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磐田物語 / 今之浦が磐田の都市形成に与えた影響
水辺・都市形成 | 南部・中泉・見付

今之浦が磐田の都市形成に与えた影響 ──
低地の空白が、新しい市街地に変わるまで

見付・国府台・中泉という台地上の中心地に囲まれながら、今之浦の低地は長いあいだ空白のまま残されていた。この記事は、今之浦という水辺の名や由来ではなく、その低地が磐田という都市の「かたち」にどう影響したかを主題とする。台地の間の空白が、いつ、どのようにして新しい市街地に変わり、見付と中泉をつなぐ回路になったのかを読む。

台地の都市、低地の空白

今之浦と大之浦で触れたように、遠江国府・遠江国分寺・遠江国分尼寺は、いずれも低地そのものではなく、大之浦を見下ろす台地上に置かれた。見付も中泉も、台地の縁に成立した町である。この配置は偶然ではない。低湿地は水害を受けやすく、大規模な施設や恒常的な集落を置くには適さない土地だったからである。

結果として、見付と中泉という二つの中心地のあいだに挟まれた今之浦の低地は、近代に至るまで市街地化されず、葦の生い茂る沼地・水田として長く残されることになった。都市の中心が台地の上に形成される一方で、その間の低地は「空白地帯」として都市計画上も扱いにくい存在であり続けた。これが、今之浦を都市形成の観点から読むときの出発点である。

1966年の開発計画から始まった街づくり

今之浦と大池の消滅・埋立てで扱った経緯と重なるが、この記事では同じ史実を「都市計画」という視点から読み直す。今之浦一帯を市街地として整備する構想は、1966年(昭和41年)5月、国土計画協会に委託された「今之浦及び周辺開発計画」に始まる。ここで示されたのは、堤防方式による今之浦川・加茂川の河川改良を前提とした土地区画整理事業という方針だった。1972年(昭和47年)に土地区画整理組合が設立され、1973年(昭和48年)10月に建設省の承認を受け、1974年(昭和49年)4月から換地設計・仮排水路・道路建設に着手している。

この事業が持つ都市計画上の意味は大きい。それまで見付・中泉という既存の市街地の「外側」でしかなかった低地に、道路網と宅地区画をゼロから設計する余地が生まれたということである。既存の町割りを引き継がざるをえない見付や中泉とは異なり、今之浦は区画整理という白紙の計画によって、直線的な道路と整然とした街区を持つ、磐田では珍しいタイプの市街地として生まれ変わった。

今之浦一丁目〜五丁目の誕生

整備後の今之浦は、現在の行政地名で今之浦一丁目から五丁目までの5つの町丁に区分されている。自治会組織は1983年(昭和58年)に設立され、5つの自治会(今之浦一丁目〜五丁目)から構成される。2018年(平成30年)時点の統計では、世帯数1,059、人口2,090人を数え、2015年(平成27年)末時点の高齢化率は13.6%と、磐田市内でも比較的低い水準にある。これは、区画整理によって新しく生まれた住宅地であるがゆえに、若い世帯の流入が続いてきたことを示していると考えられる。

見付・中泉といった歴史の古い町が、旧家や旧来の地割を抱えながら世代交代していくのに対し、今之浦は制度としても住民構成としても「新しい磐田」を体現する地域になった。台地上の古い町と、低地に生まれた新しい町という対比は、磐田という都市の重層性をよく表している。学区も今之浦の中で分かれており、丁目によって磐田市立中部小学校・磐田市立北小学校のいずれかに通うことになる。これは、今之浦が既存の学区区分の狭間に位置する、新しく生まれた市街地であることを示す一例である。

磐田市の区画整理事業の中の今之浦

今之浦の区画整理は、磐田市にとって孤立した一事業ではない。磐田市の土地区画整理事業は、旧中泉町時代の1937年(昭和12年)に着手されたのを皮切りに、市内全体で29地区、計画面積約580ヘクタール(市街化区域の約21%)にわたって実施されてきた。今之浦はこの長い区画整理の歴史の中に位置づけられる一事業であり、低湿地という条件の厳しさゆえに、1966年の計画から1974年の着工まで、構想から実現に8年を要している。磐田という都市が、台地上の旧市街地だけでなく、低地の区画整理によって市街地を面的に広げてきたことを示す事例の一つとして、今之浦を読むことができる。

見付と中泉のあいだをつなぐ街

今之浦の地理的な位置も、都市形成の観点からは見逃せない。今之浦は北に見付権現町、東に安久路・南鳥之瀬、南西に二之宮東、西に国府台の中央町と接し、北側では見付の清水町・中川町とも隣接する。つまり今之浦は、見付・国府台・中泉・御厨という磐田の複数の歴史的中心地に四方を囲まれる位置にある。

区画整理以前は、これらの地域はそれぞれ独立した集落として存在し、低地の今之浦が実質的な緩衝地帯になっていた。区画整理によって道路網と宅地が整備されたことで、今之浦は緩衝地帯から一転、見付・中泉・御厨をつなぐ結節点としての役割を担うようになったと考えられる。今之浦の南方を東海道本線・東海道新幹線が通っていることも、この地域が交通の観点から磐田の中心部に近い位置にあることを示している。

治水と都市計画が同居する土地

今之浦の都市形成を考えるうえで欠かせないのが、治水との関係である。堤防方式による河川改良を前提とした区画整理という出発点そのものが、この地域の都市計画が治水と切り離せないものであったことを物語っている。現在の今之浦川は拡張・護岸整備され、近年の磐田市内で大規模な浸水被害は報告されていない。また、別稿で扱った大池も、現在は湛水被害を防ぐ調整池として都市の治水インフラの一部を担っている。

つまり今之浦の市街地は、単に「低地を埋めて宅地にした」というだけの単純な物語ではない。水を排除するのではなく、水を受け止める仕組みを都市計画の中に組み込みながら市街地化を進めたという点に、この地域の都市形成の特徴がある。低地という制約条件を治水インフラとして再定義し、そのうえに新しい住宅地を築いたことが、今之浦が磐田の都市形成に与えた最も大きな影響だと言えるだろう。

台地の中心地見付・国府台・中泉。遠江国府・国分寺以来、水害を避けて台地上に成立。
低地の空白今之浦周辺。近代まで葦の生える沼地・水田として市街地化されず残る。
開発の起点1966年「今之浦及び周辺開発計画」→1972年組合設立→1973年建設省承認→1974年着工。
新しい町今之浦一丁目〜五丁目。1983年自治会設立。2018年時点で1,059世帯2,090人、高齢化率13.6%。
結節点としての位置見付・国府台・中泉・御厨に囲まれ、東海道本線・新幹線にも近い。
治水との一体性堤防方式の河川改良を前提とした区画整理。大池も調整池として現存。

史実・伝承・推定の整理

史実1966〜1974年の開発計画・区画整理の経緯、1983年自治会設立、今之浦一丁目〜五丁目の人口・世帯統計、隣接地区の名称。
資料に基づく記述遠江国府・国分寺が台地上に置かれたこと(c024・磐田市公式資料に基づく)。
考察・解釈「緩衝地帯から結節点へ」という位置づけの変化、若い世帯流入の背景説明は、統計・地理情報から導いた解釈であり、行政資料による直接の説明ではない。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。