失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 紀行文学に見る磐田
磐田共通 | 中世・文学

紀行文学に見る磐田 ──
阿仏尼が泊まった「見付の里」

鎌倉に幕府が開かれると、京と鎌倉を結ぶ東海道は、政治と訴訟のために人が往来する日本の大動脈になった。旅した人々のなかには筆を持つ者がいて、道中の見聞を紀行文に残した。その筆は、磐田の土地をどう写しとったのか。730年前の旅人の目を借りて、中世の磐田を歩いてみる。

中世紀行文学の時代 ── 三つの代表作

鎌倉時代の東海道紀行を代表する作品が三つある。貞応2年(1223年)、京の作者(名は伝わらない)が京から鎌倉までの旅を漢文調の和漢混淆文で綴った『海道記(かいどうき)』。仁治3年(1242年)ごろの旅を記し、鴨長明作という伝承も持つ(実際の作者は未詳)『東関紀行(とうかんきこう)』。そして弘安2年(1279年)、亡夫の遺した所領をめぐる訴訟のために鎌倉へ下った女流歌人・阿仏尼(あぶつに)の『十六夜日記(いざよいにっき)』である。いずれも京と鎌倉を結ぶ道中の宿や渡し、名所を書きとめており、東海道筋の土地にとっては、中世の姿を伝えてくれる貴重な同時代の証言になっている。

「里荒れて物おそろし」── 阿仏尼の見た見付

磐田にとって特に重要なのは、『十六夜日記』の次の一節である。

今宵は遠江見付の里といふ所にとまる。
里荒れて物おそろし。傍らに水の井あり。 阿仏尼『十六夜日記』弘安2年(1279年)

今夜は遠江の見付の里というところに泊まる。里は荒れていて、なんとも恐ろしい。かたわらに水の湧く井戸がある ── わずか三文だが、情報は濃い。第一に、13世紀後半の見付が、旅人を泊める機能を持っていたこと。第二に、その見付が、京の女房の目には「荒れて物おそろし」と映る状態だったこと。第三に、印象的な井戸があったことである。

なぜ「荒れて」いたのか ── 読みの整理

「里荒れて」の三文字をどう読むかは、断定できないながら、いくつかの読み筋がある。一つは、遠江国府の衰退と重ねる読みである。かつて国府として栄えた見付は、鎌倉期には古代都市としての機能を失う過渡期にあり、往時を知る土地の荒廃が旅人の目に留まった、とする。もう一つは、より即物的な読みで、日暮れて着いた見知らぬ里の心細さが「物おそろし」の語を呼んだにすぎず、町全体の衰退を示す証言としては読みすぎだ、とする。本稿はどちらか一方に決めず、少なくとも「13世紀後半の見付が、都人に賑わいの町と映る状態ではなかった」ことの証言として、慎重に受けとめておきたい。この約100年後、見付には遠江守護所が置かれて中世都市として再興していくのだから、阿仏尼の一夜は、古代の見付と中世の見付のはざまの、最も静かな時期を写した一枚ということになる。

確認できること・できないこと
『十六夜日記』に「遠江見付の里」での宿泊と「里荒れて物おそろし。傍らに水の井あり」の記述があることは原典で確認できる。「荒れ」の原因・程度は本文の読みの域を出ない。『海道記』『東関紀行』の遠江の行程の詳細な引用は、本稿では原典の直接確認ができた範囲にとどめ、断定を避けた。

水の井 ── 台地の縁の湧き水

阿仏尼がわざわざ書きとめた「水の井」も見逃せない。見付の水路・井戸・生活用水で扱ったとおり、磐田原台地の南縁に位置する見付は、台地にしみ込んだ水が縁辺で湧き出す土地であり、良い井戸は町の生命線だった。旅の女房の目に留まった一つの井戸は、見付という町が「台地の縁の水で生きる町」であることを、期せずして700年前に記録している。土地の条件は、歌人の感傷よりも長持ちするのである。

天竜川を渡る ── 紀行者たちの最大の難所

中世の東海道で、遠江の旅人が最も緊張したのは天竜川の渡河だった。橋のない大河は舟で渡るほかなく、池田の渡しがその役割を担った。渡しの東西に発達した池田宿は、『平家物語』や謡曲「熊野(ゆや)」の熊野御前伝承の舞台でもあり、中世の文学と交通が重なり合う土地である。紀行文の旅人たちも、見付の里に泊まり、翌朝この大河を渡って東へ向かった。川と宿と物語 ── 中世の磐田は、文学作品の背景として、確かに日本の道の上にあった。

紀行文学と磐田 ── 対照表

作品旅の年作者磐田とのかかわり
海道記貞応2年(1223)未詳京〜鎌倉の道中で遠江を通過。天竜川渡河の時代の証言
東関紀行仁治3年(1242)ごろ未詳(鴨長明作の伝承あり)同じく遠江を通過した中世紀行の代表作
十六夜日記弘安2年(1279)阿仏尼「遠江見付の里」に宿泊。「里荒れて物おそろし。傍らに水の井あり」

一夜の宿が、七百年の証言になる

阿仏尼は、訴訟のための急ぎ旅の途中、見付に一晩泊まっただけである。本人は、自分の書いた三文が、この土地の中世を伝えるほとんど唯一の文学的証言になるとは思いもしなかっただろう。旅人の何気ない筆が、土地にとってかけがえのない記録になる ── 紀行文学の面白さはここにあり、それは現代の磐田の記憶を記録するという営みにも、そのままつながっている。

主な参考資料

「里荒れて」の解釈は確定できず、本文中で複数の読みを併記している。

あわせて読みたい

← トップへ戻る 関連記事 ── 見付宿の成立と宿場範囲 →

この地域の家・土地・空き家について

古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。