鎌田山医王寺 ──
行基伝承と遠州流の枯山水
天平の伝承 ── 行基と薬師如来
寺伝によれば、医王寺の始まりは奈良時代の天平年間(729〜749年)にさかのぼる。聖武天皇の命で諸国を巡っていた行基菩薩がこの地を訪れ、境内の木から薬師如来像を刻んで本尊としたのが開山と伝えられる。行基の開山伝承を持つ寺は全国に多く、そのすべてを史実とみることはできないが、この伝承が「聖武天皇の時代」に設定されていることは示唆的である。まさに同じ時代、磐田には遠江国分寺が建立され、この地方は律令仏教の一大拠点だった。医王寺の伝承は、鎌田の里が奈良時代から続く仏教文化圏の中にあったという土地の記憶を、行基という聖僧の名に託して語っているとみることができる。寺号の「医王」は薬師如来の異名であり、病を癒す仏への信仰がこの寺の背骨である。
ここで、「行基伝承」というものの読み方について、少し立ち止まっておきたい。行基(668〜749年)は、諸国を歩いて橋を架け、池を掘り、民衆に仏教を広めた奈良時代の高僧である。その名声があまりに大きかったため、後の世に開かれた寺が、自らの由緒を権威づけようとして「行基が開いた」と語ることは、全国で数えきれないほど起きた。だから、行基開山の伝承をそのまま史実として受け取ることはできない。しかし、それを「作り話」と切り捨てるのも早計である。なぜその寺が、数ある聖僧のなかから、ほかならぬ行基の名を選んで語り継いだのか ── そこには、その土地が古代の仏教文化とどうつながっていたかという、確かな記憶が反映されていることが多い。医王寺の伝承もまた、鎌田の里が奈良時代の仏教文化圏のただ中にあったことを、行基という象徴的な名に託して伝えているのである。
御厨の村の寺として
中世の鎌田は、伊勢神宮の荘園「鎌田御厨」の中心だった。御厨とは、伊勢の神に供える供物を貢いだ荘園のことで、鎌田の地はいわば「神の台所」を支える特別な村だった。その中心に、伊勢の神を祀る神明宮が鎮まっていたのは、当然の成り行きである。神明宮が村の「神」の核だったとすれば、医王寺は「仏」の核である。神仏習合の時代、村人にとって両者は対立するものではなく、宮で豊作を祈り、寺で病平癒を祈るという、一つながりの信仰世界だった。最盛期の医王寺は八つの塔頭(たっちゅう、子院)を擁する大寺だったと伝えられ、鎌田の里における寺の重みがうかがえる。
この「神明宮と医王寺」という一対の関係は、中世日本の村の信仰のかたちを、よく示している。当時の人々は、神と仏をきっぱり分けて考えてはいなかった。伊勢の神を祀る宮で村の安寧と豊作を祈り、薬師如来を祀る寺で病の平癒と死後の安らぎを願う。神は現世の恵みを、仏は来世の救いを ── そのように役割を分かちながら、神と仏はひとつながりの信仰世界の中に溶け合っていた。これを神仏習合という。鎌田の里に神明宮と医王寺が並び立っていたことは、この村が、神と仏の両輪でまわる、中世的な信仰の共同体だったことを物語っている。一つの村に神の核と仏の核があること ── それは当時の遠州の村々の、ごくありふれた、しかし豊かな姿だった。
兵火と再興 ── 家康の力添え
戦国時代、医王寺は武田と徳川が遠江を争った戦乱(磐田が戦場になった時代)のなかで焼亡したと伝えられる。台地の縁のこの一帯は、両軍が行き交う軍事的な回廊だった。寺を立て直したのは徳川家康の力添えだったといい、遠江を平定した徳川氏が、在地の信仰拠点の復興を通じて民心の安定を図った一例とみられる。行興寺の朱印地など、遠州の古刹の多くが徳川との由緒を持つのと同じ構図である。
戦乱で寺が焼けるということは、その土地にとって、単に建物が失われる以上の打撃だった。寺は、村人の心の拠りどころであり、死者を弔う場であり、しばしば記録や文書を守り伝える文庫でもあった。それが灰になれば、村の信仰の中心と、積み重ねてきた記憶とが、一度に断ち切られてしまう。だからこそ、乱世を制した権力者にとって、焼けた寺を立て直すことは、ただの慈善ではなかった。荒れた人心を鎮め、自らの支配を「仏の加護を受けた正しいもの」として印象づける、統治のための大切な一手だったのである。家康による医王寺再興の伝承は、遠江を平定した新しい支配者が、在地の信仰の復興を通じて、この土地に静かに根を下ろしていった過程を映している。
医王寺が真言宗智山派の寺院で本尊が薬師如来であること、行基開山・兵火焼亡・家康による再興という寺伝、八塔頭のうち金剛院のみが残ること、庭園と参道が磐田市指定の名勝であることは、寺の公式サイト・県観光資料等で確認できる。開山・焼亡・再興の年次を裏づける一次史料は確認できておらず、寺伝として記す。
遠州流の枯山水 ── 江戸初期の名園
