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EDUCATION | 見付の教育史 ── 近代学校が来る前の学び

旧見付学校以前の寺子屋教育
── 宣光寺・省光寺と見付の手習い

明治8年(1875年)、白い擬洋風校舎「旧見付学校」が落成する前、見付の子どもたちはどこでどのように学んでいたのか。答えの一つは、宣光寺・省光寺という町の寺院である。明治6年(1873年)の見付学校開校時、恒久的な校舎がまだなかったため、これらの寺院が仮校舎として使われた。この事実の背景には、江戸期を通じて見付にあった寺子屋・私塾の蓄積がある。ここでは、旧見付学校という近代建築の陰に隠れがちな「その前」の学びを、史実と伝承を分けてたどる。
本ページは、Wikipedia「旧見付学校」、磐田市公式ウェブサイトの文化財情報、竜洋地区の教育史をまとめた磐田物語既存記事「竜洋の学び舎の歩み」(提供資料「四、近代教育の変遷」に基づく)などを参照し、見付の寺子屋教育について再構成したものである。見付における寺子屋の師匠名・具体的な生徒数など、竜洋側の資料ほど詳細な一次史料は確認できておらず、全国的な寺子屋教育の一般像で補いながら記述している箇所がある点をあらかじめ断っておく。

宣光寺・省光寺という仮校舎

明治5年(1872年)の学制公布を受け、見付でも翌明治6年(1873年)5月頃から開校の準備が進められた。教師の任命や就学札の発行などが行われ、同年8月、見付学校が開校する。このとき校舎として使われたのが、宣光寺・省光寺という町内の寺院であった。恒久的な校舎(のちの旧見付学校)が着工するのは明治7年(1874年)10月のことであり、それまでの約1年間、見付の子どもたちは寺院の一室で学んでいたことになる。

当時の見付学校は「第二大区第十二番中学区第一小学」という、学制下の行政区分に基づく名称で呼ばれていたと伝えられる。しかし、その実態は、江戸期からの寺院を仮校舎に転用したものであり、外形としては近世の寺子屋・私塾と大きく変わらなかった。この「制度は近代、建物は近世のまま」という過渡期の姿こそが、見付の教育史における明治初期を特徴づけている。

表1 見付学校開校前後の主な出来事
出来事
元治元年(1864年)大久保忠尚が磐田文庫を設立(別稿「磐田文庫と幕末・明治の地域知性」参照)
明治5年(1872年)学制公布
明治6年(1873年)5月見付学校の開校準備(教師任命・就学札発行)
明治6年(1873年)8月宣光寺・省光寺を仮校舎として見付学校開校
明治7年(1874年)10月恒久校舎(のちの旧見付学校)着工
明治8年(1875年)8月旧見付学校落成

寺子屋とは何だったか

見付における個々の寺子屋の師匠名や生徒数を伝える資料は、竜洋地区の教育史ほど詳細には確認できていない。ただし、江戸期の寺子屋教育がどのようなものであったかは、全国的な傾向と、隣接する竜洋地区の資料からある程度復元することができる。竜洋の教育史をまとめた「竜洋の学び舎の歩み」によれば、寺子屋の多くは寺院で僧侶が指導にあたり、学ぶ内容は読み書きが中心で、いろは、片仮名、人名や国名、童子訓、往来物(手紙形式の教材)などを手本に、半紙が真っ黒になるまで手習いを重ねたという。通学する子どもの数は、多くてもせいぜい20人から30人ほどにとどまったと伝えられる。

授業料にあたる「束脩(そくしゅう)」も決まった額はなく、盆や年末に一朱ないし一分ほどの金を届けたり、農作物を贈ったり、師匠の農作業を手伝ったりする程度であったとされる。見付は東海道の宿場町であり、農村部の竜洋とは経済構造が異なるため、寺子屋の運営形態にも違いがあった可能性はあるが、これを裏づける見付固有の史料は確認できておらず、ここでは全国的・遠州地方的な寺子屋像として紹介するにとどめる。

