失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

INOTANI MEDIEVAL CEMETERY 03

見付という中世都市の成り立ち

遠江国府、東海道以前の道、寺社、墓域の関係から、見付を中世都市として読み直します。

一の谷中世墳墓群と見付の中世墓域、地形、道、葬送、保存運動から、見付の中世をたどる。
特集の扉。写真ではなく、CSSで描いた見出し用の図版です。

一の谷を考えるには、見付という町の性格を見ておく必要があります。見付は東海道、府八幡宮、遠江国分寺跡、見付城跡が近い範囲に集まる土地であり、中世にも人と道が集まる場所でした。

墓域は町の外側にありますが、町の成り立ちと無関係な場所ではありません。

見付を形づくった要素

見付には、遠江国分寺跡、府八幡宮、東海道、見付城跡など、時代の異なる場所が近い距離で残っています。古代の国府・国分寺、中世の道と寺社、近世の宿場が、同じ町の範囲で見えてくる点が特徴です。

一の谷は、その町の中心部そのものではありません。むしろ町の外れにあり、丘陵と谷の地形を利用した墓域として考える必要があります。

国府・守護所・宿という三つの顔

中世の見付を考えるとき、押さえておきたいのは、この町が一つの機能だけで成り立っていたわけではないという点です。古代の遠江国府が置かれた地であり、中世には守護所が置かれ、同時に東海道の重要な宿駅でもありました。政治の場と、交通の結節点と、人が集まって商いをする場が、同じ範囲に重なっていたことになります。

見付が遠江地方の政治や経済の中心地として発展した背景には、この重なりがあります。国府や守護所に関わる役人とその家族、そこに仕えた人々、街道の往来を支えた人々、そして町に住みついた人々が、それぞれの立場でこの町に暮らしていました。一の谷の墓域に複数の形式の墓が共存していることは、そうした人の層の厚さと無関係ではないと考えられます。

絵図が示す町の境界

見付という町がどこまで広がっていたのかを考えるうえで、しばしば手がかりとされるのが見付宿の絵図です。江戸時代の史料を参考にしたこの絵図には、中央を通る東海道を軸に栄えた見付の様子が描かれています。

この絵図には「四ツ塚」と書かれた場所があり、一の谷中世墳墓群遺跡はここにあたると考えられています。また、国府や守護所は、絵図に「端ノ城」と書かれた付近と推定されています。そして「四ツ塚」の東側に「化粧坂」という地名が見えます。化粧坂は鎌倉をはじめ中世に栄えた町に多い地名で、町や村の境界を示すものと言われています。

化粧坂の北東に営まれた一の谷の墓域は、この読み方に従えば、見付の町域の外側に位置していたことになります。ただし、絵図そのものは江戸時代のものであり、中世の町の範囲をそのまま写したものではありません。境界の位置を絵図から直接確定するのではなく、地名の残り方と地形、そして墓域の実際の位置を突き合わせながら考える必要があります。

町の外れという意味

墓域が町の外れに置かれることは、生活空間と葬送の場を分ける意識を示している可能性があります。一方で、町から遠く離れた山奥ではないため、見付の人々が日常的に知っていた場所だったとも考えられます。

中世の墓地の多くは、生活の場である町の内側ではなく、その境界の外側に営まれました。一の谷が例外的な立地だったわけではありません。むしろ、当時の町のつくられ方に沿った、ごく標準的な配置だったと見るほうが自然です。だからこそ、墓域の位置は、町の範囲がどこまでだったかを逆に教えてくれる資料になります。

この距離感が、一の谷を読むうえで重要です。近すぎず、遠すぎない場所にある墓域として見ると、見付の町の広がりが平面的な市街地だけではなかったことが分かります。

町の近さが遺物に表れる

見付が遠江の中心地であったことは、墓域の出土品にも表れています。一の谷では、瀬戸・渥美・常滑という当時の東海地方を代表する窯業地の甕や壺が蔵骨器として使われ、中国から輸入された青磁・白磁までもが出土しています。

