資料画像を目視して作成した整理ページです。小字や寺社名は判読の余地があるため、今後の原本確認・地域資料確認で更新します。
天竜川に接する岩田地区
岩田という地名は、現在の磐田市の行政地名としては残っていないが、岩田小学校(2026年3月まで)や岩田地区自治会連合会といった形で、いまも地域の呼び名として使われ続けている。かつて一つの村であった岩田村の記憶をたどることは、天竜川に接する低地と、匂坂・寺谷という台地のへりに広がる土地の両方を視野に入れて、この地域の成り立ちを考えることでもある。
岩田地区は、資料では旧磐田郡岩田村、旧豊田郡岩田村として説明される。明治22年(1889年)4月1日の町村制施行により、匂坂新村・寺谷村・寺谷村外野・寺坂沖新田・治郎作新田・匂坂上村・匂坂中村・傳右衛門新田・寺谷新田などが合併し、豊田郡岩田村が成立したと伝えられる。明治29年(1896年)4月1日には郡制施行にともない豊田郡から磐田郡へ所属が変わり、昭和31年(1956年)1月1日に磐田市へ編入されて岩田村としての歩みを終えたとされる。役場は匂坂中に置かれ、村名は匂坂中にあった武内社、岩田神社、岩田山増参寺などに由来すると資料は述べている。
匂坂・寺谷・新田のまとまり。 岩田地区を読むとき、匂坂上、匂坂中、匂坂下、匂坂新、寺谷、寺谷新田という地名を分けて見る必要がある。匂坂は難読地名であり、現在の表記だけでは地域の範囲や歴史をつかみにくい。寺谷は、増参寺、水神社、寺谷用水に関わる記述から、台地のへりと川の近さが暮らしを形づくった場所として読める。寺谷用水は、地名の由来ともなった寺谷の地に水源を持つ用水路であり、天正16年(1588年)、浜松城主であった徳川家康の命により、家臣の伊奈忠次と代官の平野重定が中心となって、「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川から水を引く工事に着手したと伝えられる。工事は天正18年(1590年)に完成し、およそ12キロメートルの水路が拓かれたという。この用水は、天竜川の治水と利水を一体的に行う先駆的な取り組みとして評価されており、令和の現在も天竜川左岸の水田を潤し続けているとされ、「世界かんがい施設遺産」にも認定されているという。寺谷という一つの地名の下に、戦国末期から続く水利の歴史が積み重なっていることになる。
匂坂氏と匂坂城の記憶。 匂坂という地名は、中世から近世にかけてこの地を治めた匂坂氏の名でもある。匂坂氏の出自ははっきりしないが藤原氏の末裔と伝えられ、代々匂坂郷を領していたという。匂坂城は、築城年代ははっきりしないものの天文元年(1532年)に匂坂筑前守六郎五郎長能によって築かれたと伝わる。戦国期には今川氏に属していたが、永禄11年(1568年)、徳川家康による掛川城攻略にあたって匂坂吉政が家康方に転じ、安堵状を受けたとされる。匂坂兄弟は姉川の合戦で朝倉方の猛将・真柄十郎左衛門直隆を討ち取る武功を挙げたとも伝えられ、遠江の地侍として戦国の争乱を生き抜いた一族であったことがうかがえる。元亀元年(1570年)には、遠江へ進出した武田信玄によって匂坂城が落とされ、家臣の穴山梅雪が守将として置かれたとも伝わる。江戸時代に入ると、匂坂氏は旗本高木氏の遠江における知行地の代官を務め、匂坂代官屋敷としてその屋敷跡がいまも伝えられているという。
寺社と地域の中心
岩田神社、増参寺、水神社、匂坂家墓所などは、単に名所として見るだけでは足りない。村名の由来、鎮守、用水、水害、家筋の記憶が重なっているからである。増参寺は、応仁2年(1468年)に蔵参庵として建立されたのがはじまりと伝えられ、その後、匂坂城の築城にあわせて、同地にあった磐田寺と合わせるかたちで、永禄7年(1564年)に岩田山増参寺となったとされる。戦国大名の城づくりと寺院の再編が同じ時期に重なっている点は、匂坂の地が軍事的にも宗教的にも要となる場所であったことを示しているのかもしれない。公民館、学校、役場の位置は、近代以降の地域の中心を示す。明治期の合併で役場が匂坂中に置かれたことは、村のまとまりを考えるうえで大きな意味を持つ。
川沿いの村だけではない岩田。 岩田は天竜川に接する地域として説明されるが、それだけでは全体を捉えきれない。台地のへり、古墳や遺跡、寺社、新田、難読地名が重なり、川と丘陵の両方を見ながら成立した地域である。中世の匂坂氏の興亡から、近世の代官支配、明治の町村制による岩田村の成立、そして昭和31年の磐田市編入まで、およそ400年にわたる歴史の層が、匂坂・寺谷というひとつの地域に折り重なっていると見ることができる。教育の面でも、岩田小学校は明治6年(1873年)ごろの創立と伝えられ、大正6年(1917年)に建てられた赤煉瓦の門「志学之門」を象徴として、153年にわたり地域の子どもたちを見守ってきたとされる。しかし令和8年(2026年)3月31日、岩田・大藤・向笠の3小学校は同時に閉校し、翌4月1日から向陽学府一体校(向陽小学校)として新たな一歩を踏み出したと伝えられる。匂坂城の時代から数えれば500年近くにわたるこの土地の記憶は、地名や旧村名としてではなく、新しい学校の中に受け継がれていくことになる。
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