見付は、古代には遠江国の国府や国分寺が置かれた、遠江地域の政治の中心地であった。中世には守護所が置かれ、江戸時代には東海道の宿駅の一つとなり、さまざまな人や物が行き交う、賑わいの町として栄えた。徳川幕府は天下統一への布石として、慶長6年(1601年)正月、宿駅制度を創設する「伝馬朱印状」を東海道の各地に与えた。見付宿は、この伝馬制度の管理をひとつとして担う宿場となる。

本稿の要点

公式情報の整理

宿場
東海道五十三次 二十八番目・見付宿
規模(天保14年/1843年)
宿町並11町40間、人口3,935人(男1,898・女2,037)、家数1,029軒
本陣・脇本陣・旅籠屋
本陣2、脇本陣1、旅籠屋56軒
宿駅制度の始まり
慶長6年(1601年)正月、伝馬朱印状
助郷
元禄7年(1694年)見付宿助郷十二ヶ村 → 享保10年(1725年)見付宿助郷六十八ヶ村

このページでは、見付宿の歴史を、磐田市歴史文書館 第19回企画展「二十八番見付宿〜様々な人と物の行き交う町〜」(平成29年/2017年7月10日〜8月25日)の資料に基づいて整理する。

中世の見付 ── 今川氏の支配と町の始まり

見付は古代には遠江国の国府・国分寺が所在した、遠江地域の政治の中心であった。中世に入ると守護所が置かれ、また町衆による自治を行う楽市としても賑わったとされる。永正15年(1518年)、今川氏親は遠江の神官達が組織していた抵抗勢力を破って見付を手に入れ、以後、今川氏が見付を直接支配した。天文19年(1550年)の今川義元判物には、見付惣社(淡海國玉神社)の神主職・社領を安堵する内容が記されており、義元が見付に直接支配を及ぼしていたことがわかる。この判物に宛てられた「千法師」は、後に見付惣社の神主職を継ぐ大久保家の祖先にあたる人物と考えられている(見付大久保家の詳細は見付大久保家資料目録を参照)。

見付にはまた、古くから守護所が置かれていたと伝えられる大見寺の北側に「古城二の丸」と伝わる場所があり、中世の守護所や見付端城(大見寺城)の跡になるとみられる。この見付端城は、永正年間(1504〜1521年)に堀越氏によって築かれたと考えられ、大見寺の絵図には空堀や土塁が描かれている。

宿駅の運営 ── 伝馬朱印状と助郷制度

徳川家は、慶長6年(1601年)正月、東海道の宿駅に「伝馬朱印状」を与えた。この朱印状の制定によって、東海道の各地に伝馬の管理がひとつの役割として与えられることとなった。同年、奉行衆連署状によって、伝馬朱印状の使用方法についても指示された。翌慶長7年(1602年)には「路次中駄賃定書」が交付され、宿駅間の伝馬駄賃の詳細が整備された。本馬(荷物一駄・人一人が乗るか、荷物四十貫目まで)、乗掛(軽尻・荷物二十貫目まで)といった駄賃の規定が定められている。

伝馬役は宿場にとって大切な役目で、宿場の公用の荷物を運ぶために、町人・馬持ちなどの家に割り当てられた。宿だけで負担しきれない分は、周辺の村々が助郷として人馬を提供する仕組みが設けられ、貞享元年(1684年)に見付宿助郷十二ヶ村として確立された後、助郷の需要が増えるのにあわせて村数が増加し、享保10年(1725年)には見付宿助郷六十八ヶ村にまで拡大した。飛脚制度も整えられ、宝暦8年(1758年)には見付宿飛脚仲間の記録が残る。宿場の並木も幕府によって整備され、松並木の苗木植付や維持管理が村々の役目として記録されている。

