資料画像を目視して作成した整理ページです。小字や寺社名は判読の余地があるため、今後の原本確認・地域資料確認で更新します。
磐田原台地上の大藤地区
大藤という地名は、現在の磐田市の地図には行政地名としては残っていないが、大藤小学校や大藤地区自治会連合会といった形で、いまも地域の呼び名として生き続けている。かつて一つの村であった大藤村の記憶をたどることは、磐田原台地という水に乏しい土地の上で、人々がどのように集落を営んできたかを考えることでもある。
大藤地区は、資料では旧磐田郡大藤村、旧豊田郡大藤村として扱われる。明治22年(1889年)4月1日の町村制施行により、豊田郡大久保村・平松村掛下谷宿場・藤上原村の3か村(4大字とする資料もある)が合併して大藤村となり、向笠村と組合村をつくって運営されたと伝えられる。村名は大久保と藤上原の頭文字をとったものと資料は説明している。明治29年(1896年)4月1日には郡制の施行にともない豊田郡から磐田郡へ所属が変わり、その後昭和30年(1955年)1月1日に磐田市へ編入されて大藤村としての歩みを終えたとされる。
水に乏しい台地の暮らし。 大藤を特徴づけるのは、磐田原台地上の水の得にくさである。磐田原台地は天竜川東岸に広がる洪積台地で、標高はおよそ10メートルから120メートル、東西約4キロメートル・南北約13キロメートルにわたって広がるとされる。同じ磐田市内でも、天竜川沿いの低地や太田川・敷地川の水系に恵まれた向笠・岩田とは対照的に、大藤の集落は台地の上に位置していた。地下水位が深く、水利に恵まれなかったことから開発・開墾が遅れた土地であったと伝わる。資料には、全村が畑地と山林で田園はなく、一般に井水に乏しく、雨水を貯えて飲料に供していたという趣旨の記述がある。農業は茶、甘藷、養蚕、麦、葉煙草などと結びついていた。この水不足を補うため、昭和33年(1958年)ごろから簡易水道の整備が進められ、さらに昭和56年(1981年)以降は土地改良事業によって天竜川から茶園やみかん園への灌漑用水を汲み上げる仕組みが整えられていったとされる。天竜川用水を活用したかんがい事業は、畑地・茶園の面積拡大にもつながったと伝えられている。
大久保・藤上原・藤野・原。 大久保は、大藤村の中心として公民館や役場の記憶と結びつく。現在の大久保は大藤地区南部に位置し、東は笠梅・向笠新屋・向笠竹之内、西は匂坂上・匂坂中・高見丘・寺谷・東原、南は見付、北は藤上原と接しているとされる。藤上原は台地上の耕地を表す地名として読み取れる。藤野や原は、周辺村との関係や開発の経緯を考えるうえで欠かせない。平松村掛下谷宿場のような長い地名は、他村からの入作や境界、宿場としての性格の記憶を伝えている。江戸時代から明治9年(1876年)までは、現在の大久保にあたる地域は豊田郡大久保村・東原村として存在していたと伝えられ、明治22年の合併によってこれらの旧村が大藤村という一つの行政単位にまとめられていったことになる。
台地開拓の記憶
大藤地区の歴史は、台地を畑地として使い、限られた水を工夫し、集落を維持してきた歴史である。向陽地区のなかで大藤を位置づけると、岩田の川沿い、向笠の水系と丘陵に対して、台地上の暮らしが鮮明になる。明治期の合併から昭和30年の磐田市編入まで、大藤村は70年近くにわたって一つの村としてまとまりを保っていたことになる。その間、水に乏しい台地という条件は変わらず、簡易水道や土地改良という形で少しずつ克服されていった歴史でもある。茶・甘藷・養蚕・麦・葉煙草といった畑作物は、いずれも水田のように大量の水を必要としない作物であり、大藤の人々が台地の条件に合わせて農業のかたちを選び取ってきたことがうかがえる。
学校の記憶にみる大藤村。 大藤地区の教育の歩みは、大藤小学校の沿革にたどることができる。同校は明治25年(1892年)、向笠小学校の分校から独立して大藤尋常小学校として発足し、当初は借家を校舎として97人の児童で開校したと伝えられる。開校後、地域の人々は生活費を切り詰めて寄付を募り、新校舎建設のための資金を集めたとされ、その努力が実って明治32年(1899年)に現在地に新校舎が建てられたという。その後、学制改革を経て大藤村立小学校となり、昭和30年(1955年)の磐田市・大藤村合併にともなって磐田市立大藤小学校となったと伝わる。開校から新校舎完成までの7年間、地域住民が自らの手で校舎を作り上げた経緯は、水に乏しい台地の上で暮らしを立ててきた大藤の人々の気風をよく表しているといえるだろう。
大藤小学校が独立前に分校として属していた向笠小学校もまた、明治6年(1873年)11月に新豊院を仮校舎として磐田学校の名で開校した歴史を持つとされる。大藤・向笠の両村が同じ組合村として運営されていた時期、教育の面でも大藤が向笠から分かれて独立していった経緯は、両村の結びつきの深さと、それぞれの村が独自の歩みを模索していった過程を映しているといえる。なお、大藤・向笠・岩田の3小学校は令和8年(2026年)3月31日をもって閉校し、同年4月1日から向陽学府一体校(向陽小学校)として新たな一歩を踏み出したとされ、明治期に分かれた3つの学校の歴史は、令和の時代にふたたび一つに合流したことになる。
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