失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
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総論・教育史

大学生が開いた町の教室 ── 王子町研修所と時田徳義

土地をめぐる交渉から、学びを支える関係へ。

大学の土地をめぐる住民との交渉が、町の中学生を教える活動へつながった。磐田にあった静岡大学農学部の教授・時田徳義と学生たちが関わった「王子町研修所」である。1960年に始まった夜の教室は、勉強だけでなく遠足や作文、交流へ広がったという。寺田伊勢男の記録から、土地、学習の場所、地域の関係が結び直された過程を読む。

住民の耕作地と大学の校地をめぐる交渉から、地域の場所と大学生の指導を組み合わせた教室へ至る関係図
寺田論考が描く関係の変化。土地の境界や交渉条件を復元した図ではない。

畑として使われた土地と大学

この活動を伝える中心資料は、寺田伊勢男「磐南地域の教育の先駆者たち」『磐田人物往来』(磐田歴史の会、2001年)の112–115頁である。農学部の教員と磐田の住民の関係を述べた後、時田徳義が関わった土地交渉と研修所の成立を紹介する。人物への評価を伴う後年の記録であり、交渉の議事録や契約書そのものではない。[寺田、112–115頁]

論考で舞台として説明されるのは、後にかぶと塚公園や県の農業関係施設などが置かれた一帯である。戦時中には軍の施設があり、戦後の食糧難のなか、周辺の住民が土地を畑として利用したという。寺田は、最初に使い始めた人々と、その後、区長が非農家や小規模農家にも土地を使えるよう働きかけた経過を記す。校地になる前から、住民の食生活を支える場所だった点が重要である。[寺田、113頁]

やがて大学農学部の移転に伴い、耕作地を返す問題が生じた。ここでいう移転は、後年の静岡市への移転とは異なる段階である。論考は、土地所有者である国との正式な契約がないまま耕作していた事情と、長く手をかけてきた住民の思いを、ともに描く。大学側の校地確保と住民の生計を支える利用とが重なったため、単に空いている土地を引き渡すという話にはならなかった。

住民側からは、返還への反対、代わりの土地、補償に関する要求が出され、交渉は長引いたとされる。大学側の責任者として登場するのが時田である。寺田は交渉の激しさを伝えるが、それを住民が教育に反対した話として読んではならない。争点は、学校や大学の必要性を認めるかどうかだけでなく、すでに暮らしを支えていた利用をどう扱うかにあった。[寺田、113頁]

寺田は、時田が土地に残る設備の処分をめぐって住民側の便宜を図ったことなども記す。ただし、本稿では法的な権利関係や補償額を確定する材料には用いない。誰がどの権限で何を認めたかは、契約書や行政文書との照合が必要だからである。ここで読み取るのは、交渉の相手を単なる障害として扱わず、継続して話をする関係が生まれたという叙述である。

転機として語られるのが、子どもの学びを支える提案だった。時田は、地域の将来を担う若い人を育てることの大切さを説き、場所が用意できれば大学生を中心に夜間の補習を行う考えを示したという。寺田はこれが住民の理解につながったと説明するが、食糧事情の変化にも触れている。土地返還の理由を教育への共感一つだけに還元しないことが、原資料に即した読み方である。[寺田、113–114頁]

大学と町の接点は、公開講座のように初めから教育を目的に設けた事業だけではない。土地をめぐる難しい協議の過程から、別の協力関係が生まれる場合もあった。この事例は、大学の歴史を校舎や学部名の変遷に限らず、周囲に住む人々の土地利用とともに読む必要を示している。施設の変遷は磐田にあった静岡大学農学部も参照されたい。

1960年、町の教室が始まる

寺田によれば、王子町研修所は1960年4月18日に始まった。最初の会場は、寺があった場所の公会堂二階だったという。ここでの研修所は、宿泊施設や大学生の寮ではなく、地域の中学生が学ぶ教室を指す。施設の名称は参照紙面の「王子町研修所」に従い、現行の町名や番地へ推測で置き換えない。[寺田、114頁]

同論考は、翌4月19日付『中日新聞』夕刊四面に活動が紹介されたと記し、運営委員長が本性寺住職の藤谷一行だったことも伝える。公会堂の場所を確保する地域側、運営に関わる人、実際に教える学生がいて、初めて教室が開けた。時田の提案は出発点の一つだが、開設後の活動を教授一人の仕事としてまとめないことが大切である。

