SCHOOL HISTORY | 磐田の高等学校
磐田南高等学校の歴史
旧制見付中学校として始まった磐南
磐田南高等学校の起点は、大正十一年(一九二二年)四月一日に開校した静岡県立見付中学校である。最初の入学者は百名、初代校長は尾崎楠馬であった。県東部・中部にくらべ中等教育の機会が乏しかった遠州の地に、ようやく男子の旧制中学が置かれたことになる。磐田の人々が長く待ち望んだ学校であった。
開校当初は校舎がまだ整っておらず、見付町の五階堂、すなわち旧見付学校の建物を仮校舎として用いた。旧見付学校は明治八年に開校した遠州を代表する洋風校舎であり、この地の学びの伝統を象徴する建物である。新しい旧制中学が、その由緒ある校舎を間借りして出発した事実は、磐南が見付という土地の教育の記憶を受け継いで生まれたことを物語っている。同年七月には現在地に本校舎が落成し、仮校舎から移転した。
旧制中学は、上級学校への進学を志す少年たちが集う場であった。見付という宿場町・国府の地にこうした学校が置かれたことは、東海道の交通と国分寺以来の歴史を背負うこの土地に、近代の知の拠点が加わったことを意味する。磐南の「進学校」としての性格は、戦後に突然生まれたものではなく、旧制中学の時代から続く長い射程をもっている。
おだわらやまと手作りのプール
磐南の初期を語るうえで欠かせないのが、生徒自身の手による施設づくりである。開校まもない見付中学校では、労作教育の一環として、生徒と職員がみずからグラウンドやプールの造成にあたった。遠州のからっ風が吹きつける台地のうえに、人の手で運動の場をひらいていったのである。
そのグラウンドの周囲に、風を防ぐために築かれた土の堤がある。生徒たちが土を盛り、草を植えてつくったこの防風堤は、いつしか「おだわらやま」と呼ばれるようになった。大正十三年から十五年にかけて築造作業の記録が残り、この土塁はいまも校地に残されている。からっ風と向き合いながら学びの場を整えていった労作教育の記憶が、地形そのものとして受け継がれているのである。
プールもまた、生徒と職員の勤労作業で築かれた。大正十五年(一九二六年)八月には、縦五十メートル・横十三メートルのプールが完成している。当時としては本格的な規模であり、これが後年の磐南を「水泳王国」と呼ばせる土台となった。手作りのプールは、与えられた設備ではなく、自分たちの手で学校をつくるという気風の象徴であった。
水泳王国を支えた校庭と鍛錬
生徒が築いたプールは、やがて全国に名を知られる選手たちを育てた。旧制見付中学校の出身者からは、昭和十一年(一九三六年)のベルリンオリンピックの競泳で、複数のメダリストが生まれている。地方の旧制中学が、世界の舞台で泳ぐ選手を相次いで送り出したのである。
その記録を讃えるレリーフは、現在もプールサイドに掲げられ、後輩たちの目に触れている。遠州の片隅の中学校から世界へ、という物語は、磐南の生徒にとって長く誇りとして語り継がれてきた。手作りのプールと、それを支えた日々の鍛錬の延長線上に、この快挙があったことは記憶にとどめておきたい。
水泳の伝統は戦後も受け継がれた。昭和六十四年(一九八九年)には縦五十メートル・横二十二メートル・深さ二メートルの新プールが竣工し、設備は新しくなった。それでも、生徒が土を運んでプールを築いたという原点は、いまも磐南の自負の根にある。
戦後の学制改革と磐田南高等学校
太平洋戦争をはさみ、日本の学校制度は大きく変わる。昭和二十三年(一九四八年)の新学制施行により、静岡県立見付中学校は静岡県立磐田第一高等学校となった。旧制中学から新制高等学校への転換である。翌昭和二十四年(一九四九年)には、現在の名である静岡県立磐田南高等学校に改称され、校章もこの年に定められた。
同じ昭和二十四年、磐南は男女共学制を実施する。それまで男子のみが学んだ旧制中学に、女子六十四名が入学した。長く男子校であった学校に女子生徒が加わったことは、戦後民主主義のもとで教育の門戸が広く開かれていく変化を、磐田の地で具体的に示す出来事であった。
校章には、キク科のエンシュウハグマの葉が用いられている。エンシュウハグマは遠州の名を冠する植物であり、地域に根ざした学校であることを意匠そのものが語っている。生徒会誌「白熊」や生活館「はぐま会館」など、「はぐま」の名は校内のさまざまな場面に息づいており、改称後の新しい校名と校章のもとで、磐南は地域の進学校としての歩みをあらためて始めた。
遠江国分寺跡の上に立つ学校
