失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 神仏分離と磐田
磐田共通 | 明治維新・信仰

神仏分離と磐田 ──
明治維新が変えた祈りのかたち

江戸時代まで、神社と寺は截然と分かれてはいなかった。神社の境内に神宮寺があり、寺が神を祀り、山伏が両者を行き来する ── 千年続いたこの神仏習合の世界は、明治維新の一連の法令で強制的に解体された。磐田の寺社に、そのとき何が起きたのかをたどる。

千年続いた神と仏の同居

神仏分離を理解するには、まず「分離される前」の姿を知らねばならない。江戸時代まで、日本の神社と寺は、いまのように截然と分かれてはいなかった。神社の境内には「神宮寺(じんぐうじ)」という寺が建ち、僧が神前で経を読み、神は仏が姿を変えて現れたもの(本地垂迹(ほんじすいじゃく))と考えられていた。秋葉山のように、一つの霊山が神でもあり仏でもあるという存在も珍しくなかった。神と仏は敵対するどころか、一つの信仰世界のなかで分かちがたく溶け合っていたのである。この「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の状態は、奈良・平安のころから千年以上にわたって、日本人の信仰の当たり前の姿だった。

ところが明治維新は、この千年の慣習を、わずか数年で断ち切ろうとした。天皇を中心とする新しい国家をつくるため、天皇の祖先を祀る神道を国家の背骨に据えようとした新政府にとって、神が仏に従属するかのような神仏習合の姿は、正すべきものと映ったのである。

神仏判然令 ── 慶応4年の号令

慶応4年(1868年)3月以降、新政府は「神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)」と総称される一連の布告を次々に発した。祭政一致・神道国教化を目指す新政府にとって、神と仏が混じり合った状態は、正すべき「積弊(せきへい)」だった。命じられたのは、神社から仏像・仏具・梵鐘(ぼんしょう)などを取り除くこと、そして僧の姿で神に仕えてきた別当(べっとう)・社僧(しゃそう)は僧をやめて神職になるか還俗(げんぞく)すること、などである。

政府が命じたのは、あくまで神と仏を「分ける」ことだった。しかし、法令の意図を超えて、各地では民衆や神官による激しい寺院・仏像の破壊 ── いわゆる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」── が噴き出した。長く寺の下に置かれてきた神職たちの反発や、寺への日ごろの不満が、この機に爆発したのである。その激しさには大きな地域差があった。薩摩のように藩をあげて寺院の大半を消し去った土地もあれば、比較的おだやかに再編が進んだ土地もあった。磐田市域の展開がどちらに近かったかを網羅的に語る調査には本稿はまだ到達していないが、確認できる範囲でも、この土地の信仰の風景が、この数年で確実に姿を変えたことは間違いない。

江戸まで(神仏習合) 一つの信仰世界に同居 判然令 明治以降(分離) 神社 神道 仏教 二つの宗教に切り分けられた 千年続いた神仏の同居が、わずか数年で引き裂かれた
図1 神仏習合から神仏分離へ。同じ信仰世界に溶け合っていた神と仏が、明治に二つの宗教へ切り分けられた。

実例1 ── 秋葉山から三尺坊が去った

磐田の人々の信仰圏で、神仏分離の影響が最も分かりやすく表れたのが秋葉信仰である。別稿(秋葉常夜灯)で扱ったとおり、江戸時代の秋葉山は神仏習合の霊山で、火の神「秋葉三尺坊大権現」を祀っていた。神仏分離により、山は秋葉神社となり、仏教側の三尺坊大権現は袋井の可睡斎へ移された。磐田の村々の秋葉講が拝んできた「秋葉さま」は、法令一つで、神社と寺の二つの系譜に分かれたのである。宮之一色の常夜灯の自治会がいまも可睡斎に参るのは、この分離の歴史を身体で覚えている、ということでもある。

実例2 ── 遠江国分寺、法灯の断絶

寺院の側に打撃を与えたのは、分離令だけではなかった。明治4年(1871年)の上知令(あげちれい)は、寺社の境内地を除く領地(朱印地・除地)を国家に収公するもので、寺院の経済基盤を根こそぎ奪った。別稿(明治の廃寺)で扱ったとおり、奈良時代以来の法灯を伝えてきた遠江国分寺(の後継寺院)も、この時代に廃絶に追い込まれている。寺院の財政は、檀家の布施と、朱印地・除地からの収入という二本柱で成り立っていた。その一方の柱を上知令が奪ったのだから、打撃は深刻だった。とりわけ、葬祭を営む檀家を多く抱えた寺はまだしも、祈祷を主とする寺や、由緒はあっても檀家の少ない小寺院ほど、経営が立ちゆかなくなった。奈良時代以来、実に千年を超える法灯を細々と伝えてきた遠江国分寺の後継寺院さえ、この波にのまれて廃絶に追い込まれたことは、その打撃の大きさを象徴している。

磐田市域でも、この時期に静かに姿を消した寺や堂は、決して少なくなかったと考えられる。千手堂・万正寺のように、いまは寺名だけが地名として残る例の背後にも、中世以来の緩やかな衰退に加えて、この明治初年の宗教政策の波があった可能性が高い。地名に残る「堂」や「寺」の一字は、そこにかつて信仰の場があり、そして失われたことの、無言の記録なのである。