医王寺の名を高めているのが、本堂裏の枯山水庭園である。約1,000平方メートルのこの庭は江戸時代初期の作庭と考えられ、作者は大名茶人・小堀遠州、あるいは京都智積院第七世の運敞(うんしょう)と伝えられる。刈り込みと石組で山水を表す遠州流の意匠は、四季折々にサツキの刈込みが彩りを変え、静岡県内でも指折りの寺院庭園と評される。庭園と参道は磐田市の名勝に指定されており、マツやマキの並ぶ参道(袴田家のマキと同じ、この土地の屋敷林の樹種である)とあわせて、鎌田の里の景観の核になっている。
枯山水とは、水を一滴も使わずに、石と砂と刈込みだけで山や水の風景を表現する庭園の様式である。白く敷いた砂は大海や川の流れを、立てた石は山や島を、丸く刈り込んだサツキは遠くの山なみを ── そう見立てて、見る者の心のなかに雄大な自然を立ち上げる。いわば、目に見えるものは最小限に切りつめ、あとは見る人の想像力にゆだねる、引き算の美である。医王寺の庭は、その遠州流の枯山水を代表する一つとされる。作者と伝わる小堀遠州は、江戸初期を代表する大名茶人であり、茶の湯で磨かれた洗練された美意識を、庭づくりの世界にも持ち込んだ人物だった。この静かな庭の前に座ると、遠州の里にいながら、心はどこまでも広い山水の世界へと遊ぶことができる。
庭園が江戸初期につくられたという事実は、この時代の医王寺が、家康の再興を経て、ふたたび文化を育むだけの力を取り戻していたことを、はっきりと示している。戦国の焼亡から立ち直った寺が、単に伽藍を再建しただけでなく、これほどまでに洗練された名園を営むまでになった ── そこには、近世の平和がもたらした経済的な余裕と、遠州流という当代一流の美意識が、遠く京の都から、この遠州鎌田の里にまで確かに届いていたことがうかがえる。磐田市の名勝に指定されたこの庭は、いまも訪れる人の心を静め、めぐりゆく四季の移ろいのなかに、変わらぬ美の世界を映し続けている。それは、千三百年の時を生きた寺が、乱世を越えたのちの近世という時代に咲かせた、一つの静かな結晶なのである。
明治から現在へ
明治の神仏分離と上知令の時代、医王寺も規模の縮小を免れなかった。八つあった塔頭は金剛院一つを残すのみとなり、寺の伽藍は近世の最盛期より簡素になった。明治新政府が神と仏を無理やり引き剥がした神仏分離は、鎌田の里のように神明宮と医王寺が寄り添ってきた土地にとって、とりわけ大きな試練だった。長らく一つながりだった信仰の世界が、制度の上で二つに切り分けられたのである。加えて、寺の経済的な基盤だった寺領を国が取り上げる上知令が、寺の力を大きくそいだ。八つあった塔頭がわずか一つに減ったことは、この時代の嵐がいかに激しかったかを、数字で物語っている。それでも本尊の薬師信仰と庭園は守り継がれ、現在も参拝と拝観の人を迎えている。国分寺のように廃絶した寺、西光寺のように宿場とともに歩んだ寺、そして御厨の村とともに生き続けた医王寺 ── 磐田の寺々の歩みを並べると、この土地の信仰史の多様さが見えてくる。
医王寺の歩みを、天平の開山伝承から現在まで一本の線でたどると、それは磐田という土地の歴史そのものの縮図になっていることに気づく。奈良時代の律令仏教、中世の荘園と神仏習合、戦国の争乱、徳川による近世の秩序、明治の神仏分離、そして現代 ── 日本史の大きな節目のひとつひとつが、この一つの寺の姿を、そのつど変えてきた。時代の波は、遠い都だけでなく、御厨のこの小さな里にも、確かに届いていたのである。一つの寺の千三百年を見つめることは、その土地が生きてきた千三百年を見つめることにほかならない。
鎌田山医王寺 ── まとめ
| 宗派・本尊 | 真言宗智山派。本尊は薬師如来(「医王」は薬師の異名) |
|---|---|
| 開山 | 天平年間、行基が薬師像を刻んで開いたと伝わる(寺伝) |
| 中世 | 鎌田御厨の里の仏教の核。最盛期は八塔頭を擁したと伝わる |
| 戦国〜近世 | 武田・徳川の戦乱で焼亡、家康の力添えで再興と伝わる |
| 庭園 | 江戸初期の枯山水約1,000㎡。小堀遠州または運敞の作庭と伝わる。市指定名勝 |
主な参考資料
- 真言宗智山派 鎌田山医王寺 公式サイト「医王寺の歴史について」
- ハローナビしずおか「医王寺庭園及び参道」、庭園ガイド・おにわさん「医王寺庭園」
- 磐田物語「鎌田神明宮」「鎌田御厨」「医王寺庭園及び参道」「磐田が戦場になった時代」「神仏分離と磐田」
開山・再興などの年次は寺伝によるものであり、本文中でその旨を明示している。
あわせて読みたい
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。