磐田の医療史 ──
妙薬・種痘・避病院から市立病院へ
江戸の医 ── 妙薬と祈りのあいだ
江戸時代の村の医療は、いまの私たちが「医療」と聞いて思い浮かべるものとは、まるで違っていた。それは、漢方の町医者と、家に伝わる売薬(ばいやく)と、神仏への祈りとが、分かちがたく混じり合った世界だった。病を治す手立てとして、薬も、まじないも、祈祷も、同じくらいの重みで並んでいたのである。
磐田にその江戸の医の面影を伝えるのが、別稿で扱った「長森こうやく(ながもりこうやく)」である。東海道の長森(現在の豊田地区)で山田与左衛門(やまだよざえもん)家が製造したこの膏薬(こうやく、塗り薬)は、傷や腫れによく効くとして、街道のみやげの妙薬(みょうやく)として旅人に広く知られた。一方で、庚申待(こうしんまち)や虫封じのような民俗信仰、鎌田神明宮の幼児の虫封じのような祈りもまた、当時の人々にとっては、病と向き合うための立派な「技術」の一つだった。
医薬と信仰が地続きだったこの時代、村に腕のいい医者がいるかどうかは、ほとんど運のようなものだった。医者にかかれない多くの村人にとって、病は、家で看病して治すか、あるいは治らずに死を待つか、そのどちらかでしかなかった。乳児の死亡率は高く、はやり病はあっという間に村を襲った。命は今よりずっと軽く、そしてはかなかったのである。この「祈りと妙薬の時代」から、磐田の医療の歩みは始まる。
種痘 ── 村にやってきた近代医学
祈りと妙薬の世界に、近代医学が最初に楔(くさび)を打ち込んだ ── それが種痘(しゅとう)だった。天然痘(てんねんとう、疱瘡)は、かかれば命を落とすか、助かっても顔にあばたを残す、当時最も恐れられた病の一つである。その天然痘を予防するワクチン接種が、種痘である。牛の痘(とう)を人に接種することで免疫をつけるこの技術は、幕末の嘉永年間に日本へ本格的に導入され、明治に入ると、政府が制度として全国で接種を進めた。
種痘の何が画期的だったか。それは、病を「祈るもの」から「防ぐもの」へと変えた点にある。天然痘の流行を、神仏に祈って鎮めてもらうのではなく、あらかじめ接種によって防ぐ ── これは、病に対する人々の考え方そのものを転換する出来事だった。そして、その接種を担ったのが、村の行政だった。戸長役場・町村役場は種痘の実施名簿を管理し、決められた時期に、村の子どもたちが順番に腕を出した。感染症を、個人の運命や神の領域から、行政が計画的に管理する対象へと移したこと ── その意味で、種痘は、磐田の村々にとって「公衆衛生」という近代の考え方との、記念すべき最初の出会いだったのである。
コレラの時代 ── 避病院という記憶
近代の公衆衛生を最も強く必要とさせたのが、コレラだった。開国とともに海外から持ち込まれたこの急性感染症は、明治の日本を繰り返し襲った最大の脅威である。感染すると激しい下痢と脱水で、時に一日のうちに命を落とすことから、人々は「コロリ」と呼んで恐れた。明治12年(1879年)と明治19年(1886年)の大流行では、全国でそれぞれ10万人規模の死者が出たとされる。開港地から、皮肉にも文明開化の象徴である鉄道や、人の行き交う街道を伝って、コレラは全国へ広がっていった。
この見えない敵に対して、当時の医学が打てる手は限られていた。有効な治療法がないなか、感染の拡大を防ぐ唯一の方法が「隔離」である。政府は各町村に、コレラ患者を収容して隔離する「避病院(ひびょういん)」(伝染病隔離病舎)を、村はずれに設けることを求めた。しかし、これは村人に恐れられた。避病院はしばしば粗末な小屋で、そこへ送られることは半ば死を意味すると受けとめられたからである。患者が出ても、避病院に送られるのを恐れて病を隠す家も少なくなかったという。「衛生」という新しい国家の論理と、病者を家で看取りたいという村人の情との、痛ましい衝突がそこにはあった。
磐田市域の避病院がどこに置かれたかを網羅的に示す記録は、今回の調査では確認できていない。しかし、村はずれの小さな建物の記憶として、古老の話や、いまは意味の分からなくなった字(あざ)の名のなかに、その痕跡が残っている可能性は十分にある。まさに聞き取りの手法が生きる分野であり、失われる前に記録しておきたいテーマである。
種痘の制度化、明治のコレラ大流行と避病院の設置という全国的な経緯は、公衆衛生史の資料で確認できる。磐田市立総合病院の前身が国民健康保険組合立磐田病院であり、昭和27年(1952年)12月に開設されたことは病院の沿革情報で確認できる。一方、磐田市域の避病院の所在、明治〜昭和戦前期の開業医・産婆の分布は未調査であり、今後の課題である。
開業医と産婆の時代