なお、新聞の日付や内容は寺田論考に掲載された記述を読んだものであり、新聞原紙を直接閲覧した結果ではない。出典を「中日新聞」とだけ書くと、確認経路が一段抜け落ちる。本稿では、寺田が新聞記事を紹介していることを明記し、同時代の報道と、後年にそれを選び直した人物記録の二つの層を分ける。

開設の説明に挙がる教科は、英語、数学、理科である。高校進学を希望する中学生を支えることが、土地交渉の際の提案にも含まれていた。授業を受ける学校とは別に、大学生が教える場を近隣に設けた点が特徴である。学校の正規課程を代替したとか、すべての子どもが通ったという記録ではない。放課後の学びの場の一つとして位置づける。[寺田、114頁]

開設を支えた役割――寺田論考からの整理
関わった人・場記録に現れる役割
時田徳義土地交渉、学習の場の提案
地域の運営委員・住民教室の場所と運営を支える
農学部の学生英語・数学・理科などの指導
中学生教室へ通い、学習や交流に参加

寺田が引く時田の談話では、学生が後輩に教える経験そのものも学びになるとされる。受験を経て大学へ進んだ経験を使い、基礎を教え直すことで自分も復習するという考え方である。地域への奉仕と、大学生自身の教育を同時に構想していたと読める。ただし、教育実習として単位認定された活動だったかどうかは、参照資料には示されていない。

教える人と学ぶ人の年齢が比較的近いという点も、この場の特徴として考えられる。大学の教授が専門研究をそのまま講義するのではなく、大学生が中学校の教科を扱った。そこには学習経験を次の世代へ渡す仕組みがある。一方、年齢が近いことだけで指導の質や参加者の安心が保証されるわけではない。実際の教え方や困りごとは、生徒・学生双方の記録によってさらに確かめる必要がある。

学校の外で学習機会を支えるという点では、就学・給食・児童支援の歴史とも関連する。ただし、研修所を公的な就学援助制度と同じ仕組みとして扱うことはできない。目的、担い手、会計、参加条件を分けて読むことで、制度による支援と、地域で組み立てられた活動の双方を捉えられる。

教科の補習から地域の交流へ

開設から一年後の様子として、寺田は1961年5月31日付『中日新聞』の記事を紹介する。農学部の学生が組をつくり、数学・英語・理科などを夜に教えていたという内容である。これは開所式だけで終わった計画ではなく、一定の期間、指導が続いたことを伝える。ただし新聞の紹介がある時点と、全期間の毎日の実施状況は区別する。[寺田、114–115頁]

寺田が引く報道では、学生はアルバイトとして報酬を得る活動ではないと説明し、茶を入れる、掃除をするなどの仕事にも関わったとされる。教室を続けるには、教科の問題を解説する人だけでなく、使う場所を整え、集まった人を迎える仕事も要る。生徒を教えるという目立つ役割と、日々の運営を分けずに読むと、学生と地域の距離がどう縮まったかが見えてくる。

ただし、学生が報酬を受け取らなかったという記述から、運営費が一切かからなかったとはいえない。照明、教材、会場の維持などの支出の有無と、その負担者は別の問題である。善意で行われた活動を「費用ゼロ」と表現すると、場所や時間を提供した人々の負担が見えなくなる。学校財政の歴史で扱う現金以外の支えと比較して考えられる点である。

活動は教科の補習だけに収まらなかった。寺田が紹介する内容には、遠足、クリスマスの集まり、作文を書くこと、文通などがある。身体の不自由な児童にも関わりながら出かけたことや、北海道十勝平野の学校との交流も記される。地域の教室が、問題を解く場に加えて、人と行動をともにしたり、別の土地の人へ言葉を届けたりする場になった。[寺田、115頁]

教科の学習を中心に、作文と文通、遠足と集まり、掃除などの運営が加わる活動の広がり
記録に登場する活動の種類。回数や参加人数の比較ではない。

作文と文通は、教室で得た知識を自分の言葉へ変える活動として読むことができる。遠足や集まりには、教科の得意不得意だけでは決まらない関わりが生まれた可能性がある。もっとも、これらは活動内容から考えられる意味であり、参加した子ども全員の感想を確認したものではない。楽しさや教育効果を一律に代弁せず、まず何が行われたと記録されているかを伝える。

