磐田南高校の歴史を一つの進学校史として見ると、創立初期の苦労は見えにくい。創立80周年記念誌は、開校時の年表、卒業生の回想、第一回卒業生への聞き取りを通じて、見付中学校が「校舎を与えられた学校」ではなく、教師と生徒が校地を整えながら形づくった学校であったことを伝えている。
- 見付中学校は大正11年(1922年)4月に創立し、当初は見付五階堂を仮校舎にした。
- 同年7月に現在地へ移り、講堂・運動場・防風堤・50mプールなどを段階的に整備した。
- 初期校風の核には、教師が率先して作業に加わる労作教育があった。
- 第一回卒業生の回想には、厳しい生活規律と、教師への強い信頼が同時に記録されている。
- 校歌は昭和2年に発表されたが、本文では歌詞を転載せず、学校の記憶としての位置づけだけを扱う。
見付五階堂から始まった旧制中学
創立80周年記念誌の年表は、静岡県立見付中学校の創立を大正11年(1922年)4月とし、開校当初の仮校舎として「見付五階堂」を用いたと記す。現在の磐田南高校の校地に最初からすべての施設が整っていたわけではない。まず既存の教育施設を借り、同年7月に校舎本館が完成して現在地へ移る、という段階を踏んだ。
この出発点は重要である。見付は旧見付学校をはじめ、近代教育の記憶が重なる土地だった。そこに旧制中学が置かれたことは、単なる学校新設ではなく、宿場町・国府の地に近代の中等教育が接続された出来事だった。現在の磐田南高校を読むとき、見付中学校という前身校は校名の前史ではなく、見付の教育史そのものの延長にある。
校地をつくる労作教育
年表は、大正12年の講堂完成、校章制定、二俣への夜行軍開始、第一回陸上秋季大運動会の開催を続けて掲げる。大正13年には柔道・剣道の寒稽古、大正14年には軍事教練の開始、校舎・運動場・防風堤の完成が記される。大正15年には50mプールが完成し、第一回卒業式が行われた。
ここで目を引くのは、学校の施設整備と生徒の鍛錬が同じ年表の中に並んでいることである。防風堤は遠州の風と向き合うための校地施設であり、のちに「おだわらやま」と呼ばれる。プールは単なる体育設備ではなく、後年の「水泳の見中」を支える基盤になった。校地を整えることと身体を鍛えることが、初期見付中学校では分かれていなかった。
第一回卒業生へのインタビューは、この労作教育の雰囲気をよく伝える。校庭や教具が十分でない時代、教師も生徒も一緒になって土を運び、作業に取り組んだという回想が残る。教師が手袋をしないなら生徒も寒さに耐える、というような厳しさも語られるが、それは単なる服従ではなく、教師が先に模範を示すことへの信頼と一体だった。
厳しい規律と親密な師弟関係
回想には、現在の感覚ではかなり厳しい生活規律も出てくる。道で物を食べること、映画に行くこと、祭りに出ることなどが強く戒められたとされる。冬に靴下や手袋を使うことを許さない校則の記憶も、別の卒業生の回想に見える。旧制中学の教育は、学力だけでなく生活態度を含めて生徒を鍛える場であった。
一方で、記念誌が伝える初期校風は、ただ恐い学校というものではない。尾崎楠馬初代校長や小田原勇教頭をはじめ、教師が自ら働き、朗読し、語り、生徒と近い距離で関わったことが繰り返し述べられる。第一回卒業生は、校長や教頭を長く尊敬し続けたと語っている。厳しさの記憶が、師弟の信頼の記憶と切り離せない点に、旧制見付中学校の特徴がある。
校章・校歌・学校の象徴
創立80周年記念誌の年表では、大正12年に校章が制定され、昭和2年(1927年)に校歌が発表されたと整理されている。校歌については、第一回卒業生の回想にも、卒業までに校歌を望み、発表の場で強い感激を覚えたという趣旨の記述がある。歌詞そのものをここに転載することはしないが、校歌は新設校が自分たちの学校としてまとまりを得るための象徴だった。
戦後に磐田南高校となってからは、エンシュウハグマの葉を図案化した「はぐま」の校章が定められた。これは別の時代の象徴である。しかし、校章や校歌を求め、校地を整え、行事を始めていくという動きは、見付中学校の初期から一貫している。学校の名前が変わっても、象徴を通じて共同体をつくる営みは続いた。
親記事との関係
このページは、磐田南高等学校の歴史のうち、創立初期に焦点を当てた深掘りである。親記事では旧制見付中学校から現代のSSHまでを通史として扱うため、ここでは五階堂仮校舎、労作教育、防風堤、50mプール、初期校風に絞った。
創立80周年記念誌は、年表だけではなく卒業生の記憶を併せて載せている。そのため、制度としての学校史と、生徒が体で覚えた学校生活を重ねて読める。磐田南高校の前身を地域史として残すには、この二つの層を分けずに扱う必要がある。
資料を読むときの注意
今回の底本は、創立80周年を記念して学校側がまとめた記念誌である。したがって、記述の中心には学校への敬意と卒業生の誇りがある。これは欠点ではなく、学校史資料の性格である。行政年表のように外から出来事を並べた資料ではなく、学校に関わった人たちが何を大切な記憶として残したかを読む資料だと考える必要がある。
たとえば労作教育の記憶は、現在の感覚では厳しさや不自由さとして読める部分もある。しかし記念誌の回想では、教師がともに作業し、生徒も学校づくりに参加した経験として語られている。ここでは、当時の教育を無批判に美化するのではなく、同時代の旧制中学が求めた鍛錬、見付の台地という環境、学校共同体を自分たちで作る意識を分けて読む。
また、校歌や作文、卒業生の文章は、個人の表現として尊重すべき資料である。本稿では歌詞や長い回想を転載せず、発表年、場面、記憶の意味に限定して扱った。磐田物語では、原資料を置き換えるのではなく、読者が資料の所在と見どころを理解できる入口をつくることを目的とする。この点を明確にしておくことで、記念誌を史料として読みやすくなる。
| 年 | 出来事 | 読みどころ |
|---|---|---|
| 1922 | 県立見付中学校創立。見付五階堂を仮校舎にし、7月に現在地へ移転。 | 見付の教育史に旧制中学が接続された。 |
| 1923 | 講堂完成、校章制定、夜行軍・運動会開始。 | 校舎・象徴・行事が整い始める。 |
| 1924-25 | 寒稽古、軍事教練、運動場・防風堤整備。 | 身体鍛錬と校地づくりが一体だった。 |
| 1926 | 50mプール完成、第一回卒業式。 | 水泳の伝統につながる基盤ができる。 |
| 1927 | 校歌発表。 | 新設校が共有する象徴が整う。 |
更新履歴:2026年7月12日 新規公開。