確認できること・できないこと
神仏判然令(慶応4年)・上知令(明治4年)・修験道廃止令(明治5年)という法令の内容、秋葉三尺坊の可睡斎移転、遠江国分寺後継寺院の明治期廃絶は、既存の資料・別稿で確認できる。一方、磐田市域全体で何か寺が廃されたか、仏像・仏具の破壊がどの程度起きたかを示す網羅的な調査には、本稿はまだ到達しておらず、個別事例の積み上げが今後の課題である。

実例3 ── 山伏たちの失業

明治5年(1872年)の修験道廃止令は、神仏習合の最も体現的な存在だった山伏(修験者)の宗派そのものを廃止した。修験者たちは天台・真言の僧になるか、神職になるか、還俗するかを迫られた。中泉の大乗院三仭坊のような修験系の拠点を持っていた磐田にとって、これは祈祷・加持・憑きもの落としといった、民衆の身近な宗教サービスの担い手が消えることを意味した。山伏は、村人にとって最も身近な宗教者だった。病気になれば祈祷を頼み、災いがあれば加持を求め、憑きものを落としてもらう ── 医者にも僧にも頼れない村人の、日々の不安に寄り添う存在だったのである。その山伏が制度ごと消えたことは、村の暮らしから、身近な「祈りの専門家」がいなくなることを意味した。

この延長線上に、もう一つの流れがある。村の暮らしに根づいてきた庚申講(こうしんこう)や道祖神(どうそじん)のような民俗信仰が、文明開化を掲げる明治の世で「迷信」の側に押しやられ、公然とは語りにくいものになっていったのである。神仏分離は、単に神社と寺を分けただけではない。それは、村人の暮らしを支えてきた雑多で豊かな信仰の世界を、「正しい宗教」と「迷信」とに選別し、後者を暮らしの表舞台から締め出していく、大きな文化の再編でもあった。

神社の側の再編 ── 社格と合祀

では、仏教が打撃を受けた分、神社の側は勝者だったのかというと、話はそう単純ではない。神社もまた、国家の管理下に大きく組み替えられたのである。明治4年、全国の神社は官社(かんしゃ)・県社(けんしゃ)・郷社(ごうしゃ)・村社(そんしゃ)などの社格(しゃかく)に序列化され、国家の祭祀体系にきっちりと組み込まれた。神社は、自由な信仰の場から、国家神道の末端機関へと位置づけを変えられていった。式内社の淡海国玉神社が県社となったように、由緒ある大社は上位の社格を得たが、その一方で、村はずれの小さな祠や境内社は、村の中心の神社へまとめる「合祀(ごうし)」を促されていく。

福田の六社神社が明治8年(1875年)に複数の社を合祀して成立したように(別稿参照)、明治の磐田の神社地図は、統合によって大きく描き直された。数百年ものあいだ、それぞれの集落で祀られてきた小さな神々が、行政の都合で一つの社に寄せ集められる ── それは、村人にとって、身近な神を失う経験でもあった。いま各地に残る「六社」「合祀」といった名や由緒を持つ神社は、この明治の再編を今に伝える、生きた証人なのである。

明治の宗教再編 ── 三つの法令 神仏判然令 慶応4年(1868) 神と仏を分ける 上知令 明治4年(1871) 寺領を収公・社格制度 修験道廃止令 明治5年(1872) 山伏を廃業させる わずか5年のあいだに、千年の信仰の秩序が組み替えられた
図2 明治の宗教再編の三法令。分離・収公・廃止が矢継ぎ早に進み、磐田の寺社を大きく変えた。

明治の宗教再編 ── 関連法令と磐田

法令・出来事磐田への影響
慶応4年(1868)神仏判然令神社から仏教色の除去。秋葉信仰の二分化の起点
明治4年(1871)上知令・社格制度寺領収公。遠江国分寺後継寺院の廃絶。淡海国玉神社はのちに県社となる
明治5年(1872)修験道廃止令山伏の廃業。修験系拠点の転換
明治8年(1875)ごろ各地で合祀の進行六社神社の成立など、神社の統合再編

分けられた神仏の、その後

神仏分離は、制度としては完遂された。神社と寺は法の上で明確に分けられ、社格が定められ、修験道は姿を消した。国家の号令が、千年の慣習を数年で塗り替えたのである。その力の大きさには、あらためて驚かされる。

しかし、である。磐田の暮らしのなかを見わたせば、神と仏は、いまも緩やかに同居し続けている。初詣は神社へ、葬式は寺へ。秋葉の火防を、神社と可睡斎の両方に祈る。古墳の上の神社に手を合わせ、盆には先祖を寺で供養する。法令は、建物を分け、帳簿を分け、僧と神職を分けることができた。だが、一人ひとりの心のなかで、神と仏がゆるやかに溶け合っている状態 ── その千年来の信仰の習慣までは、ついに分けきることができなかったのである。

明治の宗教再編を磐田の側から見ると、二つのことが同時に見えてくる。一つは、近代国家が人々の信仰にまで手を伸ばした、その力の大きさ。もう一つは、それでもなお塗り替えられなかった、暮らしに根ざした信仰の底力である。制度は変わり、建物は分けられた。しかし、辻の常夜灯に手を合わせ、寺の墓に参り、神社の祭りに歓声をあげる磐田の人々の姿のなかには、分けられる前の、神と仏が一つだった時代の記憶が、いまも静かに息づいている。

主な参考資料

磐田市域の廃仏毀釈の網羅的な実態は未調査であり、本文中で確認できる事例と課題を区別して記している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。