コレラの恐怖が去り、公衆衛生が根づいていった明治から昭和戦前期にかけて、地域医療の主役となったのは、町の開業医(かいぎょうい)だった。医師は町場に診療所を構え、患者が来れば診察し、急を要すれば往診鞄(おうしんかばん)を提げて村々を回った。夜中でも呼ばれれば駆けつける町医者は、地域の人々にとって最も身近で頼りになる存在だった。
そして、命の誕生の現場を支えたのが、産婆(さんば、助産婦)である。まだ病院で出産することが一般的でなかった時代、赤ん坊はたいてい自宅で生まれ、その取り上げを担ったのが、免許を持つ産婆たちだった。一人前の産婆は、村の女性たちから深く信頼され、幾人もの命をこの世に迎え入れた。見付本通りの消えた店の並びに、医院や薬局の看板がまじっていたように、医療は、この時代には商店街の日常の風景の一部になっていた。
もっとも、忘れてならないのは、医者にかかれるかどうかが、なお家計しだいだったという現実である。診察も薬も、すべて自己負担。貧しい家では、医者を呼ぶのをためらううちに手遅れになることも珍しくなかった。すべての国民が公的な医療保険に入る「国民皆保険(こくみんかいほけん)」が実現するのは昭和36年(1961年)のことであり、それ以前の医療は、まだ「誰もが等しく受けられるもの」ではなかったのである。医療の歩みは、技術の進歩の歴史であると同時に、それを「誰が受けられるか」という、社会の公平さをめぐる歴史でもあった。
昭和27年 ── 組合立磐田病院の誕生
戦後、この「かかれる人とかかれない人」の格差を大きく変えたのが、公的病院の設立である。昭和27年(1952年)12月、国民健康保険の組合立として、磐田病院が開設された。それまでの磐田の医療は、個人の開業医が点在するだけで、大きな手術や入院を要する重い病に、地域として対応する体制がなかった。そこへ、入院・手術を担う総合的な病院が加わったのである。これは、地域医療にとって画期的な前進だった。
この組合立磐田病院は、のちに磐田市立総合病院となり、現在では磐周(ばんしゅう)地域の中核病院として、救急医療や高度な専門医療を担う、大きな存在に育っている。妙薬と祈りの江戸から、種痘、避病院、開業医と産婆の時代を経て、そして総合病院へ ── 振り返れば、この百数十年の医療の変化は、実に劇的である。乳児がばたばたと亡くなり、はやり病に村ごと震えた時代から、多くの命が救われる時代へ。磐田の平均寿命の伸びと人口の増加という数字の裏側には、この地道な医療の歩みがあった。それは、派手な事件にはならないが、人々の暮らしを根底から変えた、静かな、しかし確かな革命だったのである。
磐田の医療のあゆみ
| 時代 | 医療のかたち |
|---|---|
| 江戸時代 | 漢方医・売薬(長森こうやく)・祈り(虫封じ等)が併存 |
| 幕末〜明治 | 種痘の普及。行政による公衆衛生の始まり |
| 明治12年(1879)ほか | コレラ大流行。各町村に避病院(隔離病舎) |
| 明治〜昭和戦前 | 開業医と産婆が地域医療の主役に |
| 昭和27年(1952) | 国保組合立磐田病院開設。のち磐田市立総合病院へ |
暮らしの歴史としての医療
ここまで見てきたように、医療史は、けっして病院や制度の無味乾燥な年表ではない。それは、この土地に生きた人々が、痛みや不安、そして死とどう付き合ってきたかの、切実な暮らしの歴史である。傷に膏薬を貼り、子の無事を天神に願い、種痘の列におそるおそる並び、避病院を恐れ、夜道を往診の医者が来るのを待ち、そしてやがて病院へ通う ── その一つひとつが、磐田の人々の暮らしの記憶であり、その大部分は、まだ十分に書き残されていない。
この分野の史料は、意外に身近なところにある。旧家の薬箱に残る古い薬袋(くすりぶくろ)、引き出しの奥の母子手帳、村に伝わる医者や産婆の思い出話、寺の過去帳に記された死因の傾向 ── そうした断片を集めていけば、統計や制度史だけでは見えてこない、生身の人々の医療の歴史が浮かび上がってくる。命とどう向き合ってきたか。その記憶を残すことは、磐田物語がこれから力を入れたい、大切なテーマの一つである。いまは当たり前になった「病気になったら病院へ行く」という暮らしが、じつはほんの数十年前に、無数の人々の苦労の末にようやく手に入れたものであることを、忘れずにおきたい。
主な参考資料
- 磐田市立総合病院の沿革情報(前身・国保組合立磐田病院、昭和27年12月開設)
- 公衆衛生史概説(種痘・明治のコレラ流行・避病院)
- 磐田物語「長森こうやく」「大区小区制と戸長役場」「見付本通りから消えた店を読む」「古写真・住宅地図・聞き取りで磐田の記憶を復元する」
磐田市域の避病院の所在・開業医の分布は未調査であり、本文中で課題として明示している。
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