磐田市森下に鎮座する若宮八幡宮は、明治初期の神社合祀政策によって、周辺28か村の神社を一手に引き受けた郷社である。その祭典で奉納された相撲興行は、遠く一言村から江戸へ出て力士となり、名門・立浪部屋の親方にまで出世した一人の若者の記憶と結びついている。
この記事の要点
- 若宮八幡宮は仁徳天皇・応神天皇・神功皇后を祭神とする。明治6年(1873年)の浜松県達により、北は七蔵新田・池田、南は本郷・平間に至る28か村の神社を合祀し、郷社となった。
- 祭典では中央の力士を招いて相撲が奉納され、この相撲興行に功労のあった竜洋町平松の平ノ松利八の頌徳碑が境内に建てられている。
- 郷土の一言村に生まれた佐藤繁蔵は、明治3年、27歳で江戸に出て和田の森の四股名で相撲をとり、後に立浪親方にまで出世したと伝わる。
28か村を合祀した郷社
若宮八幡宮の祭神は、仁徳天皇・応神天皇・神功皇后である。明治6年(1873年)、浜松県からの達(通達)により、北は七蔵新田・池田、南は本郷・平間に至る、実に28か村の神社がこの若宮八幡宮へ遷され、合祀された。これにより若宮八幡宮は郷社となった。
明治初期、政府は神社制度の再編を進め、各地で小規模な神社の統廃合が行われた。28という数字は、豊田町域の広い範囲にわたって、この合祀が行われたことを示している。それぞれの村が長く祀ってきた神々を、一つの社へまとめるという政策は、地域の信仰のあり方を大きく変える出来事だったに違いない。
奉納相撲と、平ノ松利八の頌徳碑
若宮八幡宮の祭典では、中央(東京など)から力士を招いて相撲が奉納された。地方の郷社の祭礼で、都会の本格的な力士を招いて相撲を奉納するというのは、相応の資金と人脈を要する催しである。境内には、この相撲興行に功労のあった竜洋町平松の平ノ松利八の頌徳碑が建てられている。頌徳碑とは、その人物の徳をたたえるために建てる碑であり、平ノ松利八が、地域の相撲興行を支える上で重要な役割を果たした人物であったことがうかがえる。
一言村から江戸へ、和田の森・佐藤繁蔵
若宮八幡宮の相撲の記憶とあわせて語り継がれてきたのが、佐藤繁蔵という人物の生涯である。郷土の一言村に生まれた佐藤繁蔵は、明治3年(1870年)、27歳のときに江戸へ出て、相撲取りとなった。四股名は「和田の森」。27歳という年齢での入門は、力士としては決して若い部類ではないが、それでも江戸相撲の世界で身を立て、後に名門・立浪部屋の親方にまで出世したと伝わる。
立浪部屋は、江戸時代から続く相撲の名門部屋の一つである。一地方の農村から出た若者が、この名門部屋の親方という地位にまで上り詰めたということは、当時の一言村・豊田町域にとって、大きな誇りであったはずである。相撲は単なる娯楽ではなく、江戸時代から明治にかけて、地域の若者が実力一つで身を立てられる、数少ない道の一つだった。和田の森・佐藤繁蔵の物語は、若宮八幡宮の奉納相撲という地域の祭りの記憶と、そこから中央の世界へ羽ばたいた一人の若者の記憶とが、重なり合って伝えられてきたものである。
合祀の記憶と、個人の記憶
若宮八幡宮という一つの神社には、28か村の神々が合祀されたという行政的な記憶と、一人の若者が江戸へ出て名を成したという個人的な記憶とが、同じ場所に積み重なっている。大きな制度の変化と、小さな個人の物語――この二つがともに語り継がれてきたことが、若宮八幡宮という場所の厚みを物語っている。
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