これは、この町が遠方との流通の中に置かれていたことの反映と考えられます。国府や守護所に関わる人々が集まり、東海道の往来があった町だからこそ、こうした品が届き、墓に納められるまでになった。町の性格と墓域の性格は、切り離して考えられるものではありません。

一方で、副葬品には鎌や硯といった日常の道具も含まれています。特別な身分の人だけが葬られた場所ではなかった可能性を示すもので、この墓域が町のさまざまな層の人々に開かれていたことをうかがわせます。出土品の詳細は出土遺物から見る中世見付にまとめています。

墓域はどのように見つかったか

一の谷の墓域が確認されたのは、水堀土地区画整理事業の地区内でした。発掘調査は昭和五十九年(一九八四年)から昭和六十三年(一九八八年)まで、五年間にわたって行われています。近代の町の開発が、中世の町の境界を掘り当てたことになります。

昭和六十二年前後には、この墓域の保存を求める動きがありました。学会や研究者、地域に関わる人々が、ここを文化財として扱う必要を訴えたことは、調査史の中でも重要な出来事です。結果として、代表的な遺構を型取りして移築し、調査記録にもとづいて復元したものが一ノ谷公園として公開され、遺跡全体のようすは縮尺七十五分の一の模型として磐田市埋蔵文化財センターに展示されています。

中世都市・見付の境界は、こうして近代以降の判断を経て、いま見られる形になりました。町の広がりを今日たどれるのは、その時に記録し、残すという選択がなされたからです。保存をめぐる経緯は保存運動と「場」としての価値で扱います。

墓域から町を見る

町の歴史を語るとき、城跡や街道、寺社ばかりに目が向きます。しかし墓域もまた、その町に生きた人々の存在を示す資料です。文字史料に名を残すのは、国府や守護所に関わった一部の人々に限られます。町の繁栄を実際に支えた大多数の人々の痕跡は、むしろ土の中に残ります。

一の谷は、見付の町を政治や交通だけでなく、弔いの場を含めて考えるための入口になります。中世都市としての見付は、人が集まり、道が通り、死者を送る場所も近くに持っていた町でした。町の内側だけを見ていては、この町の広がりは半分しか見えてきません。

見付という町そのものの成り立ちについては、中世都市・見付と寺院で、墓域と出土遺物の詳しい整理については 一の谷中世墳墓群遺跡 で、あわせて読むことができます。

この地域の家・土地・空き家について

見付のように古くから町が続いてきた地域では、家や土地にも、古い道、町内、寺社、地形との関係が残っていることがあります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地をどうするか考えるときは、価格だけでなく、その場所の成り立ちも含めて整理することが大切です。磐田市内の家・土地・空き家については、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

参考資料・文献目録・資料紹介

本文は、発掘調査報告書や見付周辺の地域資料をもとに、磐田物語として要点を整理したものです。断定できない部分は、推定として扱っています。

  • 『一の谷中世墳墓群』(発掘調査報告書)
  • 『遠江見付の中世と一の谷遺跡』
  • 『一の谷中世墳墓群と見付の中世』
  • 磐田市教育委員会文化財課『一の谷中世墳墓群遺跡』現地案内パンフレット(平成21年3月発行、平成31年1月改訂)
  • 磐田市埋蔵文化財センター関連資料(遺跡全体の縮尺1/75模型を展示)

著者欄:磐田物語編集部。地域資料、現地の地形、公開資料を照合しながら、一般読者に読める形で整理しています。断定しきれない点は、可能性として慎重に記述しています。

見付のように古くから町が続いてきた地域では、家や土地の背景にも、古い道、町内、寺社、地形との関係が残っていることがあります。相続した家、空き家、使わなくなった土地を整理するときは、価格だけでなく、その場所の成り立ちも含めて考えることが大切です。

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