失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 広重「見附 天竜川図」を読む
豊田・見付 | 近世・美術

広重「見附 天竜川図」を読む ──
霧の川に描かれた磐田

歌川広重の「東海道五十三次」のなかで、磐田を担うのは「見附 天竜川図」の一枚である。ところがこの絵には、見付宿の家並みも、天神の杜も描かれていない。あるのは、霧に沈む大きな川と、舟と、船頭たちだけである。広重はなぜ、見附の絵に「川」を選んだのか。

保永堂版東海道五十三次 ── 空前のヒット作

「東海道五十三次」は、天保4年(1833年)ごろから版元・保永堂(竹内孫八)らによって出版された、広重の代表作である。日本橋から京都三条大橋まで、53の宿場に起点と終点を加えた全55図で構成され、名所の紹介というより、宿場ごとの「なにげない旅の情景」を切り取った観察眼と叙情性で人気を博した。旅ブームの時代(別稿)の読者たちは、この揃物によって、まだ見ぬ東海道の風景を居ながらにして旅したのである。

絵のなか ── 川霧と、舟と、待つ人

「見附 天竜川図」に描かれるのは、天竜川の渡し場の朝景である。画面の大半を占めるのは水と砂州と空で、手前の中州に渡し舟が着き、棹を操る船頭たちの姿がある。遠景は川霧のぼかしに沈み、対岸はほとんど見えない。五十三次のなかでも特に静かで、余白の多い一枚とされ、賑わいや名物ではなく「大河を前にした旅の間(ま)」そのものを主題にした構成である。実際の東海道でこの渡しを担ったのは池田の渡しであり、池田村の渡船方が舟を出した。つまりこの絵の舞台は、見付宿の市街ではなく、現在の磐田市豊田地区、天竜川東岸の河原ということになる。

なぜ「見附」の絵が川なのか

広重は各宿の絵に、その宿を象徴する一場面を選んでいる。見附に川が選ばれたのは、旅人にとっての見付宿の意味が「天竜川越えを控えた宿」だったからにほかならない。見付宿で旅装を整え、翌朝、川原へ下りて渡し舟を待つ ── その緊張と静けさこそが、旅人の記憶に残る「見附」だった。宿場の絵でありながら宿場を描かない、という選択は、広重一流の批評でもある。町の顔は家並みとは限らない。見付の顔は、川だったのである。

確認できること・できないこと
保永堂版東海道五十三次の刊行時期(天保4年ごろ)・版元・全55図の構成、「見附 天竜川図」が天竜川の渡し場を描いた作品であることは、美術館解説等で確認できる。画面の細部の記述は現存作品の観察に基づくが、刷りによって色調・細部に違いがある。広重の実地取材の有無については、後述のとおり学説が分かれる。

学説の整理 ── 広重はこの川を見たのか

説A:実走説

広重は天保3年(1832年)、幕府が朝廷へ馬を献上する「八朔御馬進献」の一行に加わって東海道を上り、その際の写生をもとに五十三次を描いた ── これは長く通説として語られてきた説明である。この立場では、「見附 天竜川図」の川霧も、広重が実際に見た朝の天竜川ということになる。

説B:非実走(部分実走)説

しかし近年の研究では、御馬進献への随行を裏づける確かな史料がないこと、五十三次の構図のいくつかが『東海道名所図会』などの先行出版物と類似することが指摘され、広重は東海道を(少なくとも全区間は)旅しておらず、絵手本や名所図会を再構成して描いたとする見方が有力になっている。この立場では、見附の川霧は実景ではなく、広重の画面構成の産物ということになる。

本稿の立場

実走の有無は磐田側の史料からは検証できず、本稿は両説を併記する。ただし、仮に実景でなかったとしても、この絵が「見附=天竜川越え」という当時の旅人の共通認識を正確に写していることは動かない。絵の価値は、写生かどうかよりも、その土地の意味をつかんでいるかどうかにある。

「見附 天竜川図」の基本情報

作品歌川広重「東海道五十三次之内 見附 天竜川図」
刊行天保4年(1833年)ごろ。版元は保永堂(竹内孫八)ら
主題天竜川の渡し場。川霧・砂州・渡し舟・船頭
実際の場所池田の渡し(現在の磐田市豊田地区、天竜川東岸)に対応
論点広重の実地取材の有無(実走説/非実走説)

一枚の絵が磐田に残したもの

明治になって渡しは天竜橋に代わり、川霧の渡し場の風景は消えた。しかし「見附 天竜川図」は、世界中の美術館に収蔵され、複製され、いまも磐田の名を「Mitsuke」として世界に運び続けている。宿場の絵に川を選んだ広重の眼は、結果として、この町の記憶の最も深い層 ── 天竜川とともに生きてきた土地だということ ── を、一枚の紙の上に永久保存したのである。

主な参考資料

広重の実地取材の有無は学説が分かれており、本文中で両説を併記している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。