磐田郡役所と郡制 ──
「磐田郡」があった時代
古代の郡、明治によみがえる
郡(ぐん)は、もともと律令制の行政区画である。奈良時代、遠江国はいくつもの郡に分けられ、磐田郡・山名郡・豊田郡・長上郡といった郡が、この地方に置かれた。郡はそれぞれ郡司(ぐんじ)によって治められ、古代の地方支配の基礎単位となった。中世以降、律令制がゆるむと、郡は行政単位としての実体を失っていくが、それでも「どこそこ郡の何村」という地理的な呼び名としては、人々のあいだで生き続けた。千年以上にわたって、郡は消えることなく、地図の上にとどまり続けたのである。
この古い郡を、近代の行政単位として復活させたのが、明治11年(1878年)の郡区町村編制法だった。大区小区制という番号行政が住民に不評で行きづまったことを受け、政府は、人々になじんだ歴史ある郡の枠組みを、あらためて再利用することにしたのである。復活した郡には、官が任命する郡長(ぐんちょう)と、その役所である郡役所(ぐんやくしょ)が置かれた。郡役所は、県と町村のあいだに立つ「県の出先機関」として、管内の町村を指導・監督する役目を担った。県から見れば末端の出先、町村から見れば上級の役所 ── 郡役所は、そのあいだをつなぐ中間の要だった。
見付に置かれた、三郡連合の郡役所
静岡県で郡区町村編制法が施行された明治12年(1879年)、磐田郡が行政区画として発足し、その郡役所が見付に置かれた。しかも、この役所は磐田郡だけのものではなかった。正式には「磐田・豊田・山名郡役所」といい、一つの役所が磐田・豊田・山名の三つの郡をまとめて管轄する、連合の郡役所だったのである。中遠(ちゅうえん、遠州中部)一帯の広い地域を、この見付の役所が束ねていた。
なぜ見付が選ばれたのか。それは、見付が古くからこの地方の中心地だったからにほかならない。国府以来の由緒を持ち、東海道の宿場としてにぎわい、旧見付学校や磐田文庫といった文化・教育の施設を擁する見付は、旧宿場の都市機能をそのまま残す、中遠随一の町場だった。行政の中心を置くにふさわしい土地として、見付は自然に選ばれたのである。鉄道の駅が中泉に置かれ、町の重心がしだいに南の中泉・磐田駅前へ移っていくのは、これより後のことである。それ以前、見付が名実ともに「郡の府(ふ)」── 中遠地域の首府だった時代があったことは、磐田の近代を考えるうえで、ぜひ覚えておきたい。国府として遠江の中心だった古代から、郡役所の置かれた明治初期まで、見付は長く「役所のまち」であり続けた。その伝統は、鉄道と市街化の波のなかで中泉・磐田駅前へ移っていくが、見付の町を歩けば、いまも淡海国玉神社や旧見付学校といった、かつての中心地の記憶が随所に残っている。
明治12年の磐田郡発足と見付への磐田・豊田・山名郡役所の設置、明治29年の郡再編(山名郡・豊田郡の大部分・長上郡の一部との統合)は、郡の沿革資料で確認できる。一方、見付の郡役所の建物の正確な位置や、明治29年の再編後に役所が置かれた場所、その後の建物の変遷については、今回の調査では確認できていない。また郡役所が担った具体的な事業の内訳も、本稿では一般的な郡役所の職掌に基づいて記しており、磐田郡固有の記録の博捜には至っていない。これらは、市史・郡史や現地調査による今後の掘り起こしの課題である。
明治29年 ── 大きな磐田郡の誕生
三郡連合の時代は、長くは続かなかった。明治29年(1896年)4月1日、郡制(ぐんせい)の施行に伴って、遠江の郡は大きく再編されたのである。このとき磐田郡は、それまで別だった山名郡、豊田郡の大部分、さらに長上郡の一部(天竜川東岸の掛塚町など)を吸収し、一つの大きな「新・磐田郡」として生まれ変わった。三つの郡役所が束ねていた地域が、今度は一つの郡そのものに統合されたのである。
この再編の意味は大きい。中泉町(旧豊田郡)も、掛塚(旧長上郡)も、このときはじめて「磐田郡」の所属になった。それまで別々の郡に属していた天竜川東岸の町村が、一つの行政名の下にまとめられたのである。じつは、天竜川の東側をひとまとめにして「磐田」と呼ぶ現在の磐田市の大きな輪郭は、この明治29年の郡再編で、初めてかたちを与えられたものだった。いま私たちが当たり前に思っている「磐田」というまとまりは、それほど古いものではなく、この近代の行政再編の産物なのである。再編された郡には、郡会(ぐんかい)という議会も設けられ、一つの町村の手には余る、道路の整備や、郡立の学校・病院の運営といった、広域の事業を担うようになった。郡は、この時期、確かに生きた行政の単位であり、県と町村をつなぐ中間の統治機構として、近代の磐田を動かす歯車の一つだった。
