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磐田物語 / 旧東海道の一里塚・松並木・木戸
旧東海道・景観 | 見付・豊田

旧東海道の一里塚・松並木・木戸 ──
1420本から370本へ

見付から豊田にかけての旧東海道には、距離を告げる一里塚、木陰をつくる松並木、宿の内と外を分ける木戸という、三種類の街道施設が置かれていた。木戸と一里塚については個別記事ですでに扱っているため、この記事では手薄だった松並木を軸に、三者を街道景観として一つにまとめて読む。

木戸と一里塚は、それぞれ別の記事で

見付宿の東西を区切る木戸と高札場については見付宿の東木戸・西木戸・高札場で、見付宿東側の一里塚については阿多古山一里塚で、それぞれ詳しく扱った。この記事ではその二つを繰り返さず、旧東海道の景観をかたちづくったもう一つの要素、松並木に主眼を置く。

1420本の松、その始まり

東海道の松並木は、江戸幕府が慶長9年(1604年)に街道の両側へ松や杉を植えさせたことに始まる。旅人に木陰を提供し、道筋を明示し、防風・防砂の役割も兼ねた並木は、幕府による街道整備事業の一環として全国的に整えられていった。見付・豊田を通る区間もその例外ではない。正徳2年(1712年)の記録では、道の両側の堤に1,420本もの松が植えられていたとされる。宿場の内外を貫く街道が、これほど多くの松に縁取られていた時代があったことになる。

今に残る370本

その1,420本は、時代とともに大きく数を減らした。現在確認できる松並木は、三ケ野、森下といった地区にわずかに残るのみで、本数にすると大小あわせて約370本、区間にして約700メートルにとどまる。具体的には、三ケ野坂、下万能、森下の県道磐田細江線沿道に一部が現存しているにすぎない。1,420本から370本へ、実に4分の1近くまで減少したことになる。

減少の理由は一様ではない。旧東海道を走った軌道で触れたように、明治から大正にかけて敷設された中泉軌道の工事の際、旧東海道の松並木が伐採されたという伝承が地元に残る。現在、豊田地区周辺の旧東海道松並木が片側に偏って残っている背景として、この工事の影響を指摘する語りがある。ただし、この松並木伐採の経緯はあくまで伝承段階の情報であり、断定はできない。道路拡幅、松くい虫による被害、宅地化の進行など、複数の要因が重なって減少してきたと考えるのが実態に近いだろう。

確認できること・できないこと
正徳2年(1712年)時点で1,420本の松があったこと、現在は三ケ野・森下・下万能の県道磐田細江線沿道に大小約370本が現存すること、江戸幕府が慶長9年(1604年)に街道への植樹を命じたことは、磐田市観光協会等の資料で確認できる。一方、中泉軌道工事による伐採の具体的な範囲・本数は伝承段階にとどまり、断定はできない。

並木が守ってきたもの、松くい虫が奪うもの

街道の松並木は、単なる景観ではなかった。夏の日差しを遮り、旅人の疲れをやわらげる木陰をつくり、冬は風を防いだ。一本一本の松が、街道を行き交う人々の生活のインフラだったといえる。同時に、松は病害に弱い樹種でもある。全国の東海道松並木の多くが松くい虫被害や道路拡幅で失われてきた歴史を踏まえれば、見付・豊田に残る370本もまた、常に消失の危機と隣り合わせにある貴重な生き証人である。

一里塚が距離を、木戸が宿の境界を示す施設であったのに対し、松並木は街道そのものの「連続性」を体現する存在だった。木戸や一里塚が特定の地点に置かれた点の記憶であるのに対し、松並木は宿場と宿場のあいだをつなぐ線の記憶である。三者をあわせて読むことで、見付・豊田の旧東海道が、点と線の両方でどのように整備されていたかが見えてくる。

なぜ幕府は並木を植えさせたのか

街道への並木植樹は、見付・豊田だけの取り組みではない。江戸幕府は東海道をはじめとする五街道の整備にあたり、一里塚の設置とあわせて並木の植樹を全国的に進めた。旅人の日除け・雪除けとしての実用性に加え、街道の存在そのものを遠方から視認できるようにする目印としての機能、路肩の土を根で固定し崩れを防ぐ土木上の役割もあったと考えられている。松が選ばれたのは、潮風や乾燥に強く、成長が比較的早いことに加え、常緑で一年を通じて木陰を保てる樹種だったためである。見付・豊田の松並木も、こうした全国規模の街道整備政策のなかに位置づけて読むことができる。

植樹の始まり慶長9年(1604年)、江戸幕府が街道の両側に松・杉を植えさせる。
最盛期の本数正徳2年(1712年)時点で1,420本。
現存する本数大小約370本。区間は約700メートル。
現存する場所三ケ野、森下、下万能の県道磐田細江線沿道の一部。
減少の一因(伝承)中泉軌道の工事に伴う伐採との言い伝えがあるが未確定。
関連する施設木戸・高札場(m062)、阿多古山一里塚(m026)。

全国の松並木のなかでの位置づけ

東海道の松並木は、大磯(神奈川県)や藤枝(静岡県)など、他の宿場周辺にも部分的に現存が伝えられている。多くの区間で道路の拡幅・舗装、宅地化、松くい虫被害によって失われ、往時の姿を今に伝える区間は全国的に見ても限られている。見付・豊田に残る三ケ野・森下・下万能の松並木も、そうした全国的な減少傾向のなかで生き残った、数少ない実例の一つと位置づけることができる。1,420本という記録が残っているからこそ、370本という現状の希少さが具体的な数字として理解できるのである。

現地を歩くときの手がかり

三ケ野・森下・下万能の松並木は、現在も生活道路として使われている県道磐田細江線の沿道に位置する。かつての「1420本」という規模を頭に置いてこの道を歩くと、いま残る370本がいかに希少な生き残りであるかが実感される。並木の根元には、道路拡幅の痕跡や、新旧の松が入り混じって植え継がれている様子も見て取れ、街道が生きた道として今も手入れされ続けていることがうかがえる。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。