22宿のなかの見付 ── その規模

天保14年(1843年)の「宿村大概帳」から、静岡県内22宿の規模を比較すると、見付宿は宿町並11町40間、人口男1,898人・女2,037人の計3,935人、家数1,029軒、本陣2・脇本陣1・旅籠屋56軒であった。府中(現・静岡市)や浜松、島田などの大規模な宿場と比べれば中規模だが、日坂や袋井のような小規模な宿場よりは大きく、東海道のなかでも一定の存在感を持つ宿場であったことがわかる。

静岡県内22宿の規模比較(抜粋、天保14年/1843年「宿村大概帳」より)
宿名人口(計)家数本陣旅籠屋
府中14,071人3,674軒243軒
浜松5,964人1,622軒694軒
見付3,935人1,029軒256軒
掛川3,443人960軒230軒
袋井843人195軒350軒
日坂750人168軒133軒

人々の生活と文化 ── 庚申講が伝える宿場の日常

見付には「庚申掛銭帳」や「庚申仲間覚帳」といった、庚申講(60日に一度めぐる庚申の日に人々が集い、夜通し語り明かす信仰行事)の記録が残る。宝暦13年(1763年)に定められた「講中定」を確認・改定しながら、近年まで庚申講が続けられていたという。この庚申講の記録には、宿場の暮らしに関わるさまざまな出来事が書き留められている。

天明5年(1785年)には「引き風邪」(インフルエンザ)や「はしか」(麻疹)が流行し、医学が未発達なこの時代、病気の流行は住民にとって大きな脅威であった。天保8年(1837年)には、天候不順による凶作で飢饉が起こり、「乞食」の項目にその困窮の様子が記されている。文政4年(1821年)、天保6年(1835年)には大水(洪水)の被害も記録されている。嘉永7年(1854年)11月4日には、後に安政東海地震と呼ばれる大地震が発生し、見付宿三百二三軒中百五拾人余が即死、家屋が大破するなど甚大な被害をもたらしたことが「嘉永七年大地震」の史料に記されている。

一方で、庶民の娯楽の記録も残る。文政3年(1820年)頃には「らくだ」の見世物が見付を訪れ、当時の日常には珍しい動物として人々の好奇心を集めた。文化9年(1812年)には「花狂言」、文政9年(1826年)には歌舞伎役者・団十郎の祭礼への参加が記録されており、江戸から離れた宿場町にも、こうした娯楽が届いていたことがわかる。天保3年(1832年)には、見付天神の祭礼が「遠々見ます」という冊子に記録され、遠くの祭りの様子を伝える出版物が作られていたこともうかがえる。

動乱期の見付宿

見付宿は、幕末の動乱期にもさまざまな通行を迎えた。天保元年(1830年)閏3月には、阿波国(徳島県)から始まった「御蔭参り」(伊勢神宮への集団参詣)の人々が見付宿にも多数訪れ、本陣や宿屋にも寄宿するほどの賑わいとなった。慶応3年(1867年)8月には、三河の吉田宿(現・豊橋)からお札が降ったという「お札降り」の騒動が浜松・見付にも広がり、人々が浮かれ騒ぐ様子が記録されている。

文久3年(1863年)には、将軍徳川家茂が家光以来229年ぶりとなる上洛を果たした。将軍上洛にあたり、村々には様々な触れが出され、沿道の家には提灯や行灯を灯すよう指示されるなど、対応に追われた。この上洛の少し後、京都では薩英戦争が起こり、下関では砲撃事件が起きるなど、幕末の動乱が加速していく時代でもあった。慶応4年(1868年)には、討幕軍(新政府軍)の大総督が東下し、見付宿にも通行の触れが出された(見付宿の神官たちが結成した民兵隊については遠州報国隊を参照)。

今川氏の判物から、伝馬朱印状、庚申講の夜語り、らくだの見世物、そして討幕軍の東下まで。見付宿は、古代の国府以来、常に多くの人と物が行き交う町であり続けた。

参考資料

庚申掛銭帳などの記録は判読が難しい箇所も多く、企画展資料で紹介されている範囲にとどめて整理しています。

宿場町として400年以上、多くの人と物を迎え続けてきた見付。その町並みや旧家には、今も地域の記憶が積み重なっています。相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

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