郡の終焉 ── しかし名前は残った
しかし、郡が行政の主役だった時代も、やがて終わる。大正デモクラシーのなかで郡制は「二重行政」と批判され、大正12年(1923年)に郡制が廃止されて郡会がなくなり、大正15年(1926年)には郡役所も全国で廃止された。これ以後の郡は、行政の機能を一切持たない、単なる地理的な呼び名になった。県と町村が直接に結びつく、現在に近いかたちになったのである。
ところが、面白いのはここからである。行政単位としての郡は死んだのに、「磐田郡」という名前だけは、住所として、なお長く生き続けた。磐田市の合併史で扱ったとおり、磐田郡福田町・竜洋町・豊田町・豊岡村が磐田市と合併して、ついに「磐田郡」の名が住所から消えたのは、平成17年(2005年)のことである。行政としての郡が実体を失ってから、実に約80年ものあいだ、名前だけが生き延びた計算になる。制度は死んでも、地名はしぶとく生き残る ── 郡の歴史は、地名というものの、驚くべき粘り強さの見本でもある。古代に生まれ、中世に実体を失い、明治に行政としてよみがえり、大正に再び行政を離れ、平成にようやく住所から消えた。「郡」という言葉の千年以上の旅路は、それ自体が一つの壮大な物語である。
磐田郡のあゆみ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 古代 | 律令制下で磐田郡・山名郡・豊田郡・長上郡などが置かれる |
| 明治11年(1878) | 郡区町村編制法。郡が行政単位として復活 |
| 明治12年(1879) | 磐田郡発足。見付に磐田・豊田・山名郡役所を設置 |
| 明治29年(1896) | 郡制施行。山名郡・豊田郡の大部分・長上郡の一部を併せた新・磐田郡が誕生 |
| 大正12年(1923) | 郡制廃止(郡会の廃止) |
| 大正15年(1926) | 郡役所廃止。以後は地理的名称に |
| 平成17年(2005) | 市町村合併により「磐田郡」が住所から消える |
郡役所は何をしていたのか
行政単位として生きていた明治・大正の郡役所は、県と町村のあいだで、具体的にどんな仕事をしていたのか。まず、県から下りてくる法令や指示を、管内の町村へ伝え、その実施を指導・監督した。徴税や徴兵、就学の督励、道路や橋の整備、勧業(産業の奨励)、衛生といった、近代国家の末端の行政が、郡役所を通じて町村へと行き渡っていったのである。一つの小さな村では担いきれない広域の事業 ── たとえば複数の町村にまたがる道路の建設や、郡立の実業学校の設置なども、郡と郡会の役割だった。
郡役所はまた、地域の名望家(めいぼうか)や有力者が、地方政治にたずさわる舞台でもあった。郡会の議員となり、郡の予算や事業を議論することは、村の枠を越えて地域全体を考える経験を、地元の指導層にもたらした。大正期の村の政治を扱った別稿に描かれる地方政治家たちも、こうした郡という舞台の上で活動していた。郡は、単なる区割りではなく、地域の人々が「わがまち」より一回り大きな「わが地域」を意識し、その運営に参加する、実践の場でもあったのである。
郡を知ると、地図が読める
古い石碑や、色あせた卒業証書、蔵にしまわれた土地の権利書に「磐田郡」の三文字を見つけたら、それは、ここまで見てきた百年余の制度の、確かな痕跡である。その三文字は、明治12年から平成17年までのどこかの時点で書かれたことを教えてくれる。磐田郡という広がりで描いた「旧磐田市の外側の村々」も、郡という枠があったからこそ、ばらばらの村ではなく、一つの地域として意識され続けてきた。
現在の磐田市の市境だけを眺めていては、決して見えてこないものがある。それは、天竜川東岸の広い地域を「磐田」として一つに感じる、あの漠然とした一体感の由来である。その感覚のかなりの部分は、明治29年に生まれ、百年以上にわたって人々の住所と暮らしに刻まれ続けた「磐田郡」という、いまは消えた行政単位のなかで、静かに育まれてきたのだ。郡を知ることは、市の境界を越えて、磐田という地域のほんとうの広がりと、その成り立ちの由来を読み直すことにほかならない。消えた郡の記憶は、いまも磐田という土地のかたちの底に、確かに横たわっている。
主な参考資料
- Wikipedia「磐田郡」「山名郡」「豊田町(静岡県)」(郡の沿革・明治29年再編)
- 磐田物語「古代磐田郡・山名郡・豊田郡」「大区小区制と戸長役場」「磐田市はどうして生まれたのか」「磐田郡という広がり」
郡役所の建物の位置など未確認の事項は、本文中でその旨を明示している。
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