敷地・岩室廃寺と古代の灯台 ──
山あいの密教寺院が照らした大之浦
「敷地」という地名が語ること
磐田市敷地。この地名そのものが、実は古代の信仰を伝えている。「敷地」とは、古代の寺院や神社の「敷地(境内)」に由来するとされる地名である。実際、この地区周辺では大宝院廃寺(飛鳥〜平安時代)の遺構も確認されており、敷地一帯が古くから宗教施設を維持するための所領、あるいは仏教文化の先進地域であったことがうかがえる。天竜川の東岸に広がるこの丘陵地帯は、平野部とはまったく異なる、山の霊性に彩られた土地だった。
山中の大寺院、岩室廃寺
敷地地区で特筆すべきは、平安時代の大規模な山岳寺院跡「岩室廃寺(いわむろはいじ)」である。敷地川の東西に切り立つ標高150〜180メートルの急峻な丘陵の上に築かれたこの寺は、伝承によれば弘法大師(空海)の開基とされる真言密教の道場であった。東側の丘陵(現在の岩室山清瀧寺観音堂の周辺)からは、五間四面の金堂跡と推定される大規模な礎石群、塔の礎石、建物の基壇などが見つかっている。北谷の土中からは、高さ約120センチメートルにおよぶ巨大な大日如来の頭部も発掘されており、当時の豪壮な七堂伽藍の規模を今に伝えている。
この岩室廃寺が単なる山寺でなかったことは、出土した瓦が物語る。発掘調査では、遠江国分寺と同じ型(同笵)で作られた瓦が出土しており、この寺が国府と強い政治的な連携を持った、官立的な性格を帯びた寺院であったことがわかる。国家の仏教政策の一翼を、この山あいの寺が担っていたのである。戦国時代には織田信長の兵火によって、観音堂を残して焼失したと伝えられる。現在、その観音堂は遠江三十三観音霊場の札所として、今も参拝者を迎えている。
山の寺が掲げた、海の灯り
岩室廃寺の遺跡群のなかで、もっとも謎めいて、もっとも重要なのが、敷地川西側の丘陵に残る二つの塔の心礎(しんそ)である。これらは「口燈明台(くちとうみょうだい)」「奥燈明台(おくとうみょうだい)」と呼ばれてきた。口燈明台の心礎は、直径約80センチメートル、厚さ25センチメートルほどの砂岩に、底が椀状になった精巧な円孔が穿たれたものである。
「燈明台」という呼び名には、地元の伝承が込められている。大正10年(1921年)の『静岡県磐田郡誌』などによれば、これらの燈明台は「往昔磐田海渡船の時、燈下を點し、以て船路の便に充てしもの」――すなわち、古代の海を行き交う船のために灯りをともす「灯台(標識灯)」として機能していたという。磐田物語の別稿(古墳と川・海・道)で扱ったとおり、古代の磐田市南部には「大之浦(おおのうら)」と呼ばれる広大な潟湖が遠州灘とつながって広がり、水上交通の要衝となっていた。海抜約80メートルの高台に立つ岩室廃寺の塔は、仏に捧げる常夜燈であると同時に、その大之浦を行き交う船を導く標識灯を兼ねていたというのである。祈りの塔が、そのまま航路のインフラでもあった――もしこの伝承のとおりなら、これは宗教施設が国家的な水運ネットワークの安全をも担っていたことを示す、たいへん興味深い例である。
岩室廃寺跡に金堂・塔の礎石群や口燈明台・奥燈明台の心礎が残ること、大日如来頭部などの仏像が出土したこと、遠江国分寺と同笵の瓦が出土したことは、複数の資料で確認できる。一方、これらの塔が実際に大之浦の船を導く「灯台」であったという点は、『静岡県磐田郡誌』などが伝える地元の伝承であり、考古学的に確定した事実ではない。本記事では、この魅力的な説を「伝承」として区別して記している。空海の開基についても、真言密教寺院に広く見られる縁起であり、断定はできない。
山王の神を迎えた、野辺神社
敷地地区には、もう一つ重要な信仰の拠点がある。野辺(のべ)神社である。社伝によれば、その創建は白鳳2年(668年)、近江国の日吉大社から大山咋神(おおやまくいのみこと)の御魂を勧請したことに始まるとされる。古くは「山王権現(さんのうごんげん)」と称され、文明2年(1470年)の梵鐘の銘には「日吉山王神宮寺」と記されていたことから、中世には神仏習合の姿をとる有力な寺社勢力であったことがうかがえる。比叡山延暦寺と結びついた日吉・山王の信仰が、天竜川流域という交通路を通じて、遠江の山あいにまで深く浸透していたことを示している。
この野辺神社には、戦国の悲話も伝わる。天正2年(1574年)、この地を守っていた野辺越後守当信(のべえちごのかみまさのぶ)が攻撃を受けて戦死し、その奥方にまつわる悲しい物語が「のんべさま」として語り継がれてきた。山王信仰という大きな宗教の流れと、この土地に生きた武将一家の記憶とが、一つの神社に重なっている。
平野の信仰、山の信仰
磐田物語の別稿(古墳が神社になった土地)で扱った御厨・見付の信仰が、古墳と伊勢信仰・天神信仰という「平野の信仰」だったとすれば、敷地の岩室廃寺や野辺神社が伝えるのは、密教と山王信仰という「山の信仰」である。深い山林と急峻な地形は、修験道や密教の修行の場としての霊性を育んだ。さらに敷地から天竜区にかけては、秋葉山本宮秋葉神社(火防の神・修験道のメッカ)へと続く道もあり、山岳信仰のネットワークが幾重にも交差していた。磐田の信仰空間は、平野だけでなく、この山あいにも、もう一つの奥行きを持っていたのである。
| 岩室廃寺 | 敷地川両岸・標高150〜180mの山岳寺院跡。空海開基と伝わる真言密教の道場。金堂・塔の礎石、大日如来頭部(約120cm)、遠江国分寺と同笵の瓦。信長の兵火で焼失し観音堂(清瀧寺)が残る |
|---|---|
| 口燈明台・奥燈明台 | 敷地川西側の丘陵に残る2つの塔心礎。海抜約80mの高台にあり、大之浦の船を導く灯台だったと地元に伝わる |
| 野辺神社 | 社伝で白鳳2年(668年)日吉大社から勧請。旧称「山王権現」。神仏習合の寺社勢力。「のんべさま」の悲話 |
| 敷地の地名 | 寺社の「敷地(境内)」に由来。大宝院廃寺など古代宗教施設の名残 |
主な参考資料
- 「遠江岩室廃寺・口燈明台塔跡・奥燈明台塔跡」(Biglobe)、『静岡県磐田郡誌』(大正10年)
- 岩室山清瀧寺観音堂・遠江三十三観音霊場関連資料
- 野辺神社関連資料(玄松子の記憶、中遠昔ばなし「のんべさま」)、磐田市立図書館「豊岡編」
- 磐田物語「古墳が神社になった土地」「古墳と川・海・道 ── 磐田海・大乃浦と水運の記憶」「遠江国分尼寺」
本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。燈明台の灯台説や空海開基、野辺神社の創建年など、伝承に基づく事項は、考古学的・文献的に確定した史実と区別して記している。
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