磐南の校地を特別なものにしているのは、それが遠江国分寺跡という古代の聖地の一角に立っているという事実である。遠江国分寺は、奈良時代に聖武天皇の詔によって全国に建てられた国分寺のひとつであり、見付の台地上に置かれた遠江国の中心的な寺院であった。
遠江国分寺跡は、昭和二十六年(一九五一年)の発掘調査で七重塔跡をはじめとする主要な伽藍が確認され、翌昭和二十七年には国の特別史跡に指定された。金堂を中心に北に講堂、南に中門が配され、東西百八十メートル・南北二百五十メートルにおよぶ広大な寺域をもっていたとされる。その遺構の広がりは、隣接する磐田南高校の校地にまで及んでいる。
このことは、単なる立地の偶然ではない。平成六年度(一九九四年度)には、県立磐田南高等学校の校地を対象とした埋蔵文化財調査が静岡県埋蔵文化財調査研究所によって実施され、伽藍地の西端が確認されるなど、寺域の範囲を特定するうえで重要な成果が得られている。生徒が日々通うグラウンドの足もとに、千二百年以上前の国分寺の痕跡が眠っているのである。
古代に遠江国の知と信仰の中心であった土地に、近代以降は地域の学びの中心が置かれた。国府・国分寺の時代から続く「見付=遠江のはじまりの地」という性格が、磐南という学校のかたちで現代にまで連続している。磐田南高校を語ることは、遠江国分寺跡を語ることと切り離せない。
SSHとはぐま祭に続く、知の拠点
現代の磐南は、旧制中学以来の学びの伝統を、新しい教育のかたちへと接続している。平成十五年(二〇〇三年)には文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定され、その後も継続して指定を受けてきた。理数科は昭和四十五年(一九七〇年)に設置されており、理数教育に力を注いできた歴史のうえに、SSHによる探究的な学びが重ねられている。
授業面では、一こまを五十五分とする時間割を採用し、限られた一日のなかでじっくり学ぶ態勢をとってきた。数字に表れる進学実績だけでなく、こうした日々の学びの積み重ねが、磐南という学校の中身を形づくっている。
一方で、生徒の自治と文化の伝統も受け継がれている。毎年初夏に開かれる文化祭「はぐま祭」は、校章のエンシュウハグマにちなんで名づけられたもので、昭和三十七年(一九六二年)に従来の文化祭から改称されて以来、磐南を象徴する行事として続いている。労作教育で校地を築いた生徒たちの自主の気風は、形を変えながら、いまの生徒たちの祭りのなかにも流れている。
旧見付学校を仮校舎に出発し、おだわらやまと手作りのプールを残し、国分寺跡の上に立ち、はぐまの名とともに探究を続ける。磐田南高等学校の歴史は、ひとつの進学校の歩みであると同時に、見付という土地が古代から保ち続けてきた「知の拠点」の系譜そのものである。失われやすい学校の記憶を、地域の歴史として書き留めておきたい。
- 現校名
- 静岡県立磐田南高等学校(通称・磐南/ばんなん)
- 起点
- 静岡県立見付中学校(一九二二年・大正十一年開校)
- 所在
- 静岡県磐田市見付。遠江国分寺跡(特別史跡)に隣接・一部重複
- 戦後の改称
- 磐田第一高校(一九四八年)→磐田南高校(一九四九年)。同年男女共学化
- 校章・象徴
- エンシュウハグマの葉。「はぐま」の名が校内各所に残る
- 現代の特徴
- 理数科(一九七〇年設置)、SSH指定(二〇〇三年〜)、五十五分授業、はぐま祭
史実・伝承・推定の整理
| 区分 | 内容 | 扱い方 |
|---|---|---|
| 史実 | 一九二二年に見付中学校として開校。旧見付学校を仮校舎とした。一九四八年磐田第一高校、一九四九年磐田南高校に改称し男女共学化。一九九四年度に校地で埋蔵文化財調査。二〇〇三年SSH指定。 | 同窓会・学校・静岡県・磐田市の公開資料で確認できる層。 |
| 地域の記憶 | 労作教育による手作りのプール、おだわらやま(防風堤)、ベルリン五輪の水泳メダリスト輩出。 | 資料に記述があり、地域の誇りとして語り継がれてきた事柄。種目・順位など細部は断定しない。 |
| 推定・解釈 | 古代の遠江国分寺の地に近代の学びの拠点が重なり、見付の「知の拠点」が連続しているという読み。 | 地域史としての解釈であり、確定的な因果関係としては述べない。 |
参考資料
本稿の作成にあたっては、磐田南高校同窓会・学校公式サイトの沿革記述を年号確認の軸とし、立地に関しては磐田市・静岡県の文化財資料を参照した。本文では、資料で確認できる事項と、地域に語り継がれてきた記憶を分けて記述している。