私塾と、大久保忠尚という存在

寺子屋が読み書きなど基礎教育を担ったのに対し、より高度な学問を教える私塾も見付には存在したと伝えられる。その代表格が、淡海國玉神社の神官・大久保忠尚による私塾である。忠尚は国学を修め、元治元年(1864年)には磐田文庫を設立するなど、見付における学問の中心的な存在であった。忠尚の門下からは、のちに旧見付学校の建設を主導することになる古沢脩が出たと伝えられており、寺子屋・私塾の学びが、明治の近代学校建設の担い手を育てていたことがうかがえる。

寺子屋が庶民の子弟に読み書きを教える場であったのに対し、私塾はより専門的な学問(国学・漢学など)を志す者が学ぶ場であった。見付という宿場町には、この両方の学びの場が並存し、それぞれ異なる階層・目的の学習者を受け入れていたと考えられる。

遠州の学問的土壌との関係

見付の寺子屋・私塾を、より広い視野で捉えるなら、遠州地方全体に広がっていた国学の潮流の一部として位置づけることができる。浜松の神官・杉浦国頭とその妻・真崎による『日本書紀』研究、その門人であった加茂真淵の活躍、天竜川流域の内山真龍、小笠郡の栗田土満へと続く学統は、見付の大久保忠尚とも同時代・同地域の広がりの中にあった。

勤勉や推譲を説く報徳運動も各地に及び、こうした学びの土壌全体が、後の近代教育を受け入れる素地になったと考えられる。この遠州全体の学問的な広がりについては、竜洋地区の記事「遠州の学問の土壌」に詳しい。見付の寺子屋教育は、この大きな土壌の一角を占めるものとして理解するのが適切である。

寺子屋から近代学校へ ── 断絶ではなく連続

明治6年の見付学校開校にあたり、宣光寺・省光寺という既存の寺院がそのまま仮校舎に転用されたという事実は象徴的である。制度としては「寺子屋から近代学校へ」という大きな転換があったにもかかわらず、実際の学びの場は、しばらくのあいだ江戸期からの寺院がそのまま使われ続けた。この連続性は、教育制度の変化が一夜にして完了するものではなく、既存の地域資源(寺院、私塾の人脈、書物)を組み替えながら進んでいった過程であったことを示している。

史実として確認できるのは「宣光寺・省光寺が仮校舎として使われた」「大久保忠尚の私塾・磐田文庫が存在した」という骨格である。個々の寺子屋の師匠名・生徒数といった細部は、見付固有の史料としては確認が及んでおらず、本ページでは断定を避けている。

用語解説

寺子屋(てらこや)
江戸期に庶民の子弟へ読み書きを教えた民間の教育施設。寺院で僧侶が指導する例が多かった。
私塾(しじゅく)
国学・漢学などより専門的な学問を教えた民間の教育施設。寺子屋より高度な内容を扱った。
往来物(おうらいもの)
手紙のやり取りの形式で書かれた、寺子屋教育の代表的な教材。実用的な文章表現を学ぶために用いられた。
束脩(そくしゅう)
寺子屋・私塾へ入門する際に師匠へ納める入門料。決まった額はなく、金品や労働で代える例もあった。
就学札(しゅうがくふだ)
学制期、児童の就学を示すために発行された札。明治6年の見付学校開校準備の中でも発行されたと伝えられる。

むすび ── 白い校舎の前にあった教室

旧見付学校の白い擬洋風校舎は、見付の教育史の象徴として語られることが多い。しかし、その校舎が建つ前、すでに見付には寺院の一室で読み書きを学ぶ子どもたちがおり、神社の境内で国学を修める門人たちがいた。明治6年の見付学校は、まったく新しい何かをゼロから生み出したのではなく、宣光寺・省光寺という既存の場を仮校舎として転用することで、その連続性を体現していた。

白い校舎の前にあった、名もなき教室の記憶。それは史料として詳細には残っていなくとも、見付という町が学びを大切にしてきたことの、もう一つの証である。

参考資料

  • Wikipedia「旧見付学校」
  • 磐田市公式ウェブサイト「旧見付学校附磐田文庫」指定文化財情報
  • 磐田物語「竜洋の学び舎の歩み」(提供資料「四、近代教育の変遷」に基づく)
  • 磐田物語「遠州の学問の土壌

本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が独自に再構成したものである。見付固有の寺子屋については、師匠名・生徒数等の詳細な一次史料が確認できておらず、全国的・遠州地方的な寺子屋像で補って記述している箇所がある。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。