寺田の紹介には、当初は長続きしないと見ていた住民が、学生の熱心な関与に心を動かされたという叙述もある。地域からの信頼が、開設の宣言だけでなく継続する行為によって築かれた、という人物記録の筋立てである。その評価は尊重しつつ、批判的だった人も含む住民全体の意見調査とは扱わない。誰の視点が記録に残ったかを意識して読む必要がある。

このように見ると、研修所の特色は無償の補習という一点に尽きない。学生が教え、地域が場所を用意し、中学生が学びながら交流する。それを支える掃除や準備もあった。大学の知識が一方向に町へ降りてきたという図よりも、異なる立場の人が同じ場を維持した活動として捉えるほうが、寺田の記す具体的な姿に近い。

移った場所と、記録の年代差

寺田は、開設から数年後、研修所が白山神社境内に建てられた隣保館へ引き継がれたと記す。最初の公会堂二階と、その後の隣保館は別の場所である。建物の移動と活動の継続を区別すると、研修所が一つの建築物の名称にとどまらず、地域の学習活動として続いたことが分かる。現地の番地や建物の残存状況は、この記述だけでは確定しない。[寺田、115頁]

一方、活動の終期には注意すべき年代差がある。寺田論考は、1971年の農学部の静岡移転まで続いたと記す。しかし、静岡大学大学文書資料室の沿革紹介では、農学部の磐田からの移転は1973年とされる。大学の移転年は大学側の沿革に従い、研修所がいつ最後の授業を行ったかは、別に確かめる必要がある。[寺田、115頁][静岡大学大学文書資料室]

活動の時期と資料の記載を分ける
時期確認した記載資料
1960年4月18日研修所の開始寺田、114頁
1961年5月31日活動を伝える新聞記事の紹介寺田、114–115頁。原紙未照合
開設の数年後白山神社境内の隣保館へ継承寺田、115頁
1971年との記載研修所の終期を大学移転と結びつける寺田、115頁
1973年農学部が磐田から移転静岡大学大学文書資料室の沿革

この差を、二つの年の平均や、根拠のない「段階的移転」で埋めることはできない。研修所が大学より先に終わった可能性、論考の年次に誤りがある可能性などは考えられるが、現段階ではどれも仮説である。大学の移転を確かめたからといって、研修所の終期も自動的に1973年へ修正できるわけではない。異なる出来事に、別々の確認を行う必要がある。

寺田は、研修所で作られた人間関係が時田の磐田在住期だけで終わらず、その後も続いたと伝える。授業の組織がなくなることと、人のつながりがなくなることは同義ではない。ただし、後年の交流が続いたことを理由に、研修所という事業そのものが継続していたとは書かない。組織、建物、個人同士の関係には、それぞれ違う時間の長さがある。

磐南の教育者たちで紹介した大学生の学習支援を、本稿では土地交渉からの経緯と、活動内容、資料の年代差まで掘り下げた。土地を使う住民、大学の教員、学生、中学生のいずれか一者だけを主役にすると、教室が成り立つための条件が欠ける。教育は建物の中だけで完結せず、地域の課題や場所の使い方とも結びついていた。

本稿の立場は、寺田の具体的な記録を尊重しつつ、その引用先や年次を一つずつ分けて確認することである。新聞原紙、運営委員会の記録、隣保館の資料、当時の学生や生徒の文章が加われば、開設と終期、日常の運営をさらに詳しく描ける。記録が残った活動の輪郭と、なお分からない点を区別して伝えることが、地域の学びを次へ手渡す出発点になる。

参考資料と確認範囲
  1. 寺田伊勢男「磐南地域の教育の先駆者たち」『磐田人物往来』磐田歴史の会、2001年、112–115頁。提供紙面を確認。1960年4月19日・1961年5月31日付『中日新聞』については同論考の紹介を参照し、原紙は未照合。
  2. 静岡大学大学文書資料室「ギャラリー」、大学の歩み。農学部の磐田からの移転年を確認(2026年10月18日閲覧)。研修所の活動期間を示す資料ではない。

更新履歴

  • 作成。資料の性格、活動の経過、役割の分担を整理。

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この記事について

著者
大石浩之(磐田市/富士ヶ丘サービス株式会社 代表)
磐田市で不動産・介護事業を営みながら、地域の歴史・地名・寺社・暮らしの記録を調べています。磐田物語では、公開資料と現地情報を確認しながら、地域の記憶をWeb上